社長の酒中日記 7月その3

7月某日
小熊英二の「生きて帰ってきた男―ある日本兵の戦争と戦後」(岩波新書 15年6月刊)を図書館で借りて読む。一言で言うと英二の父、小熊謙二のオーラルヒストリーなのだが、私にはとても面白かった。謙二は北海道の佐呂間村で1925(大正14)年に誕生した。6歳のときから東京の祖父母に育てられ、早稲田実業を卒業、富士通信機製造に就職したのが1943(昭和18)年である。1944年の11月、19歳になった謙二に陸軍の入営通知が届く。謙二は満州で軍務に就くが、戦闘体験もないまま旧ソ連軍の捕虜となりシベリアに送られる。3年の抑留から無事帰国するが、小さな会社を転々とするうちに結核を患い、新潟県の国立療養所に入所する。1956(昭和36)年、謙二は片肺を手術で失いながらも療養所を退所することができた。謙二は30歳になっていた。1958年、謙二は株式会社立川ストアに就職、ようやく安定した生活を手に入れる。私がこの新書を興味深く読んだのは、私の父と母が1923(大正12)年生まれで謙二と同世代ということもあるかもしれない。
とくに私の父は謙二と同じ北海道の生まれ、家が裕福ではなかったので旧制中学には進学できず、高等小学校から苫小牧工業学校に進学、成績が優秀だったせいか京都工芸繊維高等専門学校を経て東京工業大学へ進んだ。謙二との大きな違いは理工系学生だったため徴兵が猶予され軍隊体験がなかったことだ。私の父は20年近く前に死んでいるが、社会主義者ではないが革新政党の支持者だったり、反戦的であったりするところが謙二と「似ている」と思わせる。そんなところも面白く読んだ一因かも知れない。

7月某日
SMSの河田さんが9月から出産および育児休業に入るということなので、長久保さんや竹原さん、河田さんの後任の岡部さんを招いて富国倶楽部で呑み会。SMSは30年ほど前、一緒に仕事をしていたリクルートと似た雰囲気があるような気がする。当時のリクルートも現在のSMSも若いという共通点がある。変わったのは私が年を重ねたことね。SMSの連中はみな私の子供の世代だ。

7月某日
四谷の東貨健保会館のホールで社会保険倶楽部霞が関支部の総会。総会後のセミナー「保健医療改革の動向」(前厚労省保険局長の木倉敬之氏)を聞きに行く。元官房副長官の古川貞二郎さんも聞きに来ていた。セミナー後の茶話会で幸田正孝さんや多田宏さん阿倍正俊さんらに挨拶。阿倍さんは社会保険の現状を「これでいいのか」と熱く批判。阿倍さんの論は正しいと思う。多少、鬱陶しいけどこうした人は必要だと思う。6時から会社近くの「ビアレストランかまくら橋」で唐牛真紀子さん間宮陽介さん、堤修三さんと呑み会。間宮さんは元京大経済学部教授でケインズを訳したり「丸山真男」などの著作がある。堤さんは元社会保険庁長官で、おととしまで阪大教授。もともとは堤さんと亡くなった高原さんと私の3人でよく呑んでいた。高原さんが亡くなった後、堤さんと高校の同級生だった間宮さんが京大を定年で退官、3人で呑むようになった。唐牛さんは60年安保の全学連委員長、唐牛健太郎さんの未亡人。浪漫堂の倉垣さんを通じて知り合った。間宮さんは東大で西部邁と親交があり、西部さんと親しい唐牛さんと食事でもしようということになった。4人とも好きなことを語り「集団的自衛権は如何なものか」では一致。機嫌よく帰った。

7月某日
「介護職の看取り・グリーフケア」の調査で悠翔会の佐々木理事長兼診療部長にSCNの高本代表理事、市川理事、それに当社の迫田とインタビュー。この欄で何度か書いたことかもしれないが、この調査で多くの医者、看護師、介護関係者にインタビューしてきたが、言えることは「偉い人こそ威張らない」こと。私が立派だなーと思う人は押しなべて謙虚。佐々木先生もそのひとりだが、「先生という呼称は好きではない」といいながら、こちらが「佐々木先生」と呼んでも敢えて訂正しようとはしない。些細なことかもしれないが私などはそこに「フラット感」を感じてしまう。佐々木先生のインタビューを終え、新橋の悠翔会から日本橋小舟町のSCNの事務所へ。高本、市川さんとオランダ人の田中モニックさんにオランダの死生観等を聞くためだ。実は1か月ほど前同じテーマでモニックさんにインタビューしたのだが、呑み屋さんでのインタビューとなったため、うまく声が拾えなかった。それで事務所での再度のインタビューとなった。本題のインタビューも面白かったが私はむしろ、日本と西欧との個人のあり方の違いが感じられて興味深かった。日本人は家族、共同体(地域や会社などの組織)でもたれあうことが多い。これに対して西欧は個人の自立度が高いように感じられる。介護保険制度が自立支援をテーマのひとつに掲げたのは正しいと思う。地域包括ケアシステムの構築にしても「個人の自立」がなければ成功しないと思う。ということは地域包括ケアシステムの構築とは地域革命ということだ。

7月某日
浅田次郎の「霞町物語」(講談社文庫 00年初版)を図書館から借りて読む。95年1月号から98年3月号まで「小説現代」に断続的に連載されたものを単行本化し、さらに文庫化したものだ。著者の分身と思われる「僕」は、青山と麻布と六本木に挟まれた霞町の写真館の3代目、受験を控えた都立の進学校の3年生でもある。浅田次郎は私より3歳下の1951年生まれだから舞台は1969年ころということになる。ちょうど私が新宿や早稲田、東大でゲバ棒片手にデモを繰り返していたころと重なるが、小説にはそんな感じは微塵も感じられず霞町界隈で恋と遊びに刹那的に生きている高校生とそこに暮らす家族の生き方が活写される。私は高校生の頃、石原慎太郎の「太陽の季節」を読み、都会と田舎の高校生の意識と環境の違いに度肝を抜かれたものだが、それは基本的にこの作品でも変わらない。違うのは「太陽の季節」が描いているのは高度成長期の入り口にあった日本社会だが、「霞町物語」で描かれているのは高度成長期の絶頂期から下り坂に至り始めた日本社会だ。霞町のバーにたむろしていた高校生たちも実家が地上げにあい、次々と郊外に転居していく。写真館の初代である「僕」の祖父の老耄と死と相まって「滅び行くもの」の哀切さが伝わってくる。この本とは関係ないけれど、浅田次郎は集団的自衛権の容認に反対して発言していた記憶にある。浅田次郎は自衛隊出身ではあるが、だからこその反対なのかもしれない。

7月某日
「もーちゃん○日の夜空いていない。古都さんと呑むから来ない?」と社会福祉法人にんじんの会の石川はるえ理事長からメール。当日、会場の新橋2丁目のビルの地下「福は内」に入ろうとすると「森田さん!」と社会保険福祉協会の内田さんが声を掛けてくれる。そうだ内田さんが店を手配してくれたんだ。内田さんと石川さん、それに私と見知らぬ若い人と店に入る。その若い人と名刺を交換する。名刺には「特定非営利活動法人アレルギーっこパパの会理事長今村慎太郎」と刷り込んである。ほどなく古都さんと厚労省の疾病対策課の日野さんが来る。アレルギーの子供たちのためにアレルギー手帳のようなものをつくりそれを飲食店などに提示することによってアレルギー事故を未然に防ぎたいという今村さんの運動を石川さんが後押しし、かねて仲良しの古都さんに連絡したら、古都さんが以前の部下の日野さんを連れてきたということらしい。要するに私は何の関係もないのだけれど石川さんが「古都さんを呼ぶならもーちゃんも呼んでやろう」となったということだろう。ありがたい話です。古都さんと日野さんから貴重なアドバイスをもらったらしいが、私は「福は内」のおいしい料理と日本酒を堪能させてもらった。

7月某日
内閣府次官、厚労次官、人事院総裁を歴任した江利川さんとは江利川さんが年金局の資金課長だったころからの付き合いだからおよそ30年近くになる。偉ぶらない人柄で後輩たちからの信頼も厚い。江利川さんのあとの資金課長が江利川さんと同期の川邉さんで、この2~3年、江利川、川邉さんを囲む会を不定期でやっている。メンバーは江利川、川邉さんに当時資金課の補佐だった足利さん、岩野さん、年住協の企画部長だった竹下さん、それに私。このところずっと会社近くの「ビアレストランかまくら橋」でやっている。6時近くに会場に顔を出すと川邉さんがすでに来ていてビールを呑んでいる。私もビールを頼むと竹下さんが来る。特別ゲストとして現役の年金局総務課長の八神さんに声を掛けたら来てくれた。足利さん、江利川さんもそれに当社から岩佐、迫田も参加して座は盛り上がった。
民介協の扇田専務にいただいた日本酒を持ち込む。岩野さんは欠席だったがもしかしたら私が連絡し忘れたのかも知れない。