社長の酒中日記 2月②

2月某日
 岩波新書の「誰のための会社にするか」(ロナルド・ドーア 2006年7月)を読む。このところ「会社はどうあるべきか」「会社は何のために存在するか」という類のテーマの本をよく読む。もちろん、利益を上げ従業員に十分な報酬を支払い、なおかつ雇用を守り株主にきちんと配当することが株式会社の使命であることは分かっている。当社はいまだ従業員に十分な報酬を支払い切れていないし、株主配当を見送っている現状で言うのはいささかおこがましいのだが、私としては当社なりの社会貢献を視野に入れつつ「会社とは何か」を考えたいと思う。

 社会貢献とは何も慈善事業に寄付することではなく、会社として社会全体の付加価値を高めつつ自分たちの会社の利益を上げ、従業員に報酬を支払い、税金を納めるということ自体が社会貢献の始まりだと思っている。そのうえでどのような原則でコーポレート・ガバナンス・システムを構築するかが経営者に問われていると思う。本書によると、日本のコーポレート・ガバナンスをめぐる論争は、次の2つの軸を巡って行われている。ひとつは「グローバル(すなわち米国の)・スタンダードへの適応」対「日本的な良さの保存」、もう一つは「株主の所有権絶対論」対「さまざまなステークホルダーに対する社会的公器論」である。前者はエンロン事件などがあってグローバル・スタンダード論の勢いは削がれつつあるが、後者においては「株主の所有権絶対論が」ますます幅を利かせようとしている。

 著者は「経営者が株主利益の最大化を使命とする『株主所有物企業』より、経営者がすべてのステークホルダーに対して責任を持つ『ステークホルダー企業』の方が、企業内の人間関係の観点からも、その社会的効果(商取引の質、相互信用の度合い、所得分布など)の観点から好ましい」という立場だ。私もそう思うのだが、会社の最高意思決定機関は「株主総会」であり、株主の過半数に支持されない限り、経営陣は交替せざるを得ないというのも現実だ。法律と経営上の現実の折り合い次第というところもあるのではないか。

2月某日
 厚生省の優秀な官僚だった荻島國男さんが亡くなってもう20年以上になる。亡くなったとき中学生だった良太君は愛知芸術大学を卒業後、プロのサキソフォーン奏者になっている。その良太君が東京オペラシティの近江音楽堂でソロリサイタルをやるので荻島さんの2年後輩で今は川村学園女子大学の学部長をやっているY武さんと聴きに行く。
 良太君のリサイタルはこれまで何度か聴いたことがあるが、カルテットやピアノ伴奏がついたもので今回のようなソロは初めて。音楽にはズブの素人である私が言うのも何ですが、非常に洗練された音を出していたように思う。クラシックのプロサキソフォーン奏者は、そんなに層が厚いとは思えないから良太君は日本でも屈指の奏者ではないか。
 小さな出版社でくすぶっていた私(それは基本的に今も変わらないのだが)に色々と目を掛けてくれた荻島さんのことは忘れることができない。せめて良太君のコンサートだけは欠かさず行くようにしたいと思った。コンサート後、Y武さんと新宿で軽く一杯。

2月某日
 北海道へ2泊3日の出張。最初の日はHCMのM社長、開発者のHさんと、札幌の医療機器販売の大手、竹山に「胃ろう・吸引ハイブリッドシミュレーター」の説明に行く。社長の茂野さんと嶋本部長に説明。大変良い感触だった。夜、M社長、Hさん、それに札幌で特養を中心とした地域包括ケアを展開している対馬グループの奈良さんたちとジンギスカンをキリンビール園に食べに行く。やっぱり本場のジンギスカンは違う。実は奈良君は中学校の友達。クラスは違ったが家が近所だった。

2月某日
 奈良君の案内で、対馬グループの丸山部長に「けあZINE」の執筆者の紹介をお願いしに行く。この日は夕方、登別市の特養の施設長、西蔭さんにも「けあZINE」の執筆をお願いする。西蔭さんは障害者のケアから高齢者ケアの世界に入ったということだが、利用者本位のとても素晴らしい考え方の人のように見受けられた。

2月某日
 16時ころ帰京。17時過ぎに元厚労省のA沼さんと会う。入院している当社のO役員の病状を報告。その他もろもろを報告して、A沼さんは京都へ帰る。

2月某日
 図書館で借りていた角田光代の「ロック母」(07年6月 講談社)を読む。角田の単行本未収録の短編が発表順に掲載されている。冒頭の「ゆうべの神様」は「群像」1992年11月号に掲載され、芥川賞候補になっている。喧嘩ばかりしている父と母。主人公の女子高校生は廃屋となった医院でボーイフレンドと抱き合う。主人公の日常は日常的と言い難い。八百屋だの肉屋だのの世間は主人公に対して非友好的だ。主人公は家に火を放ち、「私が一番したかったのはこういうことだと思った。肉屋を殺すことでもなければ花田を刺すのでもない。あの家を燃やすことだった」と独白する。川端賞受賞作の「ロック母」は「群像」2005年12月号が初出。臨月の娘が故郷の島に帰ってくると、母は娘が高校時代に聞いていたロックを大音響でかけ、古い和服をほどいて人形の洋服を縫っている。出産を控えた娘は母に付き添われ島の対岸の病院に入院、出産する。
 結局、家族や人間関係が角田のテーマなのだろう。偶然のように人は家族であったり、恋人であったり隣人であったりするのだが、その不可避な関係性がテーマのような気がする。

2月某日
 「胃ろう・吸引ハイブリットシミュレータ」は、歯医者、歯科衛生士には「吸引シミュレータ」のみの需要があるようだ。その辺の事情を聞きたくて、「浴風会ケアスクール」の服部校長に日本歯科大学の菊谷教授に会わせてもらう。現在のモデルでは歯科医向けにはいろいろと考えなければならないことがあるとわかった。医療・介護業界向けの人体シミュレータは当社にとって、未経験の領域だ。未経験だけに勘違いも多いが、未知の領域だけに面白くもある。
 帰りに吉祥寺によって、元社保庁のK野さんと会う。ノ貫(へちかん)に行く。ここはなかなかいいお値段だが、酒も肴もうまい。

2月某日
 昨晩、ちょっと深酒が過ぎたので朝飯も摂らずに寝ていると、妻が「携帯が鳴ってるよ」と言う。慌てて出ると埼玉県グループホーム協会の西村会長からで、「今日、来るのでしょう?」と聞くではないか。そうだ忘れていた。今日は埼玉県の与野で若年性認知症のフォーラムがあるのだっけ。会場の「すこやかプラザ」がなかなか見つからず、会場に着いたら、原老健局長の基調講演がもう始まっていた。休憩時間に原局長と西村会長に挨拶。司会の会田薫子東大特任准教授にも挨拶して、フォーラムの次のプログラムはパス。フォーラムに来ていた「健康生きがいづくり財団」のO谷常務と浦和で呑むことにする。浦和に着いても午後4時前。まだ居酒屋はやっていない。寿司屋があいていたので入る。「がてん寿司」というその店は、なかなか正解で値段もリーズナブルでおいしかった。

2月某日
 図書館で借りていた「純愛小説」(篠田節子 平成19年5月 角川書店)を読む。篠田は確かデビューしたときは八王子市役所に勤めていた。国民年金の係もやったようだ。
 収められている4つの短編小説はそれなりに読ませるが、私にはどうも今ひとつで恋愛の切なさが伝わらない。そのなかで東大に入学した次男の恋愛と、その父の中年サラリーマンの悲哀を描いた「知恵熱」が私には面白く感じられた。

2月某日
 川村女子学園大学のY武教授に講演の依頼にアルカディア(私学会館)に。Y武さんは私学連盟(?)の理事に選任されたので、その会議が私学会館であるという。Y武さんには年金制度についての講演をお願いするが、厚労省OBや有識者にも社会保障に関連した講演を頼もうと思っている。
 その後、東京駅へ。「けあZINE」の執筆依頼に名古屋へ向かう。名古屋では瑞穂区の西部いきいき支援センターの高橋センター長にお願いに。その後、名古屋駅近くの「風来坊」という居酒屋でK玉さんと待ち合わせ。「手羽先」を食べながら、執筆陣拡大への協力を依頼。宿は温泉付きのホテルクラウン。K玉さんによると巨人軍の2軍の定宿とか。

2月某日
 NPO法人年金・福祉推進協議会が、中部地区の市町村の年金担当者向けに研修会を開催する。その手伝いにホテルから歩いて5、6分の年金機構中部ブロック本部へ。研修会には市町村から20人ほどが参加した。講師は厚労省年金局から大西事業管理課長ら。私はこの日、東京で呑み会があるので中座した。

2月某日
 この3月まで阪大で教えていたTさんと神田明神下の「章大亭」で待ち合わせ。Tさんと高校の同級生である、やはりこの3月まで京大の教授をやっていた間宮陽介先生を紹介してくれるという。5分前に店に着くと2人はもう来ていた。2人の出た高校は長崎市の新設校で1期生だという。2人とも東大の法学部と経済学部を出た秀才だが、店を気に入ってくれて高校の同級生の女の子話などをして盛り上がる。近いうちにまた呑みたい。

2月某日
 「津波と原発」(講談社文庫 佐野真一 2014年2月)を読む。東日本大震災から3年が経過しようとしている。本書自体、震災直後の2011年6月に刊行されたものを文庫化したものだ(文庫化にあたり、一部を加筆・訂正している)。「文庫版のためのまえがき」のなかで佐野は大要、次のように書いている。この3年間、原発事故に関するノンフィクションは大量に出版されたが、大所、高所からの“大文字”言葉で書かれたものが多かった。“大文字”言葉の作品とは“大本営”発表とさして変わらない作品という意味で、東電や政府の発表を鵜呑みにした情報をベースにしたのでは、真相は永遠に究明できない。その点、この本は誰にでもわかる“小文字”の言葉で書いたつもりである。
 佐野は「何の先入観ももたない精神の中にこそ、小説でも書けない物語が向こうから飛び込んできてくれる。それが私のノンフィクションの持論であり、いつもの流儀である」とも書いているが、今回の取材でも随所にその流儀が生かされている。避難所の石段に座って、さてこれからどこへ向かおうか思っていると突然、気仙沼には新宿ゴールデン街のおかまバーのママ「キン子」が帰省していたことを思い出す。
 「キン子」は避難所にあてられた漁村センターにいた。この再開の場面が私には妙に感動的だった。「頭にピンクのタオルを巻き付け、紫色のスポーツウエアの上に、茶色のフリースを羽織っている。近づくと、怪訝そうな顔をして、しばらく私の顔をじっと見ていた。そして突然、言った。『あら、佐野ちゃんじゃない!』。ゴールデン街の“ルル”の扉を開けて店の中に入ったときと、まったく同じ反応だった」。まさに“小文字”言葉でつづられている。
 しかし第二章「原発街道を行く」はいささか趣を異にする。日本に原発が導入された経緯、福島がなぜ選ばれたのか、そして原発事故という敗戦後、最大ともいうべき危機を突き付けられた日本はどこへ行こうとするのか。佐野はいささかの懐疑を抱きながらこのルポを結ぶ。「もしこの危機を乗り切ることができるなら、それは高齢大国ニッポンの世界に冠たる本当の底力である」。