モリちゃんの酒中日記 7月その4

7月某日
図書館で借りた「マンチュリアン・レポート」(浅田次郎 講談社文庫 2013年4月)を読む。浅田には清朝末期からの中国を舞台にした「蒼穹の昴」「珍妃の井戸」「中原の虹」があり、本書もその一環ということらしい。解説(渋谷由里・中国近代史研究者)でも、これらの近代中国シリーズを「最初から読んでいただければと思う」と記している。本書の主人公は志津邦陽陸軍中尉、そしてイギリスの鉄道車両工場で造られ、李鴻章から西太后に贈られた機関車、「鋼鉄の公爵(アイアン・デューク)」である。その他の主な登場人物は張作霖、昭和天皇である。志津中尉は治安維持法改悪に関する意見書を公表したことにより陸軍刑務所に捕らわれの身となるが、昭和天皇の密命により釈放される。戦争に傾斜する陸軍を懸念する昭和天皇から満洲の現況をレポートするよう命じられるのだ。イギリスで製造された鉄道車両を西太后の御料車となり、後に張作霖の所有となったとこの物語ではされている。張作霖はこの車両に乗車して満洲へ帰る途中で爆殺されるのだ。どこまでが史実でどこまでがフィクションなのか、読んでいる途中、まさに「巻を置く能わず」であった。

7月某日
1日間違えた高原亮治さんの命日、四谷の上智大学隣の聖イグナチオ教会で16時に堤修三さんと木村陽子さんと待ち合わせ。地下の納骨堂にお参り。木村さんに「森田さん、2日連続で来てくれるなんて高原さんも喜んでいるよ」と言われる。堤さんが禁酒中なので四ツ谷駅のショッピングモール2階のカフェアントニオへ。私はバランラインのハイボールを頼む。いつもより旨いと感じたのは炭酸水の違いか。木村さんは「糠床」で茄子やニンジンの糠漬けを作ったり、マンションのベランダを利用して園芸に精を出す日常だそうだ。この3人は年に一度、高原さんの命日に会う関係だ。なんか面白いね。

7月某日
図書館で借りた「香港デモ戦記」(小川善昭 集英社新書 2020年5月)を読む。新型コロナウイルスの影響もあって現在は香港の街角は平静さを取り戻しているようだが、昨年の春から暮れにかけて香港は「逃亡犯条例」の改正を巡って学生、市民の大規模なデモに見舞われていた。本書はデモに明け暮れた香港を現地取材したルポルタージュだ。日本の全共闘世代である私は2019年の香港を、1968~70年の東京と二重写しに見てしまいがちだ。学生が主体となって機動隊と激突し、一部の市民、野次馬が学生を支援するという構造は、1968年の王子野戦病院反対闘争、同じく10月21日の国際反戦デーの新宿騒乱事件、翌年1月の東大安田講堂の攻防戦に呼応したお茶の水カルチェラタン闘争などと似たような構造を持っている。しかし大きな違いは、当時の日本の学生は「世界革命」を目標とする反日本共産党の共産同や革共同の革命党派の指示で動員されていたことだ。対して香港の学生には統一した司令部は存在せず、各自が自発的にネットで連絡を取り合いながら集会やデモを行っている。私はここに香港の新しさと可能性を見出す。インターネットはそれ以前と比較すると情報量を圧倒的に増加させ、人間と人間の繋がりをフラットにさせた。それが香港の学生たちが主張するように「一国二制度」の堅持に向かうのか、中国政府の介入を強め、「一国二制度」の崩壊へと向かうかは不明であるが。私としては香港の学生、市民を支援したい気持ちで一杯なのだけれど。

7月某日
図書館で借りた「私はスカーレットⅡ」(林真理子 小学館文庫 2020年4月)を読む。マーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」のリメイク版。私は原作の「風と共に去りぬ」は読んでません。ヒロインのスカーレットをヴィヴィアン・リー、相手役のレット・バトラーをクラーク・ゲーブルが演じた映画は観ているけれど。文庫本の惹句に曰く「名作『風と共に去りぬ』を林真理子がヒロイン視点でポップに甦らせる一人称小説。血湧き肉躍る展開の第二巻!」とある。スカーレットは南部の大農園の主の娘として生まれ、自他ともに認める美貌の持ち主。しかし恋するアシュレはメラニーと結婚、当てつけにスカーレットが結婚した相手は南北戦争で戦死。16歳で未亡人、17歳で母親になったスカーレットは大都会のアトランタへ。「風と共に去りぬ」は黒人差別の表現があるなどして批判されている。どのような名作も時代的な制約からは免れえない。それを踏まえたうえで名作を楽しむ機会を奪ってはならないというのが私の立場。「スカーレットⅡ」では南軍が北軍に圧倒されて、アトランタでも食料や衣類が欠乏していく状況が描かれる。レットは戦争のさ中、北軍の港湾封鎖をかいくぐって大儲けする。が「どんな崇高なことを言っても、戦争をする理由はひとつしかない。金ですよ」と公言するリアリストでもある。南北戦争は1861~65年で「風と共に去りぬ」の刊行は1936(昭和11)年、その当時の日本で、こんなことを発言する人がいたろうか?いたとしても治安維持法で検挙されたに違いない。アメリカの懐の深さを感じてしまう。

7月某日
社保研ティラーレで次回の社会保障フォーラムの応募状況を聞く。新型コロナウイルスの感染拡大が続くなか、集客はいまひとつ。だがリモートでの応募が幾つか出てきているのは朗報と思う。落語をリモートでやったという噺家もいるらしい。新型コロナウイルスは確かに人類にとっての厄災である。でも厄災を厄災で終わらせてしまっては情けない。「転んでも只では起きない」精神が大事です。

7月某日
図書館で借りた「狼の義―新犬養木堂伝」(林新・堀川恵子 角川書店 2019年3月)を読む。著者の林新(はやし・あらた)はNHKのプロデューサーで2017年に亡くなっている。堀川恵子は林の奥さんでノンフィクション作家、亡夫の志を継いで本書を完成させた。犬養木堂、犬養毅は昭和7(1932)年5月15日、首相官邸で海軍軍人らに殺害された(5.15事件)。本書は犬養が慶應義塾在学中に西南戦争の従軍記者を務めたから頃から、その死までを綴ったドキュメントである。「狼の義」というタイトルは尾崎が狼面をしていたことによる。小柄だが眼光が鋭かったということである。戦前というと軍部が言論統制を敷いて民主主義を弾圧した時代と単純に捉えがちだが、明治から大正、昭和、日中戦争、太平洋戦争を経て敗戦に至る歴史は、そう簡単ではない。本書を読んでもそのことはよく分かる。尾崎が若い時から自由民権運動に身を投じたように、戦前の日本には軍国主義、対外膨張の流れとは別に民権拡張、対外協調の流れが確かにあった。本書は尾崎に寄り添った古島一男という人物を配して対外協調(とくに中国との)路線を貫いた尾崎の一生を描いている。