社長の酒中日記 9月その3

9月某日
共同通信の城さんには日頃から色々とお世話になっているので夕食に誘う。当社の迫田、アルバイトの酒井君にセルフケア・ネットワークの高本代表理事、SMSの竹原さんが参加。
場所は西新橋のイタリア家庭料理の店「LaMamma」。私以外は全員女性なので、西新橋で弁護士事務所を開業している大学の同級生、雨宮君を誘う。雨宮君は検事出身の弁護士。通称「ヤメ検」だが、最近の若い人には通じなかった。

9月某日
厚労省の老健局長、蒲原さんにインタビュー。総合事業などについて丁寧に説明してくれる。当社の迫田が「現場をよく知っているし、偉そうじゃないし、いい人ですね」と言っていた。午後、社会保険出版社で打合せ。このところ社会保険出版社からの受注が増えている。中村秀一さんの単行本を現在進行しているが発売元を社会保険出版社にすることについて大筋合意。その後、虎ノ門フォーラムに中村さんを訪ねて報告。

9月某日
民介協の研修会に参加。テーマは「すぐに始めたい中小介護事業者の災害対策」、講師は東日本大震災で被災した石巻市のパンプキン、渡邊智仁社長。私は震災の2か月後、石巻市に入り当時常務だった渡邊さんと今は会長となっているお父さんに取材した。今は柔和な笑顔で話をしてくれる渡邊さんだが、当時は震災直後なだけに随分と厳しい表情だったのを覚えている。だが、私がそのとき一番感心したのは渡邊さんのお父さんの話だ。それも震災の話ではなく彼の半生についてだ。彼は20歳ごろトラックの運転手をしていて交通事故に巻き込まれた。私と同い年と言っていたから50年近く前の話である。「最初の病院に担ぎ込まれたらここでは治せませんっていわれてさ。そりゃそうだよ、そこは産婦人科だったんだ」と彼はなかなかユーモアのセンスもあるのである。大腿部から足を切断するほどの大ケガだったが、足の切断は免れた。しかし体はギブスで固定され身動きもままならなかった。20歳を超えたばかりの青年は荒れに荒れ、様子を見に来る看護師に当たり散らしたという。そんな彼を変えたのは看護師長の献身的な看護だったという。病院で勉強を続け、各種の資格試験にも合格した。2年間の入院生活を経て、入院中に取得した無線技士の資格を活かしてタクシーの配車係に就職。結婚した相手が栄養士だったこともあり、タクシー会社を経営する傍らレストランにも進出する。これがのちの配食サービスや移送サービスにつながることになる。ギブスで体を固定された絶望の日々からみごとに復活したわけである。看護師長の献身的な看護に触れ「いつかはそんな仕事がしてみたい」という思いが今の介護の仕事につながっているわけである。大震災であれ大事故であれ、生きてさえいれば、希望を捨てなければ復活できるのである。渡邊智仁さんの話を聞きながらお父さんの話を思い出した。

9月某日
みずほ銀行の清木さん、フィスメックの小出社長、社会保険福祉協会の内田さんと富国倶楽部で会食。この3人は年金転貸融資の団体、全住協の出向仲間。当社もシンポジウムの開催、運営やパンフレットや機関誌の制作でお世話になった。約束の5時半に少し遅れて富国倶楽部へ着くと小出社長がすでに来ていた。少し遅れて内田さんが来る。富国生命ビルに一番近い旧第一勧銀の本店ビルで働いている清木さんが一番遅れて6時半過ぎに登場。銀行は忙しいのである。

9月某日
SMSの山田浩平君とSMSで打合せ。当社の迫田とアルバイトの酒井佳代君が同行。山田君は介護事業関連のコンサルを経て入社、カイポケマガジンの編集の他、コンサルタント業務もやっているとのこと。酒井君は9月からアルバイトとして手伝ってくれている。酒井君は昨年、拓殖大国際学部を卒業、シルバー産業新聞に入社、8月に同社を退社するとの挨拶メールをもらった。当社も慢性的な人手不足だが新たに社員を雇用する余裕もないことから取り敢えずアルバイトとして入社してもらった。打合せ後、山田君も一緒に会社近くの「跳人」で呑み会。健康生きがいづくり財団の大谷常務も参加。大谷常務に川村女子学園大学の吉武さんから修猷館高校の同窓会があり、福岡の羽田野弁護士が上京しているので根津の「ふらここ」に9時頃行くとの連絡が入る。大谷さんと福岡に出張したとき羽田野弁護士にはたいへんご馳走になった。「跳人」のあと、大谷さんと「ふらここ」へ。吉武さん、羽田野さん、大谷さんと私は同じ年。羽田野さんだけが髪黒々であった。

9月某日
図書館から借りた「自由の思想史―市場とデモクラシーは擁護できるか」(猪木武徳 新潮選書 16年5月刊)を読む。猪木は「まえがき」で本書について「一学徒が人間精神の自由、政治経済体制としての自由の問題を、個人的な思い出をまじえて著した回想の記ともいえる」と書いているが、ソクラテス、アダム・スミス、ヒューム、福沢諭吉、ケインズ等々内外、古今の学説を紹介をしつつ、そこに個人的な回想(たとえば学生時代の麻雀から学んだことなど)を交えたエッセーである。たいへん魅力的な語り口で好感が持てたが、私の知識不足、それは教養不足と言い換えてもよいが、理解は不十分だったと思う。

9月某日
高校の同期会が銀座の「銀波」で16時から。私の卒業した高校は北海道室蘭市の道立室蘭東高校といって、私が入学したのは昭和39年、前年に創立されたばかりの学校であった。普通高校としては旧室蘭中学の栄高校、旧室蘭高女の清水が丘高校に続く市内で三番目の高校。要するに急増するベビーブーマー世代の受け皿だったのだろう。とうに役割を終えて何年か前に室蘭商業高校と統合されて名前も東翔高校となったらしい。普通科3、商業科2の小さな高校だが、普通科3クラスは仲が良く何年か前から出光のOBの品川君が幹事になって年に1回、首都圏の同期が集まっている。隣に座った竹本君ともっぱら話す。竹本君は高卒後、千葉県の民間企業に就職、県警に入り刑事畑を歩み警部まで昇進するが親の介護で早期退職した。介護や福祉について驚くほど詳しい。