モリちゃんの酒中日記 1月その4

1月某日
NHKのニュースで福島県の「上梅田」(かみうめだ)というバス停を採りあげていた。音読みすると「ジョー・バイデン」になるんだって。オバマ大統領が登場したときも福井県の小浜市が人気になった。そうすると大阪の梅田を縄張りとするジョーというチンピラも「ジョー・バイデン」と呼ばれるのだろうか?というようなことをヒマに任せて思っていたら大谷さんから「東洋経済オンライン」に香取照幸さんの執筆記事が載っていると添付記事と一緒にメールが来た。タイトルは「民主主義の危機に社会保障が重要視される理由」「中間層崩壊を防ぐ『防貧』こそ福祉国家の使命」。「東洋経済オンライン」は無料で読める(と思う)ので是非一読を。私が勝手に要約すると「民主主義が機能するためには民主主義の中核を担う安定的な中間層の形成が必要。そのためには市民1人ひとりの活力、自己実現を保障すること、つまりそれを生み出す『市民的自由の保障』が不可欠である」というもの。高度経済成長が続いた時代はそれなりに成長の果実は再分配されていた。だけど現在はどうか?富の集中と分断が進んでいるのではないか?トランプ現象もそれとは無縁ではない。

1月某日
図書館で借りた「昭和の犬」(姫野カオルコ 幻冬舎 2013年9月)を読む。姫野は本作で第150回直木賞を受賞した。滋賀県香良市に住む柏木イクの5歳から、高校を卒業して大学に進学、就職して現在(平成20年12月)までの犬(一部ネコ)とのかかわりを描く、「自伝的要素の強い」(「近所の犬」の「はしがき」)作品である。イクは一人娘で両親が共稼ぎということもあり鍵っ子である。学校から帰ると犬と過ごす時間が多いのである。両親は大正生まれで父は戦後10年もシベリアに抑留されていた。両親の仲は良いとは言えない。むしろ悪い。イクは高卒後、東京の大学に進学したのも、大学卒業後、内定した滋賀県職員にならなかったのも実家に帰りたくないがためである。こんな風に書くと「なんかクライ小説」のように思われがちだが、そこはかとなくユーモアも漂う作品である。

1月某日
我孫子の駅前の居酒屋「しちりん」は15時から店を開けている。坂東バスの停留所「アビスタ前」から三つ目が終点の「我孫子駅」。我孫子駅前の「関谷酒店」で家のみ用のウイスキー「マリーボーン」を買ってから「しちりん」に向かう。カウンター席にソーシャルディスタンスを保ちながら座る。「しちりん」には焼酎の「キンミヤ」1升瓶とウイスキーの「ブラックニッカ」をボトルキープしている。「キンミヤ」でホッピーを呑み、「ウイスキーのソーダ割」に進む。つまみはサービス品の「ショルダーハム」(200円)と「砂肝焼き」(180円)。お勘定は800円であった。我孫子駅前からバスでアビスタ前へ。まだ5時前なのにすっかり暗くなっていた。

1月某日
「空いている」と思って入った近所の床屋が意外に2人待ち。お昼前には散髪が終わるだろうとの予想を裏切り家に着いたのは12時過ぎ。13時過ぎに社保研ティラーレと約束していたので昼飯もとらずに我孫子駅から電車に乗る。14時頃に社保研ティラーレに着いて吉高会長、佐藤社長と雑談。話題はどうしても新型コロナのことになってしまう。2月に予定している地方議員向けの「社会保障フォーラム」への申し込み状況が今一つなのだ。2月10日の会議で結論を出すと聞いて社保研ティラーレを辞す。近所の鹿児島ラーメンの店「天天有」で遅めのランチ。16時に香川喜久恵さんとお茶の水の「山の上ホテル」ロビーで待ち合わせ。少し早めについたので本を読んでいたら香川さん登場。2人で社会保険出版社に向かい、キタジマの営業マンの金子さんから阿部正俊さんの本の初稿を貰う。香川さんとは出版社で別れ、私は金子さんの自動車に乗せてもらって、虎ノ門の「医療・介護・福祉フォーラム」へ。中村秀一理事長と雑談。このところ私の会話の95%は雑談である。現役のときはさすがにこれほど多くはなかったが、それでも65%は雑談であったような気がする。「雑談人生」も悪くない。中村さんと別れて新橋から有楽町に向かい「ふるさと回帰支援センター」の大谷源一さんに面談。エレベーターホールで高橋公理事長に会う。「中村秀一さんがよろしくって」と伝える。大谷さんの仕事が終わるのを待って交通会館地下1階へ。博多うどんの店「よかよか」に行くと18時で閉店との由。近所の「五島」で呑むことにする。五島料理をつまみながらしばし雑談。大谷さんにすっかりご馳走になる。

1月某日
巷で評判の「人新世の『資本論』」(斎藤幸平 集英社新書 2020年9月)を読む。人新世は「ひとしんせい」と読み、「人類の経済活動が地球に与えた影響があまりに大きいため、ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツエンは、地質学的に見て、地球は新たな年代に突入したと言い、それを「人新世」(Anthropocence)と名付けた。人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代という意味である」(はじめに)ということである。気候変動と資本主義先進国の帝国的生活様式が地球環境を致命的に破壊するという著者の知見が海外も含めた膨大な研究、学説から立証されていく。著者は最終的にはマルクスの理論、とくに晩期マルクスの理論によって、資本主義的生産様式の転換を訴える。そうなんですよ。本書はマルクス理論による地球革命の書なんです。地球革命とは私の造語ですがトロッキズムや新左翼の呼号する世界革命を超えるものとしての地球革命だ。資本主義経済では地球環境の破壊を救うことはできない。共有地=コモンを取り戻すのがコミュニズムとも主張する。斎藤幸平は1987年生まれ、今年34歳である。若き俊英のこれからに大いに期待したい。私の若いころは晩期マルクスより初期マルクスが好まれたんだよね。「経済学哲学草稿」や「ドイツイデオロギー」などでマルクスの疎外論を学んだ。学んだというのは言い過ぎだね。よく理解しえたとは言えないから。それでも疎外からの解放を「革命の根拠」の一つにしていたような気がする。

1月某日
今月に90歳で亡くなった半藤一利の対談集「昭和史をどう生きたか」(文春文庫 2018年7月)を読む。澤地久枝、加藤陽子、吉村昭ら12人との対談が収められているが、めっぽう面白かった。面白かっただけでなく考えさせられることも多かった。歴史探偵としてまたジャーナリストとしての半藤の面目躍如である。澤地久枝との対談では昭和の軍部が長期的な戦略もなく無謀な戦争に突き進んでいった様子が語られる。「失敗の本質」の著者、野中郁次郎の対談では半藤は「日本の組織にいちばん欠けているのは自己点検による自己改革。さらに言語化。これができないんです」と語っているが、コロナ禍で有効な政策を打ち出しえていない菅政権にも当てはまると思う。菅政権だけに責任を押し付けるわけにはいかない。野坂昭如との対談では「明治、大正と続くなんでも西洋かぶれの近代国家は危険であると言ったのが夏目漱石です」「あの時代には、他にも同様を鳴らした人はいましたが、戦後は誰もいませんでしょう」という半藤に対して野坂は「高橋和巳が長生きしていたら、あるいはという気がします」と答えている。政治家だけでなく知識人の劣化も進んでいるということか。宮部みゆきとの対談では「戦争への道というのはそんなに急に来るわけじゃない。ジリジリと、つまらない小事件がいくつも起きていたり、それが重なり合って大事件となる」と半藤が指摘し宮部は「時代の熱に同調せずに、淡々と穏やかに頑張れるかどうかで、人間は真価を問われるんだろうなあ、と思うんです。変調に目を光らせて、熱狂に気を許さないことですね」と応じている。憲法については辻井喬との対談で「そしていま、若い人たちは飽き足らない。何かを変えたくてしょうがない。平和憲法の問題も、とにかく機軸を変えたいのだと思うのです」「ただ変えたいのですよ。いままでのじゃダメだと思いたいんです。哲学とか理念があるわけじゃない。もちろん、日本の明日への見通しなんかまったくない」と語る。辻井との対談の初出は2005年の「論座」9月号である。当時よりも状況は確実に悪化している。「半藤先生はいいときに死んだ」なんて10年後のこの国で思いたくはない。

1月某日
午前中の雨が雪に変わり、図書館に行くのを止めた。家にある本で我慢しようと本棚に目を移す。単行本の「男の城」(田辺聖子 講談社 1979年2月)に目が留まる。「ぼてれん」など7つの短編が収められている。私が田辺先生の著作を読むようになったのは21世紀になってからで、長編は図書館で田辺聖子全集を借りて読み、短編は文庫本を図書館で借りたり本屋で買ったりした。「男の城」は単行本だからおそらく21世紀になってから古書店で求めたと思われる。収録されている作品のうちで最も古いのは「女運長久」で「文学界」の昭和41年9月号、最も新しいのは「花の記憶焼失」で「問題小説」の昭和52年12月号である。私が田辺先生に魅かれた最初は、大阪のOLを主人公にしたユーモアタッチの恋愛小説、それから「小林一茶」など評伝小説、そして「朝ごはん食べた?」などの家庭小説である。「男の城」はそれのどれにも当てはまらないような気がする。もちろんそこはかとないユーモアは忍ばされているのだが。敢えて「男の城」のテーマを挙げれば「男の悲哀」であろうか。表題作の「男の城」は折角の新居を女房、義理の母、義理の妹に好きなようにされるが亭主は廊下の突き当りにささやかな書斎を確保、「男の城」とする話である。「女運長久」は老舗菓子店の経営を任せ、自身は日本舞踊を趣味としつつ馴染みの芸者をアパートに囲う。踊りの稽古の後にアパートのドアをノックするが応答がない。芸者と経営を任せている甥が出来ているという暗い予感が男を襲う、という話である。やっぱり「男の悲哀」が主題。