社長の酒中日記 5月②

5月某日
 今度の金曜日、元厚労省の中村秀一さんにお願いして「日本の社会保障の将来」について講演をお願いしている。対象は主として社会保険研究所グループの社員だが、それ以外にも高橋ハムさんや石川治江さん、健生財団のO谷さんなどにも声を掛けている。その中村さんが理事長をしている医療・福祉・介護政策研究フォーラムが郵政互助会ビルに移転したのでちょっと覗きに行ってきた。昨日引っ越したばかりだそうで中村さん自ら段ボールの整理をしていた。講演会の打合せを軽くやって雑談して帰る。夜、社会保険研究所のK上社長に神田のいく代寿司でご馳走になる。いく代寿司のご主人は年末年始、体調を崩して入院していたがこのほど復帰した。ご主人とは会社の近くの銭湯で会ったことがある。脱衣場で「よお!」と声を掛けられたが、いつもの白衣ではなく裸だったので咄嗟には分からなかったっけ。私が脳出血で入院し、退院した後も銭湯で会ったら「大変だったね」と言って背中を流してくれた。気分よく我孫子に帰り、「愛花」によるとK地さんがいたのでもう1軒。

5月某日
 大学の同級生だった弁護士のA宮君の事務所が京橋から西新橋の弁護士会館に移転したので表敬訪問。A宮君の年の離れた末っ子が来年高校受験だとか。上の2人は中学校から私立だし、A宮君自身、中学から開成。ということはA宮家始まって以来の高校受験ということになる。中高一貫の私立出身の人はA宮君はじめ皆おっとりしている感じがするが、高校受験がなかったからなのかな。U海君と3人で呑もうと約束。当社の総務・経理部門のオフコンソフトを作っているサンクリエのI上さんが6月で退社するというので挨拶に見える。18時過ぎに会社近くの東京オーブンで軽く送別会。後から当社のI津さんが合流。I津さんもとはI上さんの紹介。I上さんとはかれこれ30年以上の付き合い。別れるときI津さんに「社長、我孫子でまた呑むのでしょ!」と言われた。「うん」と答えたので我孫子の「七輪」でウヰスキーのソーダ割りを2杯。

5月某日
 中村秀一さんを講師に迎えて第1回の「社会保障勉強会」を社会保険出版社で行う。グループ各社などから40人ほどが集まった。高橋ハムさんや石川治江さん、白梅大学の山地さん、年住協の岩也理事長などグループ外からも参加してくれた。中村さんの講演は社会保障の戦後50年を振り返ったとても意義深いものだった。社会保障にとっての非自民党政権の意義として自民党では岩盤のような各種団体の壁が厚く政策の優先順位を替えられなかったとか、高度成長期には企業も企業内福利厚生を充実していれば良かったが低成長、マイナス成長になってくると厚生年金や健康保険の事業主負担が事業主にとって負担感を感じさせるものになったうえに企業年金の積立不足などが企業財務ひいては企業経営に大きな影響を与えるようになってきたなど非常に勉強になった。厚生労働省の官僚は優秀だが目先の問題の処理に忙殺され、政策課題がどのように解決され、どのような課題が残っているのかという、そのときどきの政策の「総括」が不十分な気もした。中村さんの講演はその辺も匂わせるまさに「自由人」だからこそできる講演だったと言える。この勉強会は今後も続けていきたいと思う。

5月某日
 2004年の4月に自殺した鷺沢萠のエッセー「かわいい子には旅をさせるな」(04年6月 大和書房)を読む。鷺沢の小説は好きでずいぶん読んだ。内容は覚えていないが「ある切実さ」を内包した文学だったように思う。このエッセーは大和書房のホームページやwebダ・ヴィンチに連載されたものでネット文芸の走りかも知れない。エッセーも軽妙でなかなか旨いと思うのだが、自殺したこと知っているからだろうか、何か「痛さ」を感じてしまう。私としては「死んでしまえばオシマイヨ」とつぶやくだけである。

5月某日
 赤羽の「トロ函」で健生財団のO谷常務と東京福祉専門学校の1期生、M浦君と呑む。O谷さんは健生財団に来る前、滋慶学園グループで専門学校の運営を手掛けていたから、その関係だ。M浦君は北海道の福祉施設で働いていたが、奥さんと離婚、3人の子どもたちはM浦君が引き取ったが、福祉施設の給料では暮らせず、単身で上京してトラックの運転手をしながら仕送りをしているという。ただM浦君自体は明るい好青年、といっても40歳をすぎているそうだが。ロックをやっていたそうで、そのせいか今も髪はリーゼント。U木君の「介護ユーアイ」を紹介しようと思う。我孫子で「愛花」に寄ると早稲田出身の元証券マンK地さんがいた。

5月某日
 今日から京都、岡山、下関、福岡へ3泊4日の出張。出張の時は文庫本を持って行くことにしている。今回は以前、古本屋で100円で買った遠藤周作の「イエスの生涯」と西部暹の「保守思想のための39章」を持って行くことにする。京都ではまず「認知症家族の会」の三宅先生に会う。先生はドクターだが、医者は卒業して認知症の奥さんの介護に専念されているようだ。家を長時間空けるわけにはいかないので、自宅近くの山陰本線の太秦で落ち合うことにする。先生の車に乗せてもらって嵯峨天龍寺近くの喫茶店で話す。今回は社会福祉法人サンの西村理事長も一緒だ。先生に嵐山駅まで送ってもらって京福電車で帷子ノ辻へ。そこからタクシーで西洞院通りの「SOU」へ。元厚労省のA沼さんと健生財団のO谷常務と合流。ホテルが近かったのでA沼さんに送ってもらう。

5月某日
 岡山駅の近くのホテルグランヴィアで障害児施設の施設長をしているH川さんと待ち合わせ。昼ご飯をご馳走になりながら昨年亡くなった高原さんを偲ぶ会について意見交換。岡山から広島へ移動してグループ経営会議と会議後の懇親会に参加。2次会は失礼してホテルへ。

5月某日
 下関で下関市会議員の田辺よし子先生に会う。先生は自身も障害者で障害者の雇用に熱心に取り組んでいる。最近は刑を終えた人の雇用にも乗りだして、車を運転してくれた礼儀正しい青年もそうだということだ。唐戸ワーフというところで昼食にフグの刺身などをご馳走になる。昼食には田辺さんのご主人も参加、昼食後、ご主人の運転で安徳天皇を祭っている赤間神宮などを見学させてもらった。田辺さんのご主人は早稲田大学法学部を出て、下関で予備校を経営している。宮崎学なども良く知っているようだ。ご夫妻と別れて下関厚生病院の山下副院長に会う。

5月某日
 下関から船で門司へ、5~6分の船旅を楽しむ。小倉から博多へ。博多では羽田野弁護士にご馳走になる。羽田野先生は元厚労省のY武さんと修猷館高校の同級生。去年、今年と滋賀県のアメニティーフォーラムで会っている。稚加榮という料亭で食事。新鮮な烏賊や魚を刺身でいただく。仕上げは雲丹ごはん。先生が良く行くらしいオールデイの店と「風鹿」というミニクラブをはしご。

5月某日
 「へるぱ!」の取材で仙台へ。まず昼飯で駅前の「牛タン喜助」へ。それからタクシーで東北福祉大学へ。本部のあるキャンパスへ行ったのだが目指す「認知症介護研究・研修センター」は違うキャンパスとのこと。再びタクシーに分乗してセンターへ。今回はセンター長で福祉心理学科の教授も兼ねる加藤伸司先生へのインタビュー。認知症患者との接し方も一般の人との接し方も基本は同じという。もちろん認知症の方にはより丁寧なアプローチが必要となるのだが、うそをつかないとか怒らないというのは人間として基本のように思う。加藤先生のあとは仙台で医療職や介護職のネットワークを作り上げている「笹かまhands」の取材。ジャパンケアの須藤さんと「せんだんの丘」の三浦さんに取材。「顔の見える関係」を築くためまず呑み会から始めたという。夕食はHCM社のO橋さんの紹介で「小料理・凛」へ。吉田美由紀さんというママさんが応対してくれる。フリーライターのS見のスペイン旅行の写真で盛り上がる。小腹が空いたので近くの「炭火焼き料理と旬の魚・小福」へ。これが大正解。筍や日本酒をいただく。ここでS見と編集者のS田と別れ、私はホテル近くの「Bar Laid Back」へ。スコッチの水割りとジントニック。

5月某日
 バスで石巻へ。昼ごはんは駅前の富貴寿司へ。ここは国年協会のS木さんと前に来たことがある。近海物を選んだ「金華寿司」を頼む。鯨の握りもあって満足。パンプキンの渡辺常務に取材。震災直後に取材で知り合ったのだが、会うたびにたくましくなる。石巻で多職種連携を進めているOkaiの会を取材。呑み会にも参加させてもらう。医療職はドクターを頂点にヒエラルヒーがしっかりしているが、介護福祉系はそれがあまり感じられない。老全共闘として言わせてもらえば医療職は党派の全学連、介護福祉系はノンセクトラジカルの全共闘と言えなくもない。重症心身障害児を守る会の高橋さんとも話をすることができたが、高橋さんは今、私の住んでいる千葉県我孫子市から30数年前に嫁に来たという。私の家から歩いて10数分のところだ。

社長の酒中日記 5月

5月某日
 当社は9月決算だが、上半期3月までの売上、利益は売上げが15%ほどダウン、利益は前年同期が数百万円の黒字だったのに、一転して2,000万円の営業損失。下期の始まった9月にO前役員が入院し3月に亡くなった。O前役員は経理と営業を担当していたから大きな痛手であることは確かだが、それを理由にするのは潔くない。やはり社長の責任は重大である。下期必ず2,000万円以上の黒字を出して通期でも黒字としてO前役員の霊前に報告したい。5月は本当に良い季節だ。良い季節になったのでグループ会社のK出社長、T本社長、結核予防会のT下さんと「葡萄舎」で痛飲。銀座に流れる。後半良く覚えていません。

5月某日
 連休。どこへ行く予定もなかったが外房の勝浦に行ってみることにする。何年か前、祖父が勝浦出身の女性のドキュメント作家が自らのルーツを記録した作品を読んで面白かったことを思い出したからだ。彼女の祖先は和歌山から黒潮に乗って房総までやってくるのだ。イワシを獲るためだ。当時は近畿地方の漁法の方が関東より進んでいたわけだ。そんなわけで武蔵野線で海浜幕張まで出て、そこから特急わかしおに乗って勝浦へ。沿線の新緑がまぶしい。勝浦の駅を降りると「朝市」という看板が目に付く。10数分歩くとお寺の門前で朝市が開かれていた。時計の針は11時を回っていたので店仕舞いの準備を始めている店も多かったが私は「かますの干物」とわかめ、ヒジキなどを買う。漁港の周りを少し歩いて駅前の漁協直営の土産物屋で「くじらのハム」を購入。12時過ぎの特急に乗車。「くじらのハム」を肴に駅の売店で買ったワンカップ大関を2本呑む。

5月某日
 「コーポレート・ガバナンス―経営者の交代と報酬はどうあるべきか」(久保克行 日本経済新聞出版社 2010年10月)を読む。最近、会社は誰のものかというようなテーマの本をよく読むようになった気がする。それは経営者の端くれとして、私は「誰のために経営し利益を上げようとしているのか」と自問することが多いからであろうか? もっともいつもそんなことを考えているわけではない。普段は目の前にある事案をどう解決するかに追われていると言っても過言ではない。
 ところでこの本はなかなか面白かったし勉強になった。まずコーポレート・ガバナンスについて重要なことは2つ。「一つは、業績の悪い経営者が退出し、業績の良い経営者が在任し続けることを促すようなメカニズムである。もう一つは経営者に、業績向上のための適切なインセンティブを与えることである」。納得。
 さらに「業績が悪化した企業では社長が交代することが望ましい。しかし、そのようなメカニズムは日本企業では機能していない」「業績の悪い社長を解任するためには、その解任を主導するような存在が必要である。解任のための明示的な仕組みが必要であろう」とも書いてある。そして取締役会の重要な役割は「経営者を選任し、適任でない場合は交替させること」「社外取締役を活用することにより、経営者の交代や事業の撤退をより客観的に行っている企業もある」。そして企業は誰のものか? という問いには「『企業は株主のものである』というのは、経済学から見て当たり前の議論ではない。企業特殊的人材が重要な場合、従業員の利害を考慮して企業を経営することは、効率性からみて、必ずしも悪いことではない」。なるほどねぇ。当社の場合は生産設備、資本が特に必要なわけではない。従業員も一般社会に広く通じる能力というより社会保障関連の情報とネットワークという企業特殊的な能力が求められているのだが。

5月某日
 図書館から借りていた田辺聖子の「金魚のうろこ」(集英社 1992年6月)を読む。この小説も読むのは2回目。20年以上前に書かれた小説だが中身は全然古くない。これはやっぱり田辺は古典になったということ。でも以前読んで記憶にあるのは冒頭の表題作くらいで、金持ちのわがまま娘とその継母への大学生のうぶな恋愛感情が主題だが、読み返すと十いくつはなれた青年とハイミスの甘い恋とその破たんを描いた「魚座少年」やいくつかの恋を経て、結局、外見は冴えないが人間的に魅力のある「中島ピロピロ」とむすばれるであろう「みさかいもなく」の方が面白く感じられた。同じ小説を何回も読むということは以前感じられなかった魅力の発見でもあるわけだ。

5月某日
 図書館で借りた「マイ・ラスト・ソング 最終章」(久世光彦 文芸春秋 2006年8月)を読む。久世は職業軍人の家に生まれ、8歳で終戦を迎える。二浪して東大の文学部に入学、美学を専攻。東京放送(TBS)に入社後、ドラマのディレクターとして活躍、「七人の孫」「寺内貫太郎一家」「時間ですよ」などを手掛ける。私はこれらのドラマはほとんどリアルタイムで観ているが、久世の名前を知ったのはTBS退社後、小説やエッセーを発表しだしてからだ。もっとも決して良い読者だとは言えず、読んだのはこの「マイ・ラスト・ソング」の1から4そしてこの最終章といくつかのエッセーだ。
 「死ぬ間際にたった1曲聴けるなら何を選ぶ?」というテーマで連載(諸君)が開始されたこのエッセーは私にとっては大変お気に入りのものだった。歌とそれにまつわる事柄を虚実とりまぜて回想するというのは、久世の該博な知識とときおり漂わせる退廃の匂いと合わせて私にはたまらないものだった。この「最終章」も実に味わい深くまた気になる歌が多いのだが、私は「大川栄作の孤独」の章で取り上げられている「哀しき子守歌」という死刑囚の歌に魅かれた。
 
 雪がちらほら 降ってきて
 カラカサ片手に やや抱いて
 坊やよい子だ ネンネしな
 父さん出世の 血の涙

 学校へゆくと 先生が
 親のないもの 手をあげろ
 四十九人の その中で
 坊や一人が 手をあげた

 学校がえりの 友達に
 親のない者 馬鹿にされ
 いいえおります 天国に
 小石並べて ねています
 ねています

 これは大川栄作が連合赤軍の浅間山荘事件の前年に出したアルバム「孤独の歌」に収められているという。俗にいう監獄ソング、すべて放送禁止という。ちなみに「哀しき子守歌」のメロディーはいろいろあるらしいが一番ポピュラーなのは「練鑑ブルース」だそうだ。私は20歳のとき、学生運動で逮捕された留置場で「練鑑ブルース」を口ずさんだ覚えがある。「格子窓から眺めたら きらり光った流れ星 あれはおいらの母さんか それとも可愛いスーちゃんか」という一節を好んでいたように覚えている。

5月某日
 「下流の宴」(林真理子 10年3月 毎日新聞社)を読む。「下流の宴」というタイトルから内容も思い浮かばなかったが、林真理子は好きな作家なのでGWに図書館で借りた。読み始めたら面白く400ページを超える長編を1日で読み終えてしまった。ストーリーは中流家庭で中高一貫校の高校に通学していた福原翔が高校を中退し、沖縄出身のタマちゃん(宮城球緒)と同棲を始めることから始まる。翔はタマちゃんを両親に紹介するが、翔の両親とくに母親由美子の理解が得られない。由美子の母親は医者に嫁いだが夫は若くして亡くなり、由美子の母親は下着の訪問販売で成功し2人の娘を大学にやり、由美子は早稲田の理工出と結婚し妹は医者に嫁ぐ。対してタマちゃんは沖縄の離島出身で、両親は離婚、それぞれ再婚しタマちゃんの母親は離島で呑み屋をやっている。由美子にしてみれば医者の家系にタマちゃんのような家出身の娘は迎えがたいのだ。タマちゃんは医者がそんなに偉いのか、だったら私が医者になってやると宣言し、苦しい受験勉強の結果医学部に合格する。ざっとこうしたストーリーなのだが、合格後、翔はタマちゃんのもとを去る。林真理子の小説は現代社会の歪みをさりげなく切り取って読者に提示するところがある。この小説で言えば「格差社会」や「学歴社会」の歪みなのだろうが、林真理子は物語として昇華しているところが凄いと思う。

社長の酒中日記 4月②

4月某日
 大学時代の同級生A宮弁護士を事務所に訪ねる。当社のI佐が同行。若干の相談を終えた後、事務所近くの「新橋やきとん京橋店」へ。八海山と三千盛をしこたま呑む。A宮、U海、S崎、O、Y下それに私、女性ではコンちゃん、後に私の奥さんになるO原がクラスの仲良しグループだった。A宮は卒業後司法試験に挑戦、見事合格、検事に任官した。10数年検事をやった後、弁護士になった。久しぶりに学生時代の昔話をして楽しかった。楽しさの余韻を楽しみたくなって我孫子駅前の「七輪」に寄ったのが間違いのもとだった。青海社のK藤社長がいるではないか。もう一軒行こうとバーに行ってしまった。気が付いたら家で寝ていたといういつものパターンだ。

4月某日
 「地方から考える社会保障フォーラム」の第3回目が今日と明日、社会保険研究所で開催される。愛知県半田市で住宅改造や町おこしの団体をやっているK玉道子さんや健康生きがい開発財団のO谷常務に今回、講師をお願いした。当社のS田を交え富国生命ビルの富国生命倶楽部で夕食を食べることにする。共同通信のJ記者にも声をかける。富国生命倶楽部にはルオーやルーベンスなどの絵が掲げられている。夜景もきれいだ。赤ワインをいただく。K玉さんをホテルに送って、私とO谷常務は上野駅構内の「森香るバー」へ。

4月某日
「地方から考える社会保障フォーラム」2日目。午前中にO谷常務、午後にK玉さんの話を聞く。2人ともしゃべりは◎。それで思うのだが如何に内容が良くてもしゃべり方が今ひとつだと思いは十分に伝わらない。私の知人のなかでしゃべりのうまさでは元宮城県知事の浅野さんがピカイチであろう。内容は今一のとき(失礼!)でもしゃべりで聞かせる。元事務次官の辻さんは「辻説法」と言われたぐらいだから情熱的な語りでは右に出るものはいないだろう。聞く方は少し疲れるが。元社会保険庁長官の堤さんは内容は高度で深いのだが滑舌に難あり。話が逸れたが「フォーラム」終了後、O谷常務とK玉さんに我孫子市議の関さん、由利本荘市議の梶原さんと会食。梶原さんは70過ぎの老人だがとても魅力的な人だ。市民のために地域を替えていくために市議になったと目的が明確だ。若いときに炭鉱や自衛隊の経験があるという。「体験してみたかった」というのが動機という。秋田訛りで訥々とした喋りだが聞かせます。

4月某日
 国土交通省のG田さんが役所を辞めたので「跳人」で高齢者住宅財団のO合さんとご苦労さん会。G田さんは彼が旧建設省住宅局の住宅生産課の工業化住宅の係長だったころの付き合いだからおよそ30年。私が日本プレハブ新聞の記者時代、取材でずいぶんお世話になった。偉ぶることのない誰にでも親切な、本当の意味で「いい人」。田酒など青森の酒をのむ。翌日はHCM社のコンペがあるので私は神田泊。

4月某日
 HCM社の春季ゴルフコンペに参加。江東区の若洲ゴルフリンクス。私は2組目で三井住友海上のN込部長、年住協のM田部長、HCMのK島さんと廻る。乗用カートだったが、プレーが終わってから万歩計を見ると歩数は2万歩を超えていた。N込さんは公務部長で何かと厚生労働省に人脈があり私と共通の知人も多かった。M田部長は私の同郷の北海道室蘭市出身。ただ私と違って高校から道内有数の進学校である凾館ラサールへ。大学は東北大学、就職は大手損保というエリート、でもとても気さくな人柄だ。K島さんはHCMのベテラン女性社員。そんなわけで、廻っていても和気あいあいで楽しかった。私の成績はグロス131、ハンディキャップ36、ネット95で参加19人中17位。銀座のクラブのママも特別参加したが、表彰式は土曜日なのでママの店を借り切って盛り上がる。

4月某日
 図書館で借りた「鴨川食堂」(柏井壽 小学館 2013年11月)を読む。新聞の書評などで結構取り上げられていた本だ。元刑事の鴨川は刑事を辞めたあと、和洋中なんでもありの「鴨川食堂」をオープン。娘の「こいし」が手伝っているが、実はこいしは食堂の奥で探偵事務所をやっている。この探偵事務所、普通の事件は扱わず、依頼人の記憶に残っていて「ぜひもう一度食べたい」と思っている食事を探し出し、再現するという探偵事務所だ。私はこのところ弁当作りに目覚め、「レシピ」の再現は面白く読ませてもらったが、小説としての味付けは今ひとつと感じた。でも作者は京都のカリスマ案内人として有名な人らしく初の小説集ということなのでこれからに期待しよう。

4月某日
 「<働く>は、これから―成熟社会の労働を考える」(猪木武徳編 岩波書店 2014年2月)を読む。現役生活も終盤に差しかかっている私は、この頃とみに「私が私であることの意味」を考える。もちろん結婚して家庭を築いたことも大きな意味である。そして私にとっては「働いてきたこと」も大きな意味を持っているように思う。私自身のことだけでなく、日本社会にとっても「働く」ことの意味を再確認、再定義すべきときに来ているようにも感じる。そんなことから本書を読むことにした。
 杉村芳美は成熟社会にふさわしい働き方として「自分にも全体(組織・社会)にも偏らないこと、個人と全体また他者との相互依存の関係を知ること、特定のイデオロギー・価値観に偏ないこと、経済的な利益を追求しすぎないこと、そして働き方と仕事意識・仕事観の多様性に寛容であること」をあげている。岩井八郎は多様化し個別化する日本人の人生全体に変化をもたらす仕組みとして、すべての日本人が一五歳になると五〇〇万円のライフコース基金が支給され、これを教育資金や職業訓練資金として使える構想を提案する。
 藤村博之は生涯現役社会の実現に向けて、経営者が高齢者雇用の可能性と重要性をしっかりと受け止め、先頭を切って挑戦するようになれば、日本は世界中から尊敬される国になるという。猪木武徳はフランスの思想家トクヴィルの言う「結社」(association)に着目して「個人の生活のためだけではなく、国家のためだけでもなく、その中間に存在する具体的な共同体や組織の共同の利益のために、自発的に働くことに意味と価値を見出す」とする。その具体的な共同体こそ「結社」だとし、そして労働が労働たり得るためには「他人と連携して」「全体のために」という要素がなければならないともいう。
 私がもっとも面白いと感じたのは宇野重規の「労働と地域」の意味論というべき論文であった。宇野は労働の三つの要素「稼ぎ」「仕事」「暮らし」のなかで現代は「稼ぎ」の比重があまりに大きくなっていると指摘する。かつて日本の伝統的な労働概念では、「稼ぎ」にはならなくても、所属する共同体を維持するための諸活動「仕事」があったし、「稼ぎtがなくとも共同体のなかで「暮らし」を継続することも可能であったという。自らの暮らすべき「地域」を見出した人々には「存在論的安心」が確保されているのだ。

4月某日
 SMSのN久保さんからメールで日本社会福祉教育学校連盟の役員名簿が送られてきて「誰か知っている人いますか?」という。もちろん知っている人はいるが「何のために知りたいの?」とSMSに出向く。結局、日本介護福祉士養成協会がいいんじゃないのという話になった。SMSはなかなかいい会社と思うが、自分たちが立脚している医療・介護・看護業界の知識が今ひとつ。だからこそ当社と連携する意味があると思う。三井住友海上の顧問となった元厚労省のM島さんにランチをご馳走になりながらいろいろな話をきかせてもらう。顧問業もしっかりやるとなかなか大変なんだ。結核予防会のT下理事のところに寄り、夕方「葡萄舎」で一杯。

4月某日
 国民年金委員というのを厚生労働大臣から委嘱されている。その千葉県委員会の理事会があるので千葉市に出かける。理事会中に高校の同級生だったS川君からメール。6月に予定していたブルーベリー摘みに行けないというメールだ。そういえばS川君は千葉だったなと思って4時には会議が終わるので千葉で一杯やろうとメール。4時10分前に千葉駅着のメールが来たので会議もそこそこに千葉駅へ。築地日本海で乾杯。韓国の海難事故が話題に。「昔の日本だね」で一致。話が盛り上がっているところへ国民年金委員会のメンバーが店に入ってきた。S木さんが私たちの席に合流。S木さんは一緒に札幌へ出張したとき、私の高校の同級生と一緒に呑んでいるので話はさらに盛り上がった。

4月某日
 川村学園女子大学の学部長からこの4月に副学長になった元厚労省年金局長のY武さんと我孫子で食事。Y武さんが我孫子駅北口のビストロ・ヴァン・ダンジュというフレンチの店を予約してくれた。私には健生財団のO谷常務が同行。5,000円のコース料理を注文したが、これが正解。フォアグラ、鯛の香草焼きなど本格的なフレンチだ。かなり高いワイン、といっても8,000円くらいだが、を頼んで、白ワインを追加。食後のコーヒーも美味しかった。私は我孫子に住んで40年以上たつが我孫子ではほとんど外食したことがない。Y武さんは蕎麦屋などいろいろな店を知っている。私も職を退いたら、我孫子のグルメ巡りを楽しみたい。

4月某日
 去年まで阪大の教授をやっていた元社会保険庁長官のT修三さんからメール。認知症の高齢者が電車に跳ねられ、遺族にJR東海が損害賠償の訴訟を起こしていた件だ。名古屋高裁は妻に約365万円の支払いを命じ、Tさんはこの判決に「怒り心頭」のメールを寄越したわけ。早速、神田明神下の「章太亭」で会うことにする。Tさんは朝日歌壇に掲載されたという「檄にいま「脱原発」を飛ばしたし全共闘は老いたるもなほ」という短歌を「章太亭了解しました」のメールに添えてきた。Tさんも団塊の世代で元東大全共闘という噂。元全共闘と言えば、午前中に早大全共闘の先輩で、自治労書記局から今は「ふるさと回帰支援センター」の事務局長をやっているT橋ハムさんに会って、名古屋の一件について「団塊の世代が動かなきゃ」と訴えた。ハムさんはもちろん賛同してくれた。午後、高田馬場でグループホームを運営しているN村美智代さんにも同様のことを話す。N村さんの夫は医者で数年前にがんで亡くなっている。私は会ったことはないが東大医学部で安田講堂に籠城したメンバーだそうだ。

4月某日
 東海銀行のOBで、亡くなった当社のO前役員と親しかったF谷さんから「O前さんの亡くなる前の様子を知りたい」というメールが入る。F谷さんは南柏に住んでいるので我孫子駅前の「七輪」で会うことにする。5時半の待ち合わせ10分前に行くとF谷さんはすでに来ていた。O前さんの発病から亡くなるまでをメモにして渡す。F谷さんは麻布高校から一浪して早大法学部に進学。私より2、3年上で第一次早大闘争のころは革マルのシンパだったらしい。F谷さんも名古屋の一件には憤慨していた。私が北海道出身で父親が室蘭工業大学の教師をしていたというと、F谷さんの父親も室工大の卒業生だという。世間は狭い。

4月某日
 図書館で借りた「夢に見た娑婆 縮尻鏡三郎」(佐藤雅美 文藝春秋 2012年4月)を読む。有能ではあるが故に大番屋に左遷された縮尻鏡三郎が難事件を解決するシリーズ。今回は食用の鳥を捕獲したり商ったりする鳥問屋をめぐる物語。佐藤雅美の他のシリーズにも言えることだが、時代考証とくに江戸の経済を支える経済的な下部構造と、その上部構造としての法制度や官僚組織の説明が半端ではない。

4月某日
 4月最終日。有楽町の交通会館の「ふるさと回帰支援センター」のT橋ハムさんを訪ねる。前の山口県知事で亡くなった山本繁太郎さんを偲ぶ会の打合せ。次いでHCMに寄り、M社長が休みなのでO橋さんと雑談。17時に会社で健康・生きがい開発財団のO谷常務と実務者研修のeラーニングの打合せ。当社のA堀が同席。知り合いのO嬢が相談があるといってベルギーワッフルを手土産に来社。真面目だから悩むんだよなー。私はほとんど悩みがないというか悩まない。30代、40代に結構重たい(とそのときは思った)鬱病を何回か患ったことが嘘みたいだ。隣の鎌倉橋ビルの「跳人」でO谷常務とO嬢と食事。3人でウヰスキーのボトルを1本近く空ける。今週も呑み過ぎ。