社長の酒中日記 12月その1

12月某日
パソコンが壊れて酒中日記のデータが失われてしまった。一から出直し。ベッドの脇に積んであった本の中に買った覚えのない文庫本があった。ベルンハルト・シュリンクという人の書いた「朗読者」(新潮文庫)という本である。4年前入院していた時、誰かが差し入れしてくれたのだろうと思う。15歳の少年「ぼく」が母親とあまり年の違わない女性ハンナと出会う。二人は恋に陥り結ばれる。ハンナは市電の車掌をしていてなぜか「ぼく」が本を朗読することを好む。ハンナは突然「ぼく」の前から姿を消してしまう。ここまでがこの小説の第1部。ここまでなら少年と年上女の青春愛欲小説で終わる内容だ。第2部でストーリは意外な展開をする。「ぼく」は法律を学ぶ学生になりナチスの看守を裁く法廷を見学する。被告席に他の被告と一緒に座っていたのはハンナだった。ハンナはユダヤ人虐殺の罪に問われたのだ。裁判の過程で「ぼく」には真実が明らかになってくる。ハンナは文盲だったのだ。ハンナが文盲を認めれば罪は軽減されたかもしれないが、ハンナは識字能力があるように装い、終身刑を宣告される。「ぼく」は刑務所の「ハンナ」に朗読したテープを送り続ける。仮釈放の日、迎えに行った「ぼく」に刑務所長はハンナが自殺したことを告げる。哀切極まりないストーリーであるが、私はいろいろと考え込んでしまった。
ひとつは戦争犯罪の問題。ハンナは確かにナチスの看守役を志願し、その職責を全うしたわけだから戦争犯罪人ではある。しかしナチスの思想の積極的な支持者ではなく、文盲の彼女でも勤まる仕事に就いただけという見方もできる。「ぼく」は彼女の死後、彼女の独房を訪ねるが、そこにはナチスの犠牲者と並んでハンナ・アーレントのエルサレムでのアイヒマン裁判のレポートも残されていた。アーレントは確か「命令に従っただけ」と主張するアイヒマンに対して「凡庸な犯罪者」という表現で誰にでもアイヒマンになり得ることを指摘した。これをアイヒマン擁護の言説ととらえられて、アーレントはユダヤ社会において批判されることになるのだが、それはさておいても戦争犯罪の問題、それも指導者ではない場合は、指導者でないからこその問題が出てくる。昔あったフランキー堺主演の「私は貝になりたい」というテレビドラマもそうだった。もうひとつはハンナが文盲だったという設定である。彼女の少女時代については小説では明らかにされていないが、文盲という事実が過酷な少女時代を連想させずにはおかない。今年のノーベル平和賞受賞者であるパキスタンのマララではないけれど、あまねく教育を受ける権利は保障されないとね。

12月某日
京都、名古屋出張。名古屋で家具の固定をやっているグループの忘年会に顔を出すのが目的だったのだが、ついでに京都で医師の三宅先生に会うことにした。三宅先生は奥さんが認知症で「認知症家族の会」の古くからのメンバー。会うのは今回で三回目だがなぜか気が合う。先生は昭和20年生まれだから来年70歳のはずだが、容貌も考え方も若々しい。京大の医学部を出てしばらく船医をやり、それから厚生省に入ったが、役人は肌に合わず京都に帰ったという。もっとも出身は岡山だそうだ。それから名古屋に戻って家具の固定の忘年会へ。ボランティアのみなさんや応援している消防署員のみなさんにあいさつ。翌日は昭和区で認知症のデイサービスを運営している皆本さんを訪問。いろいろと勉強させてもらった。

12月某日
当社は神田の雑居ビルの5階にあるのだが、その3階に入居しているのが訪問介護事業者の団体、民間介護の質を高める事業者協議会(民介協)である。今日はそこの理事会で理事会後の忘年会に声をかけられる。全国から20名あまりの理事さんが参加、忘年会は近くの「野らぼー」といううどん屋で。民介協の研修会には何度か参加させてもらったし、取材に伺った事業者もいくつかある。介護事業に真面目に取り組んでいる印象が強いし、会員同士の仲が良いのもこの団体の特徴。現場の経営者と話ができて楽しかった。

12月某日
佐藤優の「先生と私」(14年1月 幻冬舎)を読む。佐藤優の中学時代の主として塾の講師たちとの交流の物語なのだが、早熟で社会主義に興味を抱く佐藤少年がとても真面目でキュートだ。父親や母親の描き方も好感が持てる。佐藤は鈴木宗雄と組んで、外務省の本流に対して盾をついたような印象が強かったのだが、佐藤の執筆したいろいろな本を読むにつけ当人は至って真面目であり、語学と宗教、経済学に該博な知識を有していることがわかってきた。佐藤の本を読んでいつも驚かされるのはそのすさまじい記憶力だ。そして家族や仲間に対する愛情や信頼も半端ではない。佐藤優のような人は、これまでにいなかったしこれからもでないのではないか。本当に異色の人だ。

12月某日
高田馬場でグループホームを運営している社会福祉法人サンの理事に就任した。忘年会があるというので参加する。理事長、理事、監事、評議員らが参加。理事に就任して3か月が経過しているが、非常勤理事なので情報も少なく、たまにグループホームに顔を出しても理事長と話すぐらいで経営の実態はなかなかつかめない。それでも今日の某目㎜会に参加して話を聞く中で課題と思われるものがいくつか浮かび上がってきた。ひとつはコミュニケーション不足。理事長や管理者の思いが現場に十分伝わっているとは言えないのではないか?もちろん現場の思いが管理職や経営者に十分に伝わっていないのではないかということもある。職員相互のコミュニケーションが足りないのでないかと思えるところもある。新参理事でもあり何より社会福祉法人の経営にはズブの素人なので偉そうなことは言えないが、「入居者の満足」を第一に考えていきたい。

12月某日
吉本隆明の「真贋」(講談社文庫)を読む。吉本は学生時代から読んでいるが「言語にとって美とは何か」「共同幻想論」「心的現象論序説」などの「思想書」は、正直あまり理解できなかった。私はむしろ「自立の思想的拠点」「芸術的抵抗と挫折」「擬制の終焉」といった情勢論、転向論に魅かれた。過激な学生運動から脱落した私は、吉本がプロレタリア文学者の転向を「大衆の原像の喪失、離脱」というふうなとらえ方をしているのを読んで、自分自身の「転向」にも妙に納得したものだった。「真贋」07年に講談社インターナショナル社より語りおろし単行本として刊行されたもので、吉本の思想の根底にある生き方を吉本自らが語ったものとして私には興味深かった。印象に残ったグレーズをひとつ書き写すと「総理大臣だから偉いとか、大学教授だから偉いとか、あるいは名だたる芸術家だから偉いとか、そういったふうに思わないほうがいい。人を見る上でもっとも大事なことを挙げるとすれば、それはその人が何を志しているか、何を目指しているかといった、その人の生きることのモチーフがどこにあるかということのほうだと言える気がします」。私にとっての「生きるモチーフ」と問われても、明確に答えることはできない。そうではあるが、私にとっての吉本とは思想家というよりも、「生き方の師匠」という感じだ。

12月某日
国際厚生事業団のT田専務、損保会社の顧問を務めながら障碍者の施設を運営している社会福祉法人の理事長をやっているK林さんは厚生省入省同期である。今日は私も含めて3人で忘年会。ビール、赤白ワインを呑む。T田さんとK林さんの入省同期以外の共通点は東京生まれ東京育ちという点。T田さんは山の手、K林さんは下町という違いはあるものの「生き方」に嫌みがなくナイーブという共通点があるような気がする。私は北海道生まれだが、母親が東京の成城育ち。わたしも嫌みがなくナイーブということ?

12月某日
朝、携帯に社員のS田から連絡が入る。「母が病気のため10時に社会保険福祉協会から校正を受け取ってきてほしい」。今年の仕事納めの日だから皆忙しいんですよ。わたしは暇ですが。10時に校正紙を受け取り、まぁ序でと言ってはなんですがH田常務、U田さんに年末のご挨拶。12時からお昼を食べながらHCMで「胃ろう・吸引シミュレータ」の販売会議。HCMのM社長、O橋常務、開発者のH方さん、わたしが参加。ビールと日本酒を少々いただく。4時から当社の仕事納め。民介協のO田専務、当社の社外重役で社会保険研究所のS木常務にも参加してもらう。O田専務の富士銀行時代の同僚が偶々来ていたので参加してもらう。17時から社会保険研究所の仕事納めに顔を出す。30分ほど歓談してパートのT島さんを誘ってHCMの仕事納めに参加。日本酒、ウイスキーをいただいていささか酩酊。