社長の酒中日記 7月その2

7月某日
「介護職の看取り」調査で米子の新生ケア・サービスの生島美樹管理者代理にSCNの高本代表理事とインタビュー。ここは看護師が4名在籍。介護と看護の連携が非常に取れていると感じた。一言で言うと「信頼関係」が取れている。生島さんは「在宅の看護師の役割は如何に介護の仕事をやりやすくするかにあると思います」と言う。職員が一緒にお茶を飲む時間を設けるなどいい意味での「家族的な運営」がなされていると思った。近くの社会福祉法人と連携して地域包括ケアシステムの構築にも取り組んでいる。米子から電車で3時間。中国山脈を越えて倉敷へ。
倉敷では創心会の二神社長をインタビュー。二神社長は愛媛県出身。地元の専門学校で作業療法士の資格を得るが、「やんちゃをしていた」ため地元から岡山へ。ここではグループホーム2ユニット、ショートステイ40床のほか、「ど根性ファーム」という農業法人も経営、合わせると700人近くの人を雇用しているという。二神社長の話で興味深かったのは介護予防のため環境変化を知覚する能力を上げるためビジョントレーニングを取り入れているということ。五感の刺激などにより要介護度の軽減などの効果が出たという。介護職の看取りを指導している宇野百合子さんという看護師にも取材させてもらう。最初の頃介護士は利用者の状態が悪くなると「すくんでしまう」。しかし「経験を積む中で自分が何ができるか学んでほしい」と話す。インタビューを終えて倉敷市内のホテルへ帰る。夕食はホテル近くへ。和食屋さんは満員で断られるが2件目のイタリアンは正解。前菜もパスタも美味しかった。シェフはイタリアで修業したそうだ。

7月某日
10時30分に大阪介護支援員協会の福田次長にインタビューなので、ホテルの裏にある大原美術館にも行かず、修理が終わった姫路城も見ることなく新大阪へ。天満橋の事務所で福田さんが迎えてくれる。何の取材か事前に伝えていなかったので「介護職の看取りについて」と言うと「私も大事だと思うてたとこなのよ」と話してくれる。「死んでいく1日のストーリーを死んでいく高齢者に教育していく必要がある」と福田さんは言う。そのためには人材教育が必要だし、終末期の過剰な医療は、医療費が膨張するという以外にも過剰な医療が本人や家族へどのような影響を与えるかを考えなければという。
福田さんはケアマネだがもともとは看護師。学校卒業後、大阪のKKR病院のがん病棟に配属された。当時の最先端の医療看護を担ったわけだ。その後国立病院の勤務を経て、富田林市でケアマネに。東京の渋谷区で社会福祉法人に勤務した経験もある。会うといろんな情報を教えてくれる私の貴重な情報源でもある。
福田さんと別れ、阪急西宮北口から関西学院大学へ。人間福祉学部の坂口先生に調査の中間報告。人間福祉学部というから福祉関係へ進む学生が多いと思ったらそうでもないそうだ。どうも人間福祉学部は関学の中では偏差値が高くなく「とにかく関学へ行きたい」学生の受け皿にも待っているようでかならずしも福祉志望の生徒の受け皿にはなっていないらしい。

7月某日
出張中、図書館で借りた「湖の南-大津事件異聞」(岩波現代文庫 富岡多恵子 11年11月)を読む。エッセーのようでもあるし歴史小説の風でもあるし、読みようによっては富岡多恵子の私小説風でもありという小説で私は面白く読ませてもらった。大津事件とは1891年5月11日、シベリア鉄道の起工式に臨席する途次、日本に立ち寄っていたロシアの皇太子ニコライを、滋賀県大津で、いきなり警備の警察官、津田三蔵が切り付け、負傷させた事件である。ロシアの制裁を恐れた政府は犯人の死刑を希望したが大審院院長児島惟謙がこれを退け無期徒刑の判決を下し、司法の独立を保ったことでも知られる。富岡は史実を資料によって辿りながら、自分に届くかつて顔見知りだった電器屋からのストーカーまがいの手紙や雇い入れた家政婦のことを交えながら筆を進める。そこいらが何の違和感もなく読めてしまうというのは、やはり作家的な力量と言うべきだろう。

7月某日
「薔薇の雨」(田辺聖子 中公文庫 92年6月初版 単行本の初版は89年)を読む。田辺1928年生まれだから60歳ころの作品。田辺が最も多作だった40代、50代の作品には20代後半から30代のハイミスの恋愛小説が多かったように思う。それはそれで面白いのだが、「薔薇の雨」に収められた5編はもう少し上の世代の恋愛が描かれている。冒頭の「鼠の浄土」は子連れの吉市と38歳で結婚した丹子が小さないさかいを繰り返しながらも元のさやに納まって行くと言うストーリーである。家を出た丹子が家に電話すると連れ子の春雄が出る。丹子が「迎えに来てくれへん?」と頼むと「よっしゃ」と来てくれる。そのときの会話がいい。「オバチャン、出て行ったらアカン」「……」「お父ちゃん、可哀そやないか」「辛抱しているあたしのほうが可哀そやないの」「いえてるけど」。春雄は継母のことを「オバチャン」と呼ぶのではあるが、継母の苦労はそれなりに分かっているのである。田辺の小説には根底には人間への信頼と愛があると思う。

7月某日
高田馬場の社会福祉法人サンで打合せ。事務の人に5期分の決算資料を用意してもらう。茗荷谷の健康生きがいづくり財団の大谷常務に電話。「そっちへ行くからご馳走してよ」と強要。「いいよ」と快諾してくれる。茗荷谷駅前の前にも行った居酒屋へ行く。確かにここはおいしい。螺貝の刺身などを日本酒といただく。我孫子駅前のバーでジントニックとクレメンタインをロックで。

7月某日
HCMから年住協の理事となった森さんと打合せ。いろいろと大変なようだが協力していくことを約束する。その足で昨日に続き高田馬場のサンへ。3月から施設長となる候補者を面談。よさそうな人と感じる。NPO法人年金福祉協議会の総会後の懇親会があるので「ビアレストランかまくら橋」へ。宮島さん、矢崎さん、池田さんに挨拶。今日は同じ場所で大学の同級生で弁護士の雨宮君とも待ち合わせ。雨宮君は山形の銘酒十四代の一升瓶を持ってくる。

7月某日
池袋の喫茶店で涼んでいたらパレアの保科さんから携帯に電話。「森さんが亡くなったそうです」。森さんというのは私の学生時代からの友人の森(旧姓尾崎)絹江さんのこと。森さんは私が大学4年の頃、早大法学部に現役で入学。確か3月生まれだから18歳になったばかり。横浜のお嬢様の行く女子高出身。1971年ごろだから学生運動はピークを越え私自身も運動の第一線から引退と言えば聞こえはいいが、要は過激な運動についてゆけず脱落し、かといって今更、授業に出るのもばからしくサークル(ロシヤ語研究会)の部室に行って麻雀のメンバーを探す毎日だった。そのサークルの部室で彼女には初めて会ったと思う。彼女は麻雀を覚えるとともに過激な思想も吹き込まれ、元が無垢だから1年の終わりごろには「立派な」ブント戦旗派の活動家になっていたと思う。理工学部のブントでロシヤ語研究会にも籍のあった森君と結婚、相模原地区で活動を続けていた。再会したのは20年位前だろうか、彼女はブントからは離れ、森君とも事実上別れてフリーライターをしながら2人の娘を育てていた。
それから専門学校の入学案内のコピーや、「へるぱ!」の取材をお願いしたりするようになった。彼女は単行本も何冊か上梓したことがあり、文章は確かなものだった。保科さんが社会保険研究所を卒業してパレアを四谷に立ち上げたとき、同室だったのが女性編集者、ライターの草分け的な存在の野中さんで、彼女が森さんとつながりがあり、冒頭の電話になったのだと思う。森さんは我孫子の鈴木さんという焙煎職人の焙煎するコーヒーが好きで何度か持って行ったことがある。先月、相模原の自宅に見舞いがてらコーヒーを持っていたのが最後となった。60歳を過ぎてから友人知人の訃報を聞くことが多くなった。平均寿命はまさに平均でしかない。

7月某日
「ベッドの下のNADA」(井上荒野 文春文庫 13年5月 単行本は10年10月)を読む。郊外の古いビルの最上階に住みながら、その地下で喫茶店NADAを営む夫と妻を主人公にした連作短編小説。夫婦の平穏に見える日常に潜む不穏な日常。夫婦って平穏で安定した関係の基礎というか基盤のようなものだけど、いったんそこに疑問を持つと疑問は深まる……。疑問は持たないようにしようっと。著者紹介によると井上荒野って成蹊大学出身だったんだ。桐野夏生と同窓だったんだ