社長の酒中日記 2月②

2月某日
 岩波新書の「誰のための会社にするか」(ロナルド・ドーア 2006年7月)を読む。このところ「会社はどうあるべきか」「会社は何のために存在するか」という類のテーマの本をよく読む。もちろん、利益を上げ従業員に十分な報酬を支払い、なおかつ雇用を守り株主にきちんと配当することが株式会社の使命であることは分かっている。当社はいまだ従業員に十分な報酬を支払い切れていないし、株主配当を見送っている現状で言うのはいささかおこがましいのだが、私としては当社なりの社会貢献を視野に入れつつ「会社とは何か」を考えたいと思う。

 社会貢献とは何も慈善事業に寄付することではなく、会社として社会全体の付加価値を高めつつ自分たちの会社の利益を上げ、従業員に報酬を支払い、税金を納めるということ自体が社会貢献の始まりだと思っている。そのうえでどのような原則でコーポレート・ガバナンス・システムを構築するかが経営者に問われていると思う。本書によると、日本のコーポレート・ガバナンスをめぐる論争は、次の2つの軸を巡って行われている。ひとつは「グローバル(すなわち米国の)・スタンダードへの適応」対「日本的な良さの保存」、もう一つは「株主の所有権絶対論」対「さまざまなステークホルダーに対する社会的公器論」である。前者はエンロン事件などがあってグローバル・スタンダード論の勢いは削がれつつあるが、後者においては「株主の所有権絶対論が」ますます幅を利かせようとしている。

 著者は「経営者が株主利益の最大化を使命とする『株主所有物企業』より、経営者がすべてのステークホルダーに対して責任を持つ『ステークホルダー企業』の方が、企業内の人間関係の観点からも、その社会的効果(商取引の質、相互信用の度合い、所得分布など)の観点から好ましい」という立場だ。私もそう思うのだが、会社の最高意思決定機関は「株主総会」であり、株主の過半数に支持されない限り、経営陣は交替せざるを得ないというのも現実だ。法律と経営上の現実の折り合い次第というところもあるのではないか。

2月某日
 厚生省の優秀な官僚だった荻島國男さんが亡くなってもう20年以上になる。亡くなったとき中学生だった良太君は愛知芸術大学を卒業後、プロのサキソフォーン奏者になっている。その良太君が東京オペラシティの近江音楽堂でソロリサイタルをやるので荻島さんの2年後輩で今は川村学園女子大学の学部長をやっているY武さんと聴きに行く。
 良太君のリサイタルはこれまで何度か聴いたことがあるが、カルテットやピアノ伴奏がついたもので今回のようなソロは初めて。音楽にはズブの素人である私が言うのも何ですが、非常に洗練された音を出していたように思う。クラシックのプロサキソフォーン奏者は、そんなに層が厚いとは思えないから良太君は日本でも屈指の奏者ではないか。
 小さな出版社でくすぶっていた私(それは基本的に今も変わらないのだが)に色々と目を掛けてくれた荻島さんのことは忘れることができない。せめて良太君のコンサートだけは欠かさず行くようにしたいと思った。コンサート後、Y武さんと新宿で軽く一杯。

2月某日
 北海道へ2泊3日の出張。最初の日はHCMのM社長、開発者のHさんと、札幌の医療機器販売の大手、竹山に「胃ろう・吸引ハイブリッドシミュレーター」の説明に行く。社長の茂野さんと嶋本部長に説明。大変良い感触だった。夜、M社長、Hさん、それに札幌で特養を中心とした地域包括ケアを展開している対馬グループの奈良さんたちとジンギスカンをキリンビール園に食べに行く。やっぱり本場のジンギスカンは違う。実は奈良君は中学校の友達。クラスは違ったが家が近所だった。

2月某日
 奈良君の案内で、対馬グループの丸山部長に「けあZINE」の執筆者の紹介をお願いしに行く。この日は夕方、登別市の特養の施設長、西蔭さんにも「けあZINE」の執筆をお願いする。西蔭さんは障害者のケアから高齢者ケアの世界に入ったということだが、利用者本位のとても素晴らしい考え方の人のように見受けられた。

2月某日
 16時ころ帰京。17時過ぎに元厚労省のA沼さんと会う。入院している当社のO役員の病状を報告。その他もろもろを報告して、A沼さんは京都へ帰る。

2月某日
 図書館で借りていた角田光代の「ロック母」(07年6月 講談社)を読む。角田の単行本未収録の短編が発表順に掲載されている。冒頭の「ゆうべの神様」は「群像」1992年11月号に掲載され、芥川賞候補になっている。喧嘩ばかりしている父と母。主人公の女子高校生は廃屋となった医院でボーイフレンドと抱き合う。主人公の日常は日常的と言い難い。八百屋だの肉屋だのの世間は主人公に対して非友好的だ。主人公は家に火を放ち、「私が一番したかったのはこういうことだと思った。肉屋を殺すことでもなければ花田を刺すのでもない。あの家を燃やすことだった」と独白する。川端賞受賞作の「ロック母」は「群像」2005年12月号が初出。臨月の娘が故郷の島に帰ってくると、母は娘が高校時代に聞いていたロックを大音響でかけ、古い和服をほどいて人形の洋服を縫っている。出産を控えた娘は母に付き添われ島の対岸の病院に入院、出産する。
 結局、家族や人間関係が角田のテーマなのだろう。偶然のように人は家族であったり、恋人であったり隣人であったりするのだが、その不可避な関係性がテーマのような気がする。

2月某日
 「胃ろう・吸引ハイブリットシミュレータ」は、歯医者、歯科衛生士には「吸引シミュレータ」のみの需要があるようだ。その辺の事情を聞きたくて、「浴風会ケアスクール」の服部校長に日本歯科大学の菊谷教授に会わせてもらう。現在のモデルでは歯科医向けにはいろいろと考えなければならないことがあるとわかった。医療・介護業界向けの人体シミュレータは当社にとって、未経験の領域だ。未経験だけに勘違いも多いが、未知の領域だけに面白くもある。
 帰りに吉祥寺によって、元社保庁のK野さんと会う。ノ貫(へちかん)に行く。ここはなかなかいいお値段だが、酒も肴もうまい。

2月某日
 昨晩、ちょっと深酒が過ぎたので朝飯も摂らずに寝ていると、妻が「携帯が鳴ってるよ」と言う。慌てて出ると埼玉県グループホーム協会の西村会長からで、「今日、来るのでしょう?」と聞くではないか。そうだ忘れていた。今日は埼玉県の与野で若年性認知症のフォーラムがあるのだっけ。会場の「すこやかプラザ」がなかなか見つからず、会場に着いたら、原老健局長の基調講演がもう始まっていた。休憩時間に原局長と西村会長に挨拶。司会の会田薫子東大特任准教授にも挨拶して、フォーラムの次のプログラムはパス。フォーラムに来ていた「健康生きがいづくり財団」のO谷常務と浦和で呑むことにする。浦和に着いても午後4時前。まだ居酒屋はやっていない。寿司屋があいていたので入る。「がてん寿司」というその店は、なかなか正解で値段もリーズナブルでおいしかった。

2月某日
 図書館で借りていた「純愛小説」(篠田節子 平成19年5月 角川書店)を読む。篠田は確かデビューしたときは八王子市役所に勤めていた。国民年金の係もやったようだ。
 収められている4つの短編小説はそれなりに読ませるが、私にはどうも今ひとつで恋愛の切なさが伝わらない。そのなかで東大に入学した次男の恋愛と、その父の中年サラリーマンの悲哀を描いた「知恵熱」が私には面白く感じられた。

2月某日
 川村女子学園大学のY武教授に講演の依頼にアルカディア(私学会館)に。Y武さんは私学連盟(?)の理事に選任されたので、その会議が私学会館であるという。Y武さんには年金制度についての講演をお願いするが、厚労省OBや有識者にも社会保障に関連した講演を頼もうと思っている。
 その後、東京駅へ。「けあZINE」の執筆依頼に名古屋へ向かう。名古屋では瑞穂区の西部いきいき支援センターの高橋センター長にお願いに。その後、名古屋駅近くの「風来坊」という居酒屋でK玉さんと待ち合わせ。「手羽先」を食べながら、執筆陣拡大への協力を依頼。宿は温泉付きのホテルクラウン。K玉さんによると巨人軍の2軍の定宿とか。

2月某日
 NPO法人年金・福祉推進協議会が、中部地区の市町村の年金担当者向けに研修会を開催する。その手伝いにホテルから歩いて5、6分の年金機構中部ブロック本部へ。研修会には市町村から20人ほどが参加した。講師は厚労省年金局から大西事業管理課長ら。私はこの日、東京で呑み会があるので中座した。

2月某日
 この3月まで阪大で教えていたTさんと神田明神下の「章大亭」で待ち合わせ。Tさんと高校の同級生である、やはりこの3月まで京大の教授をやっていた間宮陽介先生を紹介してくれるという。5分前に店に着くと2人はもう来ていた。2人の出た高校は長崎市の新設校で1期生だという。2人とも東大の法学部と経済学部を出た秀才だが、店を気に入ってくれて高校の同級生の女の子話などをして盛り上がる。近いうちにまた呑みたい。

2月某日
 「津波と原発」(講談社文庫 佐野真一 2014年2月)を読む。東日本大震災から3年が経過しようとしている。本書自体、震災直後の2011年6月に刊行されたものを文庫化したものだ(文庫化にあたり、一部を加筆・訂正している)。「文庫版のためのまえがき」のなかで佐野は大要、次のように書いている。この3年間、原発事故に関するノンフィクションは大量に出版されたが、大所、高所からの“大文字”言葉で書かれたものが多かった。“大文字”言葉の作品とは“大本営”発表とさして変わらない作品という意味で、東電や政府の発表を鵜呑みにした情報をベースにしたのでは、真相は永遠に究明できない。その点、この本は誰にでもわかる“小文字”の言葉で書いたつもりである。
 佐野は「何の先入観ももたない精神の中にこそ、小説でも書けない物語が向こうから飛び込んできてくれる。それが私のノンフィクションの持論であり、いつもの流儀である」とも書いているが、今回の取材でも随所にその流儀が生かされている。避難所の石段に座って、さてこれからどこへ向かおうか思っていると突然、気仙沼には新宿ゴールデン街のおかまバーのママ「キン子」が帰省していたことを思い出す。
 「キン子」は避難所にあてられた漁村センターにいた。この再開の場面が私には妙に感動的だった。「頭にピンクのタオルを巻き付け、紫色のスポーツウエアの上に、茶色のフリースを羽織っている。近づくと、怪訝そうな顔をして、しばらく私の顔をじっと見ていた。そして突然、言った。『あら、佐野ちゃんじゃない!』。ゴールデン街の“ルル”の扉を開けて店の中に入ったときと、まったく同じ反応だった」。まさに“小文字”言葉でつづられている。
 しかし第二章「原発街道を行く」はいささか趣を異にする。日本に原発が導入された経緯、福島がなぜ選ばれたのか、そして原発事故という敗戦後、最大ともいうべき危機を突き付けられた日本はどこへ行こうとするのか。佐野はいささかの懐疑を抱きながらこのルポを結ぶ。「もしこの危機を乗り切ることができるなら、それは高齢大国ニッポンの世界に冠たる本当の底力である」。

社長の酒中日記 2月

2月某日
「M&A国富論『良い会社買収とはどういうことか』」(岩井克人・佐藤孝弘 プレジデント社 2008年9月)を読む。敵対的買収が日本でも現実的なものとなったのは、2005年の堀江貴文率いるライブドア(今となっては懐かしい気がする)がニッポン放送に対して仕掛けたのが契機だ。岩井は会社の存在理由とは「それが社会に対して付加価値を生み出し、国富(広くは社会全体の厚生)の増進に貢献すること」と定義する。結論から言うと、付加価値と国富を増大させるような会社買収ならOKということになる。また会社買収とは「株式を大量に買い占めて株主総会の過半数を握り、経営者のクビをすげ替えることによって、会社を新たに経営すること」にほかならないとも言っている。日本では会社買収=会社乗っ取り的なあまり良くないイメージが強いが、岩井の考えは付加価値と国富を増大させる会社買収ならば敵対的な買収でも良しとする考えだ。
 会社=「2階建て構造論」も展開する。会社とは、株主がモノ(=株式)として所有する一方で、その会社の法律上の人(=法人)として機械設備などの物的資産を所有し、さらに従業員を中心とした人的資産(=ネットワーク)をコントロールする(ポスト産業資本主義では人的資産のコントロールが重要)2階建ての構造という。2階に住むのが株主で、1階は経営者を頂点とした組織としての会社だ。1階部分でこそ会社の価値、付加価値、国富が生み出されるという考えだ。私には非常に納得できる考え方だし、改めて経営者の経営責任を考えさせられる本だ。

2月某日
 島村洋子の「野球小僧」(講談社 2012年7月)を図書館で借りて読む。島村洋子は割と好きな作家なのだが、なぜか世間的な評価は今ひとつのような気がする。確か直木賞もとってないし。しかしまぁテレビの歌番組の常連が良い歌手とは限らないし、レコード大賞をとらなくとも良い歌手はいるのだから。
 「野球小僧」は往年の歌手、灰田勝彦の同名の歌謡曲がモチーフになっている。ボーイズリーグの花形だった雪彦は、どういうわけか野球の名門校に推薦されず、嫌々行くことになった工業高校も中退、親類の勧めで甲子園のグランドを管理する会社に就職するところから物語ははじまる。ボーイズリーグの有望選手を高校に斡旋する元プロ野球選手の雁金さん、その息子で女装の美少女カオル、グランド管理の名職人、塚本さんらが軸になって物語は展開する。深夜、戦死したかつての名選手(沢村、梶原、吉原たち)が甲子園に集い、ゲームを楽しむ場面は幻想的で美しい。

2月某日
 健康・生きがいづくり財団のO常務が来社。私が手伝っている「地方から考える社会保障フォーラム」の講師をお願いする。会社近くの「福一」で打合せ。Oさんは私と同じ1948年生まれ。Oさんもそうだが、私の友人のこの世代は学生運動経験者が多い。中核派、ブンド、フロント、解放派、革マル、民青と党派はバラバラ。性格もバラバラ。学生運動経験者だから真面目ということは全然なく、私も含めてみな世俗にまみれている。そんななかでOさんは私ら世代にしてはITに詳しく、行動力もあり、いつも勉強になる。

2月某日
 「生活・福祉環境づくり21」のビジネス研究会に出席。この研究会は毎回、会員社が自社のニュービジネスについて発表するという趣向。今回はセントラルスポーツが「職場休職者の早期復帰システム・スポーツ&EPA復職支援サービス」、東急建設が高齢者住宅など集合住宅やホテル、学校などのセキュリティシステムについて発表した。東急建設は耕作放棄地を対象にエコアグリカルチャー事業(たぶん平たく言うと野菜の工場生産だと思う)も展開しているが、お土産にそこで生産された立派なパプリカをもらった。まだ食べていないがおいしそうだ。研究会終了後、レストランで懇談。懇談が終わってからフィスメックのK社長と呑みに行く。

2月某日
 国際厚生事業団のT専務と前の全社協副会長のKさん、当社のO常務と神田明神下の「章大亭」へ。ここは昨年、お茶の水の順天堂大学で認知症のセミナーに出席した後、CIMネットのN理事長とたまたま入った店だ。このあたりは幕末、幕府の教育機関、講武所があったことから、ここらの芸者は講武所芸者と呼ばれていた、そんな話をNさんとしていたら、章大亭のママが「あたしがそうよ」というではないか。章太というのは芸者のとき名前だそうだ。店の雰囲気もよく料理も美味しいので、それ以来何度か使わせてもらっている。TさんもKさんも厚労省のキャリア出身だが、たいへん気取らない付き合いができる人たちでこの日も楽しかった。店も気に入ってもらったようだ。

2月某日
 田辺聖子の「返事はあした」(集英社文庫 2013年3月刊)を読む。最後の頁に「この作品は昭和58年5月、集英社より刊行されました」とあるから30年以上前の作品である。だが中身はまったく色あせていない。もちろん携帯電話などないし、独身者の住まいが風呂なしで電話は呼び出しだったりして、それなりに時代を感じるのだが何しろ田辺の、大阪のOLの恋愛ものであるから、これは「読むしかない」のである。OLルルの恋愛物語であるが、ひとりの女性の自立の物語としても読める。つまり惚れた男からの自立である。従属的な恋愛関係から自立した恋愛関係へ、ということだ。

2月某日
 芥川賞受賞作(「穴」小山田浩子)が掲載されているので、文芸春秋の3月号を買う。受賞作を読む前にパラパラとページをめくっていたらグラビアページが目に留まった。「名作・名食」というコーナーで、田辺聖子の「返事はあした」がとりあげられているではないか。主人公のルルが同僚の村山クンを誘って「美々卯」で「うどんすき」を食べる場面が紹介されていた。「アルミの大鍋に黄金色のだしがたっぷり、なみなみと張られ、そこへ鶏肉、生椎茸をまず最初に抛りこむ。それから蝦に蛤。……」と作品が引用され、「美々卯」の「うどんすき」もカラーで紹介されている。美々卯は東京にも進出していて、私も京橋と新橋の美々卯で食べたことがあるが、そのときは「返事はあした」を読んでいなかったので特別の感慨もなく食べてしまった。今度、行こうっと。

2月某日
 滋賀県大津市で開催されたアメニティフォーラムに参加。障がいを持っている人や援助している人たちが大津プリンスホテルに集合して本音を語り合う集い。私は昨年に続いて2回目。元厚労省年金局長で滋賀県庁への出向経験もある吉武さんが司会で、日本医師会長の横倉さんと滋賀県医師会長の笠原さんが対談する「医療があれば大いに安心!~地域で障害者・高齢者を支えること。医師だからできること」から私は参加。笠原さんの「医療は福祉に含まれる」という言葉に感動した。地域包括ケアもそういうことだと思う。夜は「みえにくい生きづらさに気づくこと~ポスト福祉現場を語り合う」で、渋谷の「漂流少女」の援助しているNPO法人BONDプロジェクトの橘代表や釜ヶ崎でホームレスの支援をやっている僧侶の川波さんの話を聞く。

2月某日
 引き続きアメニティフォーラムに参加。厚労省の蒲原障害保健福祉部長の「我が国の障害者福祉施策の在り方について」と精神科医の北山修さんの「評価の分かれるところに:『私の精神分析的精神療法』」を聞く。蒲原部長の話で障害者福祉政策の流れが一応理解できた(つもり)。北山さんの話は非常に面白かったが、内容は良く覚えていません。北山さんの本を読みます。フォーラムを途中で離脱。琵琶湖の北のマキノ町の湖里庵に鮒寿司を食べに行く。夜は京都へ出てAさんを呼び出して食事。

2月某日
 京都から新幹線で名古屋へ。知多半島の半田に住むKさん夫妻にご馳走になる。障がい児の援助をやっているKさんも一緒。「けあZINE」への執筆を依頼。翌日、新幹線で大阪へ。西成区の社会福祉法人白寿会のMさんに話を聞く。夜は京都で同志社大学のI教授に「ブラッスリー ヴァプール」でご馳走になる。I教授は厚生労働省出身。非常に腰が低く感じの良い人。「けあZINE」への執筆を依頼。次の日、京都駅前の新都ホテルで認知症家族の会のM先生と会う。M先生は厚生省に技官として在籍したこともあるが、“合わなかった”ので京都府に出向させてもらったそうだ。奥さんが認知症で、この日もデイサービスに奥さんを預けてから出てきたという。なかなか面白い人で、ぜひ一緒に呑みたいと思った。新幹線に乗って帰京。といっても自宅が千葉だから東京から小一時間かけて帰宅。ふーぅ、疲れた。

2月某日
 新橋の「花半」で元厚労省の人たちと。この会はEさんとKさんが年金局の資金課長をやっていたころのつながり。当時補佐だった支払基金のA専務、看護大学のI教授、当時年住協の部長だった結核予防会のT理事、それに私が参加。昔話や最近の話に花が咲いて3時間はあっという間に過ぎた。Tさんと新橋の「T&A」へ。

2月某日
 前衆議院議員(落選中)のHさんとスペイン料理の「メゾン・セルバンテス」で食事。健生財団のO常務と共同通信のJ記者も同席。ワインを2本。Hさんは民主党政権下で環境省の政務官を務め、東日本大震災が発生したとき、厚労省も入っている庁舎の24階にいて随分揺れたそうだ。その後、被災地の環境対策を陣頭指揮、その顛末は当社から出版した「愚直に」に詳しい。
 偶然、上智大学のT教授も「メゾン・セルバンテス」に来ていて声を掛けられる。それもその筈でこの店はもともとT教授の店で、私は亡くなった高原さんに連れられて来たのが最初。その後、何回か使っているが料理、ワインともにおいしく、値段もリーズナブルだ。

社長の酒中日記 1月②

1月某日
 社会保険研究所グループのグループ経営会議が社会保険出版社で開かれるので出席。各社とも厳しい様子。当社もそれは同じだが私としては、今年は(今年も)「根拠のない楽観主義」で行こうと思う。会議後、宴会。社会保険出版社からは課長以上が参加したので結構な人数に。私のテーブルには研究所(中部)K社長、研究所(東京)のA役員、出版社のK取締役とSさんがいた。日本酒を3~4本頂く。

 2次会はパスして早々に帰宅。帰ったら年賀状の返事が来ていた。しかしSさんという差出人に覚えがない。住所を検索して思い出した。親会社のK社長に何度か連れてってもらったことのある寿司屋のご主人だ。年末「しばらく休みます」の貼り紙が入り口に貼られていたので、気になって年賀状を出したのだっけ。ご主人とは私が退院してしばらくたったとき、銭湯でご一緒して「大変だったんだね」と背中を流してもらったことがある。不覚にも涙が出そうになった。賀状には「ただ今、格子無き牢獄にいます」という添え書きがあった。病気療養中なのかもしれない。早く良くなってほしいけど、今年一番うれしかった賀状だ。

1月某日
 昨年、社会保険出版社から編集・製作を依頼された「だれでもできる症状・異常の自己チェック」は昨年10月に完成。監修をお願いした「いなば内科クリニック」の稲葉敏院長と食事。社会保険出版社側からはK取締役以下3名、当社からは編集を担当したIとH、私、それに社外スタッフのKさんらが参加してくれた。稲葉先生とは葛飾区に認知症のネットワークを作ろうとPDN(ペグ・ドクターズ・ネットワーク)のNさんと動いたときにNさんの紹介で知り合った。稲葉先生は慈恵医大のアイスホッケー部出身。練習は毎日、夜11時スタートだったという。リンクの関係で早い時間は使用できなかったからだ。当然、実家までは帰りつかないので、大学の近くのマンションに居候したそうだ。卒業後は津南町立病院などで勤務した後、亀有に開業した。飾らない人柄で大変、楽しかった。

1月某日
 当社のO役員の見舞いに社員のIと行く。西武池袋線の最寄りの駅で待ち合わせ入院先へ。入院先のY診療所は地域医療に熱心に取り組み訪問看護ステーションも併設している。病室に入ると坊ちゃんが見舞いに来ていた。なかなかイケメンで母子の仲も睦まじそうだった。坊ちゃんはバイトへ。入れ替わりにお母さんと訪問看護師さんが来る。O役員は思ったより元気でひと安心。社員と別れ、私はリハビリ中の友人Kさんを見舞いに初台へ。友人は理学療法士とリハビリ中で、麻雀パイを並べていた。そういえばKさんは強かったらしい。和歌山から別の友人のOさんも見舞いに来ていた。新宿でDさんと日本酒を少々。Dさんは生活福祉研究機構の専務で現在は和歌山在住。地元で町興しもやっている。生活福祉研究機構では地域福祉の研究もやっており、「地域包括ケア」の取組みなどで協力できればと思う。

1月某日
 「株式会社に社会的責任はあるか」(岩波書店 奥村宏 2006年6月)を読む。エンロンの粉飾決算やクボタやニチアスのアスベスト禍への対応を論じて、企業責任について考える。私も会社の代表者だから企業責任や経営責任はあるに決まっている。が、社会的責任はどうか? 奥村は社会的責任というあいまいな概念で本当の意味での企業責任や経営責任を逃れているのではないかと指摘していると思う。結論として奥村は「企業は実態ではなく機能としてとらえることが必要である。企業を実態としてとらえるところから『会社人間』が生まれ、会社が主人公になって人間を支配するようになる」「企業のために労働するのでなく、人間が主体になって仕事をする場として企業を考えていくことが必要である」という。「人間が主体になって仕事をする場」。なるほど。もうひとつ株主総会について富山康吉の著作を引用して次のように述べる。「株主総会が会社の最高議決機関であり、そこでは一株一箇の議決権による多数決によって決議がなされること。これが近代株式会社の内部関係についての法理であり、近代資本である産業資本が要求するところであった」。株主総会を形骸化させちゃあいけないよね。

1月某日
 日赤本社にO副社長を訪問。荻島良太君のコンサートチケットの販売目的。あらかじめ秘書に電話で説明したら、「是非買いたい」と。Oさんと荻島さんは同期。同期の堅い絆を再確認。厚労省のHさんが来ていたので同席。亡くなった高原さんのことなど話す。

1月某日
 去年の3月まで大阪大学の教授をしていた元厚労官僚のTさんと内神田の「このじょ」で呑む。ここは庄内料理の店で「このじょ」は庄内弁。意味は忘れました。今度、行ったとき確認します。

 Tさんは「柿木(しもく)庵通信」というのをメールで送ってくる。会うに当たって読んでおこうとプリントアウト。「社会福祉法人はこれからも存続できるのか」「国民皆保険はどのように崩壊していくか?」などのタイトルで先生の考えが展開される。先生は大変な「インテリ」で、私も少なからず尊敬していないわけではないのだが、文章が小難しいのが難点。「難しい」というのは「私の勉強不足で済みません」ということなのだが、「小難しい」というのは「もっとわかりやすく書けよー!」という罵倒の観念も含まれる。

 それはさておき私が注目したのは「2つの踏切事故と損害賠償責任」という小文。認知症の高齢者が家を抜け出しJRの電車に乗り、近くの駅で降車、線路に立ち入って電車にはねられて死亡した事件に関し、JR東海が720万円の損害賠償を請求。名古屋地裁は原告の主張を大筋で認め、遺族に損害賠償を命じた事件だ。先生は「法社会学的な問題として本件を理解したい」として、①JR各社はこのような踏切事故について必ず損害賠償請求をしているのか、②損害賠償請求をする場合としない場合とを分けるメルクマールは何か…、など7項目にわたって疑問を表明している。個人的には、⑦鉄道会社の行為が原因で運行ダイヤが乱れ、損害を被ったという乗客からの損害賠償請求についてはどうか、という疑問に「そーだよなー」と全面的に賛意を示したい。

 呑み会にはフリーライターのKさんも同席。この話題で盛り上がる。先生には「けあZINE」への投稿もお願いする。「易しく書いてよね」というこちらの要望に、「易しく書くのが難しい」だって。

1月某日
 民介協のO専務に神田駅前の軍鶏料理をご馳走になる。なかなか美味。生活福祉環境づくり21のYさんも同席。O専務は富士銀行出身。でも並みの銀行出身者とは一味違う。県立奈良商業を出て富士銀行に就職するが、当時、関西では富士銀行の知名度が低く「なんで静岡の銀行に就職せなならん、南都銀行でも信金でもあるやないか」と親戚のおじさんに言われたという。O専務が頭角をあらわしたのが八重洲支店勤務になってから。当時、八重洲界隈にはK鉄工やDハウスなど関西系企業があり阪神ファン同士で盛り上がったという。

 O専務の話はまだ続くが、この日、立川の社会福祉法人「にんじん」の研究発表会に呼ばれているのでそちらに行くことにする。会場の「女性センター」の場所が分からずに着いたら8時過ぎ。研究発表を2つしか聞けなかった。しかし施設や在宅で働きながら、少しでも利用者のためにサービスを向上させていこうという意欲は十分に伝わった。発表会の後、「にんじん」のI理事長にご馳走になる。元厚労省のNさんやYさんも一緒。

1月某日
 社会保険倶楽部霞が関支部の賀詞交歓会。日本年金機構の副理事長や関東ブロック本部長に挨拶。社保庁OBのK林さんやT辻さん、K沢さん、I田さん、Y田さんたちとも歓談。キャリアではK田さんはじめ、K辺さん、T田さんらが見えていた。久しぶりに元参議院議員のA先生にも会えた。厚年会館でやっていた昔の賀詞交歓会に比べると参加人数はずいぶんと減ったが、その分、アットホームな雰囲気になったかもしれない。

1月某日
 林真理子の「正妻 慶喜と美賀子」(講談社 13年8月)上下巻を読む。徳川最後の将軍、慶喜と公家の今出川家から正夫人として徳川家入りした美賀子の物語だ。幕末の京都の政争や蛤御門の変、長州征討、王政復古、鳥羽伏見の戦などを縦軸に、これはこの小説を読んで初めて知ったことだが、類まれな慶喜の好色さを横軸に物語は展開する。火消しの親方で慶喜の身辺警護を担った新門辰五郎の娘お芳も慶喜の妾となり、京都で慶喜の身の回りの世話をする。鳥羽伏見の戦のあと大阪城へ敗走した幕軍は、いまだに戦意旺盛で無傷の幕府海軍とともに薩長と再戦すれば、歴史の駒はどちらに転ぶか分からなかった。にもかかわらず慶喜は側近とともに海路、江戸へ逃げた。明治維新後、静岡に隠棲した慶喜に美賀子は真相を尋ねる。

 慶喜は仏公使ロッシェと薩摩一国と引き換えに仏軍の応援の密約があったこと、さらに薩長には兵庫港と引き換えに英国から支援の密約があったことをあげ、このまま内戦が長引けば日本は欧米の属国になりかねなかったことをあげる。密約云々は作者の想像力の産物と思われるが、それはそれとして最後の将軍の特異な性格が、その好色さも含めて描き出されている。

1月某日
 「さいごの色街 飛田」(井上理津子 筑摩書房 2011年10月)を読む。大阪市西成区の地下鉄動物園前駅近くの飛田地区には「料亭」が160軒、軒を並べる。この「料亭」、名前は料亭だが中身は売春の場所の提供である。飛田は公認の売春地区であったが、売春防止法により「料亭」に衣替えした。部屋にホステスが客を招き入れ、酒肴を提供する。そこでホステスと客の自由恋愛により性行為が成立する(可能性がある)、ということで売春防止法を免れているということなのだが。東京の吉原も公認の赤線だったが、売春防止法施行後、ソープランド街になった。飛田は20分、15000円。吉原に比べて随分とお手軽である。実質本位の大阪と「体裁」を重んじる東京の差なのだろうか。いろいろ考えさせられた。