モリちゃんの酒中日記 3月その3

3月某日
友人の毛利建夫さんと上野駅不忍口で待ち合わせ。毛利さんと知り合ったのは1980年前後。私が日本木工新聞社に勤めていたときだ。私が労働組合の委員長をやっていたとき、専門紙労働組合協議会(専門紙労協)という団体に加盟、そこからオルグとしては派遣されてきたのが毛利さんだった。当時、毛利さんは機械工業新聞という業界紙にいてそこが争議中だった。70年安保が過ぎて学生運動は連合赤軍の事件もあって退潮していく。学生運動の活動家が潜り込んだ一つが業界紙だった。私も毛利さんもその一人だったわけだ。当時は高度経済成長期だったから業界を取材してもそれなりに面白かったし給料も「それなり」だった。私は知らなかったが毛利さんは機械工業新聞争議の事件で逮捕起訴され入獄経験もある。毛利さんはその後、山谷闘争やブンド系の組織に関わったり、私生活では2度の結婚と離婚をしたりする。傍から見ると波乱万丈の人生。私とは40年近い付き合いとなるのだが、2-3年に1回は会って酒を呑む。毛利さんは北千住に住んでいるので今回は北千住で焼き鳥屋に行く。話題はあっちへ飛びこっちへ飛びだったが面白かった。

3月某日
監事をやっている一般社団法人の理事会に出席。東京駅から高田馬場へ。学バスで早稲田大学へ、150円。50年前は確か15円、50年という歳月を感じます。バスの中から学生時代に通った喫茶店「早苗」の看板を見つける。リーガロイヤルホテル東京で担当の青木さんと「早大闘争から50周年の集い」の打ち合わせ。早稲田大学から高田馬場へ。レストランの「高田牧舎」や居酒屋「源兵衛」を確認。大学構内を少し散策したが建物がほとんど建て替えられて、懐かしい思いは無かったが喫茶店や居酒屋には懐かしさを感じる。大学には行ったが授業に真面目に出たのは1学年の1学期まで。それ以降は学生運動でデモに明け暮れていた。私は1969年の「9.3」の第2学生会館攻防戦で逮捕起訴され、封鎖も解除された。私の学生運動もほぼこれで終了。しかし授業に戻ることはなく酒と麻雀の日々だった。高田馬場の駅前広場で本郷さんと待ち合わせて、本郷さんは中央大学を卒業後、石油連盟に入社、その後石油の輸入商社へ転じた。業界紙が学生運動の活動家の受け皿の一つとしたら、業界団体もそうだったかもしれない。高田馬場駅近くの「静岡おでんガッツ」へ行く。静岡おでんは美味しかったが私には味が濃すぎ。高田馬場で本郷さんと別れ我孫子へ帰る。我孫子駅前の「愛花」に寄ったら常連のタキさんがいた。

3月某日
「沈黙と軌跡」という高原駿という人の文章がネットに公開されているらしい。「文学部の解放派らしいけれど」とコピーを渡される。高原駿は私より一年早い1947年生まれ。戸山高校から一浪後、早稲田の文学部に入学。当初は革マル派にオルグされたが文連の社思研に入ったのがきっかけで社青同解放派へ。1968年の「4.17」本部突入にも、1969年の「9.3」第2学生会館の攻防戦にも参加している。「4.17」と「9.3」の両方に参加したのは何人もいないはずだが私には高原駿は記憶にない。高原駿は逮捕起訴後も非転向を貫き、大学中退後世田谷区役所に就職、世田谷反戦青年委員会で合法活動を進める一方、対革マルの内ゲバも担うことになる。高原と私は「4.17」と「9.3」は共通体験だが、それ以降は全く違う人生を歩む。高原は解放派が狭間派と労対派に分裂以降も労対派に所属、10数年間活動を続ける。活動を離脱した以降トラック運転手として働き、カネを貯めてフィリピンに移住、現在はフィリピンでダイビングを楽しんでいるらしい。うーん、人生ですなぁ。

3月某日
「近代日本の右翼思想」(片山杜秀 講談社選書メチエ 2007年9月)を読む。片山は1963年生まれだから本書執筆時は40代と思いがちだが、「あとがき」によると第1章は慶應大学法学部の学生論文集に掲載された論文がおおもと、第2章は1991年に提出した明治大学政経研究科修士論文が素材、第3章は1991年に慶大の院生論文集に出た「日本ファシズム期の時間意識」が原型という。とすれば第1章は20代前半、第2章は20代中ごろ、第3章は20代後半に執筆されたということになる。早熟ですねー。片山は「はじめに」で右翼と左翼、保守と保守反動ということばについて整理している。それは「反動は反り返って動く。保守は現在を大事にする。左翼は未来に期待する」ということだ。これからすると安倍首相は保守ではなく反動だね。
私は本書を読んでいろいろ感じるところがあった。一つは戦前右翼=天皇主義者の悲劇性である。彼らは天皇に限りない期待を寄せる。たとえば北一輝の「日本改造法案大綱」は天皇大権によって憲法を停止し、天皇の名のもとに私有財産の制限や都市部の土地の全国有化、華族制度の廃止など社会主義的な国家改造プランを示している。北の理論に影響されて決起したのが2.26事件の青年将校であった。しかし昭和天皇は彼らの主張に一顧だにすることなく、彼らを反乱軍として鎮圧を命ずる。青年将校にしてみれば「片思いの挙句、片思いの相手に石を投げられた」ようなものである。もうひとつあげるとすれば権藤成卿の「社稷」という考え方である。片山はここで言う「社稷」とは原始的な自治村落共同体の理想型を意味すると述べる。唐突ではあるが私は「社稷」は地域包括ケアシステムと通じるものがあると思うのだけれど。「おわりに」で片山は「大川周明の『東西対抗史観』や石原莞爾の『世界最終戦争論』は、ハチントンの『文明の衝突』などよりもはるかに構想力豊かであり、権藤成卿の自治主義や橘孝三郎の農村論は、肥大しすぎ、ついに地球温暖化まで招いた現代文明の警鐘として、現在も有効だろう」という。なるほど。

3月某日
神田司町にある中華料理屋「神田台所」で大谷源一さんと食事。大谷さんに私のPCを見てもらったのでお礼に「ご馳走する」ことに。年友企画の迫田さん、HCMの大橋社長も誘う。「神田台所」に予約を入れた時点で財布を忘れてきたことに気づく。大谷さんに「お金貸しておくれ」とメール、「トイチだよ」との返事。店に行くと神山さんと大谷源一さんが来ていた。少し遅れて大橋さん、迫田さんが到着。この店は中国人がやっている店で味もしっかりしているし値段もリーズナブル。2時間呑み放題食べ放題で5人で15,550円、一人3,000円とちょっとである。

3月某日
虎ノ門フォーラムに参加。今回は狭間研至氏による「地域包括ケアにおける薬局・薬剤師の役割~外科医が薬局に戻って・見えてきたもの~」。狭間氏は薬局の次男坊、勉強を頑張って阪大医学部に合格、外科医として活躍するが親の仕事を継いで薬局経営にも乗り出す。この話がとても面白かった。話を要約するとレジュメの最初にある「薬剤師が薬を渡すまでではなく、薬をのんだあとまでフォローすれば、薬物治療の質は飛躍的に向上する」につきる。薬剤師の養成課程は医師、看護師と同じ6年間、その割には薬剤師の存在感が薄いのではないかとは私も感じてきたところ。ぜひ、薬剤師にもっと地域医療に関わって欲しいと思った。薬局・薬剤師って重要なインフラなんだ。