9月某日
「大王から天皇へ」(熊谷公男 講談社学術文庫 2008年12月)を読む。2001年1月に講談社の「日本の歴史」③として刊行されたものの文庫版である。日本の歴史とは直接関係はしないが、本書で分かったことのひとつが中国の皇帝と日本の天皇の違いである。中国では天が地上で最も徳のある人に天下の支配を委ね、新しい王朝が開かれ、やがて何代かして暴君があらわれると、また別の有徳者に天命が下され、新王朝の時代になる。王朝は有限なのである。これに対して日本では天皇位の根拠は天皇の先祖がアマテラスであり、アマテラスの子孫が天孫降臨により、地上(日本)を支配したことによる。もちろんこれらは神話の世界の話である。戦前の一時期、神話を根拠に「八紘一宇」や「大東亜共栄圏」などのイデオロギーが強く日本社会を支配したことがある。これが誤った観念であることは日本の敗戦によって日本社会に受け入れられた。現在の日本の天皇一家は民主的にして平和的な存在である。しかし本書を読むと古代天皇制の歴史は血に塗られた歴史でもある。壬申の乱を持ち出すまでもなく皇位継承をめぐって戦や暗殺、自死、刑死が繰り返されたのである。天皇号が成立するのは本書では天武・持統朝と推定している。それ以前は大王(オオキミ)であった。ヤマト王権が地方王権の連合体で、王のなかの王が大王だったのであろう。
任那日本府について本書はこう記す。「ほんの20~30年ほど前、日本の古代史学界では、日本はヤマト朝廷が成立して間もない4世紀後半には朝鮮半島南部に武力進出し、そこに統治機関として『任那日本府』をおき、朝廷の『宮家(みやけ)』として『任那』を植民地のように支配・経営していた、その支配は562年の『任那』の滅亡まで続く、とする考えが不動の定説であった」「これは『書紀』の記述の影響を受けたものである」。任那は当時、その場所に存在した「金官国」を指すということだ。熊谷は次のように発言する。〔朝鮮史家の田中俊明氏が「『任那』という用語は、使いたくもないし、使うべきでもない」といっていることに、筆者もまったく同感である〕。私も同感です。
9月某日
「この世の道づれ」(高橋順子 新書館 2024年8月)を読む。詩人の高橋順子が亡夫、車谷長吉について書いたエッセーを主に集めたエッセー集である。車谷は2015年5月17日、誤嚥性窒息で亡くなっている。享年69歳。最後の私小説作家とも言われた車谷はモデルとされた人から訴えられたこともあったようだ。高橋順子は次のように書いている。「小説を書く上では当たり障りがないどころか、当たり障りがあるところに手応えを感じていたようだ。モデルにした人たちの心に血を流させた、と晩年述懐していたが、その人たちの身内にもつらい思いをさせていたことを、義母の葬儀の日、私どもに詰め寄ってきた親族から聞かされた」(車谷文学の行方)。「車谷の私小説には、いろいろなからくりがある。事実と見せながら、巧みに虚構も入っている。『あることないこと書かれて』と苦情を言われたことは、ずいぶんあるようだ」(車谷長吉を送って)。車谷は最大の理解者を奥さんにしたのではないか。
9月某日
午前中、月1回の内科診察に我孫子駅近くのNクリニックへ。10時30分頃だったが、入り口に「午前中の診療は終了しました。午後は15時からの予定です」の貼り紙が。診察をあきらめて白山の床屋さんへ。3500円。床屋さんから白山を手賀沼まで歩く。手賀沼沿いの「水辺のサフラン」でサンドイッチと飲み物を購入、お店で頂く。家に帰って2時過ぎまで休息、今度はバスで八坂神社前、Nクリニックへ。休業の貼り紙。「医者の不養生」か?駅前の「しちりん」でホッピーとつまみを2品ほど。焼酎のボトルをキープしてあるので1100円。我孫子駅前からバスで手賀沼公園へ。我孫子市民図書館で借りていた網野善彦の「日本社会の歴史(上)」を読了。
9月某日
NHKの朝ドラ「虎に翼」が終わった。日本の女性弁護士の先駆けで戦後は家庭裁判所の創設や女性の地向上に尽力した三淵嘉子さんをモデルにした主人公を描く。私は毎回見ていたわけではないが女性差別や同性愛の取り上げ方など好感が持てた(☆☆☆)。
パワハラなどで批判が高まっていた斎藤兵庫県知事が失職、知事選挙に立候補するという。内部告発者を公益通報者とせず、処分した斎藤氏。この人こそが処分されるべき(★★★)。
自民党総裁選挙で石破茂氏が当選。保守派で靖国参拝を主張する高市早苗氏に逆転勝利。高市氏は予想以上に票を集めた。ヨーロッパでは極右勢力が伸長しているという。私は石破氏の当選には好感するが、高市氏の善戦には苦い思いを禁じえない(☆☆★★)。