モリちゃんの酒中日記 3月その2

3月某日
図書館で借りた「AI時代の新・ベーシックインカム論」(井上智洋 光文社新書 2018年4月)を読む。井上は駒澤大学経済学部の准教授でマクロ経済学、貨幣経済理論などが専門。私は2017年8月に井上の「ヘリコプターマネー」(日本経済新聞出版社)を読んでいる。そのときの酒中日記に「井上という経済学者は『国民にとっての経済』を考えている学者ではないか。AIに対する考え方にもそれは現れていると思う」と書いているが、その考えは新著を読んでも変わらなかった。著者はAIを「汎用AI」と「特化型AI」に分ける。現在のAIはすべて「特化型AI」で、一つ、あるいはいくつかの特化されたタスクしかこなすことができない。「アルファ碁」もそうだ。アルファ碁は囲碁についてはプロ棋士を任すほどの実力を持っているが、人間と話せるわけではないし自動運転をできるわけではない。人間は「汎用的な知性」を持っており、一人の人間が囲碁を打ったり、車を運転したり、事務作業をしたりする。著者は「分かりやすくいうと、汎用AIがロボットに組み込まれたら、鉄腕アトムやドラえもんのようになる」と説明する。なるほどね、人間の何倍もの能力を備えているわけだ。人間と同等の能力でも凄い話である。仮に鉄腕アトムやドラえもんが人間に代わって働くようになるとどうなるか。CMH以外の仕事はAIに代替されると著者は主張する。C、クリエイティブティ系(創造性)、M、マネジメント系(経営・管理)、H、ホスピタリティ系(もてなし)である。これで全人口の1割弱を占めるという。著者の考えは「AIが高度に発達した未来には、放っておくと失業と格差は著しく深刻になるので、再分配政策としてのBIが必要不可欠」となる。著者の考えは実はもっと深い。それは第5章の「政治経済思想とベーシックインカム」で展開されているが、それはまた別の機会に論じてみたい。

3月某日
図書館で何気なく手に取った「思い出コロッケ」(諸田玲子 新潮社 2010年6月)を読む。諸田玲子は時代小説作家としてはもはやベテランの部類に入るが、これは現代小説の短編集である。短編は「コロッケ」「黒豆」「パエリア」など料理にちなんだものが7編。「コロッケ」を読んで「何か文体も構成も向田邦子に似てるなぁ」と感じた。「あとがき」を読むと私の感想が極めて正統というか当たり前であることが分かる。2006年の小説新潮8月号で向田邦子没後25周年特集があり、諸田は担当から「トリビュート小説を書いてみませんか?」と声を掛けられた。「恥ずかしながらトリビュートと言われてもとっさにはわからなくて……そうか向田作品もどき(邦子さんはこの言葉、お好きでしたね)を書くのだと思いついたときは、少しパニックになりました」と諸田は正直に書く。あとがきにはまた「小説の舞台は邦子さんの没年の1981年前後。いずれもみな、私の身近で起こった話がヒントになっています」と述べられている。なるほど、だから離れに住む歳の離れた姉弟が実は過激派の夫婦だったり(黒豆)、女子大生と半同棲しているロッカーが、ジョン・レノンの暗殺を機会に水戸の和菓子屋を継ぐことを決断し、別れを覚悟する彼女に「冬休み、水戸へ来ないか」と囁いたりする(シチュー)のだ。向田とその時代に対するオマージュとして読んだ。

3月某日
図書館で借りた桐野夏生の「優しいおとな」(中公文庫 2013年8月)を読む。桐野の作品はだいたい読んできたつもりだが本作ははじめて。2009年2月から12月にかけて「読売新聞」の土曜朝刊に連載されたものを2010年9月に中央公論新社から単行本として刊行されたもの。近未来と思われる東京、渋谷が舞台。福祉システムが崩壊しホームレスが街にあふれている。この10月で15歳になるイオンもそうしたホームレスのひとりだ。物語はイオンが記憶のなかの兄弟、鉄と銅を探して東京の地下で集団で破壊と略奪を繰り返す「夜光部隊」と出会い、東京の地下を彷徨う様子が描かれる。冒険の中でイオンは成長していく。イオンを気遣う「ストリートチルドレンを助ける会」のモガミによってイオンの誕生と生育の秘密が明らかにされる。イオンは30人近いおとなと子供が共同生活するハウス「照葉」で生まれた。「照葉」は複数の親子、あるいは他人が一緒に暮らして、完全に共同で保育に当たると子供はどうなるかという実験を行っていたのだ。巻末の資料からすると桐野はヤマギシ会からヒントを得たようだが、私は「照葉」には過剰な共同性や個人に優越する共同性を感じてしまう。その意味ではむしろ連合赤軍やオウム真理教を連想してしまうのだ。「夜光部隊」の指導者は「大佐」と呼ばれているが、これはフランシス・コッポラ監督の映画「地獄の黙示録」でマーロンブランドが演じたカーツ大佐を連想させる。

3月某日
西村賢太の「苦役列車」(新潮社 2011年1月)を読む。本書には芥川賞を受賞した同名の短編ともう一編「落ちぶれて袖に涙の降りかかる」が収録されている。苦役列車は「新潮」の2012年12月号、もう一編は11月号に掲載されている。両方ともに北町貫太ものだが、苦役列車は貫太が18、19歳の頃、平和島でアルバイトをしていた頃の、「落ちぶれて袖に涙の降りかかる」は著者の執筆時とほぼ同じ頃の40代の貫太を描いている。苦役列車は20歳前後の学歴もなく(貫太は中卒)、金もなく、女にも相手にされず、おまけに実父が強制猥褻で刑務所に収監されているという貫太の青春が描かれる。まぁどうしようもない青春ではありますが。しかし、私は有名校から現役で東大に入学した人だって、「どうしようもない青春」の一断面を抱えていると思う。そこに西村賢太の私小説が支持される理由の一つがあるのではないか。「落ちぶれて袖に涙の降りかかる」は何とか作家の端くれとなった貫太のぎっくり腰に悩まされながらも、川端康成賞の最終選考に残った日常が描かれる。「銓衡会の当日、八割方回復した腰の状態で端座した貫太は、(池袋の古書店で入手した)川端の「みずうみ」と携帯電話を前にして、その着信を待った。が、夜半に至っても田端(編集者)からの連絡はやってこなかった」と、小説は終わる。切ないけれどもそれが西村の良さである。

3月某日
新型コロナウイルスの影響で不要不急の外出は避けるように言われている。年金生活者の私は存在自体が不要不急であり、この2週間ほど机を置かせてもらっているHCM社への出勤も控えている。本日は久しぶりに神田近辺をうろつくことにする。先ずは鎌倉河岸ビル地下1階の「跳人」へ寄ってランチ。顔馴染みの大谷君に「生姜焼き定食」を頼む。ランチの客はそこそこ入っていたが、「夜はさっぱりですよぉー」と大谷君がこぼす。食後のアイスコーヒーをサービスしてくれる。鎌倉河岸ビルの裏の「社保険ティラーレ」を訪問、吉高会長、佐藤社長と雑談。今週の日曜日に吉高さんのマンションで予定されている食事会は予定通り開催するそうだ。何しろ主体が感染しても治癒能力が高い20代だから、リスクの高いのは「ワシと森田さんだけだよ」と吉高さん。帰りに上野駅構内の書店に寄って「あのころ、早稲田で」(中野翠 文春文庫 2020年3月)を買う。