5月某日
「時代の異端者たち」(青木理 河出書房新社 2021年2月)を読む。スタジオジブリ出版部が刊行する月刊の小冊子「熱風」での青木をホストとする連載対談「日本人と戦後70年」が土台となっている。本書に掲載されているのは翁長雄志沖縄県知事(当時)はじめ9名との対談である。権力者、為政者、政治家の役割は何か、を考えさせられたのは翁長、そして長く国会議員を務めた河野洋平、ジャーナリストの半田滋、ふるさと納税に反対して総務省の局長を飛ばされた平嶋彰英との対談であった。翁長は戦後の日本の繁栄は沖縄の犠牲のもとになされてきたと憤り、普天間基地の返還と辺野古移設に関連して「普天間は沖縄県民が自ら差し出した基地ではありませんと。強制的に接収された土地なんですと。それが老朽化したから、世界一危険になったから、また沖縄に負担しろというのは(略)本当の意味で日本という民主主義国家が品格ある成熟したものにはなっていないということではないでしょうか」と語る。河野は自民党が絶対多数を握る国会の現状と、さらに小選挙区制などで変質した自民党の現状を憂うる。半田も安倍政権下で進行してきた専守防衛論からの逸脱を語り、対米一辺倒の防衛政策に疑問を呈している。平嶋はふるさと納税制度の拡充に反対して当時の菅官房長官の逆鱗に触れ左遷された。ふるさと納税は比較的裕福な層にメリットがある制度で、この拡充などもってのほかとの発言が問題視された。他にもゲイであることをカミングアウトしたジャーナリスト、北丸雄二、「国境なき医師団」の看護師、白川優子との対談など、大変面白くまた考えさせられた。
5月某日
NHKBSプレミアムで「六角精児の呑み鉄本線日本旅」を観る。本日は再放送ではなく新作「春、秩父鉄道を呑む」。埼玉県は意外に酒蔵が多いらしい。羽生駅から秩父鉄道に乗ってスタート、沿線の酒蔵を訪問する前にちょうど見ごろの桜を鑑賞。秩父はセメントの原料となる石灰の産地、武甲山がある。確か秩父セメント発祥の地。秩父鉄道や秩父セメントにも渋沢栄一が関係しているはずだ。秩父ではもつ焼きを肴に地酒を一杯。石灰の採掘やセメント工場に全国から働く人が集まり、その人たちを相手にもつ焼き屋が増えたらしい。秩父はウイスキーの産地でもある。翌日、六角精児は秩父ウイスキーの蒸留所を訪問する。NHKだから蒸留所名は明らかにされないが、肥土(あくと)伊知郎氏が創業した秩父蒸留所である。六角精児はウイスキーも堪能し絶好調である。この番組のナレーションは壇蜜。これがまたいい。
5月某日
「明治維新の意味」(北岡伸一 新潮選書 2020年9月)を読む。北岡伸一は1948年生まれ、東大法学部、同大学院卒業後、東大教授、国連大使、国際大学学長などを歴任、現在は国際協力機構(JICA)理事長である。明治維新をどうとらえるかは日本の近代をどう位置付けるか、とほぼ同義であると私は考えている。戦前のいわゆる講座派は明治維新を絶対主義の確立と捉え、他方の労農派はブルジョア革命と捉えた。講座派に結集したのは日本共産党系の学者に対して労農派は非日共系のマルクス経済学者が多かった。来るべき革命のイメージとしては日共系(講座派)が、絶対主義を打倒するブルジョア民主主義革命に対して、非日共系(労農派)はプロレタリア革命であった。この論争は戦後も持ち越され、日本共産党は講座派を引き継いで当面する革命はブルジョア民主主義革命とし、対して労農派理論を継承した共産主義者同盟(ブント)は、プロレタリア革命を主張した。これらの論争は今からするとあまり生産的とも思えないが、私の学生時代(今から半世紀前)は結構、真剣な論争課題だった。著者の北岡は「明治維新は以上のマルクス主義のカテゴリーにあてはまらない民族革命であるという主張を行った」岡義武の立場をとる。すなわち「明治維新は、西洋の脅威に直面した日本が、近代化を遂げなければ独立を維持できないと考えて行なった革命」という見方である。いずれにせよ私はこの本を大変面白く読ませてもらった。以下、いくつか挙げてみる。
ペリー来航
1853年6月3日ペリーが浦賀に、7月にはプチャーチンが長崎に来航しそれぞれ開国を求めた。ペリーやプチャーチンと接触した幕府の役人は、「はるばる地球のかなたからやってきて、何年も家に帰ることなく、嵐の中をものともせず出航する彼らを見て、真の豪傑だと感じ入った」。それと同時に圧倒的な装備の黒船に対して全国的に危機感が共有された。これは清国や朝鮮には見られなかったことである。
五箇条の御誓文と政体書
公卿や諸侯に対し明治政府の基本方針を示したのが五箇条の御誓文である。文脈を素直に読む限り封建的でも絶対主義的とも思えない。公卿や諸侯に対しての宣言であり市民や農民に対してのものではなかったという限界はあったにせよである。1868年6月、新しい統治機構を示す政体書が出された。政体書には三権分立の思想が取り入れられ、アメリカ憲法がモデルになっていたという。
版籍奉還と廃藩置県
「すべての土地人民は天皇のもの」(王土王民)の考え方からすると版籍奉還は当然だったし、少なくない藩で財政がひっ迫していたことから統治の責任を放棄したい藩も存在した。版籍奉還後も藩主は潘知事となったが、中央政府は全国3000万石の仕事をするのに、実収は800万石しかなかった。名実ともに中央集権体制を確立するためには廃藩置県は不可避であった。
徴兵制と地租改正
武士という身分を最終的に解体したのは徴兵制で、これを担ったのは武家ではなく村医者の家出身の大村益次郎である。大村が暗殺された後、徴兵制を推進したのは山縣有朋だった。国家財政を支えるため税制改革が不可避となったが、明治初期の段階で課税に耐えうる主体は農民であった。年貢として物納されていた税金を明治政府は土地に対する課税、地租とした。地租は一定であり農業の生産性が高まれば農民は剰余価値を手にすることができ、農民の生産意欲は物納の年貢よりも向上したと思われる。
岩倉使節団
1871年11月岩倉具視を正使、木戸、大久保、伊藤らを副使とする岩倉使節団が横浜港を出港した。使節団の一行は欧米の文明に大きな衝撃を受けた。とくにイギリスの富強の根源が工業力にあることを痛感した。大久保は帰国後、西郷らの主導する征韓論に反対し内治優先を貫き、内務卿として殖産興業を推進したが岩倉使節団による見分が大きく影響した。革命後、新政権の幹部が大挙して本国を留守にすることは考えられない。留守中に反革命が起こる可能性が十分あったからである。
大久保独裁の現実
大久保は帰国後、国政をリードし朝鮮との国交問題、琉球の帰属問題などの外交案件にめどをつける一方、国内では殖産興業を推進し士族の反乱も鎮圧した。大久保は公論と衆論を明確に区別し、公論を得るための手段が衆論であり、多数の意見だからといって、それを採るのは誤りと断言している。これを現代の政治に当てはめれば、国会で多数派を形成しているのは衆論による。国会での議論によって公論を得るのが筋である。それが行われているとは言い難い。大久保は1878年5月に暗殺される。鹿児島では西郷を倒した人物としてはなはだ評判が悪く、銅像建立は1979年のことだった。
明治憲法の制定
1882年、伊藤博文は憲法研究のため渡欧する。ウイーンでシュタインから講義を受け大きな影響を受ける。シュタインの憲法論は立憲君主制度であったが、伊藤の憲法案は議会に予算の審議権を与えるなど、さらに進歩的であった。伊藤はトックヴィルの「アメリカにおける民主政治」を高く評価していたが、彼の憲法構想に影響を与えたのは「ザ・フェデラリスト」と言われる。1885年12月内閣制度が発足し総理大臣には伊藤が就任した。1889年に憲法が発表されたが、世間はこれを高く評価した。著者の北岡も「参加の拡大が一つの頂点に到達した」と評価している。
明治維新の意味
北岡は明治維新以来の政治を「ベストの人材を起用して、驚くべきスピードで決定と実行を進めている」と評価し、それに対して現代の日本は「きわめて閉塞的な状況にある」としている。そして「重要な判断基準は、日本にとってもっとも重要な問題に。もっとも優れた人材が、意思と能力のある人の衆知を集めて、手続論や世論の支持は二の次にして、取り組んでいるかどうか、ということである」とし、明治維新はそれを教えてくれているというのだ。まったく同感。
5月某日
「明治14年の政変」(久保田哲 集英社インターナショナル 2021年2月)を読む。明治14年の政変についてこれまであまり考えてこなかったが、本書を読んで概略が理解できた。
著者の久保田は1982年生まれ。明治14年の政変って複雑な政治過程が背景にあり、政治的な人間関係もまた複雑、そうしたなかで久保田は新書版で手際よく分かりやすく叙述している。明治14(1881)年という年は西南戦争から4年後である。維新の3傑のうち西郷は西南戦争で敗死し、その数カ月前に木戸孝允は病死、木戸の病死の1年後に大久保は暗殺されている。大久保亡き後、政権を担ったのが伊藤博文と岩倉具視であった。伊藤と岩倉は薩長勢力のバランスを取りながら政権をリードした。政権の中枢にありながら薩長藩閥に属さなかったのが肥前出身の大隈重信であった。大隈は幕末、明治維新にこれといった功績はなかったが、財政家として維新以降の積極財政を担ってきた。明治10年代は国会開設に対する議論が盛んになってきた時期でもあり、大隈は明治14年3月に立憲政体に関する意見書を提出した。英国の議院内閣制を範とした意見書だった。一方、北海道開拓使の払い下げ事件が発覚する。参議兼北海道開発史長官だった黒田清隆が、同じ薩摩出身の五代友厚に開拓使の官有物を払い下げた事件である。明治14年の政変は結局、大隈が政権を去ることによって決着する。憲法の制定と国会開設こそが近代化のカギとする伊藤は、政変の翌年に憲法研究のため渡欧する。