6月某日
「花桃実桃」(中島京子 中公文庫 2016年6月)を読む。中島京子の小説は比較的よく読む。直木賞を受賞し映画化もされた「小さいおうち」は広い意味での反戦小説として読んだ。「花桃実桃」は親の遺産で古いアパートを取得して、家主としてそのアパートに住む40代、独身の花村茜とその身辺の物語。中年独身女性の茜は田辺聖子の小説では「ハイミス」として描かれるが、女性の生涯独身率もこの頃では高率を維持していることに伴い「ハイミス」も死語に。小説では不動産屋の親父は中年独身女性のことを「行かず後家」と表現して茜の顰蹙を買うが「行かず後家」も死語でしょう。中島京子の小説には悪人が出てこない。市井の人々の平凡なように見えて非凡な日常に光を当てる。その意味では田辺聖子の後継者の一人だ。
6月某日
「AIは人類を駆逐するのか? 自律世界の到来」(太田裕朗 幻冬舎 2020年6月)を読む。著者の太田はもともと物理学者を目指し京都大学で研究生活に入り、工学研究科航空宇宙工学専攻の助教を経て、カリフォルニア大学サンタバーバラ校で研究に従事、2010年に帰国後、マッキンゼー・アンド・カンパニーでコンサルタント。2018年から自律制御システム研究所を経営という経歴の持ち主。ロボットが自動的に動くとは、自動制御(オートメーション)によって動くことを指し、一方、ロボットが自律的に動くとは、それが自律的(オートノミー)を獲得していることを意味する(はじめに)。このことから太田はAIを備えたロボットが人間の代替物として稼働する近未来を予測する。例えば次のように。①物質(食料、エネルギー)のシンギュラリティ(技術的特異点)が来る。これによって生命維持に必要な物質が飽和する。働かなくても食べられる時代が来るかもしれない。②少ない人口で現状維持できる社会が誕生する。自律ロボットになれば少ない人口で現在のGNPは維持できる。人が減り、自律生産能力が上がれば、豊かになり、出生率もどこかで定常化する。③自律頭脳が全員が正しいと思えるコンセンサス形成に論理的な助言をするようになる。主義主張や感情論、ポピュリズム政治は、行政や富の分配といった国家の役割の中で相対的に弱まり、集団としての意思決定はより論理的なものとなる。④教育も変わる。人工知能を使うべき人が持つべき精神や設計者としての頭脳は、単に知見を得る、作業を学ぶという学問をするだけではなく、その根本を設計するための価値観や倫理が大事になるからだ。⑤私たちの脳そのものも変わる。脳の持つ力を別のことに振り向け、より豊かな精神生活を送れるようになる。なるほどねぇ、方向性としては大変良いと思うけれど。
6月某日
「ファウンテンブルーの魔人たち」(白石一文 新潮社 2021年5月)を読む。近未来私小説かな。私小説というのは作家自身を主人公にして、作家の近辺に起こったことを題材に小説化したもの、というふうに一応は定義してみる。小説の主人公、前沢倫文は福岡出身の親子2代の小説家だ。この設定は白石と重なる。しかし舞台は近未来の東京、新宿だ。どのくらいの近未来かというと、南北朝鮮が統一されてから十数年後という記述があるから、すくなくとも今から30年後、2050年頃の設定と考えていいのではないか。前沢は新宿御苑近くのタワーマンション、ファウンテンブルーに同性の恋人、英理と暮らす。このタワーマンションは新宿2丁目のゲイタウンの跡地に建設された。なぜ跡地かというと4年前に大きな隕石が新宿2丁目に激突、ゲイタウンは跡形もなくなってしまったからだ。同じマンションには皇居前の楠木正成像を模したAIロボット、マサシゲ(マー君)、天才IT技術者で音楽家でもある茜丸鷺郎(アッ君)も住む。マー君はどのような人物にも変態することができるし、両性具有的存在で前沢とも肉体関係を結ぶ。さらに人工子宮の開発を巡って日本、中国、インドの政財界を巻き込んだスキャンダルが描かれる。「ファウンテンブルーの魔人たち」というタイトル通り「魔人たち」の物語だ。AIロボットのマー君が「人間が死を恐れている限り、僕たちの能力には太刀打ちできないけど、死を恐れないという理にかなわない選択をしたとき、人間は、僕たちが到底できないような生き方をすることができるんだ」と語る場面がある。人間にとって生は有限だからこそ時間に意義があるということかも知れない。それにしても四六判600ページ超えは読みでがありました。
6月某日
我孫子市民図書館で本を探していたら大谷源一さんからスマホに電話。大谷さんはワクチン接種の2回目も終わったそうだ。私は2回目が6月28日なので7月に入ったら我孫子で一緒にお酒を呑むことに。手賀沼公園のコブハクチョウを確認して家へ。家に着いたらスマホに年友企画の迫田さんから電話。「へるぱ!」の編集会議への参加の確認。私が参加しても役に立つとは思えないので、先日、酒井さんには「老兵は死なず消え去るのみ」といって不参加を伝えたのだけれど。なんか気を使わせているのじゃないかな。
6月某日
「現代思想の冒険者たち⑰ アレントー公共性の復権」(川崎修 講談社 1998年11月)を読む。我孫子市民図書館の思想のコーナーを眺めていたら「現代思想の冒険者たち」シリーズが目についた。アレントはハンナアーレントのこと。1906年ドイツのユダヤ人家庭に生まれ、大学で哲学と神学を学ぶ。指導教官のハイデガーと恋愛関係に。ナチスが政権をとったあとにアメリカに亡命。戦後、「全体主義の起源」をあらわし、政治思想家としての名声を不動にする。第2次世界大戦中のユダヤ人虐殺に重要な役割を担ったとされるアドルフ・アイヒマンの裁判を記録した「イェルサレムのアイヒマン」は、アイヒマンを上司の命令に従った平凡な小役人で、「悪の陳腐さ」として描き大論争になった。アレントは1975年、69歳でニューヨークの自宅で亡くなっている。「現代思想の冒険者たち」シリーズは、アレントをはじめとした現代思想家の概説書である。第1章「19世紀秩序の解体」第2章「破局の20世紀」にはそれぞれ「『全体主義の起源』を読む」というサブタイトルがついている。アレントが全体主義として分析の俎上に載せたのはナチズムとスターリン主義である。戦後まもなくナチズムは敗北したとはいえ、スターリンは絶対的な権力を握り、ソ連とスターリンは米国に対抗して冷戦の一方の旗頭であった。その時代にナチズムとスターリン主義の同質性を指摘したのは慧眼という他ない。
日本の新左翼運動も多くが反スターリン主義を掲げたのだが、その内実はスターリン主義を克服し得てはいなかったと思う。新左翼の内ゲバには「公共性」の理念がなかったと思う。あったとしてもきわめて薄かった。内ゲバの後に来る連合赤軍によるリンチ殺人事件に至っては公共性のかけらもない。まさにリンチ=私刑である。つまり国家権力と対峙し、それを転覆しようとする以上、革命勢力には国家権力を上回る「公共性」を求められる。アレントが指摘するようにナチズムにもスターリン主義にもその意識が薄かった。話は飛ぶが現在のNHKの大河ドラマは渋沢栄一を主人公にした「青天を衝け」で、豪農のせがれの榮一は当初は尊王攘夷のテロリスト志向であった。ドラマで描かれた天狗党の乱もテロリスト集団である。しかし尊王攘夷という一点で公共性に繋がっていたような気がする。救国ということでね。
6月某日
「アレントー公共性の復権」を読み終わる。政治思想家としてのアレントの概説書なんだけれど私にはちょいと難しかった。月報も添付されていたけれど執筆者のひとりが文筆家の森まゆみ。アレントが世を去った1975年、早稲田大学政治経済学部政治学科に在籍、藤原保信ゼミで西洋政治思想史を学んでいた。「群れをなすことなく、女性であることを否定せず、この学生時代を(生きのびる)ことができたのは、ローザ・ルクセンブルグやシモーヌ・ヴェイユ、そしてハンナ・アレントのおかげである」と書いている。私は1972年に同じ政治学科を卒業しているが、授業に出席した記憶をほとんどないし、自分で言うのもなんですが、最低の成績で卒業させてもらいました。当時私らは自分の大学のことを「学生一流、校舎二流、教師三流」と言っていましたが今から思うと無知でした。モリカケ問題や桜を見る会などで政権の私物化が問題になったが、学術会議の任命拒否問題も含めて、広い意味での政治の公共性の問題と思う。