モリちゃんの酒中日記 12月その3

12月某日
「物書同心居眠り紋蔵 密約」(佐藤雅美 講談社文庫 2001年1月)を読む。単行本は1998年3月に出版されている。文庫本は2017年9月に第19刷発行とあるから、佐藤雅美のこのシリーズも根強い人気を持っていることが分かる。佐藤雅美の時代小説は、ストーリー自体はフィクションにしてもそれがしっかりとした史実、時代考証に支えられているのが特徴。とくにこの「物書同心居眠り紋蔵シリーズ」は、時と場所を選ばず居眠りしてしまうという奇癖を持つ同心、紋蔵がその奇癖故にエリートコースたる外回り(今でいう刑事)ではなく、裁判所(町奉行は警察権と裁判権を持っていた)の書記兼資料係たる物書同心という立場での活躍を描く。資料係としての物書同心は例繰(判例)与力の下で、過去の判例や記録を調べるのが仕事である。つまりこのシリーズそのものが膨大かつ細密な史実、時代考証によってできていると言っても過言ではない。
江戸庶民や悪党どもには絶大な権威と権力を持っていた与力や同心だが、幕臣としては将軍に拝謁できないお目見え以下の身分で、武家社会の中では中層ないし下層に位置する。今日のキャリア官僚とノンキャリアの差をつい思い浮かべてしまうが、その意味では本シリーズはサラリーマンものとして読めなくもないのである。上役の無理難題に頭を抱え、小料理屋の美人の女将にほのかな恋心を抱く紋蔵は、髷を結ったサラリーマンである。おそらく日本のサラリーマンの源の一つは明治時代の官員であろう。その官員の源は幕藩体制における幕臣、藩士である。グローバルスタンダードも良いが、日本のサラリーマンの心情を真に理解するには、明治からさらに遡る必要があるということかも知れない。

12月某日
新聞に天皇皇后ご夫妻が「Ay曾根崎心中」を新国立劇場で観たという記事が載っていた。何でもプロデュースした阿木燿子と親交があるらしい。先代の昭和天皇は明治憲法のもと即位し、「天皇は神聖にして侵すべからず」という地位にあり、戦後、一転して現行憲法のもと象徴天皇となった。だが昭和天皇は共産主義の脅威に対する感情から、日米安全保障体制や米軍沖縄基地の存在に対して強い賛意を持っていたと言われる(岩波新書の「日米安保体制史」)。これに対し今の天皇は平和憲法のもと即位し一貫して憲法を擁護する姿勢が強いように感じる。思想的には安倍首相とは相容れないのではないか。そう露骨な発言はしないけどね。そういう意味で私は今の天皇夫妻のフアン。日にちは違うけれど同じ劇場で同じ演目を観られたのは光栄です。

12月某日
「不意撃ち」(辻原登 河出書房新社 2018年11月)を読む。辻原登は1945年和歌山県の印南町生まれ。印南町は御坊市や田辺市に隣接する和歌山県南部の町で新宮市にも近い。私が初めて読んだ辻原の作品も大逆事件で刑死した医師の大石をモデルにした「許されざる者」だったと思う。長編、短編、フィクションに歴史もの、そして私小説と作品の幅はかなり広い。私にはどれも面白くたぶん相性がいいのだと思う。本作は5つの短編が収められている。風俗嬢と風俗店の送迎ドライバーの話(渡鹿野)、東北大震災にボランティアに駆けつける神戸のNPOが募った募金の略取を図り事故死する(仮面)、作家の分身と思しき「私」が中学校のときの友人を執拗に殴った教師に会いに行く(いかなる因果にて)、大学附属病院の精神科を受診する女性宇宙飛行士が受診中に大地震に遭遇する(Delusion)、出版社を退職した奥本さんが妻と娘に黙って近所にアパートを借りて失踪し、あっけなく発見される(月も隈なきは)という5作品である。「渡鹿野」はたぶん辻原に何作かある「風俗もの」、「仮面」はフィクション、「いかなる因果にて」は私小説、「Delusion」は近未来小説、「月も隈なきは」はフィクションと勝手に分類するが、どれも面白く読んだ。多彩な才能と言っていいように思う。

12月某日
幻冬舎の見城徹社長の「読書という荒野」(幻冬舎 2018年6月)を読む。見城は角川書店時代にベストセラーを連発、幻冬舎を創業して以降も石原慎太郎の「弟」、郷ひろみの「ダディ」、渡辺和子の「おかれた場所で咲きなさい」など24年間で23冊のミリオンセラーを送り出した。優秀な編集者でありプランナーであり経営者なのだろう。見城個人について私はほとんど知ることがないので、今回図書館から借りて読むことにした。前半は見城の個人史だがこれはかなり面白かった。見城の母は裕福な医師の娘で旧姓を多紀という。手塚治虫に「陽だまりの樹」という自身の先祖を主人公とした作品があるが、敵役の将軍の御典医で多紀という姓だった。それからすると日本でも指折りの医師の家系ということになる。父親の実家は材木商で父は小糸製作所の静岡工場に勤めるサラリーマン。この父は見城に言わせると「僕がものごころついたころには、酒に溺れ、ほとんどアルコール依存症」のようだったという。見城にとって父親は「血がつながっているというだけで、いないも同然の人だった」としているが、この「父親の不在」が見城の精神の形成に大きな影響を与えたのは間違いないだろう。生まれたのは静岡県清水市で1950年。私より2歳年少である。小学校中学校は「いじめられっ子」。高校は清水南高、進学校の静岡高校、清水東高校より偏差値のランクが低い新設校だった。これが見城に幸いした。自分の偏差値で楽に入れる高校に進学したので成績はトップクラスになり、小中時代の「いじめられっ子」から一転、高校のリーダー的な存在となる。
大学は現役で慶應大学の法学部に進む。私は早稲田に一浪して入ったので私が早稲田の2年のとき彼は慶應に入ったわけだ。その年の1月、東大の安田講堂の攻防戦があり、東大日大を頂点とした全国の学園闘争が最高に盛り上がった1969年である。見城は入学後すぐに授業に出なくなり、高校時代から関わっていた学生運動にのめり込む。そのとき最も影響を受けたのが吉本隆明。「転位のための十篇」や「マチウ書試論」は今も読み返すという。学生運動の渦中に自死した高野悦子の「二十歳の原点」奥浩平の「青春の墓標」も愛読書に上げている。見城に大きな衝撃を与えたのがイスラエルのロッド国際空港で日本赤軍の奥平剛士ら3人が乱射事件を起こした。見城は「彼らの戦いに比べたら、自分の戦いなど些細なものだ。ビジネスでどんなリスクを冒そうと、命をとられることはない」とし、吉本の詩や評論、高野や奥のノートや日記、奥平らの生き方に、仕事への原動力を与えられたという。ここまでは大変共感できた。いや有名出版社の入社試験に落ちて廣済堂出版に入社、角川書店に転職するまでも共感できる。共感できないのは現在である。幻冬舎を立ち上げヒット作を連発し、安倍首相の取り巻きとも言われている。世間的には大成功と言ってよい。しかしこの本の後半はほとんど自画自賛の本ではないか。社長であり絶対権力者の自画自賛本を自社から出版するという神経が分からない。新聞、雑誌、報道を含めて出版というのは公器の筈なのに。