モリちゃんの酒中日記 1月その3

1月某日
図書館で借りた「相模原事件とヘイトクライム」(保坂展人 岩波ブックレット 2016年11月)を読む。重度の知的障害者19人の命を奪った相模原市の事件が起こったのは2016年の7月だから、このブックレットが書かれたのは事件の直後と言ってもいい。この本を読んで私がここに書き記しておきたいと思ったことは2つある。ひとつはナチスドイツがホロコーストによりユダヤ人を大虐殺する前に20万人以上の障害者をガス室に送っているという事実。もうひとつは事件が起こった2016年は障害者差別解消法が施行された年であるということ。前者は障害者差別と民族差別が通底していることを意味している。そして個別の差別に反対するということは、あらゆる差別に反対することにつながっていかなければならないことを強く感じる。後者については法に依る差別の解消はもちろん必要だが、人々の(私も含めて)意識改革が求められているということだ。そのためには道路や住宅、施設のバリアフリー化にとどまらず「心のバリアフリー化」が必要ということであろう。

1月某日
図書館で借りた「瓦礫の死角」(西村賢太 講談社 2019年12月)を読む。西村賢太は4~5年前はよく読んだが最近はとんとご無沙汰。しかし読んでみるとやはり面白い。西村賢太の小説の基本は私小説。と言っても庄野潤三のような上品な家庭を描いた私小説ではない。西村賢太の私小説上の人格である「貫多」の実父は強姦と傷害で懲役8年の実刑を受け刑務所に。「貫多」は高校に進学せずに日払いの肉体労働などで日銭を稼いでいる。表題作は半年ほど勤めていた洋食屋を馘首された「貫多」が母親のアパートに転がり込む話だ。いつまで居続けるのかと露骨に嫌な顔をする母親だが、その母親も刑務所の元夫がいつ出てくるかという恐怖に晒されている。共通の恐怖の故にいっとき「貫多」と母親には共に生きる可能性も見えてくるのだが、「結句は何もしてやれぬ。自分が逃げるだけで精一杯である」となる。表題作と「病院裏に埋める」が「貫多」もの、「四冊目の『根津権現裏』」は西村が「没後の弟子」を自称する藤澤清造の著作「根津権現裏」を巡る貫多と古書店主の物語。最後の「崩折れるにはまだ早い」は凝った構成になっている。作者、西村賢太と思しき「渠」(かれと読む。普通は彼だけど渠を使うのがいかにも西村らしい)はあの『文藝春秋』からも『新潮』からも姑息で下らない〝人間関係″のみの齟齬をでもって締め出しを食らっている。「渠」はこの原稿依頼を次の原稿依頼に繋げようと期限の前日に仕上げる。「崩折れるには…」自体がこの原稿を仕上げるメイキングストーリーになっている。「渠」は原稿を書きながら、別れた女のことや自殺した友人のこと、そして面識はなかったが死んだ同業の人物のことを想う。この同業の人物は「他者に云わせると書くものの傾向に似通った部分もあるそうで、その点で渠としても密かに意識せぬこともなかった人物である」「何かの雑誌か新聞でその坊主頭の、苦行僧の陰影の中に飄逸味の同居する風貌を瞥見した」とあるから、この人物とは先年亡くなった車谷長吉であろう。私は義理の姉(兄の奥さん)が編集者をしていた関係で、車谷長吉さんと奥さんで詩人の高橋順子さん、それに義理の姉の四人で入谷の呑み屋で2~3回ご一緒したことがある。その折、車谷さんに西村賢太をどう思うか聞いたのだが、「しりませんねぇ」という答えだった。「崩折れるには…」では最後に「渠」は藤澤清造に、自殺した友人は芥川龍之介に、死んだ同業の人物は田山花袋に置き換えられる。この一瞬の転換こそが西村賢太の技、芸と言えるだろう。

1月某日
「小さき者の幸せが守られる経済へ」(浜矩子 新日本出版社 2019年8月)を読む。浜は以前からアベノミクスをアホノミクスと呼ぶ安倍政権批判の急先鋒のエコノミスト。本書は「アエラ」と「イミダス」に連載されたコラムをまとめたものだ。経済政策批判と並んで現政権の考え方やさらに広く現代社会の在り方についても批判的に論考しているのが特徴だ。浜は一橋大学で経済を学んだあとに三菱総研に入社、ロンドン駐在を務めるなどしてエコノミストとして頭角をあらわした。エコノミストとしてだけでなく和洋の幅広い教養を備えているのが強み。聖書やシェイクスピア、落語、映画などからの的確な引用が本書に限らず彼女の著作の特徴である。

1月某日
香川喜久恵さんからメール。福田博道さんが亡くなったという。福田さんはフリーライターで私より2~3歳下。去年の8月に自宅が火事になり、焼け跡から遺体が発見されたという。福田さんは早稲田の文学部の確か文芸学科を卒業後、調査会社や家具の業界紙に務めた後フリーライターに転身した。10年ほど前「名犬たちの履歴書」という単行本を出して、四谷の主婦会館で出版記念パーティを開いたことがある。お嬢さんがピアノの名手で一般の短大に進学したが、その後チェコに留学した。男の子は日通に勤めシンガポールへ赴任。海外の子供たちのところへ行って楽しんでいた。福田さんも私も酒好きで何度も一緒に呑んだ。我孫子の我が家にも遊びに来てもらったことがある。親友ではなかったが心の友、心友であった。

1月某日
年友企画で季刊誌「へるぱ!」の特集の打ち合わせ。編集会議で私の企画が通ったためだ。終って来週の高齢者住宅財団の仕事で行く静岡への出張費を仮払いしてもらう。年明けて2週間だが土日と祝日以外は毎日出勤している。といっても11時過ぎの出社、16時過ぎの退社というペースだが。今年72歳にしては働いているほうではないか。アンペイドワークが多いけれどそれにしても「当てにされている」わけだから「手抜き」はできない。年友企画での打ち合わせの後、神田の「鳥千」によって石津幸恵さんを待つ。太刀魚とカツオの刺身が美味しかった。石津さんにすっかりご馳走になる。

1月某日
図書館で借りた「家族シネマ」(柳美里 講談社文庫 1999年9月)を読む。「家族シネマ」は芥川賞受賞作で初出は「群像」の1996年12月号である。柳美里は1968年生まれだから、20代後半の作品となる。「家族シネマ」は崩壊した家族が映画出演を機に集まるが、バラバラになった家族の溝は埋まらないというストーリー。私は柳美里の小説は割と好きで何冊か読んでいる。「命」「8月の果て」「JR上野駅公園口」などである。が、「家族シネマ」は私には存外につまらなかった。テレビや新聞で「阪神淡路大震災から25年」という特集を繰り返し行っているが、現実がフィクションを乗り越えているような気がする。もっとも柳美里は原発被害にあった南相馬市に移住、書店を経営して「体を張って」被災地支援を続けている。柳美里自体は尊敬すべき存在である。