モリちゃんの酒中日記 6月その3

6月某日
我孫子駅前の東武ブックスで買った「そこへ行くな」(井上荒野 集英社文庫 2014年7月)を読む。井上荒野の小説は割と好きで読んでいる。でもこの短編集はどう要約したらいいのだろうか。フランス文学者の鹿島茂が巧みに解説している。鹿島は都市に住む私たちは「匿名性の原則」に支配されているという。そして本書は「この匿名性の原則が支配する都市のそれぞれの場所において、なにかしらのきっかけで匿名性の原則を破ってしまった人々を描いている点にある」という。一番最後に収められている「病院」は同じクラスで無視されいじめの対象となっている少女「泉」と「僕」との交情が描かれている。この頃の子供たちの「無視」や「いじめ」は匿名性の最たるものである。しかし「僕」はその匿名性の原則を破って泉と交流を深める。鹿島は「いずれの短編も、匿名性を原則とする都市と、有名性を原則とする小集団(家族はその最小単位だ)が接する臨海面で物語が紡ぎ出されている名編ぞろいである」とする。なるほどねぇ。鹿島に座布団一枚!

6月某日
図書館で借りた藤沢周平の「闇の歯車」(講談社文庫 2005年1月を読む。巻末の解説(磯貝勝太郎)によると、この小説は昭和51年(1976年)9月、「別冊小説現代」(新秋号)に掲載されている。同じく巻末の年譜によると藤沢は1927年、今の山形県鶴岡市に生まれ、1942年国民学校高等科を卒業し鶴岡中学夜間部に入学。山形師範に進学し1949年22歳のとき県内の中学校に赴任する。24歳のとき肺結核により療養生活に入る。1957年療養生活を終え上京し2、3の業界紙を転々とする。1960年日本食品経済社に入社、以後14年数ヵ月同社に勤め、日本加工食品新聞の編集に携わる。1971年、オール読物新人賞を受賞、1973年、46歳のとき直木賞を「暗殺の年輪」で受賞、1974年、日本食品経済社を退社する。長々と藤沢の経歴を書いたが、ひとつは戦前戦中期の「学歴形成」について考えてみたかったからである。
成績優秀で家の暮らしにゆとりがある小学生は旧制中学(5年制)に進学し、さらに上の旧制高校、大学へと進むものもいた。旧制中学に進ませるゆとりがない家庭の子弟は高等小学校(3年制)に進学し、成績優秀であれば商業学校、工業学校、あるいは師範学校へと進学した。藤沢の場合は夜間の中学を出た後に師範学校へ進学した。商業学校、工業学校の上は高等商業、高等工業で、その上は東京商大(今の一橋大)、東京工大であり、師範学校の上は高等師範、東京文理科大学(戦後、東京教育大のちの筑波大学)であった。ちなみに吉本隆明は東京下町の高等小学校、工業学校を卒業後、米沢高専で終戦を迎え、東京工業大学へ進学した。戦前の教育制度は戦後の6・3・3制に比較すると「複線」であったように思うし、貧しくとも成績優秀であれば、進学の途が不十分とはいえ用意されていた。
もうひとつ考えてみたいのは業界紙という選択肢である。藤沢の場合、年齢も30歳を過ぎ結核という病歴があれば業界紙という限られた選択肢しか残されていなかったといえる。私の場合は学生運動で、公務執行妨害、傷害、現住建造物放火等々の罪名で逮捕、起訴された前歴があり、まぁ業界紙(日本木工新聞)という選択肢しかなかったように思う。私が藤沢の小説に共感を抱くのはそんなところにも一因があるかもしれない。
「闇の歯車」は1976年、別冊小説現代に「狐はたそがれに踊る」というタイトルで発表された。門前仲町を過ぎて蜆川に沿って右に折れると一軒の飲み屋がある。その常連で恐喝まがいで暮らしをしのいでいる、佐之助が物語の主人公である。同じく常連の駆け落ちして主家を離れ病妻を抱えた浪人、縁談が持ち上がっているが年上の情婦と別れられない商家の若旦那、若いころ刃傷沙汰を起こし30年の江戸払いから帰って娘の嫁ぎ先に居候している老爺、佐之助を含めたこの4人の常連に「押し込み強盗」の誘いがかかる。押し込みには成功するものの思わぬところから露見してしまう。「闇の歯車」によって庶民は動かされ、押しつぶされていく者もいるのだが、藤沢の小説はそこに一筋の光明、救いを見出す。

6月某日
「ケア・センターやわらぎ」で「命すこやかプロジェクト」の打合せ。代表理事の石川さん、画家の生川さん、フリーの編集者の浜尾さんが参加、引き続き「やわらぎ」の小島さんが参加して「やわらぎ」30周年、「にんじん」20周年の写真集の打合せ。終わって生川さんが三重の日本酒を差し入れてくれたので、それで乾杯。4合瓶を吞み終わって5時を過ぎたので近くの寿司屋で石川さんにご馳走になる。