モリちゃんの酒中日記 7月その5

7月某日
新宿歌舞伎町の伝説のクラブ「ジャックと豆の木」の店長だった三輪さんからワインが送られてくる。ラベルを見るとフランスワインのヴィンテージもの。西荻に住む私の兄の家に北海道の弟が来るというので持って行くことにする。弟はホタテなど北海道の海産物を持ってきてくれたのでそれを肴に呑む。夕方6時頃から呑みはじめ、我孫子の家に帰り着いたら12時を過ぎていた。

7月某日
夕方、会社の石津さんと呑みに行く約束をしていたら、HCMの大橋社長から誘いの電話。ネオ・ユニットの土方さんと静岡に出張した帰りで今、東京駅という。5時に会社近くの「跳人」で待ち合わせ。私は会社近くの藤田酒店が販売元になっている芋焼酎「神田の戦士」を1本買っていく。石津さんも6時には合流、楽しく飲みました。

7月某日
社会保険福祉協会の助成で「音楽運動療法」の研究をやっている。今日は三軒茶屋で実際に音楽療法をやっている現場を見学することに。9時半に三軒茶屋で待ち合わせ。会場の太子堂地区社会福祉協議会へ向かう。メンバーは幹事の宇野裕さん、スポンサーの社福協の本田清隆常務、音楽療法士の丸山ひろ子さん、特養のサービス提供責任者でホームヘルパー協会副会長の黒澤加代子さん、社会福祉法人金井原苑苑長の依田明子さん。三々五々、高齢者が会場に集まってくる。圧倒的に女性が多い。最終的には70人近くになったようだ。本日の講師兼司会進行は井畔理恵さん、ピアノ伴奏は手塚直子さんでいずれも国立音楽院の卒業生。井畔さんの進行が抜群に上手だった。私も久しぶりに大きな声で歌をうたえて楽しかったし、軽いストレッチも取り入れているので運動にもなった。介護予防に最適と思いますね。

7月某日
当社と同じビルにオフィスを構えるのが一般社団法人の民間介護事業者協議会、民介協だ。その民介協のオフィスで暑気払いがあり、当社の全員も招かれた。都合のつく社員、7、8名で押し掛けた。当社からは「跳人」に頼んでオードブルを差し入れ。キタジマからウイスキーや日本酒、それに藤田酒店の「神田の戦士」が差し入れられた。民介協の扇田専務や天野さん、それに扇田専務が後援会長をやっている落語家の三遊亭円丸師匠も参加。扇田専務の音頭でビールで乾杯、私はその後、ワインとウイスキーをご馳走になる。「跳人」のオードビルもおいしかった。タダ酒でつい飲みすぎた。

7月某日
図書館で借りた「日本の近代とは何であったか―問題史的考察」(岩波新書 三谷太一郎 2017年3月)を読む。三谷太一郎は東大名誉教授で専門は日本外交史。新書版で文章も平易だが、書かれている内容はかなり高度だ。近代以前、「慣習の支配」によって人類は拘束され、独創性は停滞した。人類を慣習の支配から解放することが「近代」の歴史的意義で、それは「議論による統治」を意味する。マルクスと同時代人でマルクスと同じように政治経済学的観点から英国近代を分析したウォルター・バジョットは「いかなる国家も議論による統治を持たなければ一流たりえない」と言っている。幕藩体制において権力は複数の老中、若年寄、目付等によって行使されたが、これは三谷によると権力抑制のメカニズムであったという。倒幕後の権力は各藩の権力を超えた「公議」として認識され、王政復古は幕府的な存在を排除し、権力の分立と立憲制を招来した。これに対して昭和の大政翼賛会に対する違和感、反発は、ナチズム、ファシズム、ボルシェビズムを連想させた故であった。
日本に資本主義が勃興したのは、日清戦争以前に先進的作業技術、資本、労働力、平和といった資本主義を可能にする客観的条件が存在したためである。具体的には①官営事業に象徴される国家による先進的産業技術の導入②地租を始めとする安定度の高い歳入を保障する租税制度③質の高い労働力を生み出す公教育制度(初等及び高等教育制度)④資本蓄積を妨げる資本の非生産的消費としての対外戦争の回避があげられる。一方、日本の植民地構想は経済的利益関心よりも軍事的、安全保障的関心から発生している。ヨーロッパ先進国(英仏等)のように「自由貿易帝国主義」による「非公式帝国」の拡大は目指さず、より大きなコストを要する軍事的依存度が高い「公式帝国」の途を選んだ。日本の近代化を貫く機能主義的思考様式については、明治日本にはヨーロッパというモデルはあったがヨーロッパ化のモデルはなかった。そのため制度、技術、機械、その他の商品といった個別の機能を導入してヨーロッパ化を図った。またヨーロッパには諸機能を統合する機能として宗教(キリスト教)があったが、日本ではそれを皇室に求めた。「神の不在」が天皇の神格化をもたらしたのである。明治憲法の外で「神聖不可侵」を体現する天皇の超立憲君主的性格を積極的に明示したのが「教育勅語」である。井上毅、山県有朋、伊藤博文らの藩閥官僚と天皇の側近勢力(永田英莩)の共同作品であった。通常の勅語には国務大臣の副署があるが教育勅語にはない。これは教育勅語が立憲君主制の原則に拘束されないことを示している。
終章で三谷は東日本大震災による原発事故は、日本の近代そのものへの根源的な批判を惹起したとする。徳川慶喜政権から明治政権へ権力は交代したが、路線として「文明開化」と「富国強兵」は連続している。戦後の日本は国民主権を前提にした「強兵」なき「富国」路線を歩んできたが原発事故によってその路線が揺らいでいる。三谷は国際共同体の組織化を通じてグローバルな規模での近代化路線の再構築を提案する。これを実現していくのは我々後世代の務めだろう。