4月某日
「1968【上】-若者たちの叛乱とその背景」(小熊英二 新曜社 2009年7月)を読んでいる。注を含めると1000ページを超えるし定価6800円+税と極めて高価。もちろん我孫子市民図書館から借りてます。1968年は私が早稲田大学に入学した年で、前年の1967年10月8日に佐藤首相の南ベトナム訪問に反対して三派全学連が羽田空港周辺で激しいデモを行い、学生がひとり死亡した。私は当時、浪人生で予備校に通っていたが秘かに大学に受かったら学生運動をやることを決意したものだ。親は国公立大学に行くことを望んだのだが、私は受験に合格した早稲田の政経学部に入学することを希望し、結果的に私の我儘が通った。「1968【上】」では時代的・世代的背景と当時、闘争をけん引した反代々木系各セクトの歴史的経緯と活動家の心理、闘争スタイルに触れた後、個別の学園闘争について叙述している。
【上】を読み終えるだけで一週間はかかりそうなので、中間報告として第4章「セクト(下)-活動家の心情と各派の『スタイル』」と第8章「「激動の七ヵ月」-羽田・佐世保・三里塚・王子」に触れてみよう。第4章で冒頭に出てくるのが「ベストセラーになった活動家の手記」で、これは横浜市立大学の学生で中核派に属していた奥浩平の手記「青春の墓標」のことである。奥は学生運動に行き詰まると共に早稲田大学で革マル派に傾斜して行く恋人との別離を悲観して自殺する。私は早稲田に入学して入ったサークルの先輩の家で読んだ。先輩は商学部の四年で革マルシンパ、卒業して製薬メーカーに入った。私は入学した当時、日本共産党系以外ならどこのセクトでもいいと思っていた。政経学部学友会は社青同解放派が握っていて、私は学友会の幹部と政経学部の革マル派の両方からオルグを受けていた。何となく解放派の青ヘルメットを被ってデモに行くこととなり、68年の暮れには革マル派から早稲田を追い出されることになる。とは言えそれまではキャンパスは比較的平穏で、私のサークルの部室でも革マル派と解放派、社学同が平和に共存していた。
67年10月8日の佐藤南ベトナム訪問反対デモにも11月12日の佐藤訪米反対でも参加していないし、佐世保のエンタープライズ寄港反対でも行っていない。真面目な予備校生だったからね、当たり前と言えば当たり前。だが4月の王子野戦病院反対には参加した。まだ入学前だったと思う。だから野次馬としての参加。本書でも王子における戦闘的な野次馬について述べられているが、私はまだ初心者、遠くから眺めるしかなかった。だが、このときの機動隊から逃げる経験はその後の学生運動でプラスになったようである。機動隊との戦いにも二種類ある。野戦と攻城戦である。野戦はデモンストレーションで多くは街路で闘われる。攻城戦は安田講堂や学生会館に立て籠って戦うものだ。関ヶ原の合戦が野戦で大坂冬の陣が攻城戦である。攻城戦の場合は逃げようがないが、野戦の場合はなるべく先頭近くにいることが肝心である。戦局が見渡せいち早く逃げることができるからである。だがこれも69年後半くらいから通用しなくなる。運動が過激となりデモの武装も鉄パイプとときには火炎瓶にエスカレートして行くからである。
4月某日
厚生労働省のキャリア官僚だった間杉純さんの告別式が「おおのやホール小平」で行われた。間杉さんが亡くなったことは阿曽沼さんからの電話で知ったが、葬儀の日程は樽見さんからメールで教えてもらった。大谷さんと小平駅で合流、会場へ向かう。焼香の前に娘さんからお礼の言葉があった。娘さんは立命館大学の学生劇団のあとプロの劇団新感線で事務方を担当していた。劇団新感線の東京公演のときは当時、吉武さんが館長をしていた表参道の「こどもの城」で上演、私も観に行った。間杉さんは豪放磊落に見える半面、非常に繊細なところのある人だった。そんな間杉さんの一面を的確に表していた娘さんの挨拶だった。帰りは大谷さんと小平から池袋に出て日暮里へ出る。日暮里で大谷さんの知っている台湾料理屋に行く。大変おいしかった。
4月某日
「1968【上】」を読み進む。後半の第9章「日大闘争」と第10章「東大闘争(上)」と第11章「東大闘争(下)」である。日大闘争は1968年5月に東京国税局により多額の使途不明金があることが公表されたことに始まる。神田三崎町の経済学部から始まった不正経理糾弾の闘いはそれこそ燎原の火のように全学に広がった。ただこの頃は学生運動の各セクトは日大闘争にそれほど関心を抱いていなかった。私および早稲田の社青同解放派(反帝学評)も日大へ支援に赴くこともなかったと思う。しかし今にして思うと日大の古田総長はロシアのプーチンだね。さしずめ日大全共闘はウクライナで秋田明大全共闘議長はゼレンスキー大統領だ。東大闘争は日大と同じ頃、68年5月の医学部の不当処分撤回闘争に始まる。ただ日大と同じく東大闘争も学内闘争の域を出るものではなかった。日大全共闘は全学部封鎖の方針で機動隊と果敢に戦ったが、それでも各セクトの支援の動きは鈍かった。日大では当局の弾圧体制もあって、学生運動がほとんどなくセクトの活動家もほとんどいなかったためであろう。私の記憶では日大全共闘の存在を強く感じたのは68年11月22日、東大闘争安田講堂前で開催された「東大日大闘争勝利全国学生総決起集会」のときである。日大全共闘は機動隊の規制にあって到着が遅れていたが、各セクトの歓声と拍手のなか、会場に到着する。前日から東大に泊まり込んでいた学生部隊も多く、私も早稲田の反帝学評の部隊として泊まり込んだ。11月末だからね、とても寒かった。新聞紙をかぶって寝た記憶がある。泊まり込んだ教室では解放派の創始者だった滝口弘人が「スペイン革命以来のスターリニストとの抗争に決着をつける」という演説を記憶している。
そうなんです。東大闘争が学内闘争に止まらなくなったのは全共闘と日共民青の対立が互いに外人部隊を導入したことからである。反帝学評とくに早稲田の反帝学評の場合は革マルとの抗争を抱えていたから、この時期大変だったろうと思う。私は一年生だったからその深刻さはわからなかったけれど。この後、解放派と革マル派の内ゲバが激しくなる。12月に入って私ともう一人の一年生が早稲田の三号館地下の学友会室にいると突然、革マル派が乱入、当時の指導者だった浜口さんを殴り始めた。浜口さんが激しくなぐられ、メガネが飛んだことを覚えている。私たち一年生は「チンピラは出ていけ」と言われ、理工学部の反帝学評の拠点まで逃げた。理工の反帝学評とタクシーに分乗して東大の駒場へ。駒場の教育会館に立て籠る。東大駒場寮の革マルの拠点を襲うが返り討ちに会う。私は2,3日教育会館にいたのだが、内ゲバの緊張感に耐えられず「服を着替えてくる」と言ってアパートへ帰る。この冬は帰郷したんだろうか?まったく記憶にない。冬休みに下宿でぼんやりと内ゲバから逃げ出したという罪悪感に浸っていた。同じクラスの小林君が「森田、東大を見に行こう」と誘ってくれた。東大の本郷に機動隊の導入が迫っていたのだ。私も小林君もジーパンにジャンパーという恰好、年齢も私が二十歳で小林君が十八歳。怪しまれることもなく安田講堂の中にも入ったと思う。私は一浪だが小林君は現役、しかも1950年の3月生まれだから私よりも一年半も若い。でも早熟で当時はジャンジュネやロートレアモンを読んでいた。小林君はセクトとは距離を置いていたが、後にブントの戦旗派(荒派)に行くことになる。荒派が消えてしまって彼の消息も行方不明だ。