10月某日
「日本社会の歴史(上中下)(網野善彦 岩波新書 1997年4月)を読む。網野善彦(1928~2004)は山梨県出身、幼少期に港区西麻布へ転居、白銀小学校、旧制東京尋常科、同高等科を経て、1947年東京大学文学部国史科に入学、石母田正に師事。この頃、日本共産党に入党し民主主義学生同盟副委員長兼組織部長となったが、後に運動から脱落する(ウイキペディアによる)。網野の専門は日本中世史とされるが、本書は先史時代から戦後までの通史である。だが、単なる通史ではなく蝦夷や琉球列島の歴史、遊女や被差別民の歴史にも配慮されている。私は網野の「無縁・公界・楽」や「異形の王権」を購入したが、読み通すことはできなかった。今回、「日本社会の歴史」を読んで、改めて網野史観の独特な魅力に魅かれた。一言でいうと網野の辺境や稀人に対する視線に共感したということか。
10月某日
「静子の日常」(井上荒野 中央公論新社 2009年7月)を読む。タイトル通り75歳の静子の日常を描く。静子は一人息子の愛一郎とその妻、薫子、孫のるかと同居している。夫の十三はすでに亡くなっている。75歳といえば私と同い年である。ということもあって静子には共感できることが多々あった。まぁ静子の価値観とか人生観とかにね。やっぱり、この年齢になっても大切なのは自立です。静子はプールでの付き合いや町内会のバス旅行でも立派に自立している。自立した「静子の日常」は爽やかでもある。
今日は「日本社会の歴史」と「静子の日常」を我孫子市民図書館へ返却に行きます。
10月某日
「左太夫伝」(佐々木譲 毎日新聞出版 2024年8月)を読む。仙台藩士として生まれ、戊辰戦争の渦中に明治新政府に反逆した罪で処刑された玉虫左太夫という人の評伝小説。左太夫は最初、仙台藩の学問所の養賢堂に学び、その後、江戸へ出て大学頭、林復斎の私塾で学ぶ。林復斎はペリーとの外交交渉を担い、左太夫は従者として従う。左太夫は外交交渉の経験を買われ、遣米使節の従者にも選ばれる。左太夫はアメリカの文明に圧倒されるが、何よりも驚いたのが、アメリカの共和制と民主主義だ。左太夫は後に榎本武揚を名乗る榎本釜次郎と知り合うが、彼に次のように述べる。「わたしは漢学を、とくに儒教を学んだ書生です。アメリカにいても、もっともわたしを揺さぶったことは、もしや儒学は意味のない学問ではなかったかということなのです。(後略)」。大政奉還、王政復古の大号令により、幕府は瓦解、左太夫も仙台藩に帰る。仙台藩では藩主の伊達慶邦に信頼され洋式陸戦隊の創設を任される。また奥羽列藩同盟の創設を主張し会津藩、米沢藩との調整連絡役を担う。会津藩に官軍が迫るとき、左太夫は榎本に蝦夷が島へ誘われる。蝦夷が島での共和国樹立を夢見た左太夫は誘いに乗ることにするが、榎本の艦隊とは行き違いとなる。左太夫は江戸、横浜への脱出を図るが官軍に捕らえられる。左太夫がアメリカに渡る前、蝦夷が島と北蝦夷地(樺太)をまわるが、次のように記述されている。「やがて一行は、ヘケレウタという土地に着いた。モロラン会所の東にあって、深い湾に面している。狭い海岸に、南部藩の陣屋が置かれていた」。モロランとは後の室蘭、私の故郷である。
10月某日
「隆明だもの」(ハルノ宵子 晶文社 2023年12月)を読む。2012年に亡くなった「戦後思想界の巨人」と呼ばれた吉本隆明。ハルノ宵子はその長女で漫画家、7歳下の次女が吉本ばななで小説家である。ハルノが吉本隆明全集の月報に連載したものを中心にハルノとばななの対談も収録している。ハルノは吉本家の日常をかなり赤裸々に描いている。吉本隆明といえば私たち団塊の世代にとっては教祖的な存在で、新刊が出ると争って買ったものだ。私は講演会にも2回行った。最初は学生時代でブンドの叛旗派の政治集会に吉本がゲストで講演した。内容は覚えていない。2回目は我孫子市の市民会館で柳田国男がテーマだったと思う。吉本の著作を購入しサインしてもらった記憶がある。「隆明だもの」から私が面白く感じたものを抜粋する。
「90年代前半、父はよく働きよく食べた。そして痩せてきた。(中略)あまりに度が過ぎる隠れ食いのひどさに、口うるさかった母もサジを投げ、この頃の父の食事管理は、無法地帯になっていた。それで糖尿病を悪化させ、痩せてきたのだ」。吉本は伊豆で海水浴中に溺れかけたことがあったが、「溺れた原因も、私は低血糖症だと思っている」。吉本も亡くなる前は認知症めいた行動もあったらしい。「1日のほとんどが眠りがちで」「そんなある日、父が『キミ、塾のポスターを描いて、うちの(私道の)壁に貼ってくれないか』と言う」。これは「2度と戻れない少年時代の、今氏乙治先生の私塾へ通っていた時代への郷愁なのだ」。「うちの家族は全員“スピリチュアル”な人々だった」「たとえばネイティブアメリカンの族長を想像してほしい。なんとなく父のイメージと重なると思う」「吉本家は薄氷を踏むような“家族”だった。父が10年に1度位荒れるのも、外的な要因に加えて、家がまた緊張と譲歩を強いられ、無条件に癒しをもたらす場ではなかった(父を癒したのは猫だけだ)」。ハルノとばななの対談ではハルノが「とてもじゃないけど、並の人は家事もやって子供の弁当まで作って、それであれだけの仕事をこなすことはできないと思います」と語っている。複雑でかつ「族長」のような人だった。