9月某日
「太平洋戦争への道 1931-1941」(NHK出版新書 半藤一利 加藤陽子 保阪正康 2021年7月)を読む。半藤一利は今年1月に亡くなった、昭和史を中心に多くの作品を残した作家で元文藝春秋社の編集者。加藤陽子は日本近代史を専攻する学者で東大教授。保阪正康は日本帝国主義の勃興と没落を追うジャーナリスト。半藤は1930年生まれ、保阪は1939年生まれ、加藤は1960年生まれだ。保阪は蒋介石の次男の蔣緯国の話として「日本の軍人は単純に言えば歴史観がないのだろう」という言葉を紹介している。加藤は1940(昭和15)年に締結された日独伊三国軍事同盟と太平洋戦争について次のように言う。1940年6月にフランスがドイツに降伏し、ドイツと戦争をしているのはイギリスだけとなった(ドイツがソ連に侵攻するのは翌年の6月、アメリカが参戦するのは日本の真珠湾攻撃以降である)。イギリスがドイツに負けると東南アジアのイギリスの植民地はドイツに奪われてしまう(仏領インドシナ、蘭領インドネシアも)。それを回避するためにも軍事同盟を締結したという見方である。東アジアを西欧の帝国主義から解放するというのが大東亜戦争のイデオロギーだったはずだが、この見方からすると日本は何ともみみっちい。半藤は「学ぶべき教訓」として、不勉強な人たちが指導者になって、自分たちの勢いに任せた判断をやってきたとし「判断の間違いが積み重なって、どうにもならないところまできて、戦争になってしまった」と書いている。何やら後追いを繰り返す現代のコロナ対策を見ているようである。
9月某日
菅首相が自民党の総裁選挙に出ないことを表明。すでに出馬を宣言している岸田文雄に勝ち目がないと判断したのか。菅の不出馬を受けて河野太郎、野田聖子も立候補の意向を発している。石破、下村も立候補を検討しているという。菅の不出馬表明により自民党の総裁選挙が一気に注目度を集めている。総裁選挙には自民党員以外には投票権はない。しかしながら自民党の総裁に選ばれると、国会で自民党と公明党の議員により総理大臣に選出される。現状では自民党の総裁選挙は次期首相の選出と同じ意味なのだ。菅政権は安倍政権を引き継いだ。閣僚も引き継いだしイデオロギーも引き継いだ。安倍前首相はイデオロギー的に近い高市早苗を支援するという。自民党は政策的にもイデオロギー的にも幅広い民意を代表している。改憲派もいるし護憲派もいる。改憲派のなかにも自主防衛派もいれば国連中心主義者もいる。社会保障についても自助努力を重視する人もいれば所得の再分配を重視する人もいる。今度の総裁選ではそこいら辺のことを自由闊達に議論してほしい。
9月某日
「岩倉具視-言葉の皮を剥きながら」(永井路子 文藝春秋 2008年3月)を読む。岩倉具視はNHKの大河ドラマでは「青天を衝け」では山内圭哉が、「西郷どん」では笑福亭鶴瓶が演じている。演じている役者にもよるのだろうが、どちらかというと「怪物」のイメージがある。ドラマでも主役にはなりえない。お札でも「五百円札」だからね。平安時代の昔から公家には家格があり昇進できる位が決まっていた。岩倉具視の家格は低く下級公家、永井によると「村上源氏系の久我(こが)家の庶流で家禄百五十石、下級の小公家にすぎない」という。その下級の小公家が幕末、明治維新という革命期に活躍した。いくつかの偶然が作用した。具視の妹が孝明天皇の側に上がり、具視も侍従として天皇の側近となった。禍福は糾える縄の如し、やがて具視は任を解かれ京都郊外の岩倉村に蟄居させられる。ここで具視は倒幕の構想を練ることになる。尊王攘夷というが幕末も押し迫ってくると攘夷派の影は薄くなる。こてこての攘夷主義者とされる孝明天皇も晩年には開国やむなしに至っていたようだ。具視は尊王倒幕を掲げる原理主義者、理想主義者であったわけだが、政治的には徹底した現実主義者だったのだ。この頃の自民党政治を見ると、理想は一向に語られず一方で現実からも目を背けているような気がするのだが。
9月某日
「ラーメン煮えたもご存じない」(田辺聖子 新潮文庫 昭和55年4月)を読む。巻末に「この作品は昭和52年2月新潮社より刊行された」とある。120編余りのエッセーが収録されていて文中で「夕刊フジ」に連載されていたことが分かる。ということは昭和50(1975)年頃、連載されていたのだろうか。今から50年近く前に連載されていたものだが、まったくと言っていいほど「古さ」を感じさせない。私はその頃、学校を卒業して初めての職場だった写植屋を辞めて、駒込の日本木工新聞社という業界紙の記者をしていた。「田辺聖子」という名前くらいは知っていたかもしれないが、まったく興味はなかった。田辺先生を読み始めるのは年友企画に入社して以降で、山本周五郎や藤沢周平、司馬遼太郎などと並行して読んでいたように思う。当時、山本はすでに物故しており藤沢も司馬も21世紀になる前に亡くなっている。田辺先生は1928年生まれで2019年6月に亡くなっている。91歳と長命である。「夕刊フジ」はサラリーマン相手のタブロイド判の夕刊紙である。田辺先生も読者を意識してサラリーマンが帰りの電車で読んでも肩の凝らないような話題を選んでいる。しかし、時として田辺先生の硬派の顔が覗くときがある。台湾選手がオリンピックに出場できなかった(そんなこともあったのか)話題に触れて、「せっかく出ようといってるものを、帰すことはないと思うのだ」と率直である。その一方で中国革命を「人類のなしとげた仕事の中では、たいへんすばらしいものの一つだと思う」と評価する。公平なんだよね。「人、サムライたらんと欲せば」というエッセーでは「私は、男も女も、大丈夫、つまりサムライたるべきこと、とかたく信じている」と宣言し、「いや、サムライというのは、昔も今も、生きにくいのだ」と嘆じる。結論は「愛のために生き、愛のために死ぬ人は、サムライが義のために生き、義のために死ぬのと同じで、愛と義とは、人間にとって同義であるのだ」と格調高い。私は田辺先生と同時代を生きたことを幸せに思うものです。