モリちゃんの酒中日記 4月その2

4月某日
図書館のリサイクル本に「魂萌え」(桐野夏生 毎日新聞社 2005年4月)が出ていたので、早速家に持ち帰り読むことにする。最近、桐野の新刊本をよく買う。桐野は我孫子図書館でも人気が高く、リクエストすると何十人も待たされるからだ。最近買って読んだのが「夜また夜の深い夜」「抱く女」「バラカ」「サルの見る夢」「夜の谷を行く」だ。このところの桐野の小説には時代的なメッセージ性が強いと思う。「抱く女」と「夜の谷を行く」では70年代初頭の学生運動に焦点があてられているし、「バラカ」は福島の原発事故が背景にある。「魂萌え」はそれらとは趣を異にする。帯に曰く「夫の急死後、世間という荒波を漂流する主婦・敏子。60歳を前にして惑う心は何処へ? ささやかな日常の中に豊饒な世界を描き出した桐野夏生の新たな代表作」。夫あるいは夫の属する世界に守られていた専業主婦の敏子は、夫の死後、夫の愛人関係にあった存在を知ることになり、遺産を巡って子どもたちとの関係もきしむ。そんななかで敏子は少しずつ変わっていく。それは夫に従属していた暮らしからの自立と言い換えられるかもしれない。自立は一方で過去からの清算を迫られることでもある。そこにおずおずと、しかし毅然として立ち向かおうとする敏子の姿は美しい。

4月某日
年住協の倉沢氏(倉ちゃん)、阿部氏(あべっち)と呑みに行くことにする。以前は竹内理事を交えてよく呑みに行ったものだが、竹内理事の退職後はとんとご無沙汰だった。倉ちゃんが五反田のNTT病院の先生と会うというので、6時に五反田駅の改札で待ち合わせ。五反田から池上線で2つ目の戸越銀座の焼鳥屋で吞む。久しぶりなので吞みすぎてしまって何を話したかよく覚えていない。品川から上野東京ラインで我孫子へ。駅前の「愛花」に寄る。

4月某日
図書館で借りた「天皇制批判の常識」(小谷野敦 洋泉社 2010年10月)を読む。新書版で200ページほどの本だが、小谷野の言いたいことは「まえがき」の「私は中学生の頃、身分制というのがよくないと教えられ、誰それの子供であるからということで優遇されたり冷遇されたりすることは間違いだと教えられた。その過程で、では天皇制は良くないはずではないか、と考えたのは、当然のことである」につきていると思う。彼はその後も天皇制について考え続けたが、天皇制を認めていいという結論には至らなかったということである。小谷野の該博な知識、独自の思想性、文学性を既存のアカデミズムやジャーナリズムは正当に評価していないのではないか。その意味では小室直樹を彷彿させる。

4月某日
社長を退任したので会社に出勤するのは週4日か3日にしようと思う。で今日はウイークデイだけど休み。客が少ないだろうと思って行きつけの理髪店を覗くと、待合のソファーにはお客が4人も座っていた。あきらめて家に帰る。私の住んでいるところは我孫子市若松というところなのだが、近所の人が「年寄りばかりで若松じゃなくて老松だよ」と自嘲気味にしゃべっていたことを思い出す。「毎日が日曜日」の住人が増えているのだ。だから平日でも理髪店は混んでいるのだろう。家に帰ると携帯にHCMの大橋さんから電話。呑みに行きませんかという誘いの電話。「今自宅です」「じゃ駄目だね」「行くから上野あたりで吞んでて」と電話を切って上野に向かう。ところが電車が柏を出た時点で携帯を忘れたことに気付く。携帯がなければ上野で会うことは不可能と思い家に引き返す。1時間ほど遅れて上野駅前で大橋さんと大橋さんの高校の卓球部の後輩、三浦さんに会うことが出来た。ガード下の居酒屋にここがよさそうと入る。入ってからここはSCNの高本代表、市川理事と尾久でのインタビューの帰りに寄った店だったことを思い出す。生ビールとホッピー(黒)でいい気持ちになる。

4月某日
図書館で借りた「最後の資本主義」(ロバート・B・ライシュ 東洋経済新報社 2016年12月)を読む。原題はSAVING CAPITALISM。「資本主義の救済」という意味だろうか。ライシュはアメリカの社会や経済の現状を鋭く分析、第2次世界大戦後のアメリカンドリームを支えた膨大な中間層がやせ細り、今や富を独占する大企業の経営者や金融エリートたちと中間層から脱落した非正規の低学歴の労働者たちに分裂していると説く。たとえばアメリカの大企業のCEOの報酬は1978年から2013年の間に937%(8.4倍)になったのに対し、同時期の労働者の賃金上昇はわずか10.2%だった(第11章 CEO報酬の隠れた仕組み)という具合である。このままではアメリカの社会や経済が壊滅的な打撃を被るであろうという危機感がライシュにこの本を書かせたのであろう。そういう意味が原題には込められている。日本では宮本太郎中大教授の共生社会が同じような立脚点に立っているように思う。