社長の酒中日記 6月

6月某日
神戸の帰りに愛知県半田市の亀崎地区に転居したK玉道子さんのところに寄ることにする。K玉さんは建築家で家具の転倒防止活動を名古屋市中心に行ってきた。昨年、知多半島の半田市に引っ越して新たに町興しに取り組んでいる。そんなわけで半田の亀崎を訪れるのは昨年から3回目。気候温暖で住みやすそうな街だ。今回は民家を改造した集会場に呑み会を設定してくれて、いろいろとコミュニティ活動をやっているI川さんとK玉さんの旦那さんと一緒に呑むことになった。呑み会に入る前にI川さんに集会場を案内され、亀崎地区のお祭りの山車の説明を受ける。写真で見るとなかなか立派な山車で、江戸時代は海運、醸造、漁業で栄えた町らしい。呑み会でI川さんといろいろ話をするうちに私と同じ歳ということがわかった。I川さんは集団就職で上京、日暮里の工場で働いていたという。十何年東京で働き、故郷に戻って結婚、離婚の経験もある。発想が自由で柔軟、すっかり気が合ってしまった。

6月某日
ブックオフで購入した遠藤周作の「イエス巡礼」(文春文庫 1995年1月刊)を読む。遠藤には「イエスの生涯」「キリストの誕生」があり、本書と合わせてキリスト3部作と私が勝手に名付けた。「イエス巡礼」は聖母マリアがイエスを身ごもったことを大天使ガブリエルから告げられる受胎告知から磔刑にされるゴルゴダの丘、イエスの復活までをアンジェリコ、ベラスケス、ルオー等の名画を通してその生涯を辿ろうという意図のもとに企画され、月刊文芸春秋に連載されたものだ。マリアの処女懐胎やイエスの復活はもちろん現代の科学では受け入れることはできないだろう。しかし遠藤は「これらの物語は人間にとって真実だった」としこれらの物語の創作は「事実よりはるかに高い真実だった」と繰り返し書く。イエスは十字架の上で死に臨みながら「父よ、彼等は為す所を知らざる者なれば、これを赦し給え」と言ったという。このへんにキリスト教が世界宗教となった一つのカギがあるような気がする。遠藤はこの言葉は彼を死に追いやった大祭司や衆議会の議員たちや群衆だけに向けられたのではない。彼を裏切ったユダや弟子たちにも向けられたと考えるべきであると書く。遠藤はイエスの「この言葉を知ったから」、弟子たちはふたたびイエスのために集まり、イエスの教えのために生きようと決心したのだという。旧約聖書的な神は裁く神、怒りの神である。厳しい父性の神と言ってよい。これに対してイエスが体現する新約の神は赦す神、母性の神である。だからこそ民族宗教に過ぎなかったユダヤ教とは違って世界性を獲得できたのではないだろうか。

6月某日
「ハンナ・アーレント―『戦争の世紀』を生きた政治哲学者」(矢野久美子 中公新書 2014年3月)を読む。ハンナ・アーレントの著作も読んだことはないし、ハンナ・アーレントのまともな評伝も読んだことはなかった。しかしアイヒマン裁判においてアイヒマン養護ととられかねない論説が批判され、ユダヤ人社会の多くの人から弾劾されたことは知っていた。実際はハンナ・アーレントはアイヒマンを擁護したわけではなく、彼女は「アイヒマンを怪物的な悪の権化ではなく思考の欠如した凡庸な男」と述べたのであるが。「まえがき」に彼女の一生が簡潔に述べられている。それによると「彼女は、1906年にドイツのユダヤ人家庭に生まれ、75年ニューヨークで生を終えた。少女時代から文学や哲学に親しみ、大学で哲学を専攻し、マルティン・ハイデガーとカール・ヤスパースの下で学んだ。1933年、ナチ支配下のドイツからパリへと亡命し、そこでユダヤ人の青少年やドイツ占領地域からの避難民の救出にたずさわった。第2次世界大戦勃発後には数ヵ月間フランスの収容所に送られたが脱出し、アメリカ合衆国へと渡る。以後、時事問題や政治的・哲学的問題について書きつづけ、1951年には大著「全体主義の起源」を刊行、その後も「人間の条件」(1958年)、「革命について」(1963年)など、20世紀の古典ともいうべき数多くの著作を発表した」。妻子あるハイデガーとは恋愛関係に陥り、最初の結婚は破たんするなど、学問一筋では決してなく、情熱的な生を生きたようだ。ナチズムとスターリズムを全体主義としてとらえるのは当時としては斬新な見方であったと思われる。人間、個人に対して抑圧的な体制に対して彼女は同じような人間に対する犯罪を感じたのだと思う。

6月某日
川村学園女子大学の現在は副学長をやっているY武さんから「今日、国際展示場に行くのだけど帰りに呑まないか?」と電話がある。「ゆりかもめで行くから場所は新橋がいいな」と場所まで指定。相変わらず勝手な人である。雨が降っているから駅の近くがいいだろうと、ネットで調べてニュー新橋ビルの「つむぎ屋」を6時30分から予約。Y武さんと2人だけじゃ変わり映えしないなと厚労省のY幕さんに「来ませんか?」と電話、「少し遅れますが行きます」との返事。つむぎ屋でビールを呑んでいると「久しぶりだなぁ」とY武さんが入ってくる。そういえば先月、博多でY武さんの高校時代の友人、羽田野弁護士にご馳走になったけど、その報告もしていなかった。3月に亡くなった前山口県知事の山本繁太郎さんを偲ぶ会への出席を確認。「死んだの知らなかったんだ」とY武さん。「新聞に出てたでしょ。新聞読まないの?」と私。もちろんY武さんは新聞は読んでいるが、死亡記事を読み落としたんだろうね。注意力散漫だから。遅れてY幕さんが来る。Y武さんの年金局の審議官、局長時代の話になる。Y武さんの面白いのは自分の立場とか地位にほとんど興味が無いように感じられること。そんなことより、そのとき自分がしなければならないこと、日本にとって社会保障にとって何が必要か?に関心が集中している。そういえば退官後、表参道の「こどもの城」の理事長になったときも、どうやって魅力的な会館、劇場を運営するか一所懸命だった記憶がある。で、Y武さんは「俺はすごいだろう」という自慢が入るが、それが嫌味じゃない。いつだったか「偉そうに!」と私が言ったら「俺はエライんだもん」と反論されたことがある。敵いません。新橋でY幕さんと別れ、Y武さんと根津の「ふらここ」へ。

6月某日
東京商工会議所傘下のNPO法人生活・福祉環境づくり21の勉強会「ビジネス研究会」に参加。今日の講師は江戸川区の副区長の原野さんでテーマは「生涯現役熟年者の居場所と出番・雇用促進~江戸川区の実践事例から~」。原野副区長は福祉部長から副区長に登用されたということで、江戸川区のいわゆる高齢者対策を熱心に語ってくれた。江戸川区は西葛西にある東京福祉専門学校の入学案内を数年に亘って受注していたことがあり、多少の土地勘はあるが、区役所の人の話を聞くのは初めてで新鮮だった。日本では一般的には65歳以上を「高齢者」と呼ぶが、江戸川区は約30年前から、60歳以上をすべて熟年者と呼んで地域で積極的な役割を担う存在として位置付けるとともに”健康第一“として「介護予防」の視点を施策に取り入れてきたという。実際データによると要介護者の認定率が14.7%で23区中最も低く、後期高齢者の一人当たりの年間医療費は870,977円とこれも23区中最も低額になっている。感心したのは江戸川区が熟年者の居場所と出番づくりに工夫して、熟年者を家から出そうという試みを行っていること。しかもかなりの部分を熟年者の自主性に任せていること。熟年者が自ら動き、自ら工夫する。そうすれば熟年者は自ずと健康になり認知症予防にもなると思った次第だ。研究会後懇親会に参加。

6月某日
大分前に古本屋で買ったままになっていた文庫本「夜のピクニック」(新潮文庫 恩田陸)を読む。文庫本のカバーに著者の写真が掲載されていたが、ショートカットのオバサンふうの人が微笑んでいる。オバサンふうのオジサンもいないではないのでネットで調べると女流小説家となっていた。陸と漢字で書くと何となく男っぽいが「りく」と平仮名で書くと確かに女性の名前だね。この小説は第2回の本屋大賞をとっている。本屋さんの支持を集めたということだろうが、私にはあまりピンとこなかった。高校の学内行事で夜通し歩かせるというのがあって(これが「夜のピクニック」というタイトルの由来)主人公の女子高生と男子高生が参加する。二人は同じクラスなのだが実は父親が同じ。つまり2人の父親が同じ年に妻と不倫相手に産ませたのがこの2人というわけ。うーん、設定に無理があるんじゃないかな?そんな近場で不倫するもんかね?私は女子高校生同士で交わすガールズトークにもなじめなかった。だいたい高校時代なんて私にとっては半世紀近い前だもんな。リアリティがないよ。

6月某日
当社が編集しているWEBマガジン「けあZINE」のオフ会に参加。20分ほど前に発行元であるSMSの介護室に行くとすでにSMSのN久保氏とM氏が来ていた。雑談をしていると投稿者の訪問介護事業所を経営している「ママさん経営者」や地域包括の責任者、若年性認知症のケアに携わっている人、ジャーナリストなどが集まってくる。まずひと通り自己紹介をしてもらう。それぞれが介護という事業に真剣に取り組んでいることがひしひしと伝わってくる。また、一口に介護事業と言っても人手不足の様相も大都市と地方では違うし、人口減少に悩む過疎地では散在する利用者宅を回るのだけで一苦労だ。冬季には積雪の問題もある。私たち東京やその近郊に住んでいる者にとって医療機関や公共交通機関、コンビニエンスストアの存在が常識だが、それは大都市圏の常識に過ぎないことがよく分かった。そしてとくに訪問系の事業者には情報を発信、受信する機会に恵まれないこと、横のつながりが弱いことも確認できた。予定の2時間はすぐに過ぎてしまい、みんなで2次会の居酒屋に。2次会にはオフ会に参加できなかった神奈川のNPO法人の副理事長も参加、それぞれ介護事業に対する思いや悩みを語って時間の経過を忘れそうだった。