モリちゃんの酒中日記 1月その3

1月某日
「蕪村-己が身の闇より吼えて」(小嵐九八郎 講談社 2018年9月)を読む。小嵐の小説は方言を饒舌と言えるほどに使うのが一つの特徴と言えるのではないか。今回は俳人にして文人画の大家として後世知られる蕪村が主人公なので京都、江戸、北関東の結城などが小説の舞台となる。よって方言も京都弁、江戸弁に加えて北関東の方言なども駆使されている。私にとって「読みやすい」小説ではなかったが、非常に面白かった。3連休の2日を使って350ページを読み通したが、読み進むにつれて面白さは募った。芭蕉、一茶とならんで蕪村は江戸時代の三大俳人と言われているが芭蕉、一茶ほどには小説等で取り上げられていないと思う。蕪村が俳句に加え書画においても才能を発揮したことに加え、前半生の詳しいことが分かっていないことも理由のひとつか。そこがまた小嵐の作家的な想像力を刺激したのであろう。小説では蕪村は幼い頃父を亡くし、母は小作人の若い男と通じている。蕪村母子を庇護してくれている叔父(父の弟)もいずれ父の後釜に座ろうと思っている。母と小作人の密通を知った叔父は小作人と母を殺し、殺害の現場にいた15歳の蕪村は叔父を殺害する。京に逃れた蕪村は乞食の群れに身を落とし浄土宗の僧侶に拾われ法然の教えを知る。法然の教えは親殺し、僧侶殺しなどの大罪を犯した以外の罪びとは救われるというものだった。親同然だった叔父を殺害した己は救われないのか。蕪村の句の「己が身の闇より吼えて夜半の月」が小説の副題に使われているが、「己が身の闇」がこの小説のテーマである。蕪村は童女の頃知りあい、飯盛り女として春を売っていた女をめとるが、この女を通して親鸞の悪人でも往生できるという教えにたどり着く。小嵐は新左翼の活動家出身で入獄も経験している。1970年代~80年代は恐らく内ゲバの渦中にいたと思われる。「己が身の闇」は小嵐にもあり、濃淡はあれど誰にでもあるのではないか。「親殺し」というギリシャ悲劇以来の普遍的なテーマに親鸞の悪人正機説を組み合わせた壮大な小説として私は読んだのだけれど。

1月某日
元厚労省の堤修三さん、岩野正史さんと鎌倉橋の「跳人」で呑む。社会保険研究所の手塚女史、セルフケア・ネットワークの高本さんも誘ったが、手塚さんはインフルエンザ、高本さんはスケジュールが合わず欠席、男ばかり3人の呑み会となった。堤さんは昨年、酒席で転倒したことがあるそうで酒を控えめにしているとか。それでも3人で呑むのは久しぶりなこともあり楽しかった。

1月某日
2日続いて鎌倉橋の「跳人」へ。高齢者住宅財団の落合さん、フィスメックの小出社長と「竹下さんを偲ぶ会」の打ち合わせ。高齢者住宅財団が神田橋なので、鎌倉橋までは歩いて来れるのだ。大谷源一さんがHCMを訪ねてくれたので誘う。「跳人」の目の前の社保険ティラーレで吉高さんと佐藤社長と打ち合わせ後「跳人」へ。小出社長と大谷さんはすでに来ていた。昨日引き続き私は熱燗。落合さんが来たので4人で乾杯。「玉ねぎの丸上げ」というのを初めて頼んだが美味しかった。私以外の3人は京浜東北線の川口と浦和近辺に住んでいるので沿線の話で盛り上がっていた。小出社長にすっかりご馳走になる。我孫子に帰って「しちりん」に寄る。

1月某日
「金融失策 20年の真実」(太田康夫 日本経済出版社 2018年9月)を読む。著者は日本経済新聞の編集委員。1989年東大卒、同年日経新聞に入社、金融部、経済部、スイス支局などを経て現職。この20年間、日本政府が進めてきた「貯蓄から投資へ」という流れが全くというほど進まなかった現実を明らかにしている。金融監督庁は、旧来の銀行融資(間接融資)に頼る金融システムから、株式や社債の発行を通じて資金を調達する(直接融資)市場に頼る金融システムへの移行を目指した。「貯蓄から投資へ」の一連の政策が、日本経済を成長軌道に戻すはずだった。ところが現実はそうではなかった。著者はその原因を金融専門の新聞記者らしく丹念に事実を掘り起こす。著者はもっぱら銀行の経営責任と行政、大蔵省(現財務省)や金融監督庁の責任を追及する。金融専門の記者ならばそれは妥当なところだ。しかし、本当の責任はアベノミクスを進めた安倍首相と黒田日銀総裁にあるように思う。そして一番責任があるのは安倍自民党に政権を委ね続けた私たち国民だ。

1月某日
生来の運動音痴から脱落してしまったけれど、高校時代1シーズンだけスキー部に所属していたことがある。昨年、同じスキー部で札幌のコンピュータソフト会社の社長をしている佐藤正輝が上京したのを機会に開かれた室蘭東高スキー部の首都圏同窓会に誘われた。今年も新年会が神田・司町の「上海台所」であるというので参加する。北海道・千歳市在住の丸田君も上京中で参加、私が知っているのは他に同学年だった阿部君と紅一点の中田(旧姓)志賀子さんくらいだ。隣に座った人と話しているうちに家が近所だった一年下の内藤君だったことが分かる。50年以上前のそれも1シーズンだけの縁だったが、これも青春の1ページということか。

1月某日
「娘と嫁と孫とわたし」(藤堂志津子 集英社文庫 2016年4月)を読む。ウイキペディアによると藤堂志津子は1949年3月、札幌生まれだから私と同学年、同郷である。札幌の藤女子短大を卒業、1988年に直木賞を受賞している。物語は嫁の里子と孫の春子と同居する「わたし」(玉子)の日常が描かれる。息子は35歳で交通事故死したという設定。玉子の夫は息子の交通事故死のショックに耐えがたいという理由で家を出ている。娘の葉絵は離婚後、ドラッグストアチェーン店の御曹司と再婚。葉絵が狂言回し的な役割を負っている。ホームドラマは通常、夫婦と親子が揃っているものだが、この物語は息子の事故死、夫の家出(実は不倫だったことが後に明らかにされる)など家族の欠損がテーマの一つになっている。玉子は午前中、パート勤めしているが、実は生活費は夫から送られてきているし、それとは別に夫の家出の際、夫から3000万円せしめている。つまり生活に不自由はないのであって、そこがこの物語の基礎を支えているのである。

1月某日
50年前の1月18日つまり1969年の1月18日に全学封鎖されていた東大に機動隊が導入された。安田講堂をはじめ工学部列品館などに立て籠っていた学生たちは投石や火炎瓶などで激しく抵抗したが、機動隊によって次々と排除されていった。安田講堂は翌日の午後、屋上に追い詰められた学生たちの逮捕によって機動隊に完全に制圧された。前の年の暮れ、早稲田大学政経学部の一年生で社青同解放派の未熟な活動家だった私は、闘争の合間に政経学部地下の自治会室でくつろいでいた。三里塚の現地闘争への動員も終わり、10.8、11.12の羽田闘争一周年、10.21国際反戦デー、11.22の「東大・日大闘争勝利全国学生決起集会」も終わって、それこそ一息ついて文字通りくつろいでいたと思う。そのとき革マル派の学生が自治会室に乱入、自治会室にいた解放派の指導者を殴り始めた。革マル派の学生に「チンピラは消えろ」と言われた私ともう一人の一年生は理工学部のキャンパスまで走って逃げた。確か理工学部のサークルのひとつが解放派の拠点だったからだろう。我々の話を聞いた理工学部の解放派とタクシーに分乗、ヘルメットを数個赤旗にくるんで東大駒場へ向かう。東大駒場も全学封鎖中で私たちは解放派の拠点だった教育会館へ逃れる。その夜、革マルの拠点だった駒場寮に夜襲を仕掛けるが、あっさりと撃退されてしまった。何日か教育会館に寝泊まりすることになるのだが、内ゲバの緊張感に耐え兼ねた私は、「着替えをとりに行く」という口実でバリケードを離れ、その後教育会館に戻ることはなかった。そうはいっても安田講堂攻防戦は気にかかって政経学部のクラスメートの小林君と本郷あたりをうろついた記憶がある。一浪して早稲田に入った私はすでに20歳になっていたが、小林君は現役でしかも3月生まれだったからまだ18歳のはずである。小林君はその後、ブント戦旗派の活動家になった筈。神奈川の小学校の事務職員をしながら活動をしているという噂をだいぶ前に聞いたことがある。小林君をブントにオルグした理工学部ブントの森君は大阪に帰った。森君と結婚したのが尾崎絹江さん。尾崎さんは私が3年のとき、法学部に入学、ロシア語研究会に入部、麻雀を教えた覚えがある。尾崎さんはその後、ブントから離れフリーライターになる。朝日新聞の「アエラ」にも執筆したことがあるが数年前、乳がんで死んだ。