社長の酒中日記 6月③

6月某日
東京ディズニーランドのアンバサダーホテルで民介協のO田専務、浜銀総研のT中さん、当社のA堀と打合せ。民介協の接遇の研修がアンバサダーホテルでやられているため舞浜の駅に来る羽目に。学期中のウィークデイのためか学齢前の子供を連れた若い夫婦が多いように思う。まぁ私などの来るところではない。帰りは京葉線の東京で下車。京葉線の東京駅は有楽町寄りにあるので東京商工会議所に近い。で東商のT田さんに電話してお昼を一緒に食べることにする。T田さんはカラー検定担当で当社のS田と一緒に前向きに仕事に取り組んでいる。午後HCMで打合せ。夕方、健康生きがい財団のO谷常務が来社。そのまま葡萄舎へ。

6月某日
シルバーサービス振興会の総会が東海大学校友会館で開かれた。総会の議長は社会保険研究所の川上社長が務める。多少緊張気味。総会後の懇親会に参加。振興会の監事で竹中工務店に勤めていた吉竹さんが千葉経済大学の教授になっていた。民介協の前理事長でジャパンケアの馬岱社長らに挨拶。振興会の新しい常務、中井さんに紹介される。パーティには当社から岩佐、迫田が参加。総会後、フィスメックの小出社長、岩佐、迫田と富国倶楽部へ。弁護士の計良先生と会食。計良先生は20数年前、早稲田大学法学部卒業後、新聞の募集広告を見て当社に入社。退社後に司法試験に挑戦して合格。顧問契約を結んではいないがいろいろと相談に乗ってもらっている。迫田とマンガの話で盛り上がっていた。

6月某日
3月に亡くなった当社の大前さんを偲ぶ会が新宿歌舞伎町のレストラン「ナパバレー」である。当社の社員はじめ社会保険研究所の社員やHCMの会長、社長、社員、年住協の理事長、理事、富国生命の社員など30名近くが集まってくれた。司会はHCMの森社長がやってくれた。ややしゃべり過ぎの感はあったが名司会であった。冒頭、私が献杯の挨拶をした。自分で言うのも何ですがこれがなかなかよかったので最後に再録します。各自自己紹介し、何人かがスピーチしたが、今更ながら大前さんが愛されていたことがわかったし、何よりも大前さんには人に好かれる「何か」があった。飾らないしだれにでも優しかった。お見舞いに行ったときお母様にお会いしたが、実に優しそうな方で、そのとき「大前さんは母親の血を引いたんだ」と思ったものである。富国生命の矢崎さんと中条さんも「新入社員の頃、大前さんのところへ営業に行くと心が安らいだ」という風なことを語ってくれたが、私は「大前さんは酒とタバコと麻雀、それに若い男が好きだったんだよ」と茶化したが男女に関わらず若い人の面倒見が良かったように思う。最後にご主人の崎谷さんが挨拶したが、歌舞伎町は大前さんとご主人が出会った街であり、2人で酒を呑み、麻雀をやった街でもあるという。大前さんの麻雀は「好きだったけど腕前はたいしたことない」というのが本当のところらしい。

それでは私の献杯の辞を再録します。
3月7日の朝、私は当社の石津さん、田島さんと東武練馬の駅で待ち合わせ、大前さんの入院している薬師堂病院に向かいました。大前さんは昨年の8月、福岡の出張から体調を崩し、とくに腰痛が酷いと訴えるようになりました。私たちは「麻雀のやり過ぎじゃないの」と軽口を叩いていたのですが、痛みは尋常ではなかったようで9月に入って江古田の練馬総合病院に検査入院することになりました。結果は「すい臓がんで専門病院での治療をすすめられた」ということでした。私は早速、厚労省の唐沢政策統括官に相談、有明の癌研病院を紹介してもらいました。癌研病院は開発が進む湾岸エリアにあり、大前さんの病室は比較的高層階にあったこともあって見舞いに行ったときは眺望を楽しませてもらいました。また月島や門前仲町にも近く、さらに足を延ばせば森下、立石などディープな飲み屋街もあり、私は大前さんを見舞った後、こうした飲み屋街を徘徊するのが楽しみでした。
12月、八戸出張中のことでした。大前さんから携帯に電話が入り、主治医から「治癒の見込みがないので積極的な治療はしない」と告げられたことを知りました。私は元八戸の駅で「えっ死んじゃうのか」と人目もはばからず泣き出してしまいました。逆に私が「泣くなよー」と大前さんに励まされたのでした。大前さんとは彼女が当社に入社する以前、彼女が今はない新宿のクラブ「ジャックの豆の木」で働いていたときから知っていましたから、知り合ってから40年近くになります。私が年友企画に勤め始めたころは社会保険も年金住宅融資も伸びる一方で、今から考えるとさしたる努力もせずにお金が儲かった時代でした。しかし私が社長になってからしばらくして舞台は暗転、年金住宅融資の新規融資は中止、社会保険庁の不祥事が発覚したこともあって社会保険庁自体が廃止に追い込まれます。会社の売上は最盛期の4分の1以下に落ち込み、毎年毎年、数千万円の赤字を背負い込むことになりました。社内的にも孤立し私としては非常につらい時期だったのですが、そんなとき社内で唯一私を支えてくれたのが大前さんでした。大前さんが病に倒れたら今度は私が支える筈だったのに、逆に私が励まされたのでした。

3月7日に話を戻します。いつもの病室を訪ねたら大前さんがいません。病室を替ったのかと看護師さんに尋ねると昨夜遅く亡くなったとのことでした。自宅を訪問すると大前さんはベッドに横たわって、本当に眠っているようでした。9日が通夜、10日が告別式とのことでしたが私は8日の夜に横浜で元宮城県知事の浅野さんの誕生パーティがあり、そのまま大阪への出張が組んでありました。横浜に行く前に大前さんの好きだったウヰスキーを霊前に供え、通夜、告別式は失礼する旨、ご遺族には伝えました。出張をキャンセルすることはもちろん可能だったのですが、泣き顔を知り合いに見られるのが嫌で欠席しました。告別式の正午、私は大阪の堺にいました。私は大前さんの携帯に「大前さんありがとう。さようなら」のメールを送り私だけの告別式をしました。本日、偲ぶ会を開催するに当たりもう一度言わせてもらいます。

「大前さん本当にありがとう。本当にさようなら」

2014年6月20日
年友企画代表取締役社長 森田茂生

6月某日
「教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化」(竹内洋 中公新書 2003年7月)を読む。日本経済新聞の読書欄に確か「私の読書遍歴」というコラムがあり、経済人が毎回登場して愛読書などを披露している。これは先週、日銀の副総裁をしていた人が紹介していたなかにあった本である。私は竹内洋の「革新幻想の戦後史」(中央公論新社 2011年10月)を読んでえらく面白かった経験があるので、幸い我孫子市民図書館に在庫があったことから早速借りることにした。序章で著者は「大正時代の旧制高校を発祥地として、1970年ころまでの日本の大学キャンパスにみられた教養と教養主義の輝きとその没落過程をあらためて問題として考えたい」と書いている。私は大学を1972年に卒業しているから、教養主義の没落を身をもって体験しているはずだが、私の身の回りでは教養主義が大きな顔をして跋扈していた。もちろん教養主義とは表立っては言わないが、今考えれば教養主義そのものであったように思う。だいたい私は中学生のころから教養主義にかぶれ出したようだ。勉強もそれほどできずスポーツも苦手、女子生徒には相手にもされない。かといって不良にもなれないそういう少年だった私は本にのめり込んでいく。といういか本を読むことによって優越感をもつわけね。それが浅薄な私の教養主義のスタートだった。だけど田舎の高校生の教養主義などたかが知れていて、私が一浪して早稲田に入ったとき「埴谷雄高」を「ウエタニオダカ」と読んで笑われたことを思い出す。それこそ学生時代は乱読の日々。マルクス、レーニン、吉本隆明、黒田寛一、谷川雁、寺山修二、ドストエフスキーなどなど。でも私の教養主義の限界ははっきりしている、マルクスなら初期マルクスの「経済学哲学草稿」「ドイツイデオロギー」にはじまって「フランスの内乱」「経済学批判」止まり。「資本論」は読もうともしなかった。吉本も「擬制の終焉」「情況への発言」などの情勢論や転向論は理解できたが「言語にとって美とは何か」「共同幻想論」「心的現象論」はほとんど理解できなかった。でも、今本を読むのを苦にしないのはその頃の乱読のおかげかもしれないと思ったりもする。

6月某日
上野千鶴子の「ケアの社会学―当事者主権の福祉社会」(2011年8月 太田出版)を読み始める。この本は確か出版直後に上野の講演会で求めたものだが、菊判二段組本文470頁を超える大著だけに読むのを躊躇していた。しかし医療と介護の問題はこれからの日本社会にとって避けて通れない問題だし、団塊の世代の私にとっては近未来の切実な問題だ。当社のビジネスにとっても介護は成長分野という位置づけ。腰を落ち着けて読むことにする。ただしいつ読み終わるか分からないのでⅣ部構成の部ごとに感想を記すことにする。第Ⅰ部は「ケアの主題化」。ケアを原理論的に語っているわけだが、その前に本書でが「注」が巻末や章の最後にまとまって掲載されているのではなく、見開きのページごとに記載されている。これはすごくいい。「注」が巻末や章末に記載されていると、私などは面倒くさくて「注」は飛ばしてしまう。その点、本書は良くできていると思う。第3章「当事者とは誰か」で「家族介護が『自由な選択』であったとしても、機会費用を失うことと引き換えの選択か、それとも所得保障をともなう福祉制度のもとの選択かででも異なっている」というインド出身で貧困や不平等の研究を手がけたセンに依拠した論述に「注」が付されている。ちょっと長いが内容が面白いので書き写す。「センがあげている興味深い例は、『断食』と『飢え』の違いである。『断食とは他に選択肢がある場合に飢えることを選択することである。飢えている人の『達成された福祉』を検討する場合、その人が断食しているのか、それとも十分な食糧を得る手段がないだけなのか、を知ることは直接的な関心事である』。また『達成された福祉』だけを評価基準とする立場をも以下のように批判する。『標準的な消費者理論では、たとえ選択された最善の要素以外のすべての要素を選択可能な集合から取り除いたとしても、それは何ら不利益をもたらすものではない』。この立場が不適切なことは、開発独裁の結果もたらされた国民経済の繁栄が、国民による選択の自由(民主主義的決定)をともなわないかぎり、抑圧とかわらないこことからも支持できるだろう」。センも上野も急進的な民主主義者と言ってよい。第Ⅰ部は結局、当事者主権を理論的に位置付けていると言えるが、先験的な当事者以外、当事者能力を欠いた個人、子どもや認知症高齢者の場合はどうか。その場合も上野は次のように断言する。「一次的ニーズの正当性は、一次的ニーズの帰属先である当事者によって最終的な判定をくださなければならない。たとえ、その時点で『当事者が不在だったり判定能力を持たなかったりしたとしても、事後的に『当事者になる』者によって』」。

社長の酒中日記 6月②

6月某日
ルポライターの沢見涼子さんから「世界」の7月号が送られてくる。巻頭の「世界の潮」に沢見さんが書いた「認知症列車事故裁判 『介護の社会化』に逆行する判決」が掲載されている。昨年8月の名古屋地裁判決は、家族の監督が不十分だったとして妻と長男に約720万円の支払いを命じたが、名古屋高裁判決は長男の責任は認めず、妻にのみ責任があるとして半額の約360万円を支払うように命じた裁判について論じている。沢見さんは「認知症の人を介護する家族はもちろん、認知症とその予備軍が4人に1人という以下の時代に会っては、すべての人にとって衝撃的な判決だ」と論じている。そして厚労省が進めている「地域包括ケアシステム」に触れて「鉄道会社こそ沿線住民とともにある会社なのだから、当然、地域で高齢者を支えるべき一員のはず。JR東海も賠償請求訴訟を起こすよりは、この事故を機にどうしたら同じような事故を繰り返さずに済むか、住民と一緒に考えて取り組んでいくことがむしろ求められているのではないか」と結んでいる。住民、市民にとっての足という鉄道会社の原点をJR東海はどのように考えているのだろうか?

6月某日
社会保険庁OBのM本さん、M木さん、I田さん、W辺さんと私の5人で栃木県鹿沼市のディアレイク・カントリー倶楽部でゴルフ。この会はもう20年以上も続いていて、一時は4組、5組で廻ったこともあるし会員数も20人を超えていたように思う。メンバーも高齢化し亡くなった人もいて現在は2組がせいぜい。今日は5人なので2人と3人に別れる。天気予報では9時頃から雨足が弱まるという予測だったが午前中はどしゃ降りに近い降りになってしまった。ときどき強風も加わって足の悪い私は午前中でリタイアを宣言、早々と風呂に入らせてもらった。4人が上がってくるのを待って、私とI田さんはM木さんの車で東武日光線の新鹿沼駅まで送ってもらう。ここから電車で私は北千住、I田さんは春日部までI田さん持参のワインを呑みながら2時間近く年金制度や社会保険庁時代のおしゃべり。これが楽しい。

6月某日
三井住友海上のN込さん主催で同社顧問で元厚労省老健局長の宮島さんと食事会。三井住友海上からN村課長が参加、折角だから宮島さんの本「地域包括ケアの展望」(社会保険研究所発行)の編集をやった当社のH尾、出版記念パーティの司会をやった高齢者住宅財団のO合さんにも声を掛ける。会場は大手町センタービルの「小洞天」。三井住友海上は駿河台、高齢者住宅財団は八丁堀で当社が一番近いのだが、私とH尾が遅刻、改めて乾杯。宮島さんの山形県庁出向時代の話など楽しかった。山形は温泉良し酒良しで私も昔は良く行ったものだが最近は全然。「小洞天」の中華料理でおなか一杯になったところで解散。私は内神田の会社の近くにある「渦」へ。ここは安倍首相の奥さんが経営している店だそうだが、もちろん奥さんは店にはいなかった。おなか一杯でつまみはほとんど喉を通らず、焼酎を2杯ほどいただく。

6月某日
ブックオフで買ってあった井上靖の「わが母の記」(2012年3月 講談社文庫)を読む。何で買ったのか理由は覚えていないが、「昭和の文豪」と言われた井上靖の実母が今でいう認知症になっていく話である。小説ともエッセーとも言えない、その中間のような語り口である。認知症を描いた小説としては有吉佐和子の「恍惚の人」(1972年)、耕治人の「そうかもしれない」(1988年)がある。「恍惚の人」はフィクションかも知れないが、「そうかもしれない」は妻の認知症を描いている実話である。自分の身近な母や妻の精神が壊れて行くのを体験するのはつらいことだし、それを文学としてしまうのも辛いことではあるが、そこに小説家の業のようなものも感じてしまう。

6月某日
医療介護福祉政策フォーラム(中村秀一理事長)の第2回実践交流会がプレスセンタービルで開かれるので、土曜日だが出勤。報告は4つ。社会福祉法人新生会の名誉理事長の石原美智子氏の「介護の専門性とは」、社会福祉法人きらくえん理事長の市川禮子氏の「きらくえんの歩みとユニットケアの到達点」、社会福祉法人恵仁福祉協会常務理事で高齢者総合福祉施設アザレアンさなだ総合施設長の宮島渡氏の「地域でねばる」、地域密着型総合ケアセンターきたおおじ「リガーレ暮しの架け橋」グループ代表の山田尋志氏の「社会福祉事業の共同事業の実践」である。私は宮島氏と山田氏の話を面白く聞いた。宮島氏は長野県上田市の旧真田町地区での実践。「地域で暮らすニーズ」に対して施設機能を出前する=施設機能分散という発想で対応し、これによって自宅の施設化と施設の自宅化(個室・ユニットケア)を実現した。そして結果として、地域社会から要介護者を隔離しないと、地域住民の「気づき」が高まったという。山田氏は介護人材の確保・育成のため中小法人の共同事業を発案したという。限られた資源を有効に活用するためにも、施設系、訪問系に限らず共同化は避けられないように思う、これは当初は経営田としての法人にメリットがあるのだが、経営の安定化や介護技術の向上、標準化によって利用者にもメリットは還元されると思われる。このフォーラムには厚労省の現役やOB、それから関係者がたくさん来ていた。

6月某日
埼玉県認知症グループホーム・小規模多機能協議会(西村美智代代表)の総会後の講演会を聞きに行く。これは日曜日だが講演する演者が熊本大学の池田学先生なので聞きに行くことにする。この日はワールドカップの日本対コートジボワール戰の日。池田先生は午前中、国際会議に出席していたが、先生方のトイレが長く、どうもトイレを口実にテレビ観戦していたようだ、とかオランダ戰に負けたスペインの先生が元気がなかった、と笑いをとる。先生の本日のテーマは「BPSDに対する治療とケア」の原則。BPSDは決して周辺ではないし問題行動とも言えないとしBPSDをコントロールできなければ認知症そのものが進行する。そしてBPSDに対する介入の原則として①BPSDを正確に評価し②標的症状を緻密に定め、理論的な仮説から治療方法を選択する、をあげる。さらに「まず、非薬物療法を検討し、効果が不十分な場合に薬物療法を検討する」としている。先生の講演態度は極めて真摯で医療職と介護職の連携に対しても積極的というか、日ごろ認知症の患者と接している介護職の仕事を正当に評価しているのが印象的だった。

社長の酒中日記 6月

6月某日
神戸の帰りに愛知県半田市の亀崎地区に転居したK玉道子さんのところに寄ることにする。K玉さんは建築家で家具の転倒防止活動を名古屋市中心に行ってきた。昨年、知多半島の半田市に引っ越して新たに町興しに取り組んでいる。そんなわけで半田の亀崎を訪れるのは昨年から3回目。気候温暖で住みやすそうな街だ。今回は民家を改造した集会場に呑み会を設定してくれて、いろいろとコミュニティ活動をやっているI川さんとK玉さんの旦那さんと一緒に呑むことになった。呑み会に入る前にI川さんに集会場を案内され、亀崎地区のお祭りの山車の説明を受ける。写真で見るとなかなか立派な山車で、江戸時代は海運、醸造、漁業で栄えた町らしい。呑み会でI川さんといろいろ話をするうちに私と同じ歳ということがわかった。I川さんは集団就職で上京、日暮里の工場で働いていたという。十何年東京で働き、故郷に戻って結婚、離婚の経験もある。発想が自由で柔軟、すっかり気が合ってしまった。

6月某日
ブックオフで購入した遠藤周作の「イエス巡礼」(文春文庫 1995年1月刊)を読む。遠藤には「イエスの生涯」「キリストの誕生」があり、本書と合わせてキリスト3部作と私が勝手に名付けた。「イエス巡礼」は聖母マリアがイエスを身ごもったことを大天使ガブリエルから告げられる受胎告知から磔刑にされるゴルゴダの丘、イエスの復活までをアンジェリコ、ベラスケス、ルオー等の名画を通してその生涯を辿ろうという意図のもとに企画され、月刊文芸春秋に連載されたものだ。マリアの処女懐胎やイエスの復活はもちろん現代の科学では受け入れることはできないだろう。しかし遠藤は「これらの物語は人間にとって真実だった」としこれらの物語の創作は「事実よりはるかに高い真実だった」と繰り返し書く。イエスは十字架の上で死に臨みながら「父よ、彼等は為す所を知らざる者なれば、これを赦し給え」と言ったという。このへんにキリスト教が世界宗教となった一つのカギがあるような気がする。遠藤はこの言葉は彼を死に追いやった大祭司や衆議会の議員たちや群衆だけに向けられたのではない。彼を裏切ったユダや弟子たちにも向けられたと考えるべきであると書く。遠藤はイエスの「この言葉を知ったから」、弟子たちはふたたびイエスのために集まり、イエスの教えのために生きようと決心したのだという。旧約聖書的な神は裁く神、怒りの神である。厳しい父性の神と言ってよい。これに対してイエスが体現する新約の神は赦す神、母性の神である。だからこそ民族宗教に過ぎなかったユダヤ教とは違って世界性を獲得できたのではないだろうか。

6月某日
「ハンナ・アーレント―『戦争の世紀』を生きた政治哲学者」(矢野久美子 中公新書 2014年3月)を読む。ハンナ・アーレントの著作も読んだことはないし、ハンナ・アーレントのまともな評伝も読んだことはなかった。しかしアイヒマン裁判においてアイヒマン養護ととられかねない論説が批判され、ユダヤ人社会の多くの人から弾劾されたことは知っていた。実際はハンナ・アーレントはアイヒマンを擁護したわけではなく、彼女は「アイヒマンを怪物的な悪の権化ではなく思考の欠如した凡庸な男」と述べたのであるが。「まえがき」に彼女の一生が簡潔に述べられている。それによると「彼女は、1906年にドイツのユダヤ人家庭に生まれ、75年ニューヨークで生を終えた。少女時代から文学や哲学に親しみ、大学で哲学を専攻し、マルティン・ハイデガーとカール・ヤスパースの下で学んだ。1933年、ナチ支配下のドイツからパリへと亡命し、そこでユダヤ人の青少年やドイツ占領地域からの避難民の救出にたずさわった。第2次世界大戦勃発後には数ヵ月間フランスの収容所に送られたが脱出し、アメリカ合衆国へと渡る。以後、時事問題や政治的・哲学的問題について書きつづけ、1951年には大著「全体主義の起源」を刊行、その後も「人間の条件」(1958年)、「革命について」(1963年)など、20世紀の古典ともいうべき数多くの著作を発表した」。妻子あるハイデガーとは恋愛関係に陥り、最初の結婚は破たんするなど、学問一筋では決してなく、情熱的な生を生きたようだ。ナチズムとスターリズムを全体主義としてとらえるのは当時としては斬新な見方であったと思われる。人間、個人に対して抑圧的な体制に対して彼女は同じような人間に対する犯罪を感じたのだと思う。

6月某日
川村学園女子大学の現在は副学長をやっているY武さんから「今日、国際展示場に行くのだけど帰りに呑まないか?」と電話がある。「ゆりかもめで行くから場所は新橋がいいな」と場所まで指定。相変わらず勝手な人である。雨が降っているから駅の近くがいいだろうと、ネットで調べてニュー新橋ビルの「つむぎ屋」を6時30分から予約。Y武さんと2人だけじゃ変わり映えしないなと厚労省のY幕さんに「来ませんか?」と電話、「少し遅れますが行きます」との返事。つむぎ屋でビールを呑んでいると「久しぶりだなぁ」とY武さんが入ってくる。そういえば先月、博多でY武さんの高校時代の友人、羽田野弁護士にご馳走になったけど、その報告もしていなかった。3月に亡くなった前山口県知事の山本繁太郎さんを偲ぶ会への出席を確認。「死んだの知らなかったんだ」とY武さん。「新聞に出てたでしょ。新聞読まないの?」と私。もちろんY武さんは新聞は読んでいるが、死亡記事を読み落としたんだろうね。注意力散漫だから。遅れてY幕さんが来る。Y武さんの年金局の審議官、局長時代の話になる。Y武さんの面白いのは自分の立場とか地位にほとんど興味が無いように感じられること。そんなことより、そのとき自分がしなければならないこと、日本にとって社会保障にとって何が必要か?に関心が集中している。そういえば退官後、表参道の「こどもの城」の理事長になったときも、どうやって魅力的な会館、劇場を運営するか一所懸命だった記憶がある。で、Y武さんは「俺はすごいだろう」という自慢が入るが、それが嫌味じゃない。いつだったか「偉そうに!」と私が言ったら「俺はエライんだもん」と反論されたことがある。敵いません。新橋でY幕さんと別れ、Y武さんと根津の「ふらここ」へ。

6月某日
東京商工会議所傘下のNPO法人生活・福祉環境づくり21の勉強会「ビジネス研究会」に参加。今日の講師は江戸川区の副区長の原野さんでテーマは「生涯現役熟年者の居場所と出番・雇用促進~江戸川区の実践事例から~」。原野副区長は福祉部長から副区長に登用されたということで、江戸川区のいわゆる高齢者対策を熱心に語ってくれた。江戸川区は西葛西にある東京福祉専門学校の入学案内を数年に亘って受注していたことがあり、多少の土地勘はあるが、区役所の人の話を聞くのは初めてで新鮮だった。日本では一般的には65歳以上を「高齢者」と呼ぶが、江戸川区は約30年前から、60歳以上をすべて熟年者と呼んで地域で積極的な役割を担う存在として位置付けるとともに”健康第一“として「介護予防」の視点を施策に取り入れてきたという。実際データによると要介護者の認定率が14.7%で23区中最も低く、後期高齢者の一人当たりの年間医療費は870,977円とこれも23区中最も低額になっている。感心したのは江戸川区が熟年者の居場所と出番づくりに工夫して、熟年者を家から出そうという試みを行っていること。しかもかなりの部分を熟年者の自主性に任せていること。熟年者が自ら動き、自ら工夫する。そうすれば熟年者は自ずと健康になり認知症予防にもなると思った次第だ。研究会後懇親会に参加。

6月某日
大分前に古本屋で買ったままになっていた文庫本「夜のピクニック」(新潮文庫 恩田陸)を読む。文庫本のカバーに著者の写真が掲載されていたが、ショートカットのオバサンふうの人が微笑んでいる。オバサンふうのオジサンもいないではないのでネットで調べると女流小説家となっていた。陸と漢字で書くと何となく男っぽいが「りく」と平仮名で書くと確かに女性の名前だね。この小説は第2回の本屋大賞をとっている。本屋さんの支持を集めたということだろうが、私にはあまりピンとこなかった。高校の学内行事で夜通し歩かせるというのがあって(これが「夜のピクニック」というタイトルの由来)主人公の女子高生と男子高生が参加する。二人は同じクラスなのだが実は父親が同じ。つまり2人の父親が同じ年に妻と不倫相手に産ませたのがこの2人というわけ。うーん、設定に無理があるんじゃないかな?そんな近場で不倫するもんかね?私は女子高校生同士で交わすガールズトークにもなじめなかった。だいたい高校時代なんて私にとっては半世紀近い前だもんな。リアリティがないよ。

6月某日
当社が編集しているWEBマガジン「けあZINE」のオフ会に参加。20分ほど前に発行元であるSMSの介護室に行くとすでにSMSのN久保氏とM氏が来ていた。雑談をしていると投稿者の訪問介護事業所を経営している「ママさん経営者」や地域包括の責任者、若年性認知症のケアに携わっている人、ジャーナリストなどが集まってくる。まずひと通り自己紹介をしてもらう。それぞれが介護という事業に真剣に取り組んでいることがひしひしと伝わってくる。また、一口に介護事業と言っても人手不足の様相も大都市と地方では違うし、人口減少に悩む過疎地では散在する利用者宅を回るのだけで一苦労だ。冬季には積雪の問題もある。私たち東京やその近郊に住んでいる者にとって医療機関や公共交通機関、コンビニエンスストアの存在が常識だが、それは大都市圏の常識に過ぎないことがよく分かった。そしてとくに訪問系の事業者には情報を発信、受信する機会に恵まれないこと、横のつながりが弱いことも確認できた。予定の2時間はすぐに過ぎてしまい、みんなで2次会の居酒屋に。2次会にはオフ会に参加できなかった神奈川のNPO法人の副理事長も参加、それぞれ介護事業に対する思いや悩みを語って時間の経過を忘れそうだった。

社長の酒中日記 5月③

5月某日
 年金・福祉推進協議会のS木事務局長と当社のI津さん、総務・経理を手伝ってくれているパートのK隅さんとT島さん、それに日本医療保険事務協会のM田さんと東京駅のキッチンストリートにあるステーキハウス「ビモン」で食事。S木さんとM田さんは元日本国民年金協会の職員。その縁でM田さんは推進協議会の経理をときどき手伝っている。推進協議会の事務局は当面、当社に置くことになっており、S木さんのデスクも当社の私の隣にある。そんなこともあってS木さんが気を遣って、ご馳走してくれることになったのだろう。K島さんとT島さんにはずいぶん助けられているとI津さんが言うのを何度か聴いたことがある。2人とも性格が明るくて真っ直ぐなのがありがたい。彼女たちがいるといないでは職場の雰囲気が微妙に違うと感じるのは私だけではないと思う。各種ステーキを注文してみんなでシェアして食べた。

5月某日
 社会保険研究所で「月刊介護保険情報」の校正をやっているナベさんと葡萄舎に行く。ナベさんとは私が当社に入社する前の前の会社、日本木工新聞社で机を並べていた仲だから、40年近い付き合いだ。葡萄舎は当社に入社してから通いだした店だから、こちらも35年くらいの付き合い。店主のケンちゃんは北千住出身。私の記憶が確かなら高卒後、東京電力に入社したが、ひょんなことから呑み屋を手伝いだし、これまたひょんなことからインドを放浪することになったらしい。インドで身に着けた「カレー料理」がこの店の売りでもある。そういえばユニセフの仕事でインドに駐在したことのある元厚労省のO泉さんをこの店に連れてきてカレーを食べさせたら「ホンモノだ」と言っていた。神田駅南口徒歩5分なのでぜひ、一度行ってみる価値あり。なおランチタイムのカレーも絶品。

5月某日
 「へるぱ!」の取材で埼玉県幸手市の東埼玉総合病院の中野智紀医師を訪問。浅草から東武線の特急で東武動物公園駅へ。在宅医療連携拠点推進室に通される。中野先生がやって来て名刺交換。名刺には地域糖尿病センター長、在宅医療連携拠点推進室長、経営企画室長とあった。診察・治療といった医師本来の仕事以外に地域と関わる仕事や経営に係る仕事を幅広くやっていることが名刺からもうかがえる。東埼玉総合病院はURの幸手団地に隣接しており幸手市と杉戸町を主な診察圏とする。「地域と密着しなければこの地域では病院経営は成り立たない」というのが中野先生の考えだ。中野先生の運転で幸手団地の元気スタンド・ぷりズム合同会社の代表社員、小泉さんを訪問。小泉さんは40代後半だが、どうみても30代にしか見えない。大手スーパーを辞め、介護予防型コミュニュケ―ション喫茶を立ち上げ、今は配食サービスなどにも手を広げている。小泉さんの取材を終え、再び先生の運転で今度は杉戸町のNPO法人すぎとSOHOクラブの小川理事長を訪問。小川さんはNTTを定年で退職した後、NPO法人を立ち上げた。裏山での筍掘りやカブトムシの幼虫採集など様々な住民参加型イベントを企画している。その様子を小川さんはかなり使い込んだと見られるタブレットで見せてくれた。東武動物公園駅まで先生に送ってもらい特急に乗車。北千住で同行した編集のS田とライターのMさんと一杯。

5月某日
 以前、古本屋で100円で買った遠藤周作の「イエスの生涯」(新潮文庫)を読む。単行本の初版は昭和48年10月、遠藤が50歳のときである。私が25歳の時です。キリスト教は仏教、イスラム教と並ぶ世界三大宗教のひとつである。恐らくは最初はユダヤ教の一つの分派として原始キリスト教団は始まったと思われる。弟子たちがイエスの死後、イエスの残した言葉を拾い集めてマルコ、マタイ、ルカなどの新約聖書の原型を形づくるうちにユダヤ教とは全く異なる「愛」の宗教が生まれたと見るべきだろう。捕縛された以降の「受難時代」のイエスは全く無力であった。遠藤はそこに着目する。イエスは「(ガリラヤやその他の地で病人を癒し、死者も生き返らせたと言われるのに)全くの無力、無能しか見せられなかったということである。受難物語を通してイエスは全く無力なイメージでしか描かれていない。なぜなら愛というものは地上的な意味では無力、無能だからである」(第12章主よ、御手に委ねたてまつる)と遠藤は書く。これは遠藤の棄教した宣教師を描いた「沈黙」にも通じるテーマである。

5月某日
 元建設省の住宅技官で現在、株式会社日本建築住宅センターの社本社長は、私がこの会社に入る前の日本プレハブ新聞社の頃に、社本さんが住宅局の住宅生産課か民間住宅課の課長補佐をしていて、取材で知り合った仲だからもう30年以上の付き合いになる。その社本さんが70歳を迎えたというので、神保町の新世界菜館でお祝いの会が開かれた。会の音頭をとったのは元週刊住宅情報の編集長で現在「風」という会社を経営している大久保恭子さん。集まったのは元住宅局長の那珂正さん、元住宅局の審議官で、現在、ビルディング協会の小川冨由さん、小川さんの後任でURに出向している水流潤太郎さん、住宅金融支援機構や住宅・建築省エネルギー機構の出向を経て今年、国土交通省を退官した合田純一さん、それに合田さんの後任で住宅金融支援機構の理事に出向している坂本さん、そして現職の住宅生産課長の伊藤明子さんだ。私が知っている旧建設省の住宅技官は優秀な人が多い。東大や京大で建築や都市工学を学んだ秀才だが、日本の住宅や都市を変えて行こうという気概を持った人が多いのだ。それでいて適度の遊び心を持っていて、私は妙に気が合うと思っている。そんなことから社本さんの70歳のお祝いに、やや部外者ながら私にも声が掛かったのだろう。美味しい料理と楽しいおしゃべりで2時間半はあっという間に過ぎた。

5月某日
 民介協の総会。当社は賛助会員なので国際展示場正門前の東京ファッションタウンビル9Fの会場へ。理事長がジャパンケアの馬袋社長からソラストの佐藤専務に代わった。民介協との付き合いは4,5年前の厚労省の補助事業を一緒にやろうと扇田専務に持ちかけて以来だが、馬袋さん当社のような零細企業も差別することなく尊重してくれた。深く感謝。佐藤さんもいろいろと当社のことを気にかけてくれる。民介協とは今後、いろいろな仕事を共同でやって行きたい。総会後の懇親会では石巻で取材に協力してくれたパンプキンの渡辺常務と渡辺社長などに挨拶。記念講演をした厚労省の朝川課長には「けあZINE」を宣伝。課長はすでに知っていたらしく「ああ、これいいよね」と言ってくれた。

5月某日
 社会保険出版社の池谷前専務の告別式に参列。池谷さんは当社の故大前役員と親しく麻雀仲間でもあった。今頃あっちの世界で亡くなった小牟礼さんたちと麻雀を楽しんでいるだろう。しかし65歳を過ぎると急に訃報が多くなったような気がする。

5月某日
 ブックオフで買った桐野夏生の「顔に降りかかる雨」(講談社文庫)を読む。桐野は好きな作家で刊行された小説の6割くらいは読んでいるような気がするが、これは未読。カバーに第39回江戸川乱歩賞受賞作とあり、確かに犯人探しの謎解きの要素もあるから推理小説というジャンルなのだろうが、私はむしろ良質なハードボイルド小説として楽しめた。夫が自殺した村野ミロは勤めていた広告代理店も退職、調査探偵業を引退した父の事務所兼マンションで無為な日々を送っている。ある日、親友のノンフィクションライター宇佐川燁子が1億円を持って消えたと燁子の愛人、成瀬時男がミロを訪ねてくる。成瀬は元東大全共闘、拘置所でヤクザの幹部と知り合い、拘置所を出た後、この幹部の仕事を手伝っている。元東大全共闘というのは藤原伊織の「テロリストのパラソル」とも共通する。元全共闘しかも東大が付くから一種の凄みがあるわけ、というのは私の思い過ごしか。私にとっては元東大全共闘は明治期の元新撰組隊士のような意味がある。

5月某日
 第4回地方から考える社会保障フォーラムの講師のお願いに社保研ティラーレの佐藤さんと厚労省へ。健康局の伊原総務課長に「がん対策」でどなたかにお願いできないかお聞きする。がん対策官の江副さんを紹介してもらう。その後、社会援護局の古都審議官、政策統括官の唐沢さんに挨拶。佐藤さんは民主党政権のとき環境政務官を務めた樋高剛さんの秘書をやっていた。そんなわけで環境省の地球環境審議官をやっている白石順一さんも訪ねることにする。白石さんとは白石さんが厚生省国際課の課長補佐のときからだから20年以上のつきあい。佐藤さんと飯野ビルの地下のベトナム料理の店「イエローバンブー」に行く。佐藤さんは樋高さんの秘書になる前は飯野ビルに有ったインド綿の服を売る店にいたそうだ。建て替える前の飯野ビルである。

5月某日
 我孫子駅前の東武ブックストアを覗いたら文庫本コーナーの一角に、藤沢周平の「雲奔る 小説・雲井龍雄」が平積みにされていた。藤沢周平も昔から好きな作家で刊行されている小説はほとんど読んでいると思っていたがこれは未読であった。さっそく購入する。雲井龍雄は幕末の米沢藩の下級武士の家に生まれ、江戸で安井息軒の門に学ぶ。勤王の志強く京都で反幕府の情報活動を行う。雲井の活動のユニークなのは王政復古の大勢が決して以降、薩長連合に楔を打つべく反薩摩を掲げて長州と土佐の連携を図ろうとするところだ。しかし巻末の解説で関川夏央が書いているように「雲井龍雄の活動は、すでに京都で終わっていた。より酷ないいかたをすれば、活動開始以前に終わっていたのである。それは背景と同志を持たない『草莽の士』の宿命であった」のである。雲井は学問に秀で詩作もよくした。しかし新政権は雲井を捕え、小伝馬町の牢で斬首した。首は小塚原にさらされた。28歳であった。時流に乗れない男だった。時流に乗ることは仕事をするには必要なことと思う。だが時流に乗るのはあくまでも手段でしかない。時流に乗ることを自己目的としてはならないと思った。

5月某日
 企業年金基金のT口常務と社会保険研究所のK林氏と神田明神下の「章太亭」で呑む。この店は去年の春先だったか御茶ノ水の順天堂大学で認知症の勉強会の終わった後、ふらふらと迷い込んだ店だ。女将さんは元芸者で芸者のときの名前を店の名前にしたそうだ。女将さんのいとこだったか姪っ子だったか、昔はさぞかし美人だったと思われる女性が手伝っている。お客の年齢層も高く落ち着いた店なので、それ以来ときどき使っている。T口さんとは同じゴルフ場、鹿沼のディアカントリーのメンバー。最近はあまり行かないが、以前は2人とも月1回の例会に良く出席していた。昔話も出て楽しかった。

5月某日
 4月から兵庫県立大学に移った国立保健医療科学院の筒井孝子さんが社会保険研究所から「地域包括ケアのサイエンス」という本を出した。編集は当社のS田女史が担当した。その筒井さんや老健局の宮島前局長が兵庫県立大学の「医療・介護マネジメントセミナー」でシンポジウムに出るというのでS田女史と本をセールスしに出かける。筒井さんの講演は初めて聞いたが極めて明快で「地域包括ケア」の必然性が私なりによく理解できたように思う。筒井さんの講演を私は次のように理解した。①少子高齢化と財政的な制約により、限られた医療と介護資源をより効率的に利用することが求められている②同時に複雑な疾病と医療ニーズを抱えた高齢者に対するケアや生活の質、患者満足度、及び制度の効率性を高めることが求められている―これらが地域包括ケアシステム構築の前提としたら、ケア提供主体の役割としては(1)サービス提供事業者は①統合的なサービス供給デザインを考える②医療が必要な人に医療を届ける仕組みを考える③意思決定や自己管理を推進する仕組みを考える③利用者の情報を事業所内外で活用できる仕組みを考える(2)地域住民は①資源が有限であることを理解し、政策を理解する②生活や健康を自己管理する(3)自治体職員は①住民のニーズを政策に反映する施策立案と管理を行う②当該自治体が関わる圏域の医療資源を把握し地域住民へ効率よく還元できる仕組みを考える③住民の生活や健康を自己管理を推進する施策を展開する(4)保健・医療・福祉の実践家は①自己管理を促進するサービスの開発②意思決定を尊重する支援の提供③床情報の積極的活用(共通言語の使用等④地域資源の実践への活用⑤多職種によるケアの提供(臨床的統合)-などがあげられている。包括的な連携という考え方は医療・介護の世界だけでなく一般のビジネスでも有効と思う。