社長の酒中日記 6月その3

6月某日
山田詠美の「風味絶佳」(文春文庫 08年5月 単行本は05年5月)を図書館から借りて読む。山田詠美は昔好きでよく読んでいたが最近、とんとご無沙汰。面白かった。この六篇の短編集に登場する男たちは鳶職、清掃作業員、ガソリンスタンドのアルバイト、引っ越し作業員、汚水槽の作業員、火葬場の職員。つまり己の肉体を使うことによって収入を得る職業だ。こういう職業は仕事の対象がモノであれヒトであれ具体的と言う特徴がある。対象が具体的と言うことは仕事の成果も具体的と言うことだ。介護福祉士なんかはその典型と思う。だからこの小説に親近感を持ったのかな。

6月某日
第一生命保険株式会社の株主総会。第一生命の株は同社が、何年か前に相互会社から株式会社に転換した際に当社にも割り当てられたものだと思う。上場企業の株主総会は経験したことがないので今回は参加してみようと思う。新橋から「ゆりかもめ」で「台場駅」へ。駅から直結のホテルグランパシフィックの大会議室が会場。10時開会だが9時半過ぎに会場に着いたらほぼ席は埋まっていた。入り口でお土産のクッキーとお茶を渡される。議長席に社長が着いて挨拶。事業報告は大画面に映し出される映像が行う。議案採決後株主からの質問を受け付けたが、好決算と言うこともあってか問題となるような質問もなかった。終わりまでいると「ゆりかもめ」が混むと思い、途中で退席する。
「介護事業者のための危機管理DVD」制作で社会福祉法人「にんじんの会」の石川理事長と打合せ。立川の石川さんの事務所へ映像担当の横溝君と当社の浜尾と伺う。各シーンについて検討を加える。ディテールがきちんとしていないと説得力に欠けると思っているので石川さんにいろいろと質問する。細部については石川さんも把握していないことがあるので現場の介護士や看護師に確認してくれるということだ。ところで私の古い友人の伊藤さんがこの6月から「にんじんの会」の西国分寺の「にんじんホーム」でお世話になっている。お世話になっているといっても入居しているわけではなくスタッフとして働いている。というわけで石川さんとの打合せが終わると西国分寺へ。駅前の「もこちゃん」という居酒屋で横溝君と待っていると伊藤さんが来る。近況を話してくれるが、どうしてもおよそ30年前の昔話となる。横溝君はつまらなかったろうな。

6月某日
石川理事長が横浜市の都筑区医師会で「訪問・施設でのリスク・マネジメント」について講演するというので、映像の記録をとりに横溝君と行く。訪問看護、訪問介護、ケアマネ、福祉用具相談員など70人くらいが熱心に受講する。石川さんは受講者を飽きさせることなくリスクマネジメントやその基本となるモニタリングは、利用者や家族だけでなく、事業者や働いている人を守るために必要であり、そのためにはサービスの標準化を図り、事業所でその基本を決め、契約事項に明記しておくということがよくわかった。

6月某日
「明治維新の新考察‐上からのブルジョア革命をめぐって」(大藪龍介 06年3月 社会評論社)を我孫子市民図書館の棚で見つけ、ぱらぱらとページをめくっていると例の明治維新を巡る日本資本主義についての本らしいので借りることにする。私は一般の経済史には興味はないけれど明治維新の性格についての論争が、当面する日本革命についてブルジョア民主主義革命を経て社会主義革命にいたる2段階革命論か、すでに日本は不十分とはいえブルジョア社会段階に到達しているのだから、当面する革命は社会主義革命とする一段階革命かという論争は、戦前の日本共産党系の講座派と労農派から戦後の日共と社会党左派、新左翼の論争に引き継がれた。いまやどうでもいいような話かもしれないが、私はグローバル経済下の日本の現状を理解するうえでも明治維新にさかのぼった検討も必要と思っている。
著者は明治維新について「上からのブルジョア革命」として次のように主張する。
①目的は諸列強に開国を強制され半植民地化の危機にさらされた弱小国、日本にとっては独立立憲政体の確立であった
②指導的党派は旧討幕派下級武士・公卿を中核とした維新官僚が分裂しながらも一貫して主導権を掌握した
③組織的中枢機関としては全行程にわたり、政府が主力になって変革を推進した
④手段的方法はクーデタと内戦、一機と反乱の鎮圧、そして「有司専制」など、全面的に国家権力の発動により行われた
⑤思想については尊王思想、「公議輿論」思想、西洋風の啓蒙思想、自由民権思想などが混在し、後に保守主義思想が伸張したが、基軸となったのは尊王思想‐天皇制イデオロギーであった。
これらのことから著者は、明治維新は国内の経済的社会的条件からすると早産であり、近代世界史の抗しがたい潮流に引き込まれ、外からの重圧に対応した「上からのブルジョア革命」であったと結論づける。それはまた「講座派」などが尺度としてきた史的唯物論の公式に反する革命であった。そしてこのような諸特質を持つ明治維新によって近・現代の日本の伝統となる官僚主義の国家体制や国家主導主義の原型が築かれたとする。
私には非常にすっきりした理論なのだが。大藪龍介という著者が気になったのでネットで調べると、60年安保のころ九大というか九学連の指導者で九州ブンドの主要なメンバーだったらしいことがわかる。安保ブンドのメンバーは西部邁、唐牛健太郎、青木昌彦はじめ興味深い人生を送っている人が多い。でも理論的にマルクス主義の陣営に止まった人はそう多くはないと思う。大藪という人は貴重な存在ではないか。

6月某日
我孫子駅前の東武ブックストアに入る。桐野夏生の「抱く女」(15年6月 新潮社)が平積みされていたので買うことにする。小説は1972年の9月から12月の女子大生、直子の日常を描写する。72年といえば私は3月に早稲田大学をギリギリの単位で卒業、友人の親戚が経営している印刷屋に潜り込み、付き合っていた同級生(今の奥さん)と結婚したころだ。直子は吉祥寺のS大学(桐野の母校、成蹊大学が想定される)で国際関係論を学ぶ2年生。授業に興味を持てず、麻雀壯とジャズ喫茶で時間をつぶし、男友達と酒を呑み、ときに関係を結ぶ。直子は親友の泉のアルバイト先のジャズ喫茶に勤めることにするが、ある日泉を訪ねると男が泉のアパートを出ていく場面に出くわす。男は泉の元恋人で赤軍派の活動家だという。72年のテルアビブ空港の銃乱射事件で射殺された犯人、安田安之と知り合いで「安田が死を賭けて闘ったのに、自分はどうしてこんなところにいて、のんべんだらりといきているんだろう」と「もう死ぬからお別れに来た」ところという。結局、男は西武池袋線の始発電車に飛び込み自殺する。
直子の二番目の兄、和樹は早稲田の革マル派の活動家で何日も家に帰ってこない。直子は新宿で知り合ったドラマー志望のバンドボーイ深田と同棲するつもりで家へ帰るが、そこで知らされたのは和樹が敵対するセクトに襲われ、瀕死の重傷を負ったこと。早朝病院に和樹を見舞った直子はひとりで和樹を看取ることになる。こうやって粗筋を追うと実に暗い小説となるが、私の読後感は少し違う。ひとつは全共闘運動が敗北し、連合赤軍事件でそれが決定的になったころの青春を見事に描いているとおもうからだ。もうひとつはその当時の雀荘や安酒場、ジャズ喫茶の雰囲気が皮膚感覚で蘇ってくるような気がするからである。まぁ万人向けとは言えないが。

6月某日
ぎっくり腰になってしまった。こういうときは中国鍼の王先生に施術してもらうのだが、先生が目黒の鍼灸院に来るのは水曜と土曜のみ。それ以外は立川と国分寺に行っているので今日は無理。民介協の扇田専務に神田の「しあつ村」を紹介してもらう。単なるマッサージと違って血流やリンパの流れを刺激するのだという。施術してくれた女性も感じがよかったので明日も予約する。ぎっくり腰と反対側のおなかをホカロンなどで温めるといいと先生に言われたので、家に帰って早速やってみた。少しは楽になったような気がする。
元年住協の林さんと新松戸の「ぐい呑み」で待ち合わせ。林さんは年住協を退職した後、東京フォーラムで危機管理のしごとをやったりして、今は日本環境協会。保育所や市役所を廻って環境教育の重要性を訴えているそうだ。林さんにすっかり御馳走になる。

社長の酒中日記 6月その2

6月某日
「介護職の看取り・グリーフケアの実態調査」でソラスト世田谷のサービス提供責任者の村上さんを桜新町のオフィスに訪問。桜新町は「国民的」マンガ「サザエさん」の作者、長谷川町子が住んでいた町で長谷川町子美術館もある。地下鉄の出口を出るとサザエさん一家の銅像が出迎えてくれる。15分ほど歩いてオフィスへ。村上さんが笑顔で迎えてくれる。世田谷区は区民の所得が高い。ということは従業員の人員確保が難しく、その一方で介護保険外のサービスのニーズが高いという特徴がある。村上さんは介護職について10数年の経験があるが、前職はゴルフのキャディ。それも名門、読売カントリー。よみうりのキャディはマナーのなっていない客は叱り飛ばすという噂があったが、それほど自分の仕事に誇りを持っているということなのだろう。村上さんはおそらく同じ想いを介護職に持っているにちがいない。介護の仕事について含蓄のある話を聞かせてもらった。
今日はさらに「へるぱ!」の取材で新橋の医療法人・悠翔会へ。理事長の佐々木先生へインタビュー。先生は30代後半の精悍な顔立ち。急性期病院ではなくなぜ在宅診療なのかを熱く語ってもらった。介護職の村上さんにも言えることだが、自分の仕事に誇りを持っている人は他者にやさしく謙虚だ。だから本当の意味での多職種連携ができるのだと思う。それから車で神田錦町の「由利本庄市うまいもの酒場」へ。由利本荘の地酒をしこたま飲む。根津の「ふらここ」で川村学院の吉武副学長と待ち合わせていたが、吉武さんが着いた頃には私はかなり酔っていてよく覚えていない。反省!

6月某日
中野剛志の「国力論―経済ナショナリズムの系譜」(以文社 08年5月)を読む。私は経済学を系統的に学んだわけではない(もちろん経済学以外の学問についても同じ)が、最近のアベノミクス、低金利、円安、グローバリズムといった経済の新しい潮流を見聞きするにつれ、経済現象を正しく読み解かなければならないと思ってしまう。そんな関心から岩井克人、水野和夫、浜矩子などの本を読むことが多いが、中野剛志もその一人。中野は東大教養学部卒、通商産業省入省。ウイキペディアによるとまだ経産省の現役官僚らしい。学部生のときに佐藤誠三郎の指導を受け、そして10年以上にわたって西部邁の薫陶を受けたという。ということは筋金入りの保守の論客と言うことになるが、保守vs革新という対立構造が意味をなさなくなって久しいと思っている私にとってはどうでもいい話である。さて本書の内容だが、「今日、世界中の大学の経済学部で標準的な理論として教えられる」主流派経済学=新古典派経済学に対して経済ナショナリズムを真向から対峙させたものである。経済ナショナリズムの源流はアレクサンダー・ハミルトンとフリードリヒ・リストにあり、彼らには「経済発展の原動力は、ネイションから生み出される力(国力)であり、そしてネイションの力を強化するには経済発展が必要である」という政治経済観、信念があった。これを受けて著者は、ヒューム、ヘーゲル、マーシャルの思想の跡をたどる。そしてマーシャル以降もネイションと経済のダイナミックな関係に気づいた数少ない経済学者として、ケインズ、ロビンソン、ミュルダール、クズネッツの理論に含まれる経済ナショナリズムに光を当てる。経済学の門外漢たる私にとって十全に内容が理解されたとは言い難いが、今後も関心を持っていきたい分野であることは確かだ。

6月某日
「外交の大問題」(鈴木宗男 小学館新書 15年6月)を読む。鈴木宗男は例の鈴木宗男事件が起こるまで地元以外では嫌われ者であった。私もほとんど評価していなかった。しかし「国策逮捕」後、評価は一変したように思う。これは同時に逮捕された外務省の佐藤優(本書でも鈴木と対談している)の存在が大きい。彼の獄中記をはじめとする一連のドキュメントが多くの国民をして「悪いのは外務省ではないか」と考えを変えさせたのだ。で本書は鈴木の体験したキルギス人質事件や北方領土交渉が語られるのだが、私にはさほどの新鮮味はなかった。やはり鈴木宗男は論理で語るより情に訴えたほうが迫力がある。

6月某日
八重洲北口のビモンに6時に着。生ビールを頼む。ほどなく元全社協の副会長で現在、損保会社の顧問をやりながら社会福祉法人の会長をやっている小林和弘さんが来る。社会福祉法人の経営についていろいろ教えてもらう。2人でワインを呑んでいると元次官の阿曽沼氏が登場。上智大学で会議だったらしい。日帰りで京都に帰るということなので東京駅近くに場所を設定したわけ。8時過ぎにお開き。阿曽沼氏は無事、京都へ帰れただろうか?

6月某日
阿曽沼さんも年金改革などで荻島國男さんに薫陶を受けたと思う。荻島さんは児童手当課長の次に水道環境部の計画課長に就任、廃棄物処理法案を仕上げた。だがこのころ築地のがんセンターに入院した。当時私が編集に携わっていた「年金と住宅」(財団法人年金住宅福祉協会)に連載をお願いした。タイトルは正岡子規の「病中六尺」を模して「病中閑話」とした。原稿は病室に取りに行ったり郵送されたりした。病室でまだ中学生だった良太君に会ったこともある。亡くなる直前に病室に行ったら奥さんの道子さんが「死に顔を見てもしようがないから顔を見て行って」とベッドへ案内してくれた。荻島さんはモルヒネで朦朧となりながらも「原稿、今は書けないんだ」と私に告げた。がんセンターから新橋、厚生省の前まで歩いた。荻島さんが死ぬというのに厚生省は何事もなかったようにこうこうと灯りを点けていた。腹立たしくも不思議な気持がしたことを覚えている。

6月某日
高齢者住宅財団の落合さんは長いことフラメンコダンスを習っていて、毎年リサイタルの切符を送っていただく。去年は私の体調不良(二日酔い)で欠席したので、今年は満を持して出席の筈だったが開演が7時半からだったのでつい一杯やっていたら会場の伊勢丹会館に着いたら、すでに始まっていた。元国土交通省の合田さん、元厚生労働省の宮島さんも来ていた。彼らによると落合さんの見せ場は終わったということらしい。それでも落合さんの踊りのシーンはいくつか見ることができた。踊りもよかったがギター(いわねさとし)、能で言うと謡のようなカンテ(森薫里)がよかった。雨が降ってきたので呑みには行かず解散。

6月某日
「介護職の看取り、グリーフケア」のインタビュー調査で地域密着型特養ホームつきしまを訪問する。長岡福祉協会首都圏事業部の統括施設長、笹川美由紀さんをインタビューするためだ。SCNの高本代表と市川さんが一緒だ。地下鉄の月島駅前に再開発されたキャピタルゲートプレイスザ・モールの3階、4階が長岡福祉協会の運営するケアサポートセンターつきしまで定員29人の特養と定員6人のショートステイ、いずれも個室だ。笹川さんのインタビューを通じて今まで漠然と感じていたことが確信に変わったように思う。それは利用者の尊厳を重んじ十分なケアを行うことが、手厚い看取り、遺族のグリーフケアに繋がるということだ。看取り加算が付くからと言って終末期に手厚い介護を行うというのはやはり違う。日常の十全なケアの延長線上に看取りケアはあるのだと思う。ここの特徴のひとつは食事が充実していること。ある日の夕食メニューは野菜の煮物(鶏肉・ちくわ・かぼちゃ・里芋・人参・椎茸・ごぼう)、なすと小松菜のピーナッツ和え、お漬物にご飯とみそ汁だ。インタビュー後施設を案内してくれた鈴木チーフリーダー(20代の好青年)は、「ご飯をたくさん召し上がっていただけます。要介護度軽くなる方もいらっしゃいます」と誇らしげに語ってくれた。中央区在住の高本代表はしきりに老後は「私もここに入りたい」と言っていた。

6月某日
佐伯啓思の「日本の宿命」(新潮新書13年1月刊)を読む。「新潮45」2011年9月号~2012年5月号の連載に加筆を施したもの。佐伯啓思は東大経済学部卒。京都大学名誉教授。、西部邁や村上誠亮に師事したとウィキペディアにある。「新潮45」の常連執筆者だから保守派には間違いない。開国、明治維新、文明開化、敗戦、占領、そしてアメリカをどうとらえるかについて佐伯の考えはたいそう参考になった。佐伯の考えは林房雄の「大東亜戦争肯定論」に近い。この論文は確か私が高校生の頃、雑誌「中央公論」に掲載されたもので、当時の左翼少年だった私は「とんでもない!」と怒ったものだ。しかし今は林の考え方に共感するところが多い。国、それは国家=ステートというより邦=クニに近いかもしれない。私らにとってクニ、ナショナルなものこそ思想の基礎となると思い始めたのである。いずれにしても日本が前世紀に中国大陸や東南アジアで戦ったいくさについては、戦後的な価値観だけではなく、世界史、そのなかの東アジア史、そのなかの日本史の中できちんと位置づける必要がある。

6月某日
芝公園にある住友不動産タワー。あたりを睥睨するかのごとく聳えたっている。家賃も高いに違いない。そのタワービルの3フロアを占めているのが昨年から当社のクライアントになったSMS社。いつもは当社のスタッフと連れ立って訪問するのだが今日は1人。SMS社のスタッフも訪問する人たちも私の息子くらいの年恰好。待合室で待っている間もどうも居心地が悪い。時間になって長久保さんが来る。女性スタッフが妊娠、出産、育児休業に入ると挨拶に来る。やはり若い会社なんだなー。

社長の酒中日記 6月その1

6月某日
富国生命ビル28階の富国倶楽部。6時前に着くと6時ちょうどに当社の大山氏が登場、少し遅れて社会保険出版社の高本社長、結核予防会の竹下専務が来る。高本社長がスマホを開いて「年金記録流出」の記事を見せてくれる。ほどなく私の携帯に年金局の八神総務課長から電話。「申し訳ありませんが本日の会合は欠席させていただきます」と。結局仲間内の呑み会になり、西新橋の居酒屋へ流れる。HCMの森社長が関西からの出張の帰りと言って顔を出す。高本社長と2人でニュー新橋ビルの地下のバーへ。我孫子へ帰って「愛花」で焼酎のお茶割を1杯。

6月某日
久しぶりにCIMネットの二宮さんを八丁堀の事務所を訪問。CIMネットは地域包括医療システムの構築を目指す医療職や介護職を応援する目的で設立されたNPO法人。事務所に行ったら印刷会社のキタジマの北島社長と打合せ中だった。ソルクシーズという会社の中島さんを紹介される。かの会社は見守り支援システム「いまイルモ」を開発、販売しているという。私はこれからの高齢者介護を支えるにはIT、ロボット、外国人労働力の活用が不可欠と思っているから非常に興味深かった。二宮さんに誘われて中島さんと3人で近くの「月山」で御馳走になる。残念ながら新橋の長谷川で先約があったので中座、長谷川に向かう。HCMの森社長、大橋常務、当社の赤堀、そして結核予防会の竹下専務と打合せ。

6月某日
午後、虎の門の医療・介護政策研究フォーラムの中村理事長を訪問。次いで西新橋のHCMの森社長、大橋常務と打合せ、それから高田馬場の社会福祉法人サンの西村理事長に面談。一度会社に帰って御茶ノ水の社会保険出版社の高本社長と打合せ。それから外神田の「章太亭」へ。前の厚労次官で、現在は京都大学の理事をやっている阿曽沼さんが東大で会議があるので上京。軽く一杯やることにした。約束は7時からだが、私は6時過ぎに章太亭へ。町内の旦那衆4、5人のグループが先月行われた神田明神のお祭りについて話している。鎌倉町や旭町という町名が聞こえてくる。私の会社がある内神田の旧町名ではないか。会話のなかに「いくよ寿司」や「寿司定」といった知っている店の名前も出てくる。見ず知らずの客だが親近感を持ってしまった。東大から阿曽沼さんが到着。「京大は百年先を見ている」とぶってきたそうだ。

6月某日
社保研ティラーレの佐藤社長と吉高さんに神田錦町の「由利本荘うまいもの酒場」で御馳走になる。料理も日本酒も旨かった。由利本庄市は鳥海山の麓だが、海も近く海のものもおいしい。私は社員の親族のお葬式で一度行ったことがあるが、山紫水明という表現が合う町だった。造り酒屋が4軒もある日本酒の町でもある。佐藤さんと吉高さんと別れ、9時ころ根津の「ふらここ」へ。常連の宮ちゃんが岩手県の一関に赴任、今日は出張で東京に来る。もちろん岩手のお酒も一緒に。ここでも日本酒をたっぷり御馳走になる。常連の宮越さんやあやちゃんも来る。

6月某日
「資本主義の預言者たち ―ニュー・ノーマルの時代へ」(角川新書 中野剛志 15年2月)を読む。著者は東大経学部教養学科を卒業後、通産省に入省。京都大学の准教授を経て、今は肩書が特にないから著述業かな。私にとっては保守派の印象が強いが、むしろグローバル化に抗する経済ナショナリストの印象が強まった。中野の言わんとすることはまず「資本主義は所有と経営が分離した結果、安定した秩序を保つことができ」なくなった。初期の資本主義では所有(株主)と経営は一致していたが、次第に株主は経営に参加せず経営には経営の専門家(経営者)が当たることになって行ったことを指す。株主は短期的な視野から株高を求めがちであり、この要求に応えようとした余り、エンロンの粉飾も起こったと考えられる。簡単に言うと中野は株主資本主義、金融資本主義、経済自由主義に反対しているのだ。これらに依拠し拝跪している限り資本主義は破綻すると。
中野は例えばシュンペーターに着目する。企業家の経済活動における動機は、主流派経済学が想定するように経済的利益の最大化といった功利主義的なものではなく、企業家を駆り立てるのはスポーツのような征服への意志、創造する喜びといった動機なのである。企業家の機能とは、生産手段をこれまでとはまったく違ったパターンで結合する「新結合」にある。この新結合を実行するために、企業家が必要とするものは何か。それは「意志と行動のみ」であるとシュンペーターは言う。まさにその通りだと思う。経済学は高等数学などを駆使して技術的には高度化されたかもしれないが経済哲学の面で前世紀の経済学者に大きく遅れをとっているのかもしれない。

6月某日
飲み友達の本郷さんに日比谷公会堂で集会があるから行こうと誘われる。「何の集会?」と聞くとメールで「国鉄」と返ってくる。「終わったら一杯やろう」とも書いてあるから行くことにする。山手線を有楽町で降りて公会堂へ。公会堂前の待ち合わせだが本郷さんはまだ来ていないようだ。参加者の一人が「向こうにいるのは全部公安ですよ」と言う。なんだかとても60年代、70年代の雰囲気だ。本郷さんを見つけて中に入る。韓国統一労組からの連帯のあいさつや動労千葉からのあいさつがある。なんとなく中核派系の集会だということがわかる。でも公会堂がほぼ一杯だったし、安保法制や集団的自衛権の問題で、国民の各層が危機感を持ち始めたのかもしれない。韓国労組との連帯はじめ国内でもいろんんな中小労組の連帯が進んでいるようだ。労働運動いまだ滅びずというところかね。集会は1部が終わったところで退席、新橋鴉森口で本郷さんと一杯。

6月某日
介護職の危機管理のDVD制作で、立川のケアセンター「やわらぎ」の石川代表と打合せ。映像の横溝君、当社の浜尾が同行。「やわらぎ」や社会福祉法人「にんじんの会」での危機管理の実際を参考にすることにする。危機管理は従業員個々の問題ではなく組織の問題であることがなんとなく理解できた。終わって新橋の「北の台所おんじき」へ。ここはHCMの大橋さんが予約していた店だが、大橋さんが行けなくなって予約を肩代わりしたところ。4人で予約したということなので、健康生きがい財団の大谷常務、共同通信の城を誘った。あと1名は一緒に立川に行ってもらった横溝君。酒も料理も旨かったが、何といっても松田隆行という人の津軽三味線のライブが素晴らしかった。

6月某日
「私の人生」などというと気恥ずかしいが、その私の人生に最も影響を与えた人と言えばやはり荻島國男さんの名前を挙げないわけにはいかない。荻島さんは20年以上前に亡くなった厚生官僚だ。私が荻島さんと初めて会ったのは彼が老人保健部の企画官の頃で、老人保健法の改正を進めるためのパンフレットを作ったときだ。企画官のときから「将来の次官候補」などと周囲から言われ、打合せ中も切れ者の印象が強く、私はただ議論を聞いているだけだった。あるとき文章を巡って私が「そこはこうしたほうがいいんではないですか」と言ったら、荻島さんが「あれっ君も意見を言うの」と少し驚きながら私の言葉に耳を傾けてくれた。荻島さんはなぜか私のことを気に入ってくれて、呑みにつれてくれていったりゴルフを誘ってくれたりした。それから荻島さんは調査室長として厚生白書を書き、白書をもっと読まれるにはどうしたらいいか、意見を求められたこともある。調査室長の次は児童手当課長。このときは単行本やポスターを作ったりした。このときの課長補佐が社会保険庁から来た池田保さんで、のちに「あのときは大変だったんだよ」とポツリと漏らしたことがある。つまり児童手当課は児童家庭局で児童家庭局系の出版社があり、そこに仕事を発注しないで当社に発注したことが一部のノンキャリの反発を買ったということらしい。
 荻島さんのこと書き出すとキリがなくなるので今日はここまでにしておこう。その荻島さんの奥さんの道子さんが体調を壊して入院中というので今日は見舞いに行ってきた。道子さんは思っていたより元気で近況を話してくれた。厚生労働省へ寄って昔、荻島さんの部下だった唐沢保険局長と武田審議官に報告。2人とも「昔、良く荻島さんの家で飯食わせてもらったからなー」と懐かしみながら、道子さんが思ったより元気なことを喜んでくれた。
 今日は人形町の「恭悦」が3周年と言うことでコース料理が3500円で飲み物が半額。セルフ・ケア・ネットワーク(SCN)の高本代表が予約してくれている。店に行くとすでにフィスメックの小出社長と社会保険出版社の高本社長が来ていた。ほどなくSCNの高本代表、市川さんが来る。SCNの岩阪夫妻も到着して乾杯。恭悦のお料理は美味しいだけでなく見た目がきれい。日本料理の伝統ですね。

6月某日
「介護職の看取り、グリーフケアの実態調査」で、今日はオランダ人の田中モニックさんにインタビュー。昨日に続いて「恭悦」で。私は原則として酒食を伴ったインタビューはすべきではないという考え(インタビューを終えてからならば構わないけれど)。で、今日は食事しながら呑みながらという趣向だったので正直不満(?)だった。でもモニカさんが酒を召し上がらないうえに大変聡明な人だったので、とても良いインタビューができたと思う。オランダ人は北方ゲルマン民族に属すると思うけど、私の印象は彼らがとてもインディペンデントなこと。モニカさんもその例にもれず自立した女性だった。考えてみると、日本の介護保険の理念は自立支援。私たちは介護だけでなく、なんによらず自立していかなければならないと思う。産業化と個人の自立は「近代化」の条件のように思う。自立と言う言葉を聞くと茨木のり子の「倚りかからず」という詩を思い出す。

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ

社長の酒中日記 5月その3

5月某日
社会保険福祉協会で(社福)にんじんの会の石川理事長、当社の浜尾、映像担当の横溝君と打合せ。石川理事長は渋谷へ。浜尾は会社へ戻る。わたしと横溝君は「その辺で一杯」ということで西新橋界隈をぶらぶらしているとHCMの大橋さんが通りかかる。大橋さんも誘って、「南部どり内幸町店」に入る。ビールを呑んでいるとこの界隈の弁護士ビルに事務所のある学生時代の友人、雨宮君が入ってくる。声を掛けると「あれ、モリちゃんなんでいるの」と言うので「それはこっちのせりふだよ」と返す。帰り際に「近いうちに呑みましょう」と約束する。

5月某日
松戸の聖徳大学の篠崎先生にインタビュー。松戸のイトーヨーカ堂にあるレストランで待ち合わせ。先生は筑波大学で障害児教育を学び、出版社勤務の後、八戸学院大学で教え、昨年聖徳大学へ移った。先生は今、「介護の専門性は何か?」について具体的に解き明かそうとしている。介護福祉士は国家資格だし専門職なのだが、その中身はとなるとかなりあいまい。先生はそれを科学的に客観的に明らかにし、それで介護現場の報酬の低さを証明していく方向らしい。好漢シノチャン、がんばれ。
企業年金連合会の常務理事に就任した足利さんを訪問。私が理事をやっている社会福祉法人の評議員への就任を要請するため。西村理事長も同行。企業年金連合会の理事と他の団体の理事、評議員の兼職は禁止されているのかもしれないと思ったが、そんなことはなく快諾していただいた。社会福祉法人は高田馬場にあるが足利さんの自宅は小滝橋の近くだそうで、法人の近くまで散歩で来ることもあるそうだ。会談を終えて大宮に帰る西村さんと別れ、企業年金連合会近くのSMSへ。当社の迫田、浜尾とSMSの担当者と打合せ。打合せ後、近くの韓国料理屋「からくにや」で食事しながら打合せ。

5月某日
先日行った「地方から考える社会保障フォーラム」で講演してもらった宮島さんに社保研ティラーレの佐藤さんとお礼に。終わってからニュー新橋ビルの「初藤」で佐藤さんに御馳走になる。佐藤さんは衆議院議員だった樋高剛さんの秘書だったが、議員の落選にともない社保研ティラーレを設立、代表になった。小柄で顔立ちが可愛いので若く見えるが、「今年で50になるのでキャッシュカードを処分しました」と。そうか独身を通すというのも覚悟がいるのだなと思った次第。佐藤さんは元議員秘書だが、とても素朴で純真、話していて面白い。佐藤さんと別れニュー新橋ビルの2階にあった「T&A」を覗くと違う店になっていた。私がプレハブ新聞社にいたころから通った店でさみしい限り。マスターとママの「しゅうちゃん」はどうしたのだろう。我孫子駅前のバー「ボン・ヌフ」でジントニックとカナディアンウイスキーのロックを一杯。

5月某日
季刊誌「へるぱ!」の取材で日本介護福祉士会の内田千恵子副会長にインタビューに。フリーライターの沢見さんと当社の迫田も一緒。インタビューのテーマは介護福祉士の研修、人材育成だったが、話は「介護」という仕事の専門性とは何か?介護福祉士に求められる資質とは何か?に移って行った。内田さんに拠れば、例えば30分、45分間、高齢者宅を訪問介護するにしても、その時間帯だけの利用者のケアするのではなく、その人の1日の状態、生活はどうだったか、その人の暮らし、人生はどうだったか探求し、思い描かなければ十全な介護はできないということであった。介護という仕事は奥が深いと改めて思った。
「介護という仕事は肉体労働ではなく頭脳労働」という内田さんの言葉に深く納得。
一般社団法人の社会保険福祉協会から助成金をいただいて「介護職の看取り、グリーフケアの実態調査を行っているが、アンケート調査の項目を整理するため、SCNの高本代表の原案を元に、元厚労省で現在、筑波大学の宇野先生と議論。私と高本代表理事だけでは深まらない議論も宇野さんが入ると深化する。
元機械工業新聞労働組合の毛利さんから電話。毛利さんとは私がプレハブ新聞社の前に在籍していた日本木工新聞で労働組合をやっていた時、毛利さんが専門誌労協のオルグとして派遣されてきたときからの知り合い。ざっと40年くらいの付き合い。忘れたころに電話があり、酒を呑む関係だ。御徒町の居酒屋で一杯やった後、毛利さんのなじみの西日暮里の韓国倶楽部へ。毛利さんは韓国語が堪能。ホステスと韓国語で会話していた。

5月某日
保険局の武田審議官に次回の社会保障フォーラムのアドバイスを受けに社保険ティラーレの佐藤社長と。ソファーで先客の終わるのを待っていたら社会保険旬報の手塚さんが武田審議官に掲載誌を持ってくる。待っている間3人でおしゃべりする。武田審議官にいろいろとアドバイスを受けて帰社。当社の石津と久しぶりに呑みに行く。神田駅南口の「とめ手羽」に呑みに行く。結構繁盛している店で料理も美味しい。景気が少し回復してきたからなのだろうか、客足が戻ってきたように感じる。勘定を終えると竹下さんから携帯に電話。石津には「まっすぐ帰るんですよ」と声を掛けられたが神田の葡萄舎へ。焼酎を飲む。賢ちゃんとおねーちゃんも一緒に呑む。

5月某日
飯嶋和一の「狗賓童子の島」(小学館 15年2月)を図書館から借りて読む。A6判555ぺージの大著。幕末の隠岐を舞台とする歴史小説。大塩平八郎の乱に連座した父の罪により、西村常太郎は15歳の時に隠岐、島後に流される。常太郎は島民に暖かく見守られ青年医師に成長する。幕末の時勢は隠岐にも押し寄せ、隠岐の農民、漁民の松江藩への不満は高まる。庄屋や神官を指導者に島民は松江藩の代官を追放するのだが。鳥羽伏見の戦いから始まる戊辰戦争とほぼ同時期に行われた隠岐の島民の松江藩に対する反乱。これは一つの階級闘争としての農民戦争と言えなくもないと思う。支配者としての松江藩の収奪が庄屋や神官を指導者とする島民の蜂起をもたらしたのだ。明治維新を巡ってはその性格を巡って講座派と労農派の論争があったが、私としてはこの小説を読んで、「ブルジョア民主主義革命を内包しつつも基本は絶対主義の明治国家を成立させた」という折衷論をとりたい。飯嶋はなかなかの書き手と思う。

5月某日
日曜日だが、日本ホームヘルパー協会の因会長のインタビューがあるので大手町の新丸ビルへ。フレンチ料理の個室を確保している。因さん、当社の迫田、フリーライターの沢見さんと一緒に店に入る。食事の前に30分ほどインタビュー。食事をしながら1時間ほどその続き。因さんとは初対面だが飾らない、それでいて利用者やヘルパーのことをよく考えている人と思う。雑談のなかで因さんはボランティアから始め、家庭奉仕員、ヘルパー、介護福祉士、ケアマネージャーの資格をとってきた人らしい。結構な苦労人だが、そんなそぶりを少しも見せない。介護業界には魅力的な人が多いと改めて感じた。
東京に出てきたついでに相模大野でがん療養中のフリーライター、森絹江さんを見舞いに行くことにする。大学のサークルの後輩。サークルはロシヤ語研究会。のちに評論家となる呉智英さんなどもいた。森さんは入学後、共産同にオルグされて大学に来なくなった。再会したのは15年ほど前、私は編集者、彼女はフリーライターだった。彼女は女手ひとつで娘二人を育て上げ、そうしたら乳がんが発見された。5年くらい前だろうか。積極的な治療はしない段階になったそうで今日は見舞いに。在宅療養中で思っていたより元気だった。昔の仲間の話をして「また来るね」と別れた。