7月某日
NPO法人年金福祉推進協議会の総会。4時から社会保険研究所の会議室ということだったが3時から厚労省老健局振興課の井樋補佐の取材が入ったのでそちらに向かう。振興課は介護事業者の「業務の効率化」についての取材。媒体はSMSのカイポケマガジン。井樋補佐は財務省に呼ばれたとのことで担当の林係長が丁寧に対応してくれた。同じテーマで経済産業省の経済産業政策局産業構造課の前田氏という若い補佐に取材したが、この人も感じよかった。6時過ぎにNPO法人の総会後の懇親会の開かれている「ビアレストラン鎌倉橋」へ。東京都の社会保険指導部長だった望月さんと歓談。浅岡純朗さんや宮島俊彦さんに挨拶。我孫子の駅前の「愛花」に寄る。ママさんの都合でしばらく休んでいたが、めでたく再開。
7月某日
3連休の初日だが休日出勤。午前中カイポケマガジンのインタビュー原稿を1本上げて、午後、東大の伊藤謝恩ホールへ。看護師の近藤和子さんが代表を務める「みんなのMITORI・研究会」の第5回勉強会に出席。テーマは「在宅医療の中のグリーフケア。家族を看取ったあと、家族の再生(レジリエンス)に必要なことは」。上智大学グリーフケア研究所の高木慶子先生は聖心女子大学の心理学科を卒業後、修道女に。高木先生の講演ではつぎの話が印象に残った。子供を誤って死なせた父が末期がんに。父は天国の子供の許しが得られるのか悩む。高木シスターは「大丈夫、天国で坊やは笑顔であなたの胸に飛び込んできますよ」と答え、父は安らかに息を引き取る。うーん、いい話だ。だがこれは信仰のある人の例だ。無宗教の私は何に救いを求めればいいのか。次の講師は東大大学院の医学系研究科健康科学・看護学専攻の家族看護学の上別府圭子先生。上別府先生の講演はレジリエンスがテーマ。レジリエンスは精神的回復力、抵抗力、復元力とも訳される心理学用語。脆弱性の反対概念で自発的治癒力の意味(ウイキペディア)。私は20代から40代にかけて何度もうつ病に苦しんだことがあるので上別府先生の話は理解できたように思う。私が学生運動に挫折したときも当時の恋人(今の奥さん)や仲間たちの支えがあったから何とか社会復帰できた。勉強会が終わった後、近藤さん、講師の先生方、SCNの高本代表、市川理事、社会保険出版社の外川氏と食事。高木シスターは長崎の隠れキリシタンの末裔と話していたが、80歳を超えてとてもお元気な人であった。我孫子駅前の「愛花」に寄る。荒岡さんが髪を染めて来ていた。
7月某日
3連休の2日目。図書館から借りた「ローズガーデン」(講談社 2000年6月)を読む。本書はミロ・シリーズ初の作品集とある。出張中に読んだ桐野の「水の眠り灰の夢」の主人公、トップ屋村野善三は同じトップ屋だった後藤の遺児ミロをミロの母親、早重とともに引き取る。早重は亡くなり、高校生のミロと血のつながらない父親村野が残される。表題作「ローズガーデン」はミロと結婚した博夫の物語である。高校の同級生だったミロと博夫は大学を卒業と同時に結婚する。2人の退廃した愛から逃れるように博夫はパソコンメーカーを辞め電装会社に入社、インドネシアに単身赴任する。インドネシアのジャングルの奥地へボートで向かう博夫と同僚のエンジニア。桐野には林扶美子を描いた「ナニカアル」があるが、そこにも南方、インドネシアの風景が描かれる。「ローズガーデン」というタイトルはミロと善三の暮らす家に博夫が訪れたとき、荒れ放題の庭のそこかしこにバラが咲いていたことに因む。荒廃の中の美か。残り3作は私立探偵ミロが主人公の短編。
7月某日
3連休の3日目。プールで水中歩行した後、図書館で借りた佐藤雅美の「厄介弥三郎 悪足掻きの後始末」(講談社 15年1月)を読む。佐藤は幕末の日本と欧米の通貨戦争に題材をとった「大君の通貨」でデビューした。これはどちらかというとノンフィクションノベルの色彩が強いが、私は佐藤の「物書同心居眠り紋蔵」や「八州廻り桑山十兵衛」などの時代小説が好きで何冊も読んでいるが裏切られたことがない。本書は650石鳥の幕臣の家の次男に生まれた都筑弥次郎が主人公。江戸時代も中期までは大名や旗本はしばしば次男、三男を分家させた。しかし中期以降、その家を疲弊させるとして分家はめっきり減ってしまい跡取りの長子以外は独立する道を閉ざされた。婿養子になる道もあったが、婿養子の口など滅多にない。婿養子にならなければ、一生家督を継いでいる兄、兄が死ねば兄の跡を継いだ倅(甥)の世話になって暮らすしかない。幕府はこうした兄もしくは甥の厄介になっている厄介者を「厄介」と公用語とした。本書の主人公、弥三郎の公式の肩書は兄の「都築孝蔵厄介」となる。
さて弥三郎は厄介の身分に嫌気がさし、市井の浪人となる。厄介の身分では考えられない祝言も手習いの師匠、志津と挙げることができた。厄介者とはいえ幕臣の家から浪人となるのは世間から見れば没落である。だが普通の小説だったら、身分は浪人に落としても恋女房と幸福に暮らしたとなるのだろうが、この物語では弥三郎は犯罪に巻き込まれたうえ、恋女房にも逃げられ、挙句の果てに押し込み強盗の片棒を担ぐという具合にストーリーは暗転し、弥三郎は最後はヤクザの客分となり、縄張り争いの助っ人に駆り出され、深傷を負う。志津に似た女に水を乞いながら弥三郎は意識を失い、やがて息絶えることが暗示されて物語は終わる。散々の結末である。だがこの結末も含めて私は佐藤雅美の小説が好きである。