社長の酒中日記 7月その3

7月某日
小熊英二の「生きて帰ってきた男―ある日本兵の戦争と戦後」(岩波新書 15年6月刊)を図書館で借りて読む。一言で言うと英二の父、小熊謙二のオーラルヒストリーなのだが、私にはとても面白かった。謙二は北海道の佐呂間村で1925(大正14)年に誕生した。6歳のときから東京の祖父母に育てられ、早稲田実業を卒業、富士通信機製造に就職したのが1943(昭和18)年である。1944年の11月、19歳になった謙二に陸軍の入営通知が届く。謙二は満州で軍務に就くが、戦闘体験もないまま旧ソ連軍の捕虜となりシベリアに送られる。3年の抑留から無事帰国するが、小さな会社を転々とするうちに結核を患い、新潟県の国立療養所に入所する。1956(昭和36)年、謙二は片肺を手術で失いながらも療養所を退所することができた。謙二は30歳になっていた。1958年、謙二は株式会社立川ストアに就職、ようやく安定した生活を手に入れる。私がこの新書を興味深く読んだのは、私の父と母が1923(大正12)年生まれで謙二と同世代ということもあるかもしれない。
とくに私の父は謙二と同じ北海道の生まれ、家が裕福ではなかったので旧制中学には進学できず、高等小学校から苫小牧工業学校に進学、成績が優秀だったせいか京都工芸繊維高等専門学校を経て東京工業大学へ進んだ。謙二との大きな違いは理工系学生だったため徴兵が猶予され軍隊体験がなかったことだ。私の父は20年近く前に死んでいるが、社会主義者ではないが革新政党の支持者だったり、反戦的であったりするところが謙二と「似ている」と思わせる。そんなところも面白く読んだ一因かも知れない。

7月某日
SMSの河田さんが9月から出産および育児休業に入るということなので、長久保さんや竹原さん、河田さんの後任の岡部さんを招いて富国倶楽部で呑み会。SMSは30年ほど前、一緒に仕事をしていたリクルートと似た雰囲気があるような気がする。当時のリクルートも現在のSMSも若いという共通点がある。変わったのは私が年を重ねたことね。SMSの連中はみな私の子供の世代だ。

7月某日
四谷の東貨健保会館のホールで社会保険倶楽部霞が関支部の総会。総会後のセミナー「保健医療改革の動向」(前厚労省保険局長の木倉敬之氏)を聞きに行く。元官房副長官の古川貞二郎さんも聞きに来ていた。セミナー後の茶話会で幸田正孝さんや多田宏さん阿倍正俊さんらに挨拶。阿倍さんは社会保険の現状を「これでいいのか」と熱く批判。阿倍さんの論は正しいと思う。多少、鬱陶しいけどこうした人は必要だと思う。6時から会社近くの「ビアレストランかまくら橋」で唐牛真紀子さん間宮陽介さん、堤修三さんと呑み会。間宮さんは元京大経済学部教授でケインズを訳したり「丸山真男」などの著作がある。堤さんは元社会保険庁長官で、おととしまで阪大教授。もともとは堤さんと亡くなった高原さんと私の3人でよく呑んでいた。高原さんが亡くなった後、堤さんと高校の同級生だった間宮さんが京大を定年で退官、3人で呑むようになった。唐牛さんは60年安保の全学連委員長、唐牛健太郎さんの未亡人。浪漫堂の倉垣さんを通じて知り合った。間宮さんは東大で西部邁と親交があり、西部さんと親しい唐牛さんと食事でもしようということになった。4人とも好きなことを語り「集団的自衛権は如何なものか」では一致。機嫌よく帰った。

7月某日
「介護職の看取り・グリーフケア」の調査で悠翔会の佐々木理事長兼診療部長にSCNの高本代表理事、市川理事、それに当社の迫田とインタビュー。この欄で何度か書いたことかもしれないが、この調査で多くの医者、看護師、介護関係者にインタビューしてきたが、言えることは「偉い人こそ威張らない」こと。私が立派だなーと思う人は押しなべて謙虚。佐々木先生もそのひとりだが、「先生という呼称は好きではない」といいながら、こちらが「佐々木先生」と呼んでも敢えて訂正しようとはしない。些細なことかもしれないが私などはそこに「フラット感」を感じてしまう。佐々木先生のインタビューを終え、新橋の悠翔会から日本橋小舟町のSCNの事務所へ。高本、市川さんとオランダ人の田中モニックさんにオランダの死生観等を聞くためだ。実は1か月ほど前同じテーマでモニックさんにインタビューしたのだが、呑み屋さんでのインタビューとなったため、うまく声が拾えなかった。それで事務所での再度のインタビューとなった。本題のインタビューも面白かったが私はむしろ、日本と西欧との個人のあり方の違いが感じられて興味深かった。日本人は家族、共同体(地域や会社などの組織)でもたれあうことが多い。これに対して西欧は個人の自立度が高いように感じられる。介護保険制度が自立支援をテーマのひとつに掲げたのは正しいと思う。地域包括ケアシステムの構築にしても「個人の自立」がなければ成功しないと思う。ということは地域包括ケアシステムの構築とは地域革命ということだ。

7月某日
浅田次郎の「霞町物語」(講談社文庫 00年初版)を図書館から借りて読む。95年1月号から98年3月号まで「小説現代」に断続的に連載されたものを単行本化し、さらに文庫化したものだ。著者の分身と思われる「僕」は、青山と麻布と六本木に挟まれた霞町の写真館の3代目、受験を控えた都立の進学校の3年生でもある。浅田次郎は私より3歳下の1951年生まれだから舞台は1969年ころということになる。ちょうど私が新宿や早稲田、東大でゲバ棒片手にデモを繰り返していたころと重なるが、小説にはそんな感じは微塵も感じられず霞町界隈で恋と遊びに刹那的に生きている高校生とそこに暮らす家族の生き方が活写される。私は高校生の頃、石原慎太郎の「太陽の季節」を読み、都会と田舎の高校生の意識と環境の違いに度肝を抜かれたものだが、それは基本的にこの作品でも変わらない。違うのは「太陽の季節」が描いているのは高度成長期の入り口にあった日本社会だが、「霞町物語」で描かれているのは高度成長期の絶頂期から下り坂に至り始めた日本社会だ。霞町のバーにたむろしていた高校生たちも実家が地上げにあい、次々と郊外に転居していく。写真館の初代である「僕」の祖父の老耄と死と相まって「滅び行くもの」の哀切さが伝わってくる。この本とは関係ないけれど、浅田次郎は集団的自衛権の容認に反対して発言していた記憶にある。浅田次郎は自衛隊出身ではあるが、だからこその反対なのかもしれない。

7月某日
「もーちゃん○日の夜空いていない。古都さんと呑むから来ない?」と社会福祉法人にんじんの会の石川はるえ理事長からメール。当日、会場の新橋2丁目のビルの地下「福は内」に入ろうとすると「森田さん!」と社会保険福祉協会の内田さんが声を掛けてくれる。そうだ内田さんが店を手配してくれたんだ。内田さんと石川さん、それに私と見知らぬ若い人と店に入る。その若い人と名刺を交換する。名刺には「特定非営利活動法人アレルギーっこパパの会理事長今村慎太郎」と刷り込んである。ほどなく古都さんと厚労省の疾病対策課の日野さんが来る。アレルギーの子供たちのためにアレルギー手帳のようなものをつくりそれを飲食店などに提示することによってアレルギー事故を未然に防ぎたいという今村さんの運動を石川さんが後押しし、かねて仲良しの古都さんに連絡したら、古都さんが以前の部下の日野さんを連れてきたということらしい。要するに私は何の関係もないのだけれど石川さんが「古都さんを呼ぶならもーちゃんも呼んでやろう」となったということだろう。ありがたい話です。古都さんと日野さんから貴重なアドバイスをもらったらしいが、私は「福は内」のおいしい料理と日本酒を堪能させてもらった。

7月某日
内閣府次官、厚労次官、人事院総裁を歴任した江利川さんとは江利川さんが年金局の資金課長だったころからの付き合いだからおよそ30年近くになる。偉ぶらない人柄で後輩たちからの信頼も厚い。江利川さんのあとの資金課長が江利川さんと同期の川邉さんで、この2~3年、江利川、川邉さんを囲む会を不定期でやっている。メンバーは江利川、川邉さんに当時資金課の補佐だった足利さん、岩野さん、年住協の企画部長だった竹下さん、それに私。このところずっと会社近くの「ビアレストランかまくら橋」でやっている。6時近くに会場に顔を出すと川邉さんがすでに来ていてビールを呑んでいる。私もビールを頼むと竹下さんが来る。特別ゲストとして現役の年金局総務課長の八神さんに声を掛けたら来てくれた。足利さん、江利川さんもそれに当社から岩佐、迫田も参加して座は盛り上がった。
民介協の扇田専務にいただいた日本酒を持ち込む。岩野さんは欠席だったがもしかしたら私が連絡し忘れたのかも知れない。

社長の酒中日記 7月その2

7月某日
「介護職の看取り」調査で米子の新生ケア・サービスの生島美樹管理者代理にSCNの高本代表理事とインタビュー。ここは看護師が4名在籍。介護と看護の連携が非常に取れていると感じた。一言で言うと「信頼関係」が取れている。生島さんは「在宅の看護師の役割は如何に介護の仕事をやりやすくするかにあると思います」と言う。職員が一緒にお茶を飲む時間を設けるなどいい意味での「家族的な運営」がなされていると思った。近くの社会福祉法人と連携して地域包括ケアシステムの構築にも取り組んでいる。米子から電車で3時間。中国山脈を越えて倉敷へ。
倉敷では創心会の二神社長をインタビュー。二神社長は愛媛県出身。地元の専門学校で作業療法士の資格を得るが、「やんちゃをしていた」ため地元から岡山へ。ここではグループホーム2ユニット、ショートステイ40床のほか、「ど根性ファーム」という農業法人も経営、合わせると700人近くの人を雇用しているという。二神社長の話で興味深かったのは介護予防のため環境変化を知覚する能力を上げるためビジョントレーニングを取り入れているということ。五感の刺激などにより要介護度の軽減などの効果が出たという。介護職の看取りを指導している宇野百合子さんという看護師にも取材させてもらう。最初の頃介護士は利用者の状態が悪くなると「すくんでしまう」。しかし「経験を積む中で自分が何ができるか学んでほしい」と話す。インタビューを終えて倉敷市内のホテルへ帰る。夕食はホテル近くへ。和食屋さんは満員で断られるが2件目のイタリアンは正解。前菜もパスタも美味しかった。シェフはイタリアで修業したそうだ。

7月某日
10時30分に大阪介護支援員協会の福田次長にインタビューなので、ホテルの裏にある大原美術館にも行かず、修理が終わった姫路城も見ることなく新大阪へ。天満橋の事務所で福田さんが迎えてくれる。何の取材か事前に伝えていなかったので「介護職の看取りについて」と言うと「私も大事だと思うてたとこなのよ」と話してくれる。「死んでいく1日のストーリーを死んでいく高齢者に教育していく必要がある」と福田さんは言う。そのためには人材教育が必要だし、終末期の過剰な医療は、医療費が膨張するという以外にも過剰な医療が本人や家族へどのような影響を与えるかを考えなければという。
福田さんはケアマネだがもともとは看護師。学校卒業後、大阪のKKR病院のがん病棟に配属された。当時の最先端の医療看護を担ったわけだ。その後国立病院の勤務を経て、富田林市でケアマネに。東京の渋谷区で社会福祉法人に勤務した経験もある。会うといろんな情報を教えてくれる私の貴重な情報源でもある。
福田さんと別れ、阪急西宮北口から関西学院大学へ。人間福祉学部の坂口先生に調査の中間報告。人間福祉学部というから福祉関係へ進む学生が多いと思ったらそうでもないそうだ。どうも人間福祉学部は関学の中では偏差値が高くなく「とにかく関学へ行きたい」学生の受け皿にも待っているようでかならずしも福祉志望の生徒の受け皿にはなっていないらしい。

7月某日
出張中、図書館で借りた「湖の南-大津事件異聞」(岩波現代文庫 富岡多恵子 11年11月)を読む。エッセーのようでもあるし歴史小説の風でもあるし、読みようによっては富岡多恵子の私小説風でもありという小説で私は面白く読ませてもらった。大津事件とは1891年5月11日、シベリア鉄道の起工式に臨席する途次、日本に立ち寄っていたロシアの皇太子ニコライを、滋賀県大津で、いきなり警備の警察官、津田三蔵が切り付け、負傷させた事件である。ロシアの制裁を恐れた政府は犯人の死刑を希望したが大審院院長児島惟謙がこれを退け無期徒刑の判決を下し、司法の独立を保ったことでも知られる。富岡は史実を資料によって辿りながら、自分に届くかつて顔見知りだった電器屋からのストーカーまがいの手紙や雇い入れた家政婦のことを交えながら筆を進める。そこいらが何の違和感もなく読めてしまうというのは、やはり作家的な力量と言うべきだろう。

7月某日
「薔薇の雨」(田辺聖子 中公文庫 92年6月初版 単行本の初版は89年)を読む。田辺1928年生まれだから60歳ころの作品。田辺が最も多作だった40代、50代の作品には20代後半から30代のハイミスの恋愛小説が多かったように思う。それはそれで面白いのだが、「薔薇の雨」に収められた5編はもう少し上の世代の恋愛が描かれている。冒頭の「鼠の浄土」は子連れの吉市と38歳で結婚した丹子が小さないさかいを繰り返しながらも元のさやに納まって行くと言うストーリーである。家を出た丹子が家に電話すると連れ子の春雄が出る。丹子が「迎えに来てくれへん?」と頼むと「よっしゃ」と来てくれる。そのときの会話がいい。「オバチャン、出て行ったらアカン」「……」「お父ちゃん、可哀そやないか」「辛抱しているあたしのほうが可哀そやないの」「いえてるけど」。春雄は継母のことを「オバチャン」と呼ぶのではあるが、継母の苦労はそれなりに分かっているのである。田辺の小説には根底には人間への信頼と愛があると思う。

7月某日
高田馬場の社会福祉法人サンで打合せ。事務の人に5期分の決算資料を用意してもらう。茗荷谷の健康生きがいづくり財団の大谷常務に電話。「そっちへ行くからご馳走してよ」と強要。「いいよ」と快諾してくれる。茗荷谷駅前の前にも行った居酒屋へ行く。確かにここはおいしい。螺貝の刺身などを日本酒といただく。我孫子駅前のバーでジントニックとクレメンタインをロックで。

7月某日
HCMから年住協の理事となった森さんと打合せ。いろいろと大変なようだが協力していくことを約束する。その足で昨日に続き高田馬場のサンへ。3月から施設長となる候補者を面談。よさそうな人と感じる。NPO法人年金福祉協議会の総会後の懇親会があるので「ビアレストランかまくら橋」へ。宮島さん、矢崎さん、池田さんに挨拶。今日は同じ場所で大学の同級生で弁護士の雨宮君とも待ち合わせ。雨宮君は山形の銘酒十四代の一升瓶を持ってくる。

7月某日
池袋の喫茶店で涼んでいたらパレアの保科さんから携帯に電話。「森さんが亡くなったそうです」。森さんというのは私の学生時代からの友人の森(旧姓尾崎)絹江さんのこと。森さんは私が大学4年の頃、早大法学部に現役で入学。確か3月生まれだから18歳になったばかり。横浜のお嬢様の行く女子高出身。1971年ごろだから学生運動はピークを越え私自身も運動の第一線から引退と言えば聞こえはいいが、要は過激な運動についてゆけず脱落し、かといって今更、授業に出るのもばからしくサークル(ロシヤ語研究会)の部室に行って麻雀のメンバーを探す毎日だった。そのサークルの部室で彼女には初めて会ったと思う。彼女は麻雀を覚えるとともに過激な思想も吹き込まれ、元が無垢だから1年の終わりごろには「立派な」ブント戦旗派の活動家になっていたと思う。理工学部のブントでロシヤ語研究会にも籍のあった森君と結婚、相模原地区で活動を続けていた。再会したのは20年位前だろうか、彼女はブントからは離れ、森君とも事実上別れてフリーライターをしながら2人の娘を育てていた。
それから専門学校の入学案内のコピーや、「へるぱ!」の取材をお願いしたりするようになった。彼女は単行本も何冊か上梓したことがあり、文章は確かなものだった。保科さんが社会保険研究所を卒業してパレアを四谷に立ち上げたとき、同室だったのが女性編集者、ライターの草分け的な存在の野中さんで、彼女が森さんとつながりがあり、冒頭の電話になったのだと思う。森さんは我孫子の鈴木さんという焙煎職人の焙煎するコーヒーが好きで何度か持って行ったことがある。先月、相模原の自宅に見舞いがてらコーヒーを持っていたのが最後となった。60歳を過ぎてから友人知人の訃報を聞くことが多くなった。平均寿命はまさに平均でしかない。

7月某日
「ベッドの下のNADA」(井上荒野 文春文庫 13年5月 単行本は10年10月)を読む。郊外の古いビルの最上階に住みながら、その地下で喫茶店NADAを営む夫と妻を主人公にした連作短編小説。夫婦の平穏に見える日常に潜む不穏な日常。夫婦って平穏で安定した関係の基礎というか基盤のようなものだけど、いったんそこに疑問を持つと疑問は深まる……。疑問は持たないようにしようっと。著者紹介によると井上荒野って成蹊大学出身だったんだ。桐野夏生と同窓だったんだ

社長の酒中日記 7月その1

7月某日
元厚労省で阪大教授を退官後、今は無職の堤さんと会社近くのビアレストランで呑む。元社会保険研究所で年金時代の編集部にいた吉田貴子さんと呑むことになったので堤さんも誘った。吉田さんは社会保険研究所に入社する前、埼玉の社会保険事務所に勤めていることがあるし堤さんも若いころ社会保険庁の総務課補佐をやったことがあるし、役所の最後は社会保険庁長官だった。6時に堤さん来る。黒っぽいシャツに同系色のパンツ。帽子を目深にかぶって登場。「怪しいねー」と声を掛けると「役所を辞めて10年以上経つんだから好きな格好をさせろよ」と。しばらくして吉田さんが来る。現在は産労研究所で「人事実務」という雑誌の編集長をやっている。年金機構のパソコンがハッカーに侵入されたことについて、係長が案件を抱え込んでいた件など「体質は社会保険庁時代と変わっていない」で一致。当社の迫田とSMSの長久保さんが来る。長久保さんがニッカの「余市」10年ものを持ってくる。スモーキーな香りで美味かった。一本を空けてしまう。

7月某日
1時から理事をやっている社会福祉法人の職員面談に3人ほど付き合う。西村理事長と橋野理事が一緒。職員の3人とも認知症高齢者の介護に熱心に取り組んでいることは十分に分かった。問題は若者のこうした熱意を空回りさせないように、どう経営していくかだと思う。このへんは社会福祉法人も株式会社も変わらないと思っている。昼飯を食べ損なう。5時から大森で「介護職の看取り」でインタビューがあるので早めに大森へ行って、駅の近くのラーメン屋で海苔玉ラーメンを急いで食べる。普段は弁当持参なのでたまの外食もいいけれど、もう少し余裕をもって食べたいね。
大森駅の山王口の鈴木内科医院を訪問。院長の鈴木先生にインタビュー。この間、いろいろな医師にインタビューする機会があったし、私自身5年前に脳出血で倒れ、身近に医者と接した経験がある。そうした経験から言えることは「偉い先生ほどエラソーにしない」ということ。これは何も医者に限ったことではなく人間全般に言えることである。鈴木先生はまさに「エラソー」にしない先生。だからこそ多職種連携も上手く行くのだろう。訪問看護、訪問介護、歯科、薬剤師などとの連携がうまく取れている。先生は「フラットな関係作り」と言っていたが、先生のようなドクターが増えていくことによって日本の医療や介護は確実に変わっていくと思われる。一緒に取材したSCNの高本代表理事と市川理事と地元の百貨店、大信を覗く。帰りに品川駅構内の「ぬる燗佐藤」による。品川から上野・東京ラインで我孫子へ。駅前の「七輪」で焼酎のお湯割りを一杯。

7月某日
ぎっくり腰の治療で神田駅西口の「しあつ村」へ。リンパマッサージを受ける。ここは民介協の扇田専務の紹介。丁寧なマッサージをしてくれるが、たちの悪いぎっくり腰なのか目立った効果かない。HCMの大橋さんの社長就任祝いの日なので小舟町の「恭悦」へ。大橋さんと森さん、それに私の3人でお祝いをする。大橋さんも森さんもいろいろ大変でしょうががんばってください。

7月某日
腰の加減がはかばかしくないので目黒の王先生に中国鍼を施術してもらいに行く。呉先生とは久しぶりだがお元気そうだった。王先生とは20年ほど前、我孫子で治療を受けたのがきっかけ。当時は治療院を持たず出張治療だけだった。それが目黒で治療院を開業し、今では立川と国立にも治療院を持っている。それも腕がいいからだと思う。王先生は中国の温州の出身、確か上海で中国医療を勉強したと言っていた。文化大革命のときの写真を見せてもらったことがあるが、利発そうな美少女の紅衛兵が写っていて、それが少女時代の王先生だった。だが先生一家はインテリで資産家だったらしく文革以降、迫害される。アジアの各地を転々とした後、日本に安住の地を見つけたということらしい。向こうの医学部を出ているだけあってとても頭がいい。日本の鍼灸師の試験も問題集を丸暗記して合格したらしい。娘二人は日本の大学を出て税理士と薬剤師になったようだ。ただ中国共産党嫌いは徹底していて、いつか「尖閣列島問題についてどう思うか?」と問われ、どう答えたものかと思案していると「日本人はもっと中国に対して毅然としなければダメよ」と怒られたことがある。それだけ中国共産党嫌いが徹底しているのである。

7月某日
図書館で借りた「くまちゃん」(角田光代 新潮社 09年3月初版)を読む。角田は割と読む作家だ。角田は67年生まれだから「若手作家」とは言えもう40代後半。でも若者の心情を描くのが巧みだと思う。この連作短編小説集もそう。表題作の「くまちゃん」は古平苑子(23歳)と持田英之(25歳)の恋が、2作目は27歳になった持田と岡崎ゆりえ(28歳)の恋が、3作目は29歳になったゆりえとロックミュージシャン、マキトこと保土谷槇仁も恋が、第4作目は落ち目になったマキトと売れない舞台女優、片田希麻子の恋が……と続く。連作短編の共通点はいずれの恋も成就しないで、別れてしまうことだ。「あとがき」で角田は次のように書いている。「この小説に書いた男女は、だいたい20代の前半から30代半ばである。1990年代から2000年を過ぎるくらいまでの時間のなかで、恋をし、ふられ、年齢を重ねていく。そう、この小説では全員がふられている。私はふられ小説絵を書きたかったのだ」。作者の意図はどうあれ私はこの小説を非常に面白く読んだ。
源氏物語からしてそうなのだが、多くの小説は恋愛がテーマになっている。アクション小説や時代小説にしても恋愛がサブテーマになっていることが多い。ほかの人は知らないけれど、私は思いつめない性格だと思う。そんななかで20代前半の学生運動と恋愛は結構思いつめました。今から思うと学生運動はアクション小説の感覚だったかもしれない。同様にして20代の恋愛は恋愛小説の感覚である(あくまでも私の場合です)。だから40代、50代、60代と恋愛とは縁遠くなっても恋愛小説は読まれるのじゃないかな。恋愛の切実さを現実にではなくを小説に求めるみたいな。

7月某日
亀有の駅前で我孫子の飲み友達、大越さん夫婦と待ち合わせ。亀有の駅前に美味しい焼き鳥屋があるというので誘ってくれた。大越さんは私より1歳上。我孫子駅前の「愛花」の常連。もう10年以上の付き合いになる。仕事は建設業。大手ゼネコンの下請けで設計と工事監理をやっている(らしい)。立石駅前や松戸駅前の焼き鳥屋でご馳走になったこともある。ここは「江戸っ子」という焼き鳥屋で1階は立ち飲み、2階がカウンターで座れるようになっている。待ち合わせ時間丁度に亀有の改札口へ行くと奥さんのさと子さんが待っている。少し遅れて大越さんが来る。今日は東武線の竹ノ塚で仕事だったそうだ。亀有駅の北口には「こち亀」の両さんの銅像があるが、さと子さんは「これ何かしら?」という。人気漫画の主人公の銅像と教えるが、両さんを知らない人もいるんだ。「江戸っ子」に行くと1階の立ち飲み席はすでに満員。2階のカウンター席は座ることができた。大越さん一押しのガツの刺身をいただく。歯ごたえがあって旨い。ホルモン焼き、焼きトンといってもいいが、内臓の料理の醍醐味の一つは歯ごたえだと思う。歯ごたえを保証するのは新鮮さだ。ハツ、レバ、軟骨などをいただくがどれも美味しかった。満腹になったので帰ることにする。大越さんにご馳走になる。