5月某日
HCM社で「胃ろう・吸引ハイブリッドシミュレータ」の後続商品、「気管カニューレシミュレータ」の記者発表。シルバー新報の吉田記者が来てくれる。こちらはHCMの大橋社長とネオユニットの土方さん、開発時からいろいろとアドバイスをもらった看護師の大津さん。大津さんは現在、介護士の医療行為研修の講師をすることが多いので、講師という立場から「シミュレータ」が教えやすいと語ってくれた。記者発表が終わった後、映像やホームページで協力してくれている横溝君が来てくれたの飲みに行くことに。しかし私は先約があったので銀座8丁目の「久保田」へ。前日、「ケアセンターやわらぎ」の石川さんから「中村秀ちゃんと大橋さんと呑むことになっているので来ない?」というメールが届いた。大橋さんというのは社会事業大学の学長を務め、現在テクノエイド協会の理事長をやっている大橋建策先生のこと。私の中学時代の友人、奈良君に4~5年前に札幌で会ったとき、「大橋建策先生が札幌に来ると俺が運転手をするんだよ」と言っていた。そのことを大橋先生に話すと「奈良君?」と懐かしそうだった。「久保田」は蔵元の「久保田」の直営店のようで、日本酒もお料理もおいしかった。石川さんにすっかりご馳走になる。
5月某日
HCMの大橋さんに誘われて目黒の勤労福祉会館で卓球をやることに。当社の新人編集者の酒井も小学校時代の友人、花田さんと参加。4人で卓球台2台を借りたが結構、運動量は多い。私は休み休みやったんだけど少々バテ気味。帰りに目黒の「ガスト」で私と大橋さんはビールとハイボール、女性陣はスイーツを頼む。女性陣はこの後、神田明神に行くそうだ。若い人は馬力があるね。
5月某日
図書館で借りた「暗い時代の人々」(森まゆみ 亜紀書房 2017年5月)を読む。このタイトルはハンナ・アーレントの同名の作品にちなむということだが、森は「わたしが描こうとしたのも、戦前の日本で9人の人々が点した「ちらちらゆれる、かすかな光」である」(まえがき)と記している。9人とは粛軍、反軍演説で衆議院を除名された斎藤隆夫はじめ、山川菊栄、山本宣治、竹久夢二、九津見房子、京都で発行された反ファシズムの新聞「土曜日」の発行人、斎藤雷太郎とリベラル派の拠点となった喫茶店「フランソア」の経営者、立野正一、それに古在由重と文化学院の創始者、西村伊作である。森は早稲田の政経学部卒で私の後輩である。もちろん面識はないけれど。地域雑誌「谷根千」を主宰していたことでも知られる。集団的自衛権の容認や共謀罪も衆議院通過など安倍政権の強硬な政権運営手法が目立つ。森のような論調は貴重だ。
5月某日
図書館で借りた「山本周五郎で生きる悦びを知る」(福田和也 PHP新書 2016年3月)を読む。山本周五郎は20年ほど前によく読んだ。宮城県知事だった浅野史郎さんも周五郎を読んでいて「何が好き?」と聞かれて「虚空遍歴」と答え、浅野さんに「あんたも暗いねー」と言われたことを覚えている。周五郎はあらゆる文学賞を辞退したことは知られているが、この本の「あとがき」で皇室主催の園遊会にすら出席せず、「そんな時間はおれにはない。小説家には読者のために書く以外の時間はないはずだ」と語ったことが明らかにされている。福田はそんな周五郎を「取材以外は旅行に行くこともなく、ただ書き続け、呑み続け、仕事場で倒れ、63歳で逝った」(あとがき)と綴る。
5月某日
沢木耕太郎の「春に散る」(朝日新聞出版 2017年1月)の下巻を図書館で借りて読む。若いころに世界チャンピオンを目指して合宿生活を送った4人の老人が、1軒家を借りて共同生活を送るようになる。4人の1人で唯一、アメリカでホテル事業に成功した広岡がスポンサーだ。盛り場で広岡に殴り倒されたプロボクサーのライセンスを持つ翔吾が4人から指導を受けることになる。ともに共同生活を送るようになる不動産屋の女事務員、佳菜子は岐阜県の山奥で新興宗教の教祖にされ掛け、それから逃れた過去を持つ。広岡には心臓に持病がありニトログリセリンを常にポケットに忍ばせている。翔吾は世界選手権に挑み、世界チャンピオンの座に就くが片目に深刻なダメージを負う。翔吾はベルトを返上し、佳菜子とともにアメリカにわたりホテル事業につく決意を広岡に相談する。広岡は承諾し万一の時に備え、アメリカの事業の清算その他の資産についての遺言状の作成を終える。この小説はいろんなことを示唆している。例えば「老い」、例えば「友情」。私はしかし広岡が真拳ジムに入門が許されたときに会長が語った言葉が印象的だった。「ボクサーは無限に自由であると同時に、無限に孤独なんです。(中略)戦いに赴くボクサーは、未知の大海に海図も持たずに小舟で乗り出していく船乗りのようなものなんです。(中略)でも、それはボクサーだけのものじゃない。人間というものは本質的に無限に自由でいて無限に孤独なものなんだと私は思います」。無限に自由でいて無限に孤独。深く納得である。
5月某日
我孫子駅前の東武ブックスで買った田辺聖子の「朝ごはんぬき?」(新潮文庫 昭和54年12月 単行本は実業之日本社より51年9月)を読む。人気女流作家、秋本えりかの家に住み込むことになったハイミスの明田マリ子の目を通して人気作家とその周辺のドタバタ劇が描かれる。しかし田辺ファンの私としては不満が残った。田辺の小説の中には「ハイミスもの」がいくつもあるが、ユーモア小説の衣装をまとってはいてもその底流にはある種のペーソスが存在する。そのペーソス、日本語で言うと哀感、哀愁が不足していると思うのだ。本作には。
5月某日
「地方から考える社会保障フォーラム」の講師をお願いしている権丈善一慶應大学商学部教授と神田の「いく代寿司」で会食。社保研ティラーレの佐藤社長と社会保険研究所の飯島氏が同席。権丈先生は初対面だが、非常に話が合った(と私は思う)。現代の社会保障には救貧機能だけでなく防貧機能が非常に重要になっている。中間層を維持し分厚く形成させること、それなくして先進国では資本主義を維持できない、別の言い方をすれば人類はマーケットを手に入れたことで資本を増殖させることにも成功したし生産性を飛躍的に上げることも実現させた。市場化以前よりも圧倒的な富を獲得したわけである。その反面、市場から放り出される人々、脱落する人々が出てくる、これは市場のもう一つの現実である。そうした人々へのセーフティネットが社会保障ということができる。なんだか月並みになってしまったが、権丈先生に触発された「私の社会保障論」でした。