6月某日
「笹の舟で海をわたる」(角田光代 毎日新聞社 2014年9月)を読む。左織が風美子と出会ったのは22歳のとき、風美子から「坂井左織さんでしょ? 違いますか」と話しかけられたのだ。小学校の疎開先の修善寺で一緒だったという。左織の修善寺の記憶には風美子の姿はなかったが、それから二人の長く続く友情が始まる。左織は大学院で学ぶ温彦と見合い結婚し、風美子は温彦の弟の潤治と結婚、二人は義理の姉妹となる。温彦は大学で教えるようになり、学者として順調なスタートを切る。一方、潤治は職が定まらないが、風美子は新進の料理研究家として頭角を顕して行く。左織は女の子と男の子に恵まれるが、風美子には子が出来なかった。一種のファミリーヒストリーと言えるが、この小説のファミリーは左織と風美子の義理の姉妹が軸となっている。著者の角田は1967年生まれ、左織と風美子は終戦のときに8歳ぐらいだから1937年前後の生まれである。左織と風美子は角田の親の世代であり、角田は左織の娘、百々子と同じ世代である。左織は百々子と価値観を共有できずに悩むが、これが非常に巧みに表現されている。角田の母子関係が反映されているのかも知れない。タイトルの「笹の舟で海をわたる」はラストで左織が川縁で遊ぶ二人の女の子を見て、疎開先の川で笹の舟を作って風美子と遊んだことを思い出すことにちなむ。
6月某日
「春のこわいもの」(川上未映子 新潮社 2022年2月)を読む。川上未映子と言えば数年前に読んだ「ヘブン」の衝撃が忘れられない。学校で繰り返し壮絶な苛めにあう中学生の男の子と女の子の話だけど苛めのシーンがリアルで何度か読むのを中断したほどだ。だから川上未映子が虐めに抗う正義感に溢れた作家かというとそれも違う。小説の作家というのは何か?と問われれば現在の私ならば「文章を通じておのれの想いを世間=社会に発する人」と答えるだろう。川上未映子が本作で何を伝えたかったのか?それが私には明確には分からない。本作には6作の短編が収められている。比較的長めの短編もあれば掌編と呼んでもいいものがある。6作の共通点は帯の惹句によれば「感染症が爆発的流行(パンデミック)を起こす直前、東京で6人の男女が体験する、甘美きわまる地獄めぐり」ということになる。「地獄めぐり」というコピーは「春のこわいもの」というこの短編集のタイトルとも通底するものがある。この短編集の最後に収められそして一番長い「娘について」という短編が私には最も面白かった。作家である主人公が高校以来の親友で、最近では音信が途絶えがちな見砂杏奈からの電話をきっかけに見砂との過去を回想する。回想の過程で主人公が見砂やその母を裏切っていたことが明らかにされる。これが「春のこわいもの」であり「地獄めぐり」なのだ。
6月某日
神田の社保研ティラーレを訪問。吉高会長、佐藤社長と次回の社会保障フォーラムの講師について相談。厚労省のしかるべき人にアドバイスをもらう方向で一致。社保研ティラーレは以前は日比谷通りの東側(神田駅側)にあったが、この春に日比谷通りの西側のビルに移転した。前のビルは2階で眺望は期待できなかったが、今回は9階なので神田駅方面への眺望が広がる。帰りに屋久島の焼酎を頂く。
6月某日
「あたしたち、海へ」(井上荒野 新潮文庫 令和4年6月)を読む。有夢と瑤子、海の3人は同じ中高一貫校の中学に通う親友同士。クラスを仕切るルエカの意向に反して海はマラソン大会を欠席する。それから海に対する陰湿な苛めがスタートする。苛めって同調圧力に屈しないことから発することが多い。ロシアのウクライナ侵攻も「同じスラブ民族だから」と同調圧力をかけてきたロシアが、それに抗するウクライナ、ゼレンスキー大統領にしかけた軍事侵攻=苛めである。海は有夢と瑤子と連帯して苛めに対抗する。ウクライナも同じ価値観を共有する西側諸国と連帯して侵攻に抗するべきなのだ。
6月某日
「星月夜」(李琴峰 集英社 2020年7月)を読む。日本のW大学で日本語講師の職についた台湾人・柳凝月は新疆ウイグル自治区出身の留学生と惹かれ合い恋人同士に。二人はともに女性である。著者の李琴峰は台湾生まれ台湾育ちで中国語が母語。しかし日本語を学んで日本語で小説を書き、2019年に芥川賞を受賞している。「彼岸花が咲く島」を読んだことがあるが、私としては伝奇的な印象が残りつつも李琴峰の小説家としての力量を強く感じた。「星月夜」は日本での留学生生活と恋愛を描く。ロシアのウクライナ侵攻により台湾海峡の緊張も高まっている。新疆ウイグル自治区にも中国の少数民族の問題がある。李琴峰の小説には地球規模の課題が詰まっている。