モリちゃんの酒中日記 10月その4

10月某日
向田邦子の文庫本を図書館で借りた。文庫本の向田邦子のコーナーには10冊ほど並んでいたので一番薄そうな「きんぎょの夢」(文春文庫 1997年)を借りる。扉をめくると「この作品は向田邦子氏の放送台本を中野玲子氏が小説化したものです」とあった。そうだった。向田邦子は放送作家として「だいこんの花」「七人の孫」「寺内貫太郎一家」などの代表作がある。昭和55年に初めての短編小説で直木賞を受賞したが翌年8月、台湾で航空機事故により亡くなったのだ。だから残された作品は小説よりも放送台本のほうが圧倒的に多いに違いない。この文庫本には表題作はじめ3編が収められている。長編では無論ないが短編としては長めである。表題作の「きんぎょの夢」は次のような構成になっている。①主人公の砂子が末の妹の信子と暮らすアパートで父の七回忌の法要が行われ、他家に嫁いだ和子も駆けつける。法要が終わったあと僧は帰り、姉妹で寿司をつまむ②砂子は父が勤めていた新聞社の近くでカウンターだけのおでん屋をやっていて、かつての父の同僚が常連客となっている。常連客のひとりの良介と砂子は恋仲である。新聞社の週刊誌の編集部員である良介におでんを出前して店に帰った砂子を待っていたのは良介の妻みつ子である③砂子が帰宅すると和子が待っている。夫の浮気が発覚し家を出てきたのだ④良介が熱を出し、みつ子の頼みで砂子は四谷の二人の家へおでんを出前する。二人の様子を見て、砂子は二人が一生別れられないであろうと気付く。店に帰った砂子を、カウンターの金魚鉢の金魚にエサをやっている常連客の折口が待っていた。折口は「赤いべべ着た可愛い金魚」と低い声で歌いだし、砂子もごく自然に唱和する。「①から④で1時間のドラマかな」と想像する。放送の台本であるから構成がしっかりしている。基礎がしっかりしているから初めての短編小説でも直木賞を受賞することができたのだろう。

10月某日
アベノミクス批判の急先鋒、エコノミストの浜矩子の「自国第一主義という病-リーダーたちが招く破綻のシナリオ」(毎日新聞出版 2018年7月)を読む。本書の第1章は書下ろし、第2章~第4章は毎日新聞連載の「危機の真相」(2015年11月~2018年3月)を編集したもの。今年2018年は明治元年から150周年の年だが、浜矩子はむしろ第一次世界大戦終結(1918年)から100年に着目する。1年後の1919年にヴェルサイユ条約が締結され、その20年後の1939年に第二次世界大戦がはじまる。この20年間は「戦間期」と呼ばれるが、浜は戦間期と現在の類似性を指摘する。1929年の株価大暴落⇒2008年のリーマン・ショック、1930年代の大不況⇒2009年以降のグローバル・デフレ、英米仏の通貨戦争⇒日米中の通貨戦争、英米独仏の通商戦争⇒米対その他の通商戦争、ファシズムの台頭⇒自国第一主義者たちの出現であり、これらをまとめると狂乱の1920年代⇒金髪の2000年代ということになる。2000年代初頭にgoldilocks economy 金髪経済という言い方がはやったそうである。ゴルディロックスは金髪のお下げが似合う小さな女の子、「ちょうどいい」という感じで「ほどよく低金利で、ほどよく低インフレで、そこそこの成長率が達成されている」状態だ。浜は「戦間期」と「今」の間には驚くべき二重写し関係があるとし、私たちは「このことを脳裏に焼きつけ、胸に刻み込んでおく必要がある」という。浜矩子はたんなるエコノミストではないと思う。経済分析が的確な歴史認識に支えられており、的確な歴史認識は浜の幅広い教養に支えられているのだ。本書でも旧約聖書やアイザック・アシモフのSF、不条理演劇の「ゴドーを待ちながら」などに触れられている。それだけではない。引用は毎日新聞の「仲畑流万能川柳」にまで及ぶのである。

10月某日
「活動寫眞の女」(浅田次郎 双葉文庫 2000年5月 単行本は1997年7月)を読む。舞台は昭和44年の京都、その年、京大文学部に入学した三谷薫が「僕」として物語を進行する。古い映画館で知り合った京大医学部の2回生、清家忠昭と友人になる。2人は清家の知人のつてで太秦の映画製作所に映画エキストラのアルバイトに行くようになる。撮影現場で出会った美人の大部屋女優、伏見夕霞がヒロイン。実は夕霞は山中貞夫監督(人情紙風船の監督で知られる戦前の名監督。中国戦線で戦死)と相思相愛の仲だったが、山中監督の死を知って世をはかなんで自殺している。つまり2人が出会った夕霞は亡霊である。前に読んだ浅田次郎の「沙高楼奇譚」では同じ京都の太秦を舞台に、幕末の勤王の浪士が時空を超えて池田屋事件の撮影現場に登場するという短編があった。ファンタジーは浅田次郎のジャンルの一つであろうが京都の太秦というか、撮影現場に強いこだわりがあるのだろうか。それはともかく、私には舞台となった昭和44年には強いこだわりがある。つまり1969年だ。前年に早稲田の政経学部に入学した私は学生運動にのめり込む。一方で同級生の女子大生と恋に落ちる。つまり恋愛と学生運動に一途だったわけ。ついでに言えば土方仕事のバイトもまじめにやった。学生運動と恋愛、バイトに忙しく勉学にいそしむ暇はなかった。授業に真面目に出たのは1年生の1学期まで。ゴールデンウィークが明けたら教室から足が遠のいた。それでも4年で卒業させてくれた早稲田大学はエライ。

10月某日
愛知県を中心に家具の転倒防止活動に取り組んでいる建築家の児玉道子さんが東京出張の帰りに西新橋のHCMのオフィスに寄ってくれる。東京出張は老年学会に出席のためだとか。児玉さんの活動はもう少し注目されてもよいと思うけれど。お昼に本陣坊のそばを食べる。児玉さんに「森口漬」をお土産にいただく。

10月某日
元厚労省の堤修三さんと神田の鎌倉河岸ビル地下1階の「跳人」で呑む。社会保険研究所の鈴木俊一社長も参加、遅れて今は京都大学の東京事務所の仕事をしている大谷源一さんも来る。堤さんは厚生省で経済課長をやったことがあるので鈴木さんとの話は「薬価」で盛り上がっていた。私は薬価についてはほぼ門外漢なのだが、医療政策や福祉政策と少し違うのかなと思ったのは、医薬品を巡る政策は産業政策的な側面が強いということだ。厚生行政よりも経済産業政策に近いのではないか? 医療や福祉についても技術の進歩や高齢化によって、日本の経済に占めるウエートは今後も増えていかざるを得ない。産業政策的な配慮もより必要になってくるということだろう。