社長の酒中日記 6月③

6月某日
東京ディズニーランドのアンバサダーホテルで民介協のO田専務、浜銀総研のT中さん、当社のA堀と打合せ。民介協の接遇の研修がアンバサダーホテルでやられているため舞浜の駅に来る羽目に。学期中のウィークデイのためか学齢前の子供を連れた若い夫婦が多いように思う。まぁ私などの来るところではない。帰りは京葉線の東京で下車。京葉線の東京駅は有楽町寄りにあるので東京商工会議所に近い。で東商のT田さんに電話してお昼を一緒に食べることにする。T田さんはカラー検定担当で当社のS田と一緒に前向きに仕事に取り組んでいる。午後HCMで打合せ。夕方、健康生きがい財団のO谷常務が来社。そのまま葡萄舎へ。

6月某日
シルバーサービス振興会の総会が東海大学校友会館で開かれた。総会の議長は社会保険研究所の川上社長が務める。多少緊張気味。総会後の懇親会に参加。振興会の監事で竹中工務店に勤めていた吉竹さんが千葉経済大学の教授になっていた。民介協の前理事長でジャパンケアの馬岱社長らに挨拶。振興会の新しい常務、中井さんに紹介される。パーティには当社から岩佐、迫田が参加。総会後、フィスメックの小出社長、岩佐、迫田と富国倶楽部へ。弁護士の計良先生と会食。計良先生は20数年前、早稲田大学法学部卒業後、新聞の募集広告を見て当社に入社。退社後に司法試験に挑戦して合格。顧問契約を結んではいないがいろいろと相談に乗ってもらっている。迫田とマンガの話で盛り上がっていた。

6月某日
3月に亡くなった当社の大前さんを偲ぶ会が新宿歌舞伎町のレストラン「ナパバレー」である。当社の社員はじめ社会保険研究所の社員やHCMの会長、社長、社員、年住協の理事長、理事、富国生命の社員など30名近くが集まってくれた。司会はHCMの森社長がやってくれた。ややしゃべり過ぎの感はあったが名司会であった。冒頭、私が献杯の挨拶をした。自分で言うのも何ですがこれがなかなかよかったので最後に再録します。各自自己紹介し、何人かがスピーチしたが、今更ながら大前さんが愛されていたことがわかったし、何よりも大前さんには人に好かれる「何か」があった。飾らないしだれにでも優しかった。お見舞いに行ったときお母様にお会いしたが、実に優しそうな方で、そのとき「大前さんは母親の血を引いたんだ」と思ったものである。富国生命の矢崎さんと中条さんも「新入社員の頃、大前さんのところへ営業に行くと心が安らいだ」という風なことを語ってくれたが、私は「大前さんは酒とタバコと麻雀、それに若い男が好きだったんだよ」と茶化したが男女に関わらず若い人の面倒見が良かったように思う。最後にご主人の崎谷さんが挨拶したが、歌舞伎町は大前さんとご主人が出会った街であり、2人で酒を呑み、麻雀をやった街でもあるという。大前さんの麻雀は「好きだったけど腕前はたいしたことない」というのが本当のところらしい。

それでは私の献杯の辞を再録します。
3月7日の朝、私は当社の石津さん、田島さんと東武練馬の駅で待ち合わせ、大前さんの入院している薬師堂病院に向かいました。大前さんは昨年の8月、福岡の出張から体調を崩し、とくに腰痛が酷いと訴えるようになりました。私たちは「麻雀のやり過ぎじゃないの」と軽口を叩いていたのですが、痛みは尋常ではなかったようで9月に入って江古田の練馬総合病院に検査入院することになりました。結果は「すい臓がんで専門病院での治療をすすめられた」ということでした。私は早速、厚労省の唐沢政策統括官に相談、有明の癌研病院を紹介してもらいました。癌研病院は開発が進む湾岸エリアにあり、大前さんの病室は比較的高層階にあったこともあって見舞いに行ったときは眺望を楽しませてもらいました。また月島や門前仲町にも近く、さらに足を延ばせば森下、立石などディープな飲み屋街もあり、私は大前さんを見舞った後、こうした飲み屋街を徘徊するのが楽しみでした。
12月、八戸出張中のことでした。大前さんから携帯に電話が入り、主治医から「治癒の見込みがないので積極的な治療はしない」と告げられたことを知りました。私は元八戸の駅で「えっ死んじゃうのか」と人目もはばからず泣き出してしまいました。逆に私が「泣くなよー」と大前さんに励まされたのでした。大前さんとは彼女が当社に入社する以前、彼女が今はない新宿のクラブ「ジャックの豆の木」で働いていたときから知っていましたから、知り合ってから40年近くになります。私が年友企画に勤め始めたころは社会保険も年金住宅融資も伸びる一方で、今から考えるとさしたる努力もせずにお金が儲かった時代でした。しかし私が社長になってからしばらくして舞台は暗転、年金住宅融資の新規融資は中止、社会保険庁の不祥事が発覚したこともあって社会保険庁自体が廃止に追い込まれます。会社の売上は最盛期の4分の1以下に落ち込み、毎年毎年、数千万円の赤字を背負い込むことになりました。社内的にも孤立し私としては非常につらい時期だったのですが、そんなとき社内で唯一私を支えてくれたのが大前さんでした。大前さんが病に倒れたら今度は私が支える筈だったのに、逆に私が励まされたのでした。

3月7日に話を戻します。いつもの病室を訪ねたら大前さんがいません。病室を替ったのかと看護師さんに尋ねると昨夜遅く亡くなったとのことでした。自宅を訪問すると大前さんはベッドに横たわって、本当に眠っているようでした。9日が通夜、10日が告別式とのことでしたが私は8日の夜に横浜で元宮城県知事の浅野さんの誕生パーティがあり、そのまま大阪への出張が組んでありました。横浜に行く前に大前さんの好きだったウヰスキーを霊前に供え、通夜、告別式は失礼する旨、ご遺族には伝えました。出張をキャンセルすることはもちろん可能だったのですが、泣き顔を知り合いに見られるのが嫌で欠席しました。告別式の正午、私は大阪の堺にいました。私は大前さんの携帯に「大前さんありがとう。さようなら」のメールを送り私だけの告別式をしました。本日、偲ぶ会を開催するに当たりもう一度言わせてもらいます。

「大前さん本当にありがとう。本当にさようなら」

2014年6月20日
年友企画代表取締役社長 森田茂生

6月某日
「教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化」(竹内洋 中公新書 2003年7月)を読む。日本経済新聞の読書欄に確か「私の読書遍歴」というコラムがあり、経済人が毎回登場して愛読書などを披露している。これは先週、日銀の副総裁をしていた人が紹介していたなかにあった本である。私は竹内洋の「革新幻想の戦後史」(中央公論新社 2011年10月)を読んでえらく面白かった経験があるので、幸い我孫子市民図書館に在庫があったことから早速借りることにした。序章で著者は「大正時代の旧制高校を発祥地として、1970年ころまでの日本の大学キャンパスにみられた教養と教養主義の輝きとその没落過程をあらためて問題として考えたい」と書いている。私は大学を1972年に卒業しているから、教養主義の没落を身をもって体験しているはずだが、私の身の回りでは教養主義が大きな顔をして跋扈していた。もちろん教養主義とは表立っては言わないが、今考えれば教養主義そのものであったように思う。だいたい私は中学生のころから教養主義にかぶれ出したようだ。勉強もそれほどできずスポーツも苦手、女子生徒には相手にもされない。かといって不良にもなれないそういう少年だった私は本にのめり込んでいく。といういか本を読むことによって優越感をもつわけね。それが浅薄な私の教養主義のスタートだった。だけど田舎の高校生の教養主義などたかが知れていて、私が一浪して早稲田に入ったとき「埴谷雄高」を「ウエタニオダカ」と読んで笑われたことを思い出す。それこそ学生時代は乱読の日々。マルクス、レーニン、吉本隆明、黒田寛一、谷川雁、寺山修二、ドストエフスキーなどなど。でも私の教養主義の限界ははっきりしている、マルクスなら初期マルクスの「経済学哲学草稿」「ドイツイデオロギー」にはじまって「フランスの内乱」「経済学批判」止まり。「資本論」は読もうともしなかった。吉本も「擬制の終焉」「情況への発言」などの情勢論や転向論は理解できたが「言語にとって美とは何か」「共同幻想論」「心的現象論」はほとんど理解できなかった。でも、今本を読むのを苦にしないのはその頃の乱読のおかげかもしれないと思ったりもする。

6月某日
上野千鶴子の「ケアの社会学―当事者主権の福祉社会」(2011年8月 太田出版)を読み始める。この本は確か出版直後に上野の講演会で求めたものだが、菊判二段組本文470頁を超える大著だけに読むのを躊躇していた。しかし医療と介護の問題はこれからの日本社会にとって避けて通れない問題だし、団塊の世代の私にとっては近未来の切実な問題だ。当社のビジネスにとっても介護は成長分野という位置づけ。腰を落ち着けて読むことにする。ただしいつ読み終わるか分からないのでⅣ部構成の部ごとに感想を記すことにする。第Ⅰ部は「ケアの主題化」。ケアを原理論的に語っているわけだが、その前に本書でが「注」が巻末や章の最後にまとまって掲載されているのではなく、見開きのページごとに記載されている。これはすごくいい。「注」が巻末や章末に記載されていると、私などは面倒くさくて「注」は飛ばしてしまう。その点、本書は良くできていると思う。第3章「当事者とは誰か」で「家族介護が『自由な選択』であったとしても、機会費用を失うことと引き換えの選択か、それとも所得保障をともなう福祉制度のもとの選択かででも異なっている」というインド出身で貧困や不平等の研究を手がけたセンに依拠した論述に「注」が付されている。ちょっと長いが内容が面白いので書き写す。「センがあげている興味深い例は、『断食』と『飢え』の違いである。『断食とは他に選択肢がある場合に飢えることを選択することである。飢えている人の『達成された福祉』を検討する場合、その人が断食しているのか、それとも十分な食糧を得る手段がないだけなのか、を知ることは直接的な関心事である』。また『達成された福祉』だけを評価基準とする立場をも以下のように批判する。『標準的な消費者理論では、たとえ選択された最善の要素以外のすべての要素を選択可能な集合から取り除いたとしても、それは何ら不利益をもたらすものではない』。この立場が不適切なことは、開発独裁の結果もたらされた国民経済の繁栄が、国民による選択の自由(民主主義的決定)をともなわないかぎり、抑圧とかわらないこことからも支持できるだろう」。センも上野も急進的な民主主義者と言ってよい。第Ⅰ部は結局、当事者主権を理論的に位置付けていると言えるが、先験的な当事者以外、当事者能力を欠いた個人、子どもや認知症高齢者の場合はどうか。その場合も上野は次のように断言する。「一次的ニーズの正当性は、一次的ニーズの帰属先である当事者によって最終的な判定をくださなければならない。たとえ、その時点で『当事者が不在だったり判定能力を持たなかったりしたとしても、事後的に『当事者になる』者によって』」。