モリちゃんの酒中日記 2月その2

2月某日
「ドキュメント日銀漂流-試練と苦悩の四半世紀」(西野智彦 岩波書店 2020年11月)を読む。1996年の松下総裁から現在の黒田東彦総裁までの日本銀行の歩みをドキュメント形式で追ったもの。こう書いてしまうと簡単だが、実は内容はそれほど簡単ではない。私はこの本を読んで複雑極まりないグローバル経済のなかでの中央銀行の役割とは何かを考えさせられた。まぁ一般的には物価の番人とか自国通貨の価値を守る使命があるとか言われているけれど、それはそれとしてこの本が追求しているのが、中央銀行の「政府からの独立」である。黒田総裁以降、日銀は政府の要請に従って赤字国債を増発し続けてきた。これによって円安株高市場が続き雇用も高い水準で維持されてきた。外見的にはアベノミクスは成功したかに見える。「2年で2%」の物価上昇を除いては。私の拙い経済学の知識によると、経済成長は労働力人口の伸びと生産性の伸びによって実現される。日本の労働力人口はすでに減少が始まっている。生産性の伸びは先進国の中でも低い方である。何を言いたいかというと金融だけでは一国の経済を維持することはできない、ということである。しかし金融の安定なくして経済の安定もないというのも事実である。この本は専門用語も多く、私にとって読みやすい本ではなかった。しかし知的興味を十分に刺激された本であった。

2月某日
森元首相が東京オリンピック組織委員会会長を辞任した。女性蔑視発言の責任を取ったもの。森首相って小渕恵三の後だっけ。森、小泉、安倍、福田と旧福田派の政権たらいまわしが続き、麻生短命政権の後を受けて民主党内閣が成立。沖縄問題や東日本大震災への対応のまずさあって、民主党政権は鳩山、菅、野田といずれも短命に終わり、第2次安倍政権が8年近くも長期政権を維持した。自民党は大きく分けるとリベラル派としての宏池会(旧池田派)、田中派と反リベラルで国家主義的な旧岸(福田)派に分けることができると思う。森元首相や安倍前首相はもちろん後者。そのなかでも森元首相は古い自民党を代表する人。リベラル派が保守本流の筈なんだけれど、この10年ほどで急速に力を失ってしまったと思う。

2月某日
「業平」(高樹のぶ子 日本経済新聞出版本部 2020年5月)を読む。「小説伊勢物語」という副タイトルがあるから、平安時代の「伊勢物語」に着想を得たものと思われるが、私の古典の知識では在原業平を主人公にした物語しか思い浮かばない。日本経済新聞の夕刊に連載されたもので、その折の挿絵(大野俊明画伯)の一部も本書にカラーで収録されている。さて何の知識もなく読み始めた「業平」であるが、私には大変面白かった。在原業平という人は平城天皇の息子である阿保親王と桓武天皇の孫である伊都内親王の間に生まれた。皇統の血筋なんですね。しかし世は藤原氏が権力を握り始めた頃で業平は権力の主流を歩むことはなかった。とは言え右近衛権中将まで昇進しているから、それなりの出世はしている。業平は官人としては武官の道を歩んだ。和歌の名手で色好みということからすると文弱のイメージがあるが、弓や乗馬も巧みだったようだ。伊勢物語は歌物語であると同時に当時の宮中の恋物語でもある。業平は後に天皇の妻となる人や皇族で伊勢神宮の斎宮を務める女性とも「共寝」する関係を結ぶ。「共寝」って要するに性交渉があったということ。業平がいた頃の9世紀の恋愛観や結婚観は、現在とは違っていることに注意が必要だろう。この頃は男が女のもとに通う妻問い婚だった。当時の貴族は寝殿造りという広壮な邸宅に住んでいたから、家のものに気が付かれずそうしたことも可能だったのだろう。むしろ家人は気付いても知らぬふりをしていたか。日本人が一夫一婦制や処女性を重要視するようになったのは明治以降、キリスト教が解禁されてからと言われているしね。昔の日本人は性に対して今よりもおおらかだったのだろう。

2月某日
阿部正俊さんの本の表紙デザインを斎須デザイナーにお願いする。家を出たときから結構な雨が降っていた。紹介してくれる浜尾さんと斎須さんのオフィスのある銀座1丁目の奥野ビル1Fで待ち合わせ。ビルに一歩入ってびっくり。戦前からの建物と一目で実感されるような内装なのだ。浜尾さんと一緒にエレベーターに乗るが、このエレベーターが全手動。素晴らしい。斎須さんのオフィスで打ち合わせ。奥野ビルは銀座アパートメントと言って当時の最先端集合住宅だったそうだ。関東大震災後、同潤会アパートが何棟か建設されたが銀座アパートメントはその民間版なのだろう。斎須さんとの打ち合わせがある浜尾さんを残して私は帰る。帰りは6階から階段で降りた。コンクリートの階段と重厚感のある手すりが素敵であった。銀座線の京橋から新橋へ。共同通信の城さんとカレッタ汐留の本屋で待ち合わせ。この本屋も近く閉店するとのこと。城さんにランチをご馳走になりながら、いろいろな話を伺う。新橋から我孫子へ。我孫子へ帰った頃には雨が上がっていた。

2月某日
「美は乱調にあり-伊藤野枝と大杉栄」(瀬戸内寂聴 岩波現代文庫 2017年1月)を読む。伊藤野枝の生涯を描いた「風よあらしよ」(村山由佳)を読んで野枝という人物に興味を抱いた。で、この小説を読むことにしたわけ。タイトルは大杉の「美はただ乱調にある。諧調は偽りである」という言葉から取られている。「美は乱調にあり」の初出は、「文藝春秋」の1965年4月号~12月号まで連載された。今から半世紀以上も前のことである。小説は「私=瀬戸内寂聴」が野枝の生まれた福岡へ取材旅行に行くシーンから始まる。野枝と大杉が虐殺されたのは関東大震災のあった1923年。執筆当時は野枝の関係者はまだ存命だった。伊藤野枝の二つ下の妹、当時68歳のツタさんの独白が興味深い。もちろん小説であるから、独白をそのまま真実とするのは過ちとしても。野枝は辻潤、大杉と結婚して10年間に7人の子を得ているが、出産のときはいずれも野枝の博多今宿の実家に帰っている。身なりをかまわない野枝に、母親が村のみんなが見ているのだから「髪くらい結ってきたらどうだ」というと「今に、女の髪は、あたしがやっているような形になるのよ。みてなさい」と答えたという。ツタさんは「今になってみれば、たしかに姉の予言通りになりましたからね」と述懐している。野枝には確かに未来を見通す不思議な力が備わっていたのかも知れない。生前、「畳の上では死ねそうもない」と話していてその通りになったしね。