モリちゃんの酒中日記 11月その2

11月某日
天王洲アイルで開かれている半田也寸志写真展を観に行く。フリー編集者の浜尾さんが半田カメラマンのアシスタントをやっている関係で誘われた。フリーライターの香川喜久江さんと天王洲アイル駅南口で13時半に待ち合わせ。10分ほど遅れて南口に着いたが香川さんの姿が見えない。携帯に電話すると香川さんはりんかい線の天王洲アイル駅にいるという。私はモノレール羽田線、お互いに自分に都合のいい天王洲アイル駅で待っていたわけだ。香川さんと合流して会場のamang squareへ。半田さんはもともと広告、ファッション業界をフィールドとしたカメラマンだったが、東日本大震災を契機に関心が地球に向かう。だからだろうか人類史のなかでの野生動物というとらえ方が軸になっている。野生動物の表情が哲学的なのだ。表情だけではない大草原、ジャングル、雪原、天空など大自然の中の野生動物の存在が我々に何か問いかけている写真だ。もっと注目されていい写真家だ。
17時過ぎに東京駅丸の内口、三菱UFJ銀行地下の「ヴァン・ドゥ・ヴィ」へ。阿曽沼真司さんと「竹下さんを偲ぶ会」の打ち合わせ。この店にはワインに詳しい新潟出身の女性がいたのだが、このところ見かけない。阿曽沼さんにご馳走になる。東京駅のガード下なら17時前からやっているので次回はそこで呑むことに。

11月某日
元厚労省の堤修三さんと神田の鎌倉河岸ビルの「跳人」で呑む。前回「跳人」で呑んだとき堤さんが帽子を忘れたため。堤さんは東大法学部出身で昭和46年の入省。在学中は全共闘に参加、ヘルメットの色は緑色だったという。緑色のヘルメットはセクトで言えばフロント、社会主義学生戦線である。フロントは日本共産党の「構造改革派」の一派で、反日共系の学生運動の一翼を担っていた。堤さんが厚労省を辞めてから、私と亡くなった高原亮治さんの3人でよく呑んだ。高原さんは厚生省の医系技官で岡山大学医学部出身、彼は赤ヘルメットのブント、社学同である。堤さんは今、頼まれて社会福祉法人の理事長をやっている。大きな法人で職員は2000人ほどいるという。そう言えば堤さんの高校の同級生が経済学者の間宮陽介さん。堤さんと間宮さん、それに60年安保の全学連委員長、唐牛健太郎の未亡人の真喜子さんと4人で呑んだことがある。高原さんも唐牛真喜子さんも亡くなった。寂しい限りである。

11月某日
「ママがやった」(井上荒野 文藝春秋 2016年1月)を読む。表紙に英語で「mama killed him」とある。ママが殺した彼とは夫の拓人である。ママ百々子は79歳、夫は72歳。百々子は27歳の学校教師だったとき不純異性交遊の女子生徒を指導し、女子高生の相手だった年下の拓人と出会う。百々子と拓人は付き合いはじめ百々子の妊娠をきっかけに二人は結婚し、百々子は教師を辞めて居酒屋を始める。8つの短編連作小説が一家の半世紀を綴る。なぜ百々子は拓人を殺したのか、その理由は小説をラストまで読んでも明らかにされない。確かなのか不確かなのか、幸福なのか不幸なのか、平成時代も終わろうとするときの一種の「不条理小説」として読んだ。

11月某日
向田邦子は「思い出トランプ」で直木賞を受賞した1年後に航空機事故で亡くなっているから、小説家として活躍した期間は短い。向田をテレビドラマの脚本家としての面から論じたのが「向田邦子 名作読本」(小林竜雄 中公文庫 2011年2月)である。私も1970年代、だれが脚本を書いたか全く気にも止めず、向田脚本の「だいこんの花」「寺内貫太郎一家」を毎週、楽しみに観ていた。私も日本もまだ貧しかったのだろう、仕事を終わればまっすぐに家へ帰り、風呂に入って食事をして9時台のテレビドラマや旧作の洋画を楽しんでいたのである。それはさておき本書は「だいこんの花」「寺内貫太郎一家」以外にも「冬の運動会」「阿修羅のごとく」「家族サーカス」「あ・うん」「隣の女」など向田のドラマについて丁寧に論じている。ドラマに向田の私生活、親との葛藤や恋人の存在が微妙に反映しているという指摘も面白かった。向田の脚本を読んでみたいと思う。

11月某日
HCMサービスの会長だった平田高康さんの一周忌ということで、西新橋の「京の里」に会長の息子さんをお呼びして小宴を開催、私にも声が掛ったので出かける。「京の里」は名前の通り京料理の店で、会長が健在だったころは毎日のように昼と夜に通っていたということだ。料理に腕を振るっていたご主人と客の相手をしていた奥さんも昨年、平田会長と同じころ亡くなったそうだ。平田会長は永大産業出身ということは聞いていたが、息子さんに聞くと永大産業が倒産する10年ほど前に辞めているそうだ。私の知らなかった平田会長の一面を知ることができて楽しかった。

11月某日
企画を手伝っている「地方から考える社会保障フォーラム」を傍聴。厚生労働省からは成松英範家庭福祉課長が「子どもの貧困」、山口正行障害児・発達支援室長が「障害児政策」、伊原和人審議官が「2040年の社会保障」について、白梅大学の山路憲夫先生は「地域包括ケア」、宮本太郎中央大学教授は「地域共生社会」について講演した。伊原審議官は2040年には高齢者人口は現在とそれほど変わらないが、後期高齢者の割合が増え、若年人口が大幅に減ることを示し、健康寿命を延ばし現役で働ける人を増やすことが重要なことと、中央官庁も地方自治体も縦割り行政に横ぐしを刺していくことが重要という話が聞けた。社会保障関連予算の伸びを抑制しつつどのようにメリハリをつけていくかだろう。参加した地方議員は極めて熱心、高度成長期には地方自治体の課題は公営住宅や道路、公園などのインフラの整備だったが現在の課題の中心は完全に福祉、社会保障に移っていると感じた。
フォーラム終了後の夕方、大谷源一さんの携帯に電話すると「今、厚生労働省を出るところ」。というわけで経産省の別館前で待ち合わせる。どこに呑みに行くか迷ったが本日は新橋の「焼き鳥センター」にする。5時過ぎに焼き鳥センターに着く。この店のウエイターは外国人労働者が多かったが今回はアルバイトの高校生。7時ころまで呑んでいたが、出るころにはほぼ満席。安くて味も悪くないので若い人、女性だけのグループも多い。お勘定は2人で約4000円。新橋からは上野-東京ラインで帰る。男性に席を譲られる。

11月某日
「火環(ひのわ)-八幡炎炎記完結編」(村田喜代子 平凡社 2018年5月刊)を読む。前編の「八幡炎炎記」では広島市内の紳士服の仕立屋で働く瀬高克美が親方の妻、ミツ江と駆け落ちし、ミツ江の実家のある北九州の八幡に身を寄せる。克美は市内に店を出し、ミツ江の長姉サト夫婦のもとには女の赤ん坊がもらわれてくる。離婚した娘の百合子が生んだヒナ子である。帯に「著者初の本格自伝的小説・完結編」とある。ということはヒナ子は著者の村田がモデルということになる。ウイキペディアで村田喜代子を検索すると「福岡県八幡市(現在の北九州市八幡西区)出身、両親の離婚後生まれたため、戸籍上は祖父母が父母となる。市役所のミスで一年早く入学通知が来たため、1951年小学校入学。八幡市立花尾中学校卒業後、鉄工所に就職」とある。ほぼヒナ子と重なる。小説ではヒナ子が観る映画「ゴジラ」「楢山節考」が重要な役割を担う。ゴジラは南太平洋の海底に眠っていた恐竜が水爆実験で目を覚まし日本の首都東京に上陸して荒れ狂うというストーリー。ゴジラもウイキペディアで検索すると「日本の東宝が1954年(昭和24年)に公開した怪獣特撮映画」とあって、私も観た記憶がある。ゴジラは水中酸素破壊剤(オキシジェン・デストロイヤー)なる薬によって溶かされるのだが、小説では「ゴジラの断末魔の長い咆哮に、ヒナ子の胸は破裂しかけた。流す涙でゴジラの姿がぼやけた」と描写される。1954年と言えば原爆投下、敗戦から10年も経っていない。観客にも戦争や原爆の記憶が鮮明に残っていたのである。私も小学生の頃、シリーズの「二等兵物語」を母親に連れられて観に行ったが、映画を見終わったとき母親に「隣のオジサンが泣いていた。きっと戦争に行ったんだわ」と言われたことを覚えている。「二等兵物語」は喜劇役者の伴淳三郎と花菱アチャコが主演する喜劇である。喜劇であるが観客はそこに戦中の自分の姿を見て泣くのである。話がそれたが村田喜代子が中卒とは初めて知った。人間は学歴ではないとしみじみ思う。