モリちゃんの酒中日記 1月その4

1月某日
図書館で借りた「榎本武揚と明治維新-旧幕臣の描いた近代化」(黒崎秀久 岩波ジュニア新書 2017年12月)を読む。榎本武揚は戊辰戦争の最後の戦闘となった五稜郭の戦い(箱館戦争)の幕軍側の総司令官。下士官以上の入札(投票)によって蝦夷共和国の初代総裁に選ばれている。敗戦後、官軍に捕らわれるが2年半の投獄生活を経て、明治政府の高官に登用され、ロシア全権公使や逓信大臣、外務大臣などを歴任する。榎本は1836(天保7)年8月、旗本の次男として俗にいう三味線掘(今の浅草橋当たり)で生まれる。家格は5人扶持55俵というから御家人であろう。幕末の面白いところは薩長にしろ幕府にしろ、それまでの厳格な身分制を支配者自身が壊し、家格にとらわれることなく才能、力量のある者を積極的に登用した点であろう。榎本は若くして秀才の誉れ高く18歳で昌平黌を卒業後、箱館奉行の小姓として蝦夷地(北海道)、北蝦夷地(樺太)の巡視に同行している。このころから北海道に縁があったのである。その後、長崎海軍伝習所で西洋式海軍兵学を学ぶとともにオランダ語と数学を学ぶ。27歳から32歳まで1862~1867年の5年間、オランダに留学して航海術、蒸気機関学、鉱物学、化学、電信技術を学ぶだけでなく国際法も学んでいる。帰国してほどなく鳥羽伏見の戦いが勃発、榎本は幕府海軍を率いて大阪湾、江戸湾さらに東北と転戦を重ねる。五稜郭の敗北後、榎本は自決を図るが部下に止められる。箱館戦争の官軍側の総指揮官が黒田清隆で、黒田が榎本の才を惜しんで除名嘆願に奔走したという。明治の近代化に榎本の知識と才能、統率力が不可欠と見たのであろう。

1月某日
一般社団法人セルフケアネットワークの日本橋小舟町の事務所を訪問。厚生労働省OBの川邉新さんに今後の課題についていろいろとアドバイスをもらいたいという高本代表の意向で、私もそれに付き合う形。一時間ほど議論をした後、食事をしに行く。川邉さんは日本橋にある製薬工業会の常務をやっていたことがあるのでこの界隈には土地勘があるという。昼飯はもちろん夜も飲みに通っていたという蕎麦屋があるというのでそこに行くことにする。日本橋堀留町の「高松」という蕎麦屋である。川邉さんお勧めの焼酎のそば湯割りに赤唐辛子を入れた「そば金魚」を頼む。口当たりが良く4杯ほどいただく。刺身や「納豆座布団」「卵焼き」などのつまみ、締めのそばもおいしかった。庶民的な雰囲気も◎。川邉さんにすっかりご馳走になる。

1月某日
大学の同級生で弁護士の雨宮英明君に電話。5時頃事務所を訪ねる。雨宮君の事務所は西新橋の弁護士ビルにあり、私が今お世話になっているHCMから歩いて5分ほど。10分ほど世間話をした後で近くの「花半」へ。ここは私が昔、よく使っていた店で雨宮君もたまに来るようだ。日本酒をぬる燗でいただく。雨宮君は昔から日本酒党だ。新橋駅から上野-東京ラインで我孫子まで帰る。我孫子駅前の「愛花」に寄る。看護大学で助教をやっている「佳代ちゃん」が来ていた。

1月某日
西部邁が多摩川で入水自殺した。78歳だった。西部は札幌南高校出身で一浪後、東大に進学。60年安保のときは教養学部の自治会委員長。唐牛健太郎などとともに60年安保のリーダーの一人だ。西部の著書「60年安保センチメンタルジャーニー」に詳しい。西部の著作はかなり読んだ。若いころはブントの活動家、大学院に進学し東大教授として論壇にデビューしたころは反米保守の論客になっていた。ブッシュのイラク侵攻に対しては反対の急先鋒であり数少ないフセイン擁護派だった。そうか、西部は一貫して少数派だったんだ。東大教授を辞めたのも教授会の多数派と喧嘩したのが原因だった。札幌南高の親友の一人が在日朝鮮人で後にヤクザとなっているが、これも少数派。落語家の立川談志とも交流があったが談志も落語協会の多数派に反旗を翻し「立川流家元」を称していた。