社長の酒中日記 8月その2

8月某日

IMG_20140810_145747「白蓮れんれん」(中公文庫)を読む。NHKの朝の連ドラ「花子とアン」で仲間幸恵が演ずる柳原白蓮が人気を集め、そのせいだろう本屋の文庫コーナーには初版が20年も前のこの本が平積みにされていた。先週、桐野夏生の「ナニカアル」を読んだが、これは夫のある林芙美子と毎日新聞社の記者の恋愛を軸とした小説であった。では九州の炭鉱王伊藤伝衛門に嫁いだ白蓮と宮崎滔天の息子龍介の恋愛はどう描かれているのだろうか。2つのケースを比較することにそれほど意味があるとも思えないが、まず林芙美子と柳原白蓮ではその出自が全くと言っていいほど違う。白蓮は華族出身で大正天皇の従妹という家柄だが、芙美子は貧しい行商の家に生まれた。しかし当たり前のことではあるが人は家柄や学歴と恋愛するわけではない。相手の人間にこそ惚れるわけである。しかしここが戦後の常識なんだね。戦前は家と家だからね。白蓮の前半生の悲劇は、初婚は華族の家同士の了解によるものだったし、伝衛門との結婚は白蓮の生家が伝衛門の財産をあてにしたものだった。伝衛門の家からの出奔と龍介との再婚は、世間からの非難を浴びたが、その後、当然のように世間から忘れ去られることになる。龍介との間に生まれた子の戦死という悲劇はあったにせよ、白蓮は龍介に看取られながら波乱の生涯を閉じる。日本の華族制度は維新後「皇室の藩屏」として生まれた。したがって英国の貴族のように「(国家に対する)ノーブレス・オブリージュ(高貴なる義務)」という観念が足りないのではないか。小説とは関係ないがそう思ってしまった。

8月某日
飲み友達のH郷さんから連絡があって我孫子に知り合いがレストランを開店したので行こうという。土曜日の11時30分に我孫子駅の改札で待ち合わせる。5分ほど遅れて改札に行くとH郷さんともうひとりT岡さんという人が待っていた。北口を降りて2~3分でその店「美味小屋」(うまごや)はあった。もともと四谷にあったそうで、T岡さんの息子さんがオーナーでこの4月にオープンしたという。白ワインを呑みながら海鮮料理を堪能した。私は我孫子駅の南口方面の住人だが、我孫子はどうも北口の方が美味しい店が多いように感じる。今日はT岡さんにご馳走になってしまった。今度行きます!

8月某日
久しぶりに田辺聖子の「よかった、会えて」(実業之日本社 92年6月刊)を読む。初出は91~92年にかけて「週刊小説」に掲載されたもの。私が読むのは2度目か3度目、その度に違う感想を抱く。今回は田辺聖子は「絵に描いた」ような家庭の幸福を忌避しているのではないかということと「鈍感な」専業主婦に対する嫌悪感があるのではないかということ。「はじめまして、お父さん」では、鹿児島に単身赴任していた若き日、呑み屋の女性と情を交わしたことのある主人公の前に娘の「可能性」のある若い女性が訪ねてくるという話。「山歌村笛譜」は定年退職した67歳の私は妻に先立たれ二人の息子も独立し団地にひとり暮らし。カラオケや呑み屋を占拠する未亡人軍団を嫌悪するが、ある未亡人の家に仮寓する未亡人の娘に恋をする。もちろんその気持ちを口にすることなどできない。そうこうしているうちに未亡人は急死し、娘は夫の赴任先へと戻っていく。「みつ子はんの顔はもう、思い出せません。この世に何も残らぬごとく。けれども人間の思いは残ります。残るように思います。田舎親爺の恋物語やと嗤われるかもしれませんが、やるせない慕わしさはまだ私の胸に残って、心をあたためてくれるからです」という文章で終わるこの短編は、田辺の短編のなかでも私のベスト10入りは確実。

8月某日
IMG_20140812_072724「経営者の条件」(岩波新書 04年9月)を図書館から借りて読む。「経営者って何が一番重要なんだろう?経営者の辞めどきって何時だろう?」という私の現下の関心事にぴったりの書名だったので、発行年がいささか古いのが気になったが借りることにした。一読して大変勉強になった。第2章「経営者の役割とは何か」では①将来ビジョンの策定と経営理念の明確化②戦略的意思決定③執行管理―を経営者の役割とし、「戦略的意思決定」とはP・F・ドラッカーの言う「不確実な明日に向かって、いま何をなすべきか」を決断することとする。そして①と②の役割を同時的に果たさなければならないところに経営者昨日の特質が存在するとしている。③については、極めて多岐にわたる日常的な役割を同時並行的に、優先順位をつけながら、遅滞なく処理すること、としている。またCEOが重視すべきポイントとしてジャック・ウエルチを引用して次のように述べている。①常に首尾一貫していること。トップが何を求めているかを常に率直に周囲に伝えて組織に統一性を与えること②形式ばらずに自由に気楽な雰囲気をつくること。官僚主義は人と人との間に壁をつくるだけ。地位、肩書に関係なく、自分の意見が尊重してもらえると思える組織を目指す③人が第一、戦略は二の次と心得ること。仕事で最も重要なのは適材適所の人事であって、優れた人を得なければ、どんないい戦略も実現しない⑤実力主義にもとづいて明確な差別待遇をすること。部下を“気楽に”差別できる者は組織人間でないし、差別化できない者は管理職失格である⑥最高のアイディアは常に現場から生まれる。本社は何も生まないし、何も売らないことを肝に銘じよう。著者の大沢は1935年生まれ、リクルートで人事教育事業を立ち上げる一方で、江副の女房役として管理部門全般を担当した。創業期のリクルートにはなかなかユニークな人材がいたようだ。この本はデュポン社の元最高経営責任者であるアービング・シャピーローの次の言葉で締めくくられている。「いかなる最高責任者も、経営者の地位は自分のためにあるのではなく、社のためにあるのだということを忘れてはならない。経営者の座を下りる時期を知るのは、経営者の責務である」。

8月某日
帰りの電車の中で「研ぎ師太吉」(山本一力 新潮文庫)を読み終える。山本は2002年に直木賞を受賞した時代小説作家。1948年生まれというから私と同年である。時代小説、歴史小説は山本周五郎、司馬遼太郎、藤沢周平、佐藤雅夫をはじめいろいろと読んできた。だから多少点が辛くなるのは仕方がないかも知れない。その意味からすると「研ぎ師太吉」は物足りなさが残った。下町人情話に犯人探しを加味したものだが、私には太吉の人間的な苦悩の描き方が浅いように感じられた。それにしても山本は江戸後期の下町の職人や商人、同心や与力などの下級幕臣の暮らしを良く調べている。我孫子駅で降りて、今日は「七輪」へ向かう。ウヰスキーのボトルを入れてあるので「炭酸割」を注文。レバーと軟骨、長ネギとしいたけ、セロリの浅漬けを頼む。少しいい気持になったところで「愛花」に向かう。店の前で常連のMさんに会う。今日から「愛花」は夏休みとのこと。2人で「ちゅうちゃん」の店に行く。日本酒を呑んでいたら「愛花」の常連が何人か来る。Mさんにご馳走になってしまう。

8月某日
高齢者住宅財団のO部長と食事。この季節、上野精養軒の屋上ビアガーデンからの不忍池の眺望がなかなかなので屋上ビアガーデンで待ち合わせ。ところが生憎の雨で、ビアガーデンは予約客のみ。ということで1階のレストランに急遽、変更。地域包括ケアシステムと住宅の在り方についていろいろと意見交換する。

8月某日
健生財団から社会保険研究所から請け負っている単行本「人生は2幕目が面白い」(仮)の打合せでフリーライターのF田さんと打合せ。社保研のY場君も同席。F田さんには歴史上の人物で「2度目」の人生を生き生きと送った人を囲み記事風に紹介してもらいたいという注文。私は「少年馬上過ぐ」の伊達正宗を候補に挙げる。女性も入れるということで、晩年、アフリカの飢餓に取り組んだオードリー・ヘップバーンも候補に。打合せの後、「福一」で軽く呑む。

8月某日
IMG_20140818_091314没後30年ということもあって有吉佐和子に注目が集まっているらしい。ということで文春文庫で復刊された「断弦」(14年8月 新装版第1刷)を読む。有吉が23歳の作という。地唄という地味な世界を舞台に芸の継承と父娘の葛藤が描かれる。盲目で大検校の位を持つ菊沢寿久の継承者として期待されていた娘の邦枝は、偉大な父に背いて日系2世の男と結婚し渡米する。父の病気と芸の継承問題があり邦枝は一時帰国するのだが。一読して23歳の作とは思えない完成度の高さなのだが、まぁ優れた作品というのは作者の年齢には関係ないわけで。寿久の弟子となる大学生の瑠璃子の存在が全体を和ませている。

社長の酒中日記 8月その1

8月某日
元厚労省で現在国立看護大学で教えているI野さんが「大学院生と神田で呑むのだけど呑み代、半分負担するなら参加してもいいよ」というので即座にOK。会場は神田駅ガード下の「大越」とのこと。そこは元祖大衆酒場のような店なのでますますOK。当日はスタートが17時からとのこと。その日は高田馬場でグループホームをやっているN村さんと17時に打合せがあったが、打合せもそこそこにN村さんも誘って「大越」へ。店の奥でI野さんと4人の若い女性が大ジョッキを傾けていた。丁度、社会保険出版社が地域保健活動の先駆けともいえる保健師の一生をドキュメントでまとめたのでT社長から4人に贈呈してもらう。長野県上田市で介護事業のコンサルタントをやっている「地域ケア総合研究所」のT重所長も合流して、一層盛り上がる。久しぶりに若い女性と話せて私はいささかはしゃぎ過ぎ。写真を撮るのさえ忘れてしまった。少し反省。呑み代は結局、T社長が全部出してくれた。

8月某日

手賀沼の花火。手前は竹細工のイルミネーション
手賀沼の花火。手前は竹細工のイルミネーション

手賀沼の花火大会。手賀沼の縁に越してきて40年以上になるが、最初の頃は珍しくて友人を呼んだりしたこともあったのだが、その後はドーン、ドーンと打ち上げる音がうるさく感じられるほど。ただ今年は川村学園大学の副学長のY武さんが、「知り合いのマンションの屋上で鑑賞会をやるから来ないか」と誘ってくれたので行くことにする。6時半に我孫子駅入り口の八坂神社前で待ち合わせ。丁度、時間に行くとY武さん夫婦はすでに来ていた。「ヴェイル我孫子」というマンションの屋上に行くとすでに家族連れが何組か来ていた。ヴェイル我孫子の管理運営している会社の会長さん、Y沢さんが仕掛け人でY沢さんはあびこ型「地産地消」推進協議会の会長はじめ、いろいろな公職に就いている。私たちは京葉銀行我孫子支店の支店長M宅さん一家の隣に。支店長さんは我孫子に赴任したばかりだそうで、我孫子の前は松戸支店で支店長職は初めてらしい。なんか初々しくていい。会費はY武さんに払ってもらう。マンションの屋上から見る花火は我孫子会場と柏会場の打ち上げ花火が両方見ることができるのでなかなか良かった。生ビールとワイン、日本酒を少々いただく。花火が終わる前に私は道路が混むからと辞去。駅前の「愛花」へ。ソノちゃんが来ていた。花火が終わると福ちゃんが女性を何人か連れてくる。筑波大学の看護学の大学院に行っている顔見知りの女性もいた。

8月某日
ちくま新書の「第一次世界大戦」(木村靖二 2014年7月)を読む。今年は第一次世界大戦が始まって100年になるという。ただ私は第二次世界大戦ほどには第一次を知らない。この本を読んで理解できたことがいくつかある。ひとつは総力戦の意味。たんなる軍事力の対決ではなく、工業生産力や農業、交通輸送力、国民の士気など国力のすべてを使うのが総力戦だ。その意味で第一次世界大戦は第二次世界大戦の予告編でもあったわけだ。飛行機や戦車、鉄兜、毒ガスなどの新兵器の登場も第一次世界大戦。こうした新兵器の開発を見ると「戦争は文明の母」という言葉も一面では当たっている。この本を読んで初めて分かったのは連合国(英、仏、米、露)と同盟国(独、墺、トルコ)の戦力がかなり拮抗していたこと。戦争2年目のミッドウエー海戦以降、ほぼ負けっぱなしの太平洋戦争とはそこがずいぶん趣を異にする。それとロシア革命によるロシアの脱落は連合国側には大きな痛手だったようだ。それを補ったのがアメリカの参戦ということになる。欧州を主戦場にした大戦は戦勝国にも敗戦国にも打撃だったが、東洋の日本はこれで本格的な帝国主義列強の仲間入りをしたことになり、それが第二次世界大戦へと繋がってくるわけだ。

8月某日
HCMのM社長が心臓の手術で入院。同社のO橋さんが見舞いに行ったというので様子を聴きに行く。手術は大成功とのことで来週にも出社とのこと。60を過ぎると自分も周囲もいろいろとガタが来る。O橋さんを誘って新橋の清龍へ。これからの仕事の進め方など相談する。今日は新橋のイタリアン「ラ・ママン」でSMSのメンバーと当社のS田と暑気払い。「ラ・マンマ」は以前は良く来ていたのだが、最近はさっぱり。歳の話はしたくないのだが、このところイタリアンなどはちょっと重く感じてしまう。でもSMSのメンバーはN久保さんはじめ、皆さんが若い。でイタリアンにしたのだが気に入ってもらっただろうか。

8月某日
桐野夏生の「ナニカアル」(新潮文庫 2013年11月 単行本は2010年10月)を読む。「放浪記」の作者、林芙美子を主人公とする小説である。粗筋を文庫本のカバーのコピーから引用すると「昭和17年、林芙美子は偽装病院船で南方へ向かった。陸軍の嘱託として戦意高揚に努めよ、という命を受けて。ようやく辿り着いたボルネオ島で、新聞記者・斎藤謙太郎と再会する。年下の恋人との逢瀬に心を熱くする芙美子。だが、ここは楽園などではなかった」ということになるのだが。林芙美子は確かに一流の女流作家だし、森光子主演の舞台劇「放浪記」の原作者としても名高い。しかし小説家としての林芙美子はなかば忘れられた存在と言っていいように思う。私はその林芙美子を主人公に据えた桐野夏生の作家的な力量に並々ならぬものを感じざるを得ない。
桐野は芙美子を描くことを通して「女流」文学者の心情の一端を描きたかったのではないか、と私は思う。不安定に揺れる芙美子の心情が占領下の南洋を舞台にして描かれる。戦時中でなおかつ占領下という不安定性、これは確かに平時の日本の東京とは比べるべきもなく不安定である。そして従卒を装って芙美子を監視する憲兵。それはあたかも不倫の恋を赦さぬ「世間」の象徴ともいえる。桐野はこの小説によって島清恋愛文学賞、読売文学賞を受賞しているが、確かに新境地を開いたように思われる。

8月某日

地域包括ケアシステムのサイエンス(社会保険研究所)
地域包括ケアシステムのサイエンス(社会保険研究所)

「地域包括ケアシステムのサイエンス―integrated care 理論と実証」(筒井孝子 社会保険研究所 2014年5月)を読む。この本の編集は当社のS田が一手に行った。私は本当に何もしなかったのだが、「あとがき」ではS田と私の名を挙げ「膨大な原稿の整理をお願いし、大変にご迷惑をおかけした。にもかかわらず、時々に、適切な助言とご配慮をいただき、なんとか出版することができた。深く感謝、申し上げる次第である」と記されている。S田はともかく、私には過分の謝辞である。それはそれとして「地域包括ケアシステム」は現在およびこれからの少子高齢化社会を乗り切る「切り札」として期待されていることは確かである。しかし地域包括ケアとは何かとなると私の理解ははなはだ心もとない。抽象的なコトバが先行してその実態の理解が覚束ないという意味では、マルクスの共産党宣言の「ヨーロッパに幽霊が出る。共産主義という名の幽霊が」という冒頭の文章を思い出さなくもない。ということもあって少し真面目に本書を読むことにした。
一読して感じたのは筒井の現状に対する強い危機感である。たとえば「まえがき」では大要次のように述べて地域包括ケアシステムは介護保険制度の立て直しの核であると強調している。政府は家族のケアを「社会化」し、公的な介護による老後の充実を約束してくれたが、今日、現状のシステムを継続することが困難であることを示している。国民としては新たなcommunity-based-integrated careという枠組みを選択するしか、次の世代に対して医療やケアを保証する制度継続できる状況にない。要するに地域包括ケアシステムを日本に根付かせることなしに少子高齢化社会を乗り切るのは困難であると言っているに等しい。

社長の酒中日記 7月その4

7月某日

八坂神社のお祭り
八坂神社のお祭り

日立フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会をミューザ川崎シンフォニーホールに聞きに行く。会社のI津さんの甥の嫁さんがチェロを弾いているというので誘われたのだ。シンフォニーホールに行くとI津さんの友人2人が来ており、すぐにI津さんも合流。シンフォニーホールは3~4層の立派な建物。考えてみると正式のホールで正式の管弦楽を聴くのは初めての体験かも知れない。1曲目のヴェルディの歌劇「ナブッコ」序曲が終わると2曲目が同じヴェルディの歌劇「アイーダ」第2幕第2場より「グランフィナーレ」。ターンタカタッタンターンというトランペットの旋律には覚えがある。実は中学時代私は吹奏楽部でアルトサックスを吹いていて、そのとき「アイーダ}序曲を演奏しこの旋律が何度も繰り返された記憶があるのだ。私が吹奏楽部であったことはあまり話していない。だって下手だったからなぁー。でももう50年も前の話だからいいか。そう思ってI津さんには「この曲、中学のブラバンで演奏したんだぜ」と話しました。この日は我孫子の八坂神社のお祭りなので演奏が終わると真直ぐ家路へ。今年のお祭りは例年より人が多いような気がする。

7月某日

手賀沼(ヨットが係留されている。後方に見えるのが「ベルばら」の池田理恵子デザインの「水の館」。
手賀沼(ヨットが係留されている。後方に見えるのが「ベルばら」の池田理恵子デザインの「水の館」。
「手賀の湯」。安近短(安くて近くて移動距離が短い)で人気が高い。
「手賀の湯」。安近短(安くて近くて移動距離が短い)で人気が高い。

3連休の最終日。このところ2キロほど体重が増えている。弁当持参で手賀沼公園を散歩することにする。手賀沼は手賀大橋を挟んで南北に分けられるが今日は南部手賀沼を一周するつもり。だったのだが1時間ほど歩いて柏公園にたどり着いたところで方針変更。北柏から各駅停車で1駅、我孫子に戻る。駅前の県と市の複合施設「けやきプラザ」で弁当を食べる。バスで我孫子高校前へ。そこから歩いて手賀沼湖畔の温泉「手賀の湯」へ行く。サウナに2回入って汗を流したが、結局、体重は減っていなかった。手賀の湯の近くの「道の駅しょうなん」で切り干し大根を買って帰る。

7月某日
今日は火曜日。ということは川村学園大学のY武副学長は休みの日。というわけでY武さんに「我孫子で呑みませんか?」と電話すると、「今日は(大学本部のある)目白で会議。東京でならいいよ」との返事。「築地の多け乃食堂を予約しました」のメールが入る。健康・生きがいづくり財団のO谷常務を誘って築地へ。お店に近付くにつれ思い出した。ここは昔、K地君江さんと何度か来たことがある。K地さんは安くて美味しい店をたくさん知っていたが、この店もそうだ。お刺身の盛り合わせが驚くほど美味しかった。集団的自衛権の行使を巡ってY武さんと激論。Y武さんは集団的自衛権は当たり前という。O谷常務もその尻馬に乗る。彼らは大東亜戦争はじめ、ほとんどの戦争が自衛のため、平和のためというスローガンのもと闘われたのを知らないのだろうか。ベトナム戦争だって南ベトナムの傀儡政権の要請によってアメリカは介入したのじゃなかったか。でもそれはそれとして、結局、その日は楽しく呑んで終わり。我孫子でY武さんと別れ、私は駅前の愛花に寄る。

7月某日
HCMを訪問。O橋さんと4時頃事務所を出て2人だけの暑気払い。神田駅東口の津軽料理の店「跳人」へ。南部や津軽、陸奥の銘酒を頂く。O橋さんが歌を歌いに行こうというので以前行ったことのある南口のスナック「リード」へ。1人4000円で呑み放題、歌い放題というので入ることに。ママとホステスが60代後半、先客の女性客が1人いてこの人も70代。石原裕次郎や美空ひばりなどの昔の歌をたっぷり歌って帰る。ママに店も認知症スナックだねぇ、また来るよと伝える。

7月某日
F都さんが今回の厚労省の異動で国立病院機構に異動になったので激励会を共同通信のJ記者の音頭で開催することになった。場所は神田の葡萄舎。ところがその日になってJ記者から「仕事が入って出られない」の連絡。まぁ現役の記者なら仕方ないか。私は予定通り18時30分頃「葡萄舎」へ。私と同世代の、ということは爺さんと婆さんたちが8人くらいで来ていた。会話を聞くともなく聞いていると同級生が亡くなって「偲ぶ会」のようだった。うーん、そういう世代だよな。19時過ぎに健生財団のO谷常務が登場。20時過ぎにF都さんからタクシーで向かっているとの電話。高齢者住宅財団のO合さんも駆けつける。みんなF都さんのファンである。さらに遅れて厚労省の現役課長補佐も参加。しかしもうその頃は22時近くなっていて、私はかなりへろへろだった。

7月某日
元滋賀県知事の国松知事を取材。健生財団のパンフレット作成のためだが、非常に面白かった。なんというか、一生懸命に楽しんで生きているという感じですね。65歳からの人生は「余生」などではなく「本生」なんだと語る。その語る姿も熱意を込めて語ってくれるからこっちも惹き込まれる。PPK(ぴんぴんころり)のためにはNNK(寝たきり、認知症、孤独死)にならないことを心がけようなど知事経験者だけにスローガン作りも巧みだ。最後には歩き方まで教えてもらった。私の大学時代の友人で、第2次早大闘争で、ともに逮捕起訴されたH山君は滋賀県職労だったが「知っていますか?」と尋ねると、今、国松さんが取り組んでいる障害者スポーツの団体の事務局長をやっているそうだ。世間は狭い。

7月某日

真ん中が川辺さん、左が岩野さん、右はレストランのご主人
真ん中が川辺さん、左が岩野さん、右はレストランのご主人

埼玉県立福祉大学の理事長になった江利川毅さんが厚生省の年金局資金課長になったのは今から30年近く前だろうか。その次の資金課長が今、日本IBMの顧問をしている江利川さんと同期の川辺新さんだ。年金局資金課というのは年金積立金の運用を管理するのが仕事で、年金福祉事業団と特別地方債の管理をやっていたように覚えている。私はこの会社に入って間もなくで年金住宅融資を主な担当としていたから、私にとっては資金課がいわば主務官庁。江利川さんや川辺さんが課長になってから歳が近いこともあって、仲良くなった。江利川さんと川辺さんが課長のとき補佐だったのが今、支払基金の専務理事をやっている足利さんと看護大学教授の岩野さんだ。この4人に当時、年金住宅福祉協会に勤務していた結核予防会の竹下さんと私を加えて不定期の呑み会をやっている。今日は当社の近くのビアレストラン「かまくら橋」が会場。足利さんと江利川さんが欠席のため川辺、岩野、竹下それに私の4人。竹下さんを除く3人が揃ったところで乾杯。竹下さんが来ないので電話すると「あれ、今日やるの」の返事。で今日は3人で決行することに。別にどうという話をするわけではないのだが、気の置けない仲間の楽しい時間だ。お互いだんだん年齢を重ねて行くの仕方がないが、長く続けたい集まりだ。