モリちゃんの酒中日記 4月その3

4月某日
「陳澄波を探して-消された台湾画家の謎」(カ宗明 来栖ひかり訳 岩波書店 2024年2月)を読む。陳澄波は台湾出身の画家で、台北師範学校を卒業後に東京美術学校に進学。卒業後、上海や台湾で優れた画業を残すが、台湾解放後の1947年3月25日、台湾に逃れてきた国民党軍により射殺される。台湾は日清戦争で敗者となった清国から日本に割譲され、日本領となった。日本の敗戦後、日本人と軍隊は引き揚げ、中国の国民党軍が進駐する。当時、中国は国民党と中国共産党との内戦下にあり、最終的に国民党が敗れて蒋介石以下の軍と国民党支持の国民が台湾に逃れる。日本軍が去って国民党軍が来たことを台湾の人々は「犬が去って豚が来た」と表現するということを聞いたことがある。物語は1984年の台北で始まる。駆け出しの画家、阿政のもとに古い絵画の修復の仕事が持ち込まれる。古い絵画の作者こそ陳澄波で、阿政とガールフレンドの新聞記者、方燕と陳澄波の生涯をたどる旅が始まる。1984年の台湾は民主化以前で蔣経国総統の時代というのが、一つのミソだ。今でこそ世界でもっとも民主化が進んでいる国の一つと言われる台湾(中華民国)だが、それまでには国民党政権による人民抑圧の歴史があったのだ。もちろんその前に日本帝国主義による併合という歴史があるのだが…。作者のカ宗明のカは木扁に可だが、私のパソコンでは出てこないのでカと表記します。

4月某日
「蒋介石」(保阪正康 文春新書 1999年4月)を読む。台湾出身の画家、陳澄波を主人公にした小説を読んだので、戦後、1949年に中国共産党に敗れて台湾に逃れて総統として君臨した蒋介石の生涯に興味を持ったのだ。私はアジア太平洋戦争においては太平洋海域ではミッドウェー海戦後、日本軍はアメリカ軍に押されっぱなしだったが中国大陸では、日本軍は中国に対して優位に立っていたと思い込んでいた。しかし、本書を読むと日中戦争の初期の段階では確かに日本軍が優勢であったが、日本がアメリカに宣戦布告した1941年以降、日本軍は徐々に追い詰められていったようだ。アメリカによる中国に対する軍事援助が効果を発揮したのだ。資源小国の日本が太平洋と中国大陸の両方向に戦線を拡大したことがそもそもの誤りであった。陳澄波は台湾生まれの台湾育ちの本省人だが、蒋介石は中国大陸から渡ってきた外省人である。蔣介石以下の外省人は本省人を圧迫し差別した。しかし蔣介石とその後を継いだ蔣経国以降、台湾は経済成長を遂げ民主化を達成した。韓国も朴正熙の開発独裁以降の経済成長は著しく一人当たりGDPは日本を追い越している。私は日韓台の連携が東アジアの安定につながると信じている。それにしても台湾東部の地震は心配なことだ。

4月某日
南青山の「ふーみん」という中国家庭料理のお店で会食。この店は吉武さんが「こどもの城」の館長をしていたときランチをたびたびご馳走になった。今日も吉武さんが予約してくれて18時からスタート。私が5分ほど遅れて着いたときはみんな席に着いていた。本日のメンバーは厚労省OBが川邉、吉武、岩野さん、それ以外というか純民間から社会保険出版社の高本社長、年友企画の岩佐さん、社保研ティラーレの佐藤社長、それに私の7名。江利川さんは庭の手入れ中に毛虫に刺されて欠席、大谷さん、手塚さんも都合がつかず欠席、セルフケアネットワークの高本代表も親の病院付き添いで欠席だった。「ふーみん」は非常に好評だったので9月ごろにまた開催ということに。名物の葱ワンタンも頂いたが、これはイラストレーターの和田誠さんの考案ということだ。そういえば、和田さんの奥さんの平野レミさんが私たちのテーブルの二つほど先に来店していた。

4月某日
バーミヤン秋葉原アトレ2店でHCM社の大橋さん、デザイナーの土方さん、今月末で年友企画を退社する石津さんと会食。15時スタートだが少し遅れてしまった。携帯に大橋さんから電話があり迎えに来てくれる。秋葉原駅はJRの山手線、京浜東北線、総武線に加えてつくばエクスプレス、地下鉄日比谷線が乗り入れており田舎者の私にとっては分かりにくい。大橋さんに迎えに来てもらって正解だった。4人がそろったところで乾杯。土方さんの息子さんが小笠原諸島の父島か母島へ釣りに行っているという話をきっかけに小笠原話で盛り上がる。何でも石津さんの先祖は小笠原で事業を展開していたそうで、今度4人で小笠原へ行こうという話になった。何でも週1回、東京港の日の出桟橋から小笠原行の船が出ているそうだ。週1回だから帰りは1週間後となるが、海が荒れると船が欠航するので、滞在が長期に及ぶことも多いらしい。そうなるとホテル代もかさむし…。と考えているうちに話題は変わって、この4人でまた会うことにしましょうということになった。石津さんからはお煎餅をいただき、土方さんからはハンカチをいただく。呑み代は大橋さんが払ってくれた。皆さん、ありがとうございました。

4月某日
11時30分から近所のマッサージ店絆へ。本日は同居している長男が休みなので車で送って貰う。マッサージ終了後は我孫子駅前の床屋カットクラブパパまで送って貰う。昨年までは近所の床屋さんでやってもらっていたのだが、私より年長のその床屋さんは昨年、急に止めてしまった。今度の床屋さんは私よりだいぶ若いので死ぬまでやってもらうことになりそうだ。床屋を終わって駅前の日高屋で昼食。五目焼きそば(税込み660円)。バーミヤンもそうですがチエーン店ってコスパが高いと思う。駅前からバスに乗って手賀沼公園前で下車、我孫子市民図書館へ。図書館で「孤独な夜のココア」(田辺聖子 新潮文庫 1983年3月)を読む。巻末に「この本は昭和53年10月に新潮社より刊行された」とある。昭和53年といえば1978年。ということはこの小説で描かれている現代はほぼ1970年代初頭か。まだ携帯もパソコンもない時代である。だからといってこの小説に古めかしいところなど少しもない。優れた小説がそうであるように(源氏物語も)、この小説の価値も時空を超えるのだ。

4月某日
図書館で借りた「お気に入りの孤独」(田辺聖子 集英社文庫 2012年5月)を読む。巻末に「この作品は1994年1月に集英社文庫として刊行され、再文庫化に当たり、加筆修正いたしました」とあるが、小説中に「大阪で生まれた女やさかい/大阪の街 よう捨てん/大阪で生まれた女やさかい/東京へは ようついていかん…」という歌(作詞BORO)が何度か流れる。「大阪で生まれた女やさかい」がリリースされたのは1979年6月だから、この小説の時代背景は1980年代初頭と思われる。デザイナーの風里は東神戸の金持ちのボンボン、涼と結婚し西宮のマンションに住む。風里は充実した結婚と仕事を手に入れたつもりでいたのだが…。涼に女の陰が見え隠れし、風里も写真展で出会った男、中園に好感を抱く。
小説は風里が中園に離婚して東京に行くことになったと電話で伝えたところで終わる。
「電話を切って私は深い安堵感と、嬉しさで涙がにじんできた。自分より強い、自分よりおだやかな、自分より大人の人に慰撫されるのって、なんて嬉しいことだろう。でもそれは孤独な人間だからこそ味わえる嬉しさなのだった。―やたら中園に会いたかった」
田辺聖子先生は小説で一貫して女性の自立を訴えてきた。それも生硬な言葉ではなく、誰にでも理解できる恋愛小説として。

4月某日
小学校から高校まで一緒だった山本君と15時に北千住駅で待ち合わせ。北口の商店街の居酒屋に入る。鯨のベーコンや焼き鳥などを肴に2時間ほど呑む。高校が同じだった小川邦夫君が最近、亡くなったことを話す。私は大学1年生のとき、下井草のアパートに下宿していたので上石神井あたりのアパートに下宿していた小川君とは何度か行き来した覚えがある。山本君の話では大学卒業後、京浜東北線の蕨の近辺で近所に住んでいて仲が良かったそうだ。その後、小川君は登別市役所に就職が決まり室蘭へ帰った。あっさりしたいい奴だった。

モリちゃんの酒中日記 4月その2

4月某日
北海道で小中高と一緒だった山本君、現在は春日部で暮らしている。時々会ってご飯を食べているが、本日は柏でジンギスカンを食べることに。16時に柏駅の中央改札で待ち合わせ。柏神社近くの「大衆ジンギスカン酒場ラムちゃん」へ入る。月曜日とあってまだ客はいない。ウイスキーのソーダ割呑み放題を頼む。山本君も私も昭和23年生まれ、ということは今年76歳。40分ほどでお腹がいっぱいになってしまった。山本君とは小学校5~6年が同じクラスだった。家も近くて良く一緒に遊んだ。当時、私たちは室蘭市の奥の水元町というところに住んでいた。同じクラスにやはり水元町の正輝君たちと水元グループをつくり遊んだものだ。勉強した記憶はほとんどない。水元町は自然が豊かで遊ぶには困らなかった。

4月某日
大谷さんと御徒町駅で待ち合わせ。その前に上野で見つけた美味しいパン屋さん「B2D」でパンを買おうと思ったら「売り切れ」で早じまいしていた。御徒町に着くと「広場にいます」とショートメールが。大谷さんを見つけて「どこに行こうか」。中華などいろいろ考えたが「落ち着ける」ということで「吉池食堂」で一致。取り敢えずビールから私は日本酒、大谷さんはハイボール。最後は私もハイボールにして終了。

4月某日
「日本思想史と現在」(渡辺浩 筑摩選書 2024年1月)を読む。渡辺浩は1946年生まれ。東大法学部卒。東大法学部教授、法大法学部教授を歴任。年代としては東大闘争を経験している世代だ。当時、東大全共闘は全学封鎖貫徹を目指しており法学部も例外ではなかった。丸山眞男の研究室も封鎖された。封鎖解除後、荒れ果てた研究室を見た丸山は「ナチスもこんなひどいことはしなかった」と言ったという(伝説がある)。これに対して吉本隆明が、「東大教授という特権意識に裏付けられた発言」と反論した(うろ覚えなので要確認)。それはさておき本書は、渡辺が学会誌や東大出版会のPR誌などに発表した書評や比較的短い文章をまとめたもの。東大法学部の最優秀の学生は卒業後、助手に採用され講師、助教授、教授と昇進してゆく(つまり大学院にいかない)。という噂を聞いたことがあるが、渡辺もその口であるようだ。本書を通読した感じはリベラルちょい左派という感じ。まぁ日本社会全体が保守化、右傾化している現在、ちょい左派といえどもリベラル左派は貴重な存在。がんばってほしい。本書で初めて知ったこと。少なくとも宋代以降の中国には、地方に君臨する領主や貴族などは基本的にいない、ということ。渡辺は中国学の大家、吉川幸次郎の文章を引用する。一部を抜粋すると「中国では家柄によって特権的な身分を世襲する制度は、千年も前の北宋の時代にすでに消滅しまっているからである」(「中国における教養人の地位」(1960年))。

4月某日
「江戸東京の明治維新」(横山百合子 岩波新書 2018年8月)を読む。意外と言っては何ですが面白かった。私の考える歴史は主として政治史であり、軍事史であった。本書はむしろ庶民の歴史であり、明治維新の当時の風俗の歴史を描く。「第3章 町中に生きる」では、落語の大家さんに当たる「家守」たちの明治維新が活写される。また「第4章 遊郭の明治維新」では、幕末から明治維新に至る新吉原遊郭と遊女の実態が明らかにされる。周知のように江戸時代において売春は新吉原など場所を限定して幕府に公認されていた。遊女「かしく」との結婚を望み、金策を含め努力する都市下層の男性が紹介されているが、彼らは「遊郭に通う武士や大店の手代と同様に、新吉原での遊蕩について疑問を持っていない」。「かしく自身も、売春への強い嫌悪と忌避の感情は抱いているが、自らを汚れた存在と感じたり、売春を他人に語れない恥ずべき経験として意識したりすることはなかった」。明治維新後、解放令により売春が娼婦の「真意」に基づく場合は合法とされた。しかし、「維新後の近代には、それまで見られた遊女への共感や同情、ある種のあこがれは消え、蔑視が前面に現れてくる」と著者は述べる。近代化の負の側面かもしれない。娼婦の解放令によっても売春はなくならなかった。それは戦後、売春防止法によっても売春が消滅しなかったことと同様であろう。

4月某日
「鬼の筆-戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折」(春日太一 文藝春秋 2023年11月)を読む。著者の春日太一は週刊文春に「春日太一の木曜邦画劇場」を連載している人で、映画史、時代劇の研究者となっている。1977年生まれ、日大大学院博士後期課程修了(芸術学博士)。以前「天才 勝新太郎」(文春文庫)を読んだことがある。500ページ近い大著で、映画に詳しくない私としては、読了するのに多少の苦労はあったけれど、面白かった。橋本忍の脚本家としてのデビューは1950(昭和25)年8月に公開された「羅生門」。「羅生門」はヴェネチア国際映画祭でグランプリを受賞する。橋本忍は1918年、兵庫県の「山間の田舎町」に生まれる。「羅生門」のシナリオ執筆の頃は、プロのライターではなくサラリーマンとの兼業であったという。橋本が職業脚本家になったのは51年の春で「羅生門」が公開されてから半年はサラリーマンだった。50年代から60年代は日本映画の絶頂期で、橋本の脚本で公開された日本映画は、54年に「さらばラバウル」「勲章」「七人の侍」など9作品にのぼる。テレビの登場によって日本映画が斜陽産業となってからも橋本は脚本家として旺盛な創作意欲を示す。松本清張原作の「黒い画集 あるサラリーマンの証言」「ゼロの焦点」「「霧の旗」「影の車」、それに話題となった「私は貝になりたい」「切腹」「どですかでん」「人間革命」「八墓村」などである。橋本はサラリーマン時代、岡山に疎開していた伊丹万作からシナリオ執筆の手ほどきを受けたという。人生における出会いの面白さと大切さを感じさせる橋本の一生であると思う。

4月某日
社会保険出版社の高本社長、年友企画の石津さんと17時30分に出版社の入っている千代田ビルの1階ロビーで待ち合わせ。17時過ぎにロビーに行くと石津さんがすでに来ていたのでしばし雑談。高本社長がエレベータで降りてきて合流、本日の会場は千代田ビルから歩いて数分のスペインレストラン「オーレオーレ」。オーレとはスペイン語でフラメンコや闘牛の際に発せられる掛け声で「オーレオーレ」は日本語で言うなら「見事!見事!」か。料理も美味しかったがおしゃべりも楽しかった。17時30分からスタートして終わったのは22時過ぎ。ビールにワイン、最後は高本社長からいただいた鹿児島の地ウイスキー「KANOSUKE」を封切り。アルコール度数55度の絶品でした。高本社長にすっかりご馳走になる。

モリちゃんの酒中日記 4月その1

4月某日
「昭和史の明暗」(半藤一利 PHP新書 2023年11月)を読む。歴史探偵、半藤が亡くなったのが確か3年前の1月。非戦の観点から日本の近代史を見つめてきた半藤さん、ロシアのウクライナ侵攻やイスラエルのガザ侵攻を知らずに亡くなったのは幸せだったかも知れない。本書は1980年代に雑誌「プレジデント」に掲載されたものをまとめたもの。「昭和天皇と2.26事件」「昭和陸軍と阿南惟幾」「日本海軍と堀悌吉」「連合艦隊と参謀・神重徳」「太平洋戦争と「雪風」」の5章で構成されている。昭和天皇や終戦時の陸軍大臣で8月15日の朝、割腹自殺した阿南のことはよく知られているが、兵学校をトップで卒業しながらも対米英開戦に反対し予備役に退かされた堀悌吉、海軍部内の強硬派で東条暗殺計画にもかかわった神重徳については私は殆ど知るところがなかったので面白かった。とくに神の没年が1945年とあるので、阿南のように自殺したと思ったが、終戦後の9月15日、残務整理のため北海道に向かう途中、飛行機事故で亡くなったそうだ。「雪風」は終戦時まで撃沈されなかった数少ない駆逐艦、戦後、戦利品として中華民国(台湾)に引き渡された。舵輪と錨のみが返還され、江田島に記念として残されているという。

4月某日
「逃亡小説集」(吉田修一 角川書店 2019年11月)を読む。「逃げる」をテーマにした短編小説が、「逃げろ九州男子」「逃げろ純愛」「逃げろお嬢さん」「逃げろミスター・ポストマン」の4編収められている。「九州男子」は小倉で配送トラックの運転手をしていた秀明が主人公。リストラされた秀明が市役所で生活保護の係から帰り、車に乗ろうとしたときに警官から職務質問される。後部座席に母親を乗せたまま、英明は逃走を図る。カーチェイスの末に秀明は逮捕されるが…。「純愛」は奈々さんと未成年の潤也君の恋愛物語が2人の交換日記で明らかにされる。2人は沖縄へ逃避行を図るが…。物語の最後で、この交換日記が「千葉県柏市の中学校の女性教諭が、前任校で教えた高校2年の男子生徒(17)にみだらな行為をしたとして逮捕された事件」で押収された証拠品であることが明らかにされる。「お嬢さん」は長野で人気温泉宿を経営する康太と元アイドルの鮎川舞子の物語。元アイドルは結婚しても芸能活動を継続しているが、夫が麻薬使用で逮捕されたことから車を運転しながら逃走を図る。長野の山中で車が故障したところに行き合わせたのが康太。康太はアイドル時代の舞子の大ファンだった…。「ミスター・ポストマン」は網走のクリオネ通りの「SexyClubアネモス」でバイトする夏は漁師の康太が舞台回し役。康太は離婚歴があり、娘を育てている。娘を可愛がっているのが離婚した妻の弟の春也。春也は日本郵政の下請けで郵便配送を行っているが、ある日配送車ごと失踪してしまう。私は4編とも楽しく読ませてもらった。「逃げる」というテーマだけが一緒で、4作とも見事に舞台もシュチュエ―ションもばらばら。吉田修一の才能を感じさせる。

4月某日
18時から前の会社の石津さん、浜尾さんと内神田のCHINEZE DINING結彩で食事の予定。まず我孫子から上野へ行き上野公園で花見。平日の午後だというのに結構な人出だった。上野から御徒町まで歩き、御徒町から上野へ戻る。上野駅近くの中華料理屋でランチ。席に座ったとき「今日は夕食、中華だった」と思ったが時すでに遅し、「上海焼きそば」をオーダー。中国人の経営する店らしく、客とお店の人が中国語と思われる言葉で話していた。味はそこそこではないでしょうか。中華料理屋の近くに美味しそうなパン屋さんがあったので石津さん、浜尾さんにパンを購入(パン屋の名前はB2D)。17時を過ぎたので上野から神田へ移動。18時少し前に結彩へ。本日は満席とのことだったが予約をしていたので予約の席へ。ほどなくして石津さん、浜尾さんが来る。私の奥さんが用意してくれたコーヒーとパンを渡す。浜尾さんはずっと以前に前の会社を退社、フリーのライターをやっている。石津さんは今月で退社ということで浜尾さんが花束を渡す。美味しい中華料理とおしゃべりを楽しんでお開き。

4月某日
「ジェンダー史10講」(姫岡とし子 岩波新書 2024年2月)を読む。著者の姫岡とし子は1950年生まれ。73年奈良女子大学理学部化学科卒、80年フランクフルト大学大学院修士課程修了、84年奈良女子大学大学院博士課程修了。立命館大、筑波大、東大の教授を経て現在は東京大学名誉教授。専攻はドイツ現代史、ジェンダー史。ジェンダーとは、アメリカのジョーン・W・スコットによると「身体的性差に意味を付与する知」と定義される。よく分からないが本書を読むと〈身体的性差〉つまり男女の性別によって、差別が行われて来たことがわかる。たとえばフランス革命の人権宣言(1789年)は普遍的な人権が宣言されたものと思い込んでいたが、本書によると「ここで言及される人間とは男性市民のみ、しかも「人権宣言」の採択当時は有権者の男性のみをさし、女性や無産者は含まれていなかった」という。現在放映中のNHKの朝ドラは戦前期に弁護士資格を取得し、戦後は家庭裁判所の解説に尽力した女性の生涯を描いている。その前の朝ドラ「ブギウギ」は夫を失いながらもブギの女王として舞台に映画に活躍した笠置シズ子をモデルにしている。朝ドラは女性を主人公にしたものが多い。ジェンダーの視点から朝ドラを分析したら面白いかも。

4月某日
「日独伊三国同盟-「根拠なき確信」と「無責任」のはてに」(大木毅 角川新書 2021年11月)を読む。著者の大木毅は「独ソ戦」(岩波新書)で新書大賞を受賞。立教大学史学科出身で同大学院博士後期課程単位取得後満期退学後、ボン大学に留学。ドイツ近代史が専門だが、日本の太平洋戦争に至る政治過程にも詳しい。本書によると1940年(昭和15)年9月に調印された日独伊三国軍事同盟と、同じ時期に実行された日本陸軍の北部仏印進駐によって、アメリカの対日姿勢は硬化し、太平洋上の対決へと突き進んでいく。日独伊三国同盟を推進したのが当時の外務大臣、松岡洋右である。松岡はベルリンで三国同盟に調印した後、ソ連を訪問しスターリンとも会談している。松岡は三国同盟にソ連を加えた四国同盟で米英と対抗したかったのだ。中国大陸で泥沼の日中戦争を継続する一方、太平洋でアメリカと戦端を開くなど、今から思えば無謀の一言に尽きる。しかし現実は本書の副題にある如く「「根拠なき確信」と「無責任」の果てに」太平洋戦争に突入する。現代のロシアのウクライナ侵攻やイスラエルのガザ侵攻を見るにつけ、また最近の自民党政治を見るにつけ「根拠なき確信」と「無責任」が横行しているように思うのだが…。

モリちゃんの酒中日記 3月その3

3月某日
「マルクス解体-プロメテウスの夢とその先」(斎藤幸平 講談社 2023年10月)を読む。斎藤幸平は1987年生まれの「人新世の資本論」などで知られる気鋭の思想家。東大大学院総合文化研究科准教授。プロメテウスはギリシア神話に登場する神。ゼウスの怒りによって火を奪われた人類に同情し、ゼウスを欺いて火を盗み人類に与えた。火を手に入れた人類は自然の力に打ち克ち、技術や文明を発展させていく。ところが、豊かになってゆく過程で人類は、火を使って兵器を作り、戦争で殺し合いを始めてしまう。さらなるゼウスの怒りを買ったプロメテウスは、コーカサスの岩場に釘付けされ、半永久的に鷲に肝臓を啄まれ続けることになる。人類はさらに原子力のような科学技術を発展させ、また大量の化石燃料を燃やすことで、地球そのものを気候変動の影響で燃やし尽くそうとしている(はじめに)。斎藤幸平はマルクスの思想から脱成長コミュニズムを読み取るが、それは従来のマルクス理解に解体を迫るものであった。というようなことが本書のタイトルの所以であろうと思う(あくまで私の推測です)。
この本はマルクスを本格的に勉強したことのない私にとってかなり難解であった。図書館で借りた本なので気になるところに傍線を引くわけにもいかず、本は付箋だらけになってしまった。私のマルクス理解の浅薄さを気付かせることとなった。そのいくつかを本書から紹介する。エコロジーがマルクスの資本主義批判の構成要素の一つだった。故にマルクスのポスト資本主義像も「環境社会主義」として再解釈できるようになった。グローバル・ノースの労働者階級は「帝国的生活様式」によってグローバル・サウスの人間や自然を搾取や収奪をするようになる。北と南の対立と不平等は中核部と周縁部の不平等とも表現される。これを積極的に展開したのがローザ・ルクセンブルグで、彼女は資本主義的発展が非資本主義社会に破壊的影響を与えているだけでなく、中核部は周縁部に奴隷の労働力や天然資源を無償で供給させていると批判する。また「人間の手に負えない気候変動の本格化は、自然の支配という近代のプロメテウス主義の野望が失敗に終わったことを示唆している」と。マルクスの「脱成長コミュニズムは平等主義的な経済を実現するために、経済の速度を落とし、市場経済を縮小することを目指」して「20世紀においては誰にも認識されることはなかったが、人新世における人間の生存の可能性を高めるため、今こそかつてないほどに重要な未来社会の理念なのである」。

3月某日
「錠剤F」(井上荒野 集英社 2024年1月)を読む。10編の短編を収めた短編集。私は井上荒野の小説はよく読んでいるほうだと思うが、この短編集は従来のものとは少し趣が違うと感じられた。なにかざらつくものを感じるのだ。表題作となった「錠剤F」はハウスクリーニングの会社に勤める私と同僚の安奈を中心にして物語が展開する。私鉄沿線の学園都市を訪問する私と安奈。安奈が自身の安楽死のための錠剤を譲ってくれるというドクターFに会うためだ。安奈は錠剤の代金10万円を用意している。錠剤の真偽が確認されないのでビジネスは成立しない。私と安奈が近くの居酒屋で飲んでいると、ドクターFも仲間と呑んでいる。みんなで合流してメンバーのアパートへ向かう。突然、ドクターFは歩道橋から身をひるがえして落下する。ざらつくね。不穏。

3月某日
評議員をしている社会福祉法人「にんじんの会」の評議員会が西国分寺の特別養護老人ホームで開催されるので東京から中央線で西国分寺へ。18時45分頃に西国分寺駅南口集合ということだったが、17時過ぎに着いてしまったので北口の焼き鳥屋に入る。焼き鳥5本セットと生ビールを頼む。焼き鳥を食べ生ビールを飲み干し、オバサンと世間話をしているとまだ18時。サントリー角のソーダ割を頼む。「これから会議なのに大丈夫?」と言われるが「大丈夫です」と呑む。18時30分になったので店を出て南口へ。同じ評議員の吉武さんが歩いてきたので声を掛ける。吉武さんは私と同じ我孫子に住んでいて話題はもっぱら甲子園に出場している我孫子の中央学院高校のこと。今日も勝って土曜日に準決勝だと。土曜日はパブリック・ビューイングで応援に行くことにする。国分寺駅南口から法人の車で評議員会会場の特養へ。決算報告を承認。「にんじんの会」は特養や老健、認知症グループホーム、訪問介護事業などを展開しているが、機械化など合理化によってコストを削減、黒字経営を維持している。コスト削減と同時に良質なケアを追求している。立派なものだ。
会場を西国分寺の高級そうな料理屋「わだつみ」に移して懇親会。評議員には吉武さんと同じく厚労省の局長を務めた中村秀一さんや地域の民生委員、野生動物の保護に取り組んでいる人、多摩地域の起業家など多士済々。法人の経営陣からは石川治江理事長、事務局長の石川正紀さんらが参加。懇親会では石川理事長の隣に座る。理事長と法人発足時に私が法人の借金の保証人となった話をする。あのときは奥さんに内緒で実印を持ち出し、書類にハンコをついた。私は石川さんことを信用していたが、奥さんは石川さんのことを知らないからね。帰りは法人が用意してくれたタクシーで吉武さんと我孫子まで帰る。タクシーの運転手は女性で、「離婚しましたけれど、仲人は我孫子の人でした」そうである。吉武さんをつくし野で降ろしてわが家へ向かう。途中で久寺家という地名を見つけて女性は「仲人さんに年賀状を出した地名が久寺家でした」と。世間は狭い。

3月某日
「コモンの「自治」論-資本の論理から抜け出す、みんなの共有論」(斎藤幸平+松本卓也編 集英社 2023年8月)を読む。昨年、現職を破って杉並区長に当選した岸本聡子や京都精華大学准教授の白井聰、岡山大学准教授で文化人類学者の松村圭一郎らが寄稿している。斎藤幸平はマルクス思想の新しい解釈で注目されているし、本書の執筆者はリベラル左派で括ることができると思う。防衛予算の増額や武器輸出の禁止がなし崩しとなり、社会全体が右傾化に進むとみられる現在、リベラル左派は貴重な存在であり、斎藤幸平はその象徴的な存在だと思う。

3月某日
「財政・金融政策の転換点-日本経済の転換点」(飯田泰之 中公新書 2023年12月)を読む。本書によると日本の「中央政府の債務総額は1514兆円。その過半を占めるのが公債(1103兆円。主に普通国債)である。ついで公的年金の預かり金(127兆円)も負債の大きな部分を占める」とある。普通国債の増大部分のうち(678兆円)が歳出の増加によって発生している。なかでも社会保障関係費は444兆円と最大の要因である」という。財政政策とは単純化すれば政府のお金の使い方であり、金融政策とは財務省と日銀による円の量的、質的なコントロールであろう。著者は「不況期には経済全体での失業を抑制しつつ、一方で好況期の人件費高騰に対応できない企業からの離職を促進し、個々の労働者がより高い生産性を発揮できる職場への移行を促進する制度をつくるためにこそ、財政資金を投入する必要がある」と主張する。私はこの考え方に賛成である。日本では業績不振の業界や企業に補助金や低利融資で延命を図りがちである。これが失われた30年を支えた一因であるように思えてならない。失敗したプレイヤーには速やかに競技場(市場)からの退場を促すべきである。著者の飯田泰之は明治大学政経学部教授でNHKの「英雄たちの選択」に何度出演していて、私も見たことがある。

3月某日
春の甲子園は健大高崎(群馬)が報徳学園(兵庫)を下し優勝。報徳は準決勝で我孫子の中央学院を破って決勝に進出。私はこの試合はアビスタでのパブリックビューイングで応援した。同じ我孫子市民の吉武さんが誘ってくれた。誘いがなければ応援に行かなかったことを考えると吉武さんに感謝である。「夏に向けて頑張ろう!」と我孫子市民がいう。私も同感である。

モリちゃんの酒中日記 3月その2

3月某日
「深く、しっかり息をして」(川上未映子 マガジンハウス 2023年7月)を読む。川上未映子は好きな作家で「ヘブン」以来、小説を愛読している。これは雑誌「Hanako」の連載エッセーをまとめたものだ。女性雑誌に連載されたものだからなのか、私には川上未映子の女性性がより強調されているように感じられた。とくに連載中に彼女が妊娠、出産、育児を母親として経験したことも大きいかも知れない。女子大に講演にいったときの質問。「夢もあって、それを追いかけたい気持ちもあるけれど、母子家庭で育ったし、母親のことや将来のことを思うと、きちんと就職して生きていったほうがいいのじゃないだろうか。ミエコさんにも、そんな時期があったはず。どうやって、いまにたどりついたのですか」。川上の答えは「人のために生きなければならないときは嫌でもやって来るものだから、いまのうちは、できるだけ自分のことだけを考えるように」というもの。質問は母子家庭の女子大生ということから女性性が高いと言えるが、川上の答えはあくまでも普遍的。そういえば3月8日は国際女性デーだった。ウクライナやパレスチナでの戦争に反対し、女性への性暴力を強く非難します。

3月某日
「創価学会」(島田裕巳 新潮新書 2024年1月)を読む。本書は04年に刊行された同じタイトルの新潮新書に昨年末の池田大作名誉会長の死を受けて、「いったい創価学会はどうなるのか、それは日本社会にどういった影響を与えるのか考えた」2章分を増補したもの。結局、カリスマ的な存在だった名誉会長の後継者たるカリスマは存在せず、会長や理事長、副理事長、総務会メンバーによる集団指導体制になるだろうということだった。本書によると創価学会は戦後の高度成長期に農村から都市に出てきた下層の労働者階級中心に信者を延ばしてきたという。しかし、私の知っている学会員は押しなべて中産階級である。私の父親は地方の工業大学の教授だったが、同僚が「近代科学に疑問を感じて入信した」という話を聞いたことがある。創価学会の組織はSGIとして世界に広がっているが、「SGIの場合、日本の創価学会とは異なり、むしろ庶民ではなく中産階級をターゲットとしているからである。つまり、現世利益を約束する宗教団体としてよりも、仏教を中心とした東洋の宗教思想に触れることのできる組織として受け取られている」そうだ。創価学会がSGIのように方向を変える可能性もあるが、そうすると古くからの信者が離反していく可能性もある。党勢が伸び悩む公明党とあわせて興味深い。

3月某日
元厚生労働事務次官の江利川さんとの呑み会。17時30分から御徒町駅前の吉池食堂で。参加者は江利川さんのほか、江利川さんの次の年局資金課長の川邉さん、その次の資金課長、吉武さん、その頃の課長補佐だった岩野さん。そして社会保険出版社の高本社長、セルフケアネットワークの高本代表、社保研ティラーレの佐藤社長、元社会保険旬報記者の手塚さんというところ。年友企画の岩佐さんは発熱で欠席。吉武さんからシェリー酒とワインの差し入れをいただく。この会を吉池食堂でやるのは初めてだが概ね好評につき、次回も9月頃吉池食堂を予定。

3月某日
監事をやっている一般社団法人の理事会が東京駅八重洲口近くで1時30分から開催される。能登地震支援のための石川県物産展が八重洲口にあるということなので寄ってみる。大繁盛でレジに置かれた募金箱も千円札で溢れていた。「肉みそ」を3点購入。理事会は会長の挨拶から始まるが、この挨拶が毎回面白い。会長は弁護士なのだが、映画が趣味らしく今回はアカデミー賞を受賞した「シン・ゴジラ-1.0」を話題に。「よくできた映画だと思いますよ。高齢者割引で鑑賞できますから、ぜひ」と鑑賞を勧めてくれた。議事は特に問題なく進行。私は八重洲口から丸の内口へ移動、丸ノ内線で東京から大手町、大手町から半蔵門線で神保町へ。5時に社会保険出版社で年友企画の石津さんや出版社の高本社長と待ち合わせのため。時間があるので喫茶店「atacu café」へ。新しく開店した店らしく客は私ひとり。店名の「atacu」は店主が「私の名前がアタクなので」と説明された。恐らく安宅であろうと想像する。まだ時間があるので社会保険出版社近くの喫茶店へ。夏ミカンのジュースをいただく。村上春樹の本を揃えているようだ。店主は「私が村上春樹を好きなので」と。店名も村上春樹の本のタイトル「On A SLOW BOAT TO…」から付けたそうだ。
5時近くなったので社会保険出版社の入っている1階ロビーに着くと石津さんがすでに来ていた。出版社に行くと取締役の近藤さんが「社長は熱が出て休んでいます」と。スマホを見ると高本社長からその旨のメールが来ていた。折角のなので石津さんと二人で呑みに行くことにする。出版社のある猿楽町から坂を上って出版健保のビルを横目で見ながら御茶ノ水駅前に出る。「かぶら屋」という呑み屋へ入る。私のような年寄りからサラリーマン、学生風といろいろ。30分ほど一人で呑んですっと帰る人も多いようだ。女性の一人飲みもいる。私の若い頃はあまり見なかった光景である。焼き鳥と静岡おでん、キャベツ、キュウリをいただく。お酒は生ビールとハイボール。かなり飲んで食べて、石津さんにすっかりご馳走になる。石津さんはお茶の水から神田で京浜東北線に乗り換え、私は新御茶ノ水から一本で我孫子へ。

モリちゃんの酒中日記 3月その1

3月某日
「パッキパキ北京」(綿矢リサ 集英社 2023年12月)を読む。綿矢リサの小説を読むのは初めてかもしれない。84年京都府生まれ。01年高校生のときに文藝賞受賞。04年早稲田大学在学中に「蹴りたい背中」で芥川賞を受賞。若くして作家デビューを果たした著者も今年40歳になるんだ。さて本作「パッキパッキ北京」であるが私は面白く読んだ。といっても今年75歳になる私としては理解できない表現もいくつかあった。ストーリーは20歳以上年の離れたバツイチの男性と結婚した私が、夫の赴任先である北京を訪れ、街をウロツキ、ショッピングや食事を楽しむというもの。タイトルは主人公が北京の凍った川を見ているときに頭のなかに流れてきたラップにちなむ。
 適応障害イミ分からん
 世間が私に適応すべき
(のんしゃらりー のんしゃらりー)
 キミは知らんと思うがね
 冬の北京はバッキパキ
(ヘイのんしゃらりー のんしゃらりー)   というラップである。
北京の清潔な空気を漂わす天壇公園と少し外れた地域の陰気な気配。主人公は東京と比較して次のような感想を残す。「シビアなほど陰と陽をはっきりさせる北京と、ごちゃついてるけどまんべんなく全体的に良くしていこうとしてる東京では、そもそも目指している都市の未来の姿が違う気がする」。中国における権威主義的な再開発とそれに取り残された地域のことを言っているのか。私には十分に批評的に感じられた。

3月某日
バス停のアビスタ前から坂東バスで八坂神社前まで5分ほど。八坂神社前から徒歩3分ほどで中山クリニックへ。高血圧の月1回の診察。いつもは閑散としている待合室が今日は高齢者夫婦が3組ほど。私が受診したのは12時を過ぎていた。八坂神社前からバスで若松まで。横浜ラーメン寿美屋で小ラーメン800円を食べる。横断歩道を渡ったウエルシアで中山クリニックの処方箋を渡し、明日の午前中に取りにくると伝える。明日11時30分からウエルシアの近所のマッサージ店で予約をしているため。
本日2度目のバス。今回は我孫子駅まで。我孫子から上野まで常磐線で。上野駅から歩いて御徒町へ。御徒町駅前の吉池本店ビルへ。今日は9階の吉池食堂で4月に年友企画を辞める石津さんと以前に年友企画社員だった寺山(旧姓村井)さんと呑み会。2時間たっぷりお酒とおしゃべりを楽しんだ。

3月某日
小雨。ウエルシアで降圧剤などの薬を受け取りマッサージへ。マッサージの後、ウエルシアでウイスキーを購入。朝飯が遅かったので15時から開く我孫子駅前の居酒屋「しちりん」でランチ兼昼飲み。焼酎のホッピー割とウイスキーのソーダ―割をいただく。つまみはホタルイカの刺身と国産にんにく焼。国産にんにく焼は小鍋でニンニク1個を小片に分けて焼き、その小鍋で卵を焼く。自分でやることも出来るのだが、私はもっぱら女性店員の「みゆき」さんにやってもらう。

3月某日
「帰れぬ人びと」(鷺沢萠 講談社文芸文庫 2018年6月)を読む。鷺沢の小説は20年ほど前によく読んだ記憶がある。透明感のある作風と文体が好きだったのかも。鷺沢は68年生まれ、上智大学在学中に「川べりの道」で文学界新人賞受賞。04年4月11日に自死。
「帰れぬ人びと」には表題作のほか「川べりの道」「かもめ家ものがたり」「朽ちる町」が収録されている。「川べりの道」は東急電鉄の鵜木駅界隈に女性と暮らす父から生活費を貰いに訪れる高校生の日常を描く。「かもめ家ものがたり」は京浜急行蒲田駅前近くの「かもめ家」という居酒屋を任された若き板前コウと親方、常連客の物語。「朽ちる町」は「ヒキフネガワドオリ」にある小さな塾の講師、英明と塾に通う子供たちを描く。そして「帰れぬ人びと」は翻訳の下請け会社に勤める村井と資産家に嫁いだ姉、そして村井の会社の同僚や社長を描く。いずれもフィクションだが、鷺沢の実生活をモデルとしたような家族関係などが垣間見えて私には興味深かった。

3月某日
今日は元厚労省の堤さん、元滋慶学園の大谷さん、滋慶学園の東京福祉専門学校副学校長の白井さんと鎌倉橋の「跳人」で会合。18時からの予定だが堤さんから少し早めに17時30分ころ店に行くとのメールが入る。読みかけの「深く、しっかり息をして-川上未映子エッセイ集」を持って常磐線に乗る。上野から歩いて御徒町へ。14時過ぎに御徒町駅北口の町中華「大興」でランチ、生姜焼き定食をいただく。大興は大谷さんに連れて行ってもらった店だが一人で行くのは初めて。生姜焼き定食も初めてだったが美味しかった。御徒町から神田へ。17時30分までは時間があるので千代田区立神田まちかど図書館で「深く、しっかり息をして」の続きを読む。全部読んでしまったが、まだ時間があるので「跳人」のある鎌倉橋ビル1階の喫茶店でコーヒーを飲む。17時を過ぎたので地下1階の「跳人」へ。スマホを見ると「今日は行けません」と堤さんからメールが入っていた。18時過ぎに大谷さんが来る。二人でビールを呑み始める。白井さんは道に迷ったそうで30分ほど遅れて到着。東京福祉専門学校は年友企画のときに入学案内を作らせてもらった。その後も白井さんには「胃ろう・吸引シミュレーター」の開発でお世話になっている。大谷さん、白井さんとは共通の友人も多く、話はたいへん盛り上がった。白井さんにはお土産に高級クッキーをいただいた上にすっかりご馳走になってしまった。白井さんは大手町から東西線で西葛西へ。私と大谷さんは神田から山手線で上野へ。大谷さんは上野から川口、私は我孫子へ。

モリちゃんの酒中日記 2月その3

2月某日
3連休の最終日の日曜日。何気なく朝刊の「朝日歌壇・俳壇」のページを開く。永田和弘選の二首が目につく。「良心の呵責ではない 死を前に自分に戻りたかった「桐島」」(篠原俊則)「半世紀近くを別の名で生きて気づかれなかったことの寂しさ」(高橋好美)。東アジア反日武装戦線のメンバーで先月、末期がんで亡くなった桐島聡のことを歌った歌である。小林貴子選の俳句にも「本名で生きたる最期冴え返る」(縣展子)が。桐島聡の死をある感慨を持って受け止めた人がいたんだ。そう思うと少し心が休まる。

2月某日
「かさなりあう人へ」(白石一文 2023年10月 祥伝社)を読む。夫に先立たれて夫の母と暮らす志乃。ある日スーパーで食品を万引きし係員に声を掛けられる。とっさに志乃は現場にいた勇に「あなた」と夫のごとく呼びかける。40代の販売員の志乃は売り場で勇と声を交わしたことがあったのだ。離婚歴のある勇と志乃は紆余曲折を経ながらも心を寄せ合っていく。「紆余曲折」と一言で書いてしまったが、恐らくこの紆余曲折が小説の巧拙を決定する。そしてこの紆余曲折の構成は作家によって傾向があるように感じられる。白石の場合は夫婦、恋人、親子などの関係性と思う。小説は登場人物の関係性を描くものと言ってしまえばそれまでであるけれど。離婚後の勇には人生の目標も目的もない。だが一つだけ心がけようと誓ったことがある。「それは、賤しいことはしないというものだった」「自身が『これは人間として賤しい行為だ』と見做すような行為は絶対にしない-俺はそう思っている」。これは75歳になった私にも共感できる言葉と態度である。

2月某日
一般財団法人の医療経済研究・社会保険福祉協会の「保健福祉活動支援事業」運営委員会に出席するため東京へ。委員会の開催は2時からなので虎ノ門でランチ。ジンギスカン料理の看板の店に入る。ジンギスカンを食べるのは何年かぶり。美味しかった。まだ時間が少しあったので虎ノ門フォーラムの中村秀一理事長を訪問。20分ほど雑談。東急虎ノ門ビル3階の医療経済研究・社会保険福祉協会へ。委員は5名いて私以外は介護や医療の専門家だ。私は医療や介護の受け手の立場から発言するようにしている。来年度の介護報酬改定で「訪問介護のマイナス改定」が話題となった。介護現場の人手不足は深刻なようだ。私は後期高齢者として「私が要介護状態になったとき介護難民とならないように人手不足を緩和してもらいたい。そのためにはロボットやIT、外国人の活用が大事になってくる」と発言させてもらった。虎ノ門界隈をブラブラして霞が関から我孫子へ。途中で赤ちゃんを連れた若い女性が二人(赤ちゃんを入れると4人)乗車する。赤ちゃんが手を振ってくれたので私も手を振る。近くにいた女性と若い男性も笑顔で手を振る。若いお母さんは新松戸で「ありがとうございました」といいつつ笑顔で降りて行った。赤ちゃん効果。

2月某日
「あの公園のベンチには、なぜ仕切りがあるのか?-知らぬ間に忍び寄る排除と差別の構造」(森達也編著 2023年11月)を読む。「あの公園のベンチには、なぜ仕切りがあるのか?」って聞かれても…。私が住むのは我孫子市の手賀沼公園の近く。手賀沼公園と公園内の遊歩道には多くのベンチが設置されているけれど、仕切りなんかあったっけ?…。という感覚である。しかし本書を読んで「公園のベンチの仕切り」には深刻な意味があったのだ。「ベンチの仕切り」は公園管理当局にとっての好ましからざる者、具体的にはホームレス等が、ベンチで横になれないように設けたものだ。ここでサブタイトルの「知らぬ間に忍び寄る排除と差別の構造」の意味が明らかになる。私は北海道で少年時代を過ごしたのだが、私の周囲には少数のアイヌの子どもがいた。ひとりは2歳上の兄の友人で私とも仲良しであった。もう一人は小学校の同級生の女の子。彼女を同級生と虐めたことがあるが、反撃された。民族差別による虐めなのか今となってははっきりしないけれど、民族差別によらない虐めもダメなのは今や常識である。ごめんなさい。
本書に戻ると森達也と10人の筆者が小文を寄せている。それがエッセー風あり、論文風あり、ドキュメント風ありと雑多なのだが、それはそれで私は「いいんじゃないかな」と思う。なぜなら現代における「排除と差別の構造」はそれだけ多様であり重層的であると思うからである。在日朝鮮人に対する民族差別もあるし、外国人労働者に対する差別もある。貧困に対する差別もあるし障がいに対する差別もある。差別者が差別を自覚している場合もあるし無自覚な差別もある。本書の目次から抜粋すると雨宮処凛が「弱者」を対象に「困窮に至るまでの、そして困窮してからの排除」、葛西リサが「シングルマザー」の「住みたい部屋で暮らせない」、渋井哲也の「学校という排除空間」、武田砂鉄の「『五輪やるから出ていけ』の現在地」、朴順梨の「変質するヘイト。そして微かな希望」、森達也の「排除アートは増殖し続けている」、安田浩一の「外国人」の「排除と偏見を逆手にとる」などである。安田浩一のは、磐田市(静岡県)を拠点とするブラジル人4人、ペルー人と日本人が一人ずつの多国籍のラップグループのドキュメント。これは大変に読み応えがありました。

2月某日
今日は4年に1回ある2月29日、かといって何があるわけでもなく。午後1時から神田の社保研ティラーレで打ち合わせ。1時間ほど「地方から考える社会保障フォーラム」について話し合う。私はこのフォーラムの最初からテーマや講師選びを手伝ってきた。実は私はイベントの企画が好き。単行本や雑誌の編集や企画も嫌いではなかったが、書籍って残るからね、失敗しても。イベントって失敗しても残らないからね。だから「社会保障フォーラム」も楽しかったけどね。しかし私も齢75歳を過ぎた。後進に道を譲るべきときが来たように思う。神田から上野、上野から常磐線で我孫子へ。我孫子で駅前の「しちりん」に寄る。

モリちゃんの酒中日記 2月その2

2月某日
「ドキュメント 異次元緩和-10年間の全記録」(西野智彦 岩波新書 2023年12月)、「日本病-なぜ給料と物価は安いままなのか」(永濱利廣 講談社現代新書 2022年5月)を読む。西野は1958年生まれ。慶應大学卒業後、時事通信社入社、その後TBSに転じ報道局長などを務める。永濱は1971年生まれ。早大理工学部工業経営学科卒、東大大学院経済研究科修士課程修了。第一生命、日本経済研究センターを経て現在、第一生命経済研究所首席エコノミスト。二つともアベノミクスと黒田日銀総裁時代の日本経済を論じている。西野は安倍首相と黒田総裁が進めた異次元緩和には批判的だ。円相場は下落し、企業収益は10年間でほぼ倍増、日経平均は三万円台に回復、失業率は2%台半ばに低下し、新規雇用者は430万人ほど増えた。しかし「その反面、日本経済の潜在成長率は0.8%から0.3%に低下し、一人当たりGDPはG7で最下位に沈む。名目GDPもドイツに抜かれ、世界第4位に転落する見通しだ。一人当たり労働生産性はOECD加盟38ヵ国のうち29位と低迷し、平均年収では韓国にも追い抜かれた。さらに円安と資源高、そして産業空洞化により貿易赤字が常態化した」とする。アベノミクスの光よりも闇に、功よりも罪に注目する。一方の永濱は先進国でこんなに長きにわたって成長していない国は日本だけとしつつも、日本も正しい経済政策を行っていたら、バブル崩壊からデフレに陥らずにもっと成長していたと断ずる。そして「日本がバブル崩壊から20年目にして、ようやくデフレ脱却への歩みを進めつつあったのはアベノミクスの成果」と西野とは真逆の評価である。西野は現状の改革に向けて「潜在成長率の引き上げに向けた構造改革と、血のにじむような財政健全化の努力が不可欠」とするが、永濱は赤字国債、政府債務の増加に対しては楽観的だ。国債の裏には「債権」=資産があり、日本国債で調達された資金が国内で使われれば、その分は民間資産の増加につながるとし、「政府債務のツケを残す」ということは、「将来世代に民間資産を残している」ことにもなる、と楽観的である。国の財政を家計にアナロジーさせ、家の年収の何倍の借金をしていると語られることがあるが、国債の大半が国内で消化されている限り、国の借金=国民の資産という考え方も成り立つ気がする。

2月某日
御徒町前の吉池本店ビル9階の吉池食堂で3月12日の呑み会の予約をする。で15時から上野のアパホテル1階にある「ハコザキ上野店」で大谷さんと待ち合わせ。ところが上野にはアパホテルが複数あるようでどこのアパホテルかわからない。大谷さんに電話して「HITACHI」と大書されているビルの前で待ち合わせる。大谷さんと合流して無事に「ハコザキ上野店」へ。店長らしき人によると都内や埼玉県に5店舗ほど展開しているらしい。つまみも美味しくて値段もリーズナブルだった。上野駅まで歩いて5分ほど。上野駅から常磐線で我孫子へ。

2月某日
「口訳 古事記」(町田康 講談社 2023年4月)を読む。町田康は確か作家になる前はロック歌手。1962年大阪府生まれ、2000年に「きれぎれ」で芥川賞。口訳とは口語訳のことと思われるが、町田は「ギケイキ」でも同じ手法を用いている。私は「ギケイキ」も大変楽しく読ませてもらった。図書館で「日本古典文学全集」の「義経記」を調べると、ストーリーは「義経記」を踏襲していた。たいしたものである。「口訳 古事記」の巻末にも参考文献として「新編日本古典文学全集1 古事記」が記載されていた。もちろん本書も古事記を底本にしているのだが、その口語訳が町田独特なのだ。例えば伊耶那岐命と伊耶那美命の国産み神話は…「あなたの身体はどんな感じです」「こんな感じです」「いいね。吾はこんな感じです。この二箇所はちょうどはまる感じです。これをはめて二柱が一体化して、そのパワーで国土を生みません?」「いいね」…ということになる。古事記を底本としながら見事に口語訳している。町田の想像力と創造力の賜物である。でも古事記っていろんな断片が絵本など子供向けの本で紹介されているのね。私は本書で紹介されている古事記のストーリーのいくつかは絵本、それから小学校高学年で読んだ少年少女文学全集に載っていたものだ。

2月某日
「肉を脱ぐ」(李琴峰 筑摩書房 2023年10月)を読む。李琴峰は1989年12月台湾生まれの34歳。国立台湾大学卒業後、早稲田大学大学院に留学。2018年に日本の永住権を取得、21年に「彼岸花が咲く島」で芥川賞受賞。「肉を脱ぐ」は大手化粧品メーカーでOLとして働く佐藤恵子は柳佳夜というペンネームで小説を書き芥川賞候補にもなった。「肉を脱ぐ」というタイトルは小説の最後で主人公が「脱皮。そうだ、みんなが皮を脱ぎ捨てるように、私も脱ぎ捨てなければならない。垢を、皮を、肉を、この身体の重さを、脱ぎ捨てるのだ」と独白することから来ている。自分は何ゆえ自分であるのか、自分の性別は何ゆえ男あるいは女なのか、というかなり根源的な問い突きつけている小説のように私は思う。台湾に生まれ育ちながら日本語で小説を書くという希少性、そして自身が同性愛者であることを公表している希少性、そういった希少性が一つのテーマであるように思う。

2月某日
「ケアの倫理-フェミニズムの政治思想」(岡野八代 岩波新書 2024年1月を読む。新書ながら私にとっては結構、難解な本であった。本書によるとケアの語源は古ゲルマン語のkaro(悲しみ)に由来し、「思わずそこに注意を向けてしまうような、心の動きを表し」「そうした意味の複雑さから、ケアという活動は、やりがいを感じさせたり、対象への愛着を生んだりする一方で、極度の疲労と、時に嫌悪感を伴うような労苦ともなる」(序章)という文言はケア労働の本質をついている気がする。また、本書の役割は「わたしたちの社会の底に今なおしっかりと埋め込まれている、家父長制、あるいは男性中心主義の構造を、根底から問い直す倫理であることを明らかにするためである」(同)とする。本書は難解ななかにも「なるほど」と思わせる記述が少なくなかった。「馬などは誕生後まもなく自分の足で歩行できるが、人間はたとえば首がすわるまで三カ月、二足歩行に至ってはおよそ一年かかる。つまり社会的な存在としても生物学的な存在としても、人間はケアされる/する人びとなのだ」(第5章)という文言も説得力がある。本書は「ケアの倫理」を検証することを通じて、日本社会の根底的な批判をしているように感じられた。著者の岡野八代は早稲田大学政治経済学部出身で藤原保信の門下ということだ。藤原門下には作家の森まゆみ、政治学者の重田園江など優秀な女性が多い。

2月某日
社会保険研究所の専務、社長、会長を務め、年友企画とフィスメックの創業者の一人でもあった田中茂雄さんが亡くなった。年友企画の石津さんからメールで知らされた。告別式の日は私には外せない会議が入っているので、今日、フィスメックの小出社長に香典を届けて来た。小出社長は会議中だったが受付の人が預かってくれた。田中さんは私が35,6歳で年友企画に入社して以来の付き合いだからおよそ40年の付き合いとなる。田中さんは確か昭和6年頃の生まれだったと思う。初めて会ったのが昭和60(1985)年頃だ。田中さんは東京外国語大学ロシア語学科出身の秀才なんだけれど、酒好きでも鳴らした。会社を終わって会社近くの「与作」という居酒屋をのぞくと一人で呑んでいることが多かった。「そんなところでのぞいてないで入って来いよ」と声を掛けられ、いつもご馳走になっていた。ブラックというスナック、神田駅ガード下のママが独りでやっているカウンターバーでもご馳走になった。新宿歌舞伎町の「ジャックの豆の木」というクラブにもご一緒したが、ここは会社のツケだった。田中さんが東京外大に入学したのはおそらく昭和24(1949)年頃。日本共産党が学生運動の主導権を握って過激な闘争に明け暮れしていた。田中さんの前の研究所の社長が船木さんで、彼も東外大のロシア語学科で一緒に学生運動をやっていたらしい。その頃の話は聞いたことはなかったけどね。年友企画の本田さん、鰐田さん、大前さんといった女性社員とも良く呑んでいた。彼女たちもなくなってしまった。天国で盛大に歓迎会をやっていることだろう。

モリちゃんの酒中日記 2月その1

2月某日
「大審問官スターリン」(亀山郁夫 岩波現代選書 2019年9月)を読む。1917年の10月革命でロシアも権力を掌握したボルシェビキ(ロシア共産党)。強力な社会主義政策を実施したレーニンが死去した1924年1月以降、実質的な権力を掌握したのがスターリンである。著者は1949年栃木県生まれ、68年に東京外語大学ロシア語学科に入学。東大大学院博士課程単位取得退学。東京外語大学教授、同学長を務める。著者が大学に入学したころは学園闘争の最盛期で東外大もバリケード封鎖中、著者はほぼ独学でロシア語を学び、ドストエフスキーを原語で読んだということをどこかで読んだことがある。私は48年北海道生まれ、1浪後に早大政経学部に入学し第2外国語はロシア語であった。私は積極的にバリケード封鎖に加わり、購入したロシア語の教科書と辞書は埃をかぶったままであった。
それはさておき、本書は権力を掌握した以降のスターリンが、次々と政敵を粛清していく過程が同時代人の証言を交え明らかにする。レーニンの同志だったトロツキーは追放され、カーメネフ、カウツキーらの党幹部も次々と死刑判決を受け銃殺されていく。本書によるとレーニン死後の権力闘争でキャスティングボードを握っていたのはジノヴィエフとカーメネフだったが、2人はトロツキーに対する近親憎悪と逆にスターリンは組みやすいとの思惑からスターリン支持に回った。「スターリンはあまりに粗暴すぎる。この欠点は…書記長の職務にあってはがまんならないものとなる」というレーニンの遺書があったにもかかわらず。本書では独裁者スターリンの孤独が描かれる。グルジア(現ジョージア)という少数民族の出自、帝政時代に秘密警察と通じていたという疑い(オフラナファイルの存在)などがスターリンを脅かす。私はここでロシアのプーチン大統領を思い起こす。プーチンは現代のスターリンか? 独裁者ということではそうだと思う。プーチンの死後、そのことが暴かれることになるのだろうか?

2月某日
月に一度の中山クリニック。アビスタ前からバスに乗るつもりだったが本日は土曜日、バスの本数が少なく天気も良いので歩くことにする。15分ほど歩いてクリニックに着く。「どうですか?」「花粉症以外は好調です」「また花粉症の薬出しておきましょう」「血圧もたいへんいいですね」。この間、2~3分。中山先生は全然偉そうでもなく優しい先生だ。東大医学部出身なんだけどね。帰りは我孫子駅前からバスで若松へ。薬局のウエルシアに寄ったら薬剤師のお姉さんが「1時間くらいかかります」と申し訳なさそうにするので「後で来ます」といったん家へ。食パンにバターとチーズ、ハムを乗せてトースト、「5種の生野菜」を乗せスープとともにいただく。再びウエルシアへ、薬を貰う。図書館へ寄ってリクエストして本を借りる。今日はこれで1万歩を超えた。

2月某日
「波流 永山則夫 小説集成1」(共和国 永山則夫 2023年10月)を読む。昨年末に2を読んだ。この小説集成には永山が生前に発表した「N少年」「N」を主人公にした全作品を発表順に2巻に分けて収録している。したがって1には比較的初期のものが収録されていて2の作品と比べると私からすると完成度は低いと感じる。永山は北海道の網走に5歳まで育ち、5歳のとき母親が自身の故郷である青森県板柳に兄弟をつれて帰郷してしまう。残された永山と兄弟は今でいう育児放棄された状態にあった。永山と兄弟は翌年、市の福祉関係部局により板柳に送られる。板柳においても母親は行商で忙しく永山は小学校4年から新聞配達のアルバイトを行う。またこの時期次兄から激しい暴力を受ける。永山は小学校でも中学校でもまともに授業には出席しなかった。家庭では母親から半ば育児放棄され、兄からは家庭内暴力を受けて教師からは無視されていたと言えよう。永山の文章について「完成度は低いと感じる」と書いたが、次のような文章を読むと才能の片りんを感じさせる。「木橋から美しい岩木山が見えた。この木橋から見る冬の岩木山は格別だ。Nは好きだった。林檎園の木々は黒かった。辺り一面銀の世界の中で、その木々の黒さは目立った。岩木颪が顔面に当たると心の眠気がいっぺんに醒めた」(破流)。永山は小学校4年生から新聞配達をはじめ、中卒後東京渋谷のフルーツパーラーに半年ほど務めた後は土工や荷役などの肉体労働を続ける。大阪での米屋での就労は安定していたが、戸籍謄本の提出を求められ出奔することになる。出生地が網走市呼子番外地となっていたためである。当時、高倉健主演の「網走番外地」が人気で、永山は網走刑務所で出生したと誤解されることを恐れたのである。1969年4月、19歳の連続射殺犯の永山は逮捕される。「永山則夫の罪と罰」(井口時男)には、そのとき押収された「社会科用語辞典」の余白に次のように記されていたという。「わたしの故郷で消える覚悟で帰ったが、死ねずして函館行きのドン行に乗る。どうしてさまよったかわからない。わたしは生きる。せめて二十才のその日まで。(後略)」。

2月某日
上野駅の公園口で香川さんと待ち合わせて、東京国立博物館の特別展「本阿弥光悦の大宇宙」を観に行く。本阿弥光悦は江戸初期の芸術家にしてプロデューサー。なのだけれど、もともと本阿弥光悦にそれほど関心はなく、説明文を読むのも上の空。身体障害者手帳を見せると私と付き添いは入場料無料。それで上野の博物館や美術館に行くのだが、タダということからどうも真剣味に欠ける鑑賞となってしまうようだ。香川さんにバレンタインの義理チョコをいただき、上野駅構内で食事。

2月某日
我孫子在住の吉武さんに誘われて表参道のイベントへ。ところが我孫子始発の千代田線直通の電車に遅刻、携帯を忘れたので吉武さんに連絡もとれず。表参道の駅前はねじり鉢巻きに法被姿の老若男女がいっぱい。なんでも紀元2684年の奉祝パレードが明治神宮まであるということだ。パレードをチラ見して我孫子へ帰る。結局、花粉を浴びに表参道まで出向いたことになる。

モリちゃんの酒中日記 1月その3

1月某日
昨夜、11時過ぎに就寝。4時頃いったん目が覚めたので起床。朝のテレビを2時間ほど漫然と見た後、2度寝。11時頃起床。朝食はトーストにバター、チーズ、「5種のリーフ」を乗せて、スープと一緒に食べる。ランチはコーンスープにご飯を入れて、副食は「5種のリーフ」にツナ缶とたまねぎのみじん切りを乗せ、ドレッシングをかけて食べる。
「戦前日本のポピュリズム-日米戦争への道」(筒井清忠 中公新書 2018年1月)を読む。私はこの頃、日本と世界の現状が第2次世界大戦前の状況と非常に似てきているように思えてならない。本書を読んでもそのことを痛感した。ロシアのウクライナ侵攻は日本の中国大陸への侵攻を思い起こさせるし、ロシアのクリミア半島併合は日本軍部の満洲国建国と非常に似ていると思わせる。自民党安倍派を中心とした裏金疑惑は、昭和戦前期の政財界の腐敗を思わせる。日本はそれからファシズム、そして日米戦争の道を歩きはじめる。今はさすがに日米戦争はないだろうが、怖いのは台湾海峡と北朝鮮のリスクではないか。戦前は日本、ドイツ、イタリアで3国軍事同盟を結び、米英ソ連に対抗した。現在はロシア、中国、北朝鮮が権威主義国家同士で連携しているように思う。3国に共通しているのは思想としてのスターリン主義(個人への権力の集中、自由な言論の弾圧等)である。そしてスターリン主義に対抗できるのは反スターリン主義ではなく民主主義である。

1月某日
「満州事変-政策の形成過程」(緒方貞子 岩波現代文庫 2011年8月)を読む。著者は国連難民高等弁務官を1991年から10年間勤めた緒方貞子(1927~2019)である。私は世界各地の難民支援に活躍した緒方のことしか知らなかったが、本書の解説やウイキペディアによると、昭和初期に生まれた女性にしては珍しく国際的、学際的な活躍をした女性である。
彼女の曽祖父は犬養毅、祖父は犬養内閣の外相を務めた吉澤健吉。母は元共同通信社長の犬養康彦や評論家の犬養道子、エッセイストの安藤和津の従妹。ということは安藤和津の夫の奥田瑛二やその娘の安藤サクラとも親戚ということになる。まぁ家系的に見てもリベラルなのは了解できる。外交官の娘として生まれ、幼少期をサンフランシスコ(バークレー)、広東省、香港などで過ごし、小学校5年生で帰国、聖心女子学院に編入、聖心女子大学英文科卒。カリフォルニア大学バークレー校の大学院で政治学の博士号を取得。本書は大学院に提出した博士論文をもとに日本語訳されたものである。
本書は「日清・日露の戦争によって既に満州に鉄道をはじめとする諸権益を得ていた日本は、その一層の発展を図ることを基本的な対外政策としていた。特に関東州及び南満州にある鉄道の保護を任務としていた関東軍は、より積極的な保護と発展の機会を求める在満日本人の要求にも応え、次第に積極的な戦略論を展開するに至った」(まえがき)過程とその結果としての中国侵略、満洲国建国に至る「政策の形成過程」を描く。私は緒方が満州事変の原動力となった日本帝国主義を「社会主義的帝国主義」と定義したいとしていることに注目したい。緒方は満州事変が国民に歓迎された理由の一つとして「事変の結果国民経済が拡大されることが期待された」ことをあげている。満洲での戦火拡大を担った関東軍も日本政府に対し「満洲開発の成果を国民大衆に享受させるため、社会政策上の大改革を断行するよう要請した」がこれは、これはナチスの国家社会主義的な政策を思い出させる。これはすなわち「社会主義的帝国主義」である。ソ連のアフガン侵攻や中国の新疆ウイグル自治区への弾圧も社会主義的帝国主義である。ロシアのウクライナ侵攻は、ロシアが社会主義から離脱したため、たんなる帝国主義である。

1月某日
8時起床。日課となっているNHK朝のテレビ小説「ブギウギ」を見る。主人公の趣里が演ずる福来スズ子(モデルは笠置シズ子)が村山興業(モデルは吉本興業)の御曹司、村山愛助の子どもを妊娠していることが判明。喜ぶシズ子と村山。だが、大阪の村山の母(小雪が好演)は激怒。どうするスズ子? 図書館へ寄った後、11時頃、バスでアビスタ前から八坂神社前の床屋(カットクラブパパ)へ。散髪の後、歩いて手賀沼縁の「水辺のサフラン我孫子店」へ、サンドイッチを購入。手賀沼公園内のベンチで食べる。

1月某日
御徒町の清瀧上野2号店で3時から新年会。3時に会場に行くと石津さんが来ていた。少し遅れてHCM社の大橋さんとデザイナーの土方さんが来る。会費3000円で足りない分は大橋さんと土方さんが出してくれたようだ。私はビールと日本酒、ウイスキーのソーダ割をいただく。気がつくと7時を過ぎていた。4時間以上、呑んで食べてしゃべっていたわけだ。石津さんからお煎餅とハンカチをいただく。石津さんは4月いっぱいで年友企画を退社すると言っていた。そのときはまた呑もうと思う。土方さんは地下鉄で石津さんは京浜東北線で帰る。私と大橋さんは山手線で上野へ。私は上野から常磐線で我孫子へ。大橋さんは出張で仙台へ。

1月某日
指名手配されていた東アジア反日武装戦線の桐島聡が、末期がんで入院している病院で自ら桐島聡と名乗り出た。半世紀前の爆弾容疑という。東アジア反日武装戦線といえば、同じ頃に丸の内の三菱重工ビルで時限爆弾を爆発させ多くの死傷者を出した事件が記憶に残る。犯人の大道寺夫妻は逮捕され死刑判決が確定した。夫はガンにより拘置所で死去、妻は確か大使館占拠の人質と交換に国外退去となった。大道寺夫妻と同時に逮捕され、直後に服毒自殺したSさんは私の中学校、高校の1学年上。秀才で現役で東京都立大学に合格した。当時、盛んだった学生運動とは一線を画しアイヌ解放闘争や朝鮮人差別問題に取り組んでいたようだ。Sさんの想いはどのようなものだったのだろうか? 桐島が名乗り出たというニュースを知ってそんなことを思った。

1月某日
末期がんで入院中に指名手配が判明した桐島聡が入院先の病院で死亡したことが報じられた。実名を明らかにしてから数日の命であった。桐島に家族はいたのだろうか? 逃亡中は家族を持たなかったのか、両親や兄弟は健在なのか? 世間の無責任なまなざしにさらされることのないように祈るばかりだ。私は田辺聖子先生の「夕ごはんたべた?」を思い出す。昭和50年に刊行されたこの小説は尼崎下町の開業医、吉水三太郎が過激な学生運動にのめり込む子供たちに悩まされながらも「やさしさ」を忘れない日常を描く名作である。田辺先生は三太郎の眼を通して当時の過激派学生たちを「若者たちに、透徹した見通しや、大衆を納得させる現実的な理論があったとは思いにくい。だから、それら若者の情熱はいくらでもエスカレートしていった。大衆の支持と共感を離れ、突っ走ってしまった」と描く。「そうして大気圏の中で燃えつき、消滅し、あるいは、再び戻ることのない屑星となって、あてどなく遊弋し、闇に消えていった。紛争学生の烙印を捺され、放逐され処刑され、ふるい落とされていった」。この一文を私は桐島に読ませたかったと思う。これは田辺先生からの紛争学生に対する挽歌のように感じられるのである。

1月某日
「風葬」(桜木紫乃 文春文庫 2016年10月)を読む。単行本は2008年10月に出版されている。舞台は根室と釧路。著者は北海道釧路生まれ。裁判所職員を経て作家デビュー。現在も北海道在住だったと思う。小説はまだロシアがソ連と呼ばれていた頃の話である。1990年代頃か。密漁、恋愛、サビれゆく街などテーマ満載の小説である。この小説に限らず桜木の小説を読むと、この作者は「強い作家」と思う。人物描写に容赦がないのである。

1月某日
「永遠年計」(温又柔 講談社 2022年10月)を読む。温又柔は1980年台北生まれ、両親ともに台湾人。幼少期に来日。台湾というのは地域というか島の名称で、国の名前としては中華民国。でも中華民国として正式に国交を結んでいる国は少ない。日本も1972年に中華人民共和国と国交を回復し中華民国とは断行した。でも日本人の多くは中国本土よりも台湾に親近感を持っているのではないだろうか。民主主義という共通の価値観を有する国として。本書には表題作の「永遠年軽」と「誇り」「おりこうさん」の3作がおさめられているが、「誇り」で主人公の大伯父が、主人公に「日本は、台湾を二度捨てた。わかるか?一度目は天皇陛下に。二度目は田中角栄に。俺たちは捨てられたんだ」と語るのが紹介されている。「一度目は天皇陛下に」というのは1945年の敗戦で日本は植民地としての台湾や朝鮮半島を失ったことを指している。小説を離れて私は台湾と日本そして中国本土との関係は現状維持が望ましいと思っている。いつの日か、中国が民主化され平和的に台湾と中国が一緒になれる日まで。