4月某日
「1968【下】」を読み進む。第16章「連合赤軍」と第17章「リブと『私』」を4日かけて読む。1969年1月の東大安田講堂の攻防戦、同年4月28日の沖縄デーを経て革マル派を除く新左翼各派はヘルメットと投石、火炎瓶の武装では機動隊に勝てないと思い知る。ひとつの方向は非暴力のデモンストレーションと脱走米兵の援助という非合法活動を含む活動を持続させたべ平連の活動だろう。もうひとつが「銃による革命、武装蜂起」を主張した共産主義者同盟赤軍派と日本共産党革命左派(大衆組織は京浜安保共闘、中京安保共闘)であり、のちに両派が合同した連合赤軍である。連合赤軍は山岳アジトを追われた彼らの一部があさま山荘に立て籠り、数日間に及ぶ銃撃戦の後に全員逮捕される。連合赤軍の委員長だった森恒夫と副委員長だった永田洋子は逃亡の途中で逮捕される。のちに山岳アジトでの凄惨なリンチ殺人事件が明らかとなる。著者の小熊英二は「連合赤軍事件は、追い詰められた非合法集団のリーダーが下部メンバーに疑惑をかけて処分していたという点では、偶然ではなく普遍的な現象である。森も永田も、赤軍派や革命左派に加入する以前は「人格者」「いい人」という定評があった。(中略)人間として致命的な欠陥があったわけではない。あのような状況と立場に置かれれば、その人間の持っている特徴が醜悪な形態で露呈してしまうということだったと思われる」とまとめる。「それはそうなんだけれど…」というのが私の感想。
第17章の「リブと『私』」は前章の「連合赤軍」を読み終わった後だけに面白かった。だいたい私はリブにはほとんど関心がなく、日本のリブの代表的な活動家である田中美津も名前を知っているぐらいで著作も読んだことはない。1943年生まれの生まれの田中は、高卒後OLとなるも上司との不倫が原因で職場を辞める。在日ベトナム青年に出会ったことからベトナム戦災孤児救援活動を始め、そこからベトナム反戦運動に転じ「反戦あかんべ」という市民グループを結成する。同時に家が本郷通りにあったので、東大闘争に関心を抱き神田カルチェラタン闘争にも参加する。反戦運動の活動家と言えないこともないが、一方で彼女は「自分の心にあいた穴しか見えなくて、どうしてもその穴を埋めたかった」と当時を回想する。空虚感を埋めるために闘争に参加したという点では全共闘メンバーが抱えていた「現代的不幸」を彼女も抱えていた。リブを始めた当初の彼女をそれまでの婦人運動と分かつものはそのカッコ良さであろう。田中たちの女性解放運動は「カッコイイことを主張していた」。集会に黒づくめの恰好や高いハイヒールであらわれたり、白いミニスカートでビラ配りする様は確かに目立ったであろう。田中はその後、武装闘争論を展開したりするが、メキシコへ移住、帰国後は鍼灸師の資格を取得している。「1968」はここまで読んだところで共感できるのは田中美津の思想、べ平連と全共闘の組織論である。
4月某日
「1968【下】」の「結論」まで読み進む。結局、あの時代は何だったのか?ということだ。ひとつは当時が高度経済成長の真っただ中だったということ。本文中にもある反戦青年委員会のメンバーの、逮捕されて解雇されても職はいくらでもあるという発言が紹介されていたが、不況期や恐慌期に運動が盛り上がるのではなく、好況期だからこそ盛り上がったのである。さらに当時の学生運動なかんずく全共闘運動には「解放」のイメージが強くあった。バリケード封鎖は、右翼・秩序派、国家権力からのストライキ派の防衛という側面があったにしろ、全共闘派にとっては「解放区」のイメージが強かった。そして日頃、権威を振りかざしていた教授陣に対する大衆団交による追及。民衆蜂起で相手への辱めの行為を「シャリバリ」と呼ぶそうだが、大衆団交で教授に対して「テメー、それでも教師か!」といった罵詈雑言が発せられたのもそういうことであった。団塊の世代が大学生になったとき、大学進学率もアップした。母数が増えたうえに率も増大した。大学側はマスプロ教育で対応せざるを得ないが、学生側には旧来の真理の探究と言った旧来の大学イメージが残っていたから不満は高まらざるを得なかった。
そうした学生側の不満を底流に各党派や無党派の全共闘はストライキを提起し、多数の学生の支持を受け学園を封鎖する。「一種の祝祭状態ともいえる蜂起の興奮状態は長く続かない」と小熊は書く。小熊によると祝祭的な盛りあがりは「数週間から一ヵ月ていど」だったとされる。私の不確かな記憶によっても早稲田の場合は、69年の4月17日に革マルの戒厳令を突破して本部を封鎖し、その後5月の学生大会で各学部がストライキに入る。6月には学生大会でスト解除が議決され、バリケードを撤去した記憶がある。その後、学生大会で再度ストライキが決議され再封鎖となった。そのまま夏休みに入り9月3日に機動隊が導入され封鎖は解除される。私たちの親世代が直面した貧困・飢餓・戦争などのわかりやすい「近代的不幸」に対して私たち団塊の世代は、言語化しにくい「『現代的不幸』に集団的に直面した初の世代であった」と小熊は分析するが、おおむね納得である。当時の学生叛乱に対して「甘ったれたラジカリズム」という批判があったことは知っている。というか、新聞、テレビの論調はおおむねそうだった。今となってはそうした批判も甘受せざるを得ないと私は考える。小熊は内田元亨の1968年の論文から当時の日本の資本主義は「軍隊の組織」にも似た「ピラミッド構造」となっており、これは若者たちが嫌った「管理社会」にも重なるが、同時に共産党やセクトなどの組織形態とも類似しているという。内田は「ピラミッド構造」に対して各ユニットが独立しつ関係しあう「マトリックス構造」を提示している。私はそこにべ平連や全共闘運動の可能性を見るし、さらに言えば無政府主義の可能性も見たいと思っている。
4月某日
久しぶりに東京神田の社保研ティラーレを訪問。吉高会長と佐藤社長と懇談。その後、神田界隈を散策、16時に15時から店を開けている神田駅前の「魚魚や」(ととや)へ。この店は元年住協の林さんと何度か来たことがある。最初は会社をリタイヤしたとみられるジーサンたちのグループが多かったが、17時を過ぎた頃から現役と見られる青年、中年グループに置き換わり始めた。女性もチラホラ。私が会社員生活を始めた50年前には、そもそも女性が会社に少なかったし、忘年会や新年会以外で女性を交えて呑むこともなかった。「呑む」ということに限れば男女平等に近づいているのかも。