社長の酒中日記 8月その3

8月某日
船橋市の薬園台にあるサービス付高齢者住宅を取材するというので同行させてもらう。松戸から新京成で35分ほどで薬園台に着く。そこから15分ほど歩くと目指すサービス付高齢者住宅があった。運営しているのは株式会社シルバーウッドで社長の下河原忠道さんに話を伺う。建物は3階建てで入居者の表情が明るいのが印象的だ。床はすべて木材、開口部も広く、採光も十分だ。成功している介護事業者を取材して思うのはビジネスと福祉をうまく融合させている点だ。シルバーウッドもまさに融合させていると思った。福祉マインドとビジネスマインドの融合は可能だし、また融合させていかなければ地域包括ケアシステムも成功しないだろうと思った。そして特別養護老人ホームからサービス付高齢者住宅、グループホームへの流れは変わらないと思う。

8月某日
ご近所で親しくさせてもらっていたOさんが亡くなった。私が現在住んでいる我孫子市に引っ越してきたのが大学を卒業した1972年。Oさんはそれから数年して越してきたはずだから40数年の付き合いとなる。自治会を手伝ったりゴルフにも誘ってもらったこともある。Oさんは会社を退職してから自宅で社会保険労務士事務所を開設、松戸支部や船橋支部で当社の年金図書の販売にも協力してくれたり、千葉県の国民年金委員にも就任してもらったりした。長崎出身で被爆者の会もやっていたし手賀沼周辺に捨てられた犬猫の面倒を見る手賀沼ワンニャン倶楽部も主宰、それに週に2~3度ボランティアを募って近所の夜回りをやっていた。熱心な創価学会員で葬儀は我孫子のセレモニーホールで創価学会の友人葬として執り行われた。私は妻と参加したが公明党我孫子市議の関さんの顔を見かけたので挨拶する。

8月某日
介護事業所を主な得意先とする八王子の社会保険労務士、吉澤さんが事務所に来てくれる。吉澤さんは福祉系大学を卒業して社会福祉士の資格を得て老健施設に就職、生活相談員になるつもりが、本部の人事・労務管理部門にまわされた。社会保険や労働保険、労働基準法のことも知らず、書籍で調べたり役所に確認しながらの毎日だったという。社会保険労務士という国家資格があることを知り、試験に合格して開業に至った。私は介護業界の将来はケアの中身の充実と同時に事務管理部門の合理化が必要と日ごろから考えていただけに吉澤さんの思うところはいちいち納得できた。「仕事のABCって知ってます?」と吉澤さん。
答えは「当たり前のことを(A)、馬鹿にしないで(B)、チャンとやる(C)」。なーるほどね。深く納得。夕方になったので当社の迫田と3人で会社近くの「福一」へ。吉澤さんは全くの下戸だが気持ちよく付き合ってくれた。

8月某日
千葉年金相談センターで千葉県地域型年金委員会の研修会と理事会。1時間ほど遅れて参加。厚生年金と共済年金の統合の話を聞く。年金制度の柱はもちろん保険料の徴収と年金の給付だが制度に対する国民的な理解は欠かせない。年金機構や厚労省はもっと年金委員の活用を考えたほうがいい。会議が終わった後、高校の同級生の品川君と待ち合わせ。「甘太郎」で一杯。

8月某日
理事をやっている高田馬場のグループホームへ行くために高田馬場駅から歩き始めたらばったり関さんに会った。関さんというのは10年位前まで赤坂で「邑(ゆう)」というクラブのママをやっていた女性で、実は早稲田大学政経学部で私や私の奥さん、浪漫堂の倉垣会長、弁護士の雨宮君などと同期。「関さん!」と声を掛けると「どなたでしたっけ?」とけげんな顔をされる。「おれだよー、森田だよ」というと「あーモリちゃん。太った?」だって。そのうち高田馬場で呑もうということになった。社会福祉法人でエレベーターの補修工事の打合せ。それが終わると山手線で上野へ。公園口の改札でSCNの高本代表理事、市川理事と待ち合わせ。東北線で上野から一つ目の尾久へ。介護事業所の介護ユーアイの社長でケアマネジャーでもある馬來さんに介護職の看取り、グリーフケアについてインタビュー。全身に入れ墨を施したおじいちゃんを看取った話など面白かった。途中からヘルパーステーションの管理者、吉田さんも参加してくれた。吉田さんは最初に利用者を看取ったときはさすがに戸惑ったが、それ以降は淡々とこなしているそうだ。本人や家族とコミュニケーションをよくしてニーズをきちんと把握していること、訪問看護ステーションと連携をしていることなどがうまくいっている秘訣のようだ。実は馬來さんは大学の3年、4年を過ごした国際学寮で一緒だった。馬來さんは愛媛県新居浜市出身で高校時代は柔道の猛者。大学卒業後、職を転々とした後、鍼灸師の国家資格を取得、鍼灸院を経営していたが、介護保険が始まってケアマネ試験に合格して介護事業所をはじめた。尾久は地名は「おぐ」だが駅名は「おく」。秋葉原も地名は「あきばはら」だが駅名は「あきはばら」。まぁどうでもいいけど。上野に戻ってガード下の「勇」で反省会。安くて美味しい店でした。

8月某日
社会福祉法人の西村理事長が来社。民介協の扇田専務を紹介。民介協の創業時のメンバー安藤幸男さん(埼玉県東松山市に本社のある(株)福祉の街会長)と西村理事長は古くからの友人なので話は早かった。5時ころ御徒町の「吉池」9階の吉池食堂へ。健康生きがい財団の大谷常務と大谷さんの東京福祉専門学校時代の教え子三浦さんがすでに待っていた。三浦さんは社会福祉学科を卒業後、故郷の北海道で施設に就職したが、その後いろいろあって今はトラックの運転手をやっている。人間的によさそうなので社会福祉法人のサンへの就職をお願いする。

8月某日
田辺聖子の「夢渦巻」(集英社94年11月初版 初出は92年から94年にかけて「小説すばる」に断続的に連載)を読む。田辺得意の恋愛ものなのだが、この短編集は「出会いと別れ」がテーマといってよい。たとえば「夢笛」は互いに憎からず思っていた男女のうち男が結婚、その後疎遠になっていたが偶然再会し飲み友達に。この関係は「せぇへん仲」つまりセックスしない関係である。正月休みに女の家を男が訪ね、大晦日を共に過ごす。ささいな行き違いから男は女の家を出る。しかし男は戻り二人は初詣に出かける、というストーリー。あるいは互いに婚約者がいる男女、男が呑みすぎてへべれけに。女はしかたなしに男とホテルに泊まるが、それを男の婚約者に目撃され、双方の婚約は解消されるが、男と女が出会った呑み屋に女が行くと男が呑んでいる(夢吟醸)。私が好きなのは「夢煙突」。結婚を控えた男女。女には痛切な恋の思い出がある。学生時代の芦屋に住むボーイフレンドの父親に恋をした思い出である。もちろん父親に告げることなどできない。ボーイフレンドは突然、交通事故死する。女は父親のために泣く。女は思い出を辿りながら自分の結婚式に臨み、幸福になることを誓う。田辺の恋愛小説は安心して読めるうえに人生のユーモアと哀しみを感じさせてくれる。

社長の酒中日記 8月その2

8月某日
村上龍の「オールド・テロリスト」(15年6月初版)を図書館で借りて読む。560ページの大著。でも面白かった。ストーリーは週刊誌の契約記者をやっていた「おれ」は週刊誌の廃刊を機に失業、酒に溺れ妻子にもシアトルへ去られる。NHK西口玄関へのテロ予告電話をきっかけに、所属していた出版社の上司から現場取材を依頼される。テロは決行され何人かが死ぬ。犯人と思しき若者たちが自殺する。犯人を追う過程でカツラギという若い女性と知り合い、事件の背後には旧満州国の存在があることがおぼろげながらわかってくる。こうやって粗筋をたどると荒唐無稽な冒険小説の感じなのだが、私は冒険活劇小説としても大変面白く読ませてもらった。だが時代設定が2018年ということは近未来小説である。北朝鮮軍が北九州を侵攻する村上の「半島を出でよ」と同じジャンルといってよい。私が村上の近未来小説を面白いと感じるのはNHKへのテロや北朝鮮軍の侵攻が現時点では荒唐無稽かもしれないが、しかし状況のちょっとした変化によっては圧倒的なリアリティを持ちうるということにある。そしてこのテーマのリアリティを支えるのは細部のリアリスティックな再現である。この小説では例えば、終戦時に旧満州国から秘密裏に分解して日本に持ち込まれた旧ドイツ軍の88式対戦車砲の存在である。事件の解決は結局米軍に委ねられ、犯人グループつまりオールドテロリストたちは壊滅する。この小説は主人公の「おれ」の再生の物語としても読めるのだが、同時に閉塞感を強める日本社会と有事立法に奔走する現政権への批判にもなっているような気がする。

8月某日
HCMの大橋社長、デザイナーの土方さん、映像の横溝君、それに当社の浜尾と私の5人で大手町ビルの地下2階にある「魚力」で呑む。これはどういうメンバーかというと土方さんは「胃ろう・吸引シミュレーター」の開発者、大橋さんは現在それの販売元、横溝君はそのPR用の映像を制作してくれた。横溝君と当社の浜尾は現在、社会福祉法人にんじんの会の石川さんと一緒に「介護職の危機管理」という映像の制作に取り組んでいる。まぁ上下関係のないフラットな関係、一種の多職種協働と言えなくもない。本日の話題の中心となったのは「卓球」。大橋さんは大正大学で卓球部、社会人となった今も続けている。土方さんの息子さんは中学で卓球部に所属しているという。ラケットの握り方、ペンホルダーとシェイクハンド、の話題で盛り上がっていた。

8月某日
SCNの高本代表理事と市川理事が西新橋の特養「さくらの園」での仕事が終わってから打合せしたいというので西新橋のHCMの事務所を借りることにする。「介護職の看取り・グリーフケア」について打合せ。SCMとHCMで港区内での卓球を使った介護予防などができるのじゃないかと話が盛り上がる。その後、私は高田馬場のグループホームへ。不動産物件の管理をしている不動産屋さんと名刺交換。グループホームを運営している社会福祉法人サンだけでなく高田馬場の点字図書館やいろいろな福祉施設に寄付をしている、この辺の大地主、池田輝子さんの小冊子を頂く。池田輝子さんは私の母親と同じ大正12年生まれで、しかも目白の川村女学校出身まで一緒だ。小冊子には点字図書館の寄付には厚労省の河さんも関わっていたことが記されていて、浅からぬ因縁を感じてしまった。

8月某日
会社の近くに古本屋がある。間口1間ほどの小さい古本屋だ。店内を一周して新潮文庫の「瑠璃色の石」(津村節子)と岩波現代文庫の「ゾルゲ事件獄中手記」(リヒアルト・ゾルゲ)を買うことにする。2冊で400円はブックオフより安いと思う。店の人に聞くとここに店を開いて10年以上経つらしい。「瑠璃色の石」は津村節子が洋裁学校を経て、姉妹と洋裁店を経営しながら普通より5年ほど遅れて学習院短期大学に入学、大学の文芸部のキャップだったのちの夫となる吉村昭(小説では高沢圭介)との出会いや、文芸誌発行の資金稼ぎのための落語会の開催、三島由紀夫、中山義秀、田宮虎彦ら有名作家との出会いが嫌味なく語られている。これが一章でいわば戦後の青春文学物語である。社会全体が貧しくとも夢だけは豊富だったことがわかる。二章は津村節子と吉村昭の新婚時代から二児を設けるまでである。津村は少女小説を書きながら家計を援け、吉村は紡績の業界団体の事務局長を務めながら習作に励む。同人仲間の瀬戸内晴美(寂聴)を自宅に招き、ハンバーグを御馳走するシーンは微笑ましくもあり、津村の切羽詰まったような心境がいじらしくもある。後に津村は芥川賞を受賞、遅れて吉村は太宰賞を受賞する。

8月某日
図書館で借りた「無銭優雅」(山田詠美 幻冬舎)を読む。作者とほぼ等身大の「私」は予備校講師の栄と恋仲になる。「私」は吉祥寺で友人と花屋を営み、三鷹の実家から通う。実家は2世帯住宅で2階には「私」と両親が住み、階下には兄一家が住む。「私」と予備校講師の栄はそれぞれ生業は持っているものの「浮世離れ」している。この2人と「私」の両親あるいは兄夫婦の対比が面白い。「浮世離れ」とは言うけれど、人は浮世とは完全に離れては暮らせない。かといってリアリズム、現実だけでも暮らして行けない。まぁ暮らして行ける人もいるでしょうけど、お友達にはなりたくない。たとえば階下の兄夫婦が兄の浮気を巡って夫婦喧嘩し、それに釣られて母親も父親のかつての浮気を責めるのだが、配偶者の浮気などはどっちにしろ現場を押さえたわけではないのだから「完璧な現実」とは言えない。山田詠美の小説には現実からの浮遊感が漂ってくる。そこにわたしが魅かれる理由があるかもしれない。

8月某日
駅前の本屋で買った「本を読む女」(林真理子 集英社文庫 15年6月)を読む。単行本は25年前の90年6月新潮社から刊行されている。林真理子の実母をモデルにしている主人公の万亀は大正の終わりに山梨の裕福な菓子屋の末っ子として生まれる。子供のころから作文や読書が好きで、作文が「赤い鳥」に掲載され地元紙のインタビューを受けたりする。母親の方針もあり東京の女子専門学校に進む。結婚にも気乗りがせず相馬の青年学級で教鞭をとるが、山梨へ呼び戻される。菓子屋に出入りしていた中学生が東京で出版社を起業、今度はそこで事務職に就く。30近くなって見合いによって結婚、夫の赴任先である満州へ渡る。戦後、生きてゆくために山梨の農産物を東京に運ぶ闇屋となるが、手にした現金で本を仕入れ始める。私は時代に翻弄されながら小説や古典をほとんど唯一の糧として生きてきた女性のビルディングロマンとして面白く読んだ。それにしてもこの小説は母親や親戚への取材をもとにしていると思うが、作家を家族や親族に持つのは大変なことだと思う。

8月某日
我孫子駅前の書店の新書コーナーに寄ったら中公新書の「チェ・ゲバラ―旅、キューバ革命、ボリビア」(伊高浩昭 15年7月)が平積みにされていた。著者は元共同通信の編集委員。まえがきを立ち読みすると「貧困に苦しむ人や虐げられた人々を救い、新しい社会や国を創る「革命という正義」に身を投じたチェは、革命家であることを「人間最高の姿」として誇りにしていた」とあり、さらに本書には「神話化され偶像視されたチェ・ゲバラ」ではない、チェの生身の人生が描かれているというので迷わず購入する。私のゲバラに対する理解はアルゼンチンに生まれて医学を学び、キューバ革命をカストロ等と闘い、革命成就後は中央銀行総裁や工業相を務めた後、キューバを出国、ボリビアでゲリラ戦をの渦中で戦死するというものだ。本書を読んで私の理解は基本的には間違っていなかったと思うが、改めて思ったのは本書が描いている1950年代から60年代末のラテンアメリカの激動は、ラテンアメリカに固有の現象ではなく日本を含む先進国、さらにアジア、アフリカに共通した現象ではなかったかということだ。ゲバラがボリビア山中で政府軍に身柄を拘束された1967年10月8日は、日本では反日共系の3派全学連が当時の佐藤首相の訪米阻止を叫んで第1次羽田闘争を展開し、京大生の山崎博昭君が死んだ日でもある。地球の裏側でのゲバラの検束と死と三派全学連の羽田闘争と山崎君の死は通底しているように思われてならない。日本の革命的な学生運動はゲバラの山岳ゲリラを模倣したかのような連合赤軍の敗北、あるいは一方的に帝国主義本国としての日本帝国主義に爆弾闘争で戦いを挑んだ反日武装戦線「狼」の敗北後、急速に勢いを失っていく。
ゲバラが死んで50年近くなる。世界も日本も豊かになっているように見える。実際一人あたりのGDPは何倍にも増えたはずだ。だが日本においてさえ貧困の問題が解決したとは言えない。おそらく目を世界に転じれば飢えや伝染病に苦しむ子供たちも存在するに違いない。革命思想をもとにした武装闘争は影を潜めたが、IS(イスラム国)などの宗教的テロリズムは存在感を誇示し、先進国の若者を誘惑している。そして何よりもゲバラには貧しい人々や虐げられた人々を救済するという明確な目標があった。ゲバラにとってはそれが「坂の上の雲」だったんだろうな。1冊の新書でいろいろと考えさせられた。

社長の酒中日記 8月その1

8月某日
青木昌彦氏が先月亡くなった。日本経済新聞に「私の履歴書」を連載し、日経には訃報とともに「評伝」が載せられそれだけでも青木氏が高名な経済学者であることが知れる。だが私などにとっては青木氏は60年安保ブンドの理論的指導者、姫岡玲二としてなじみが深い。なじみが深いとは言っても氏の「国家独占資本主義」を読んだわけでもなく、われわれ70年安保世代にとってはなかば「伝説の人」であった。そんなわけで氏の死に際して何か著作を読んでみようと例によって近くの我孫子図書館を訪れた。ちくま新書の「青木昌彦の経済学入門」(2014年3月)というのがあったので借りて読むことにする。通読してみてこの人は大変に頭脳明晰で創造性にも富み、なおかつ謙虚であることが理解できた。
 マルクス経済学から宇野弘蔵の原理論、段階論、現状分析に触れて「意外と現在の比較制度分析の考え方と似通っているところがあります」として、制度とは何かを均衡論として原理的にとらえ、これが各国、各時代にどのように表れるか比較形態論的に考え、それをもとに政策論やメカニズム・デザイン論が現状分析にあたるというわけだ。なによりも感じたのは氏が「失われた20年」ではなく「移りゆく30年」と強調していることである。たとえば日本の終身雇用制度や社会保障制度、教育制度、グローバル化した経済への対応など「失われた20年」という発想ではなく「移りゆく30年」のなかで、どのように制度的な移行ができるかが問われているのだと思う。

8月某日
社会福祉法人長岡福祉協会の経営する特別養護老人ホーム「新橋さくらの園」で夏祭りがあるというので出かけることにする。ここは大規模福祉施設「福祉プラザさくら川」を運営する施設。長岡福祉協会首都圏事業部では現在、1都2県に拠点6か所、20事業を展開している。先月、月島の特養を見せてもらった。月島で取材させてもらった笹川施設長も浴衣を着てサービスをしていたので挨拶。長岡福祉会を紹介してくれたSCNの高本、市川さんも「うちわつくり」を出店していたので顔を出す。1時間ほど見学して一緒に行ったHCMの大橋社長と施設を出る。ニュー新橋ビルで酎ハイを頂く。今日は我孫子の花火大会。あびこ型地産地消推進協議会の米沢会長のマンションの屋上から見物しようと川村学園大学の吉武副学長から誘われているので行くことにする。会場の正面、8階建てのビルの屋上なので花火もよく見えたうえに暑さもしのげた。

8月某日
プレハブ建築協会(プレ協)の合田専務と神田の葡萄舎で待ち合わせ。合田さんは私が日本プレハブ新聞社の記者だったころだから、今から30年以上前に初めて会った。合田さんは当時の建設省住宅局住宅生産課で工業化住宅つまりプレハブ住宅担当の係長だった。つまり日本プレハブ新聞としては絶対に外せない取材対象だった。毎週毎週、住宅生産課に顔を出したが、合田さんは嫌な顔ひとつせずに付き合ってくれた。合田さんは東大の都市工学科を出た秀才だが私たちともよく呑みに付き合ってくれる。そう言えば私がプレハブ新聞の記者だったころプレ協の専務はずいぶん「おじいちゃん」だった印象だけど、今、世間の若い人たちから見れば、私たちは立派な「おじいちゃん」なんだろうな。遅れて健康生きがいづくり財団の大谷常務が参加。

8月某日
地方議員を対象にした「地方から考える社会保障フォーラム」に参加。そまま夜の意見交換会にも出る。講師として参加した唐沢保険局長、ふるさと回帰支援センターの高橋代表理事も出席してくれた。我孫子の関市会議員や下関の田辺市会議員などが土地の名物を差し入れてくれる。私としては「高齢者の栄養指導と食事」の話をした管理栄養士の奥村恵子さんの話が興味深かった。名刺を交換して少しだけだが話をすることができた。

8月某日
会社近くのビルの地下に「ちょろっと」という小料理屋ができた。以前は焼き鳥屋さんで何度か行ったことがある。いつの間にか代替わりして小料理屋になっていた。東商の鶴田さんを誘って当社の岩佐、迫田と行くことにする。内装も洒落た感じに変わっており、なにより料理が見た目も綺麗で美味しかった。店主は岡山県津山市の出身で岡山の地酒も旨かった。呑み代込みで一人5000円は安いと思う。

8月某日
高田馬場でグループホームを運営している社会福祉法人サンの理事をやっている。介護の質を向上させながら職員の待遇にも配慮しなければならないし、そのためには入居者の確保が欠かせない。それに社会福祉法人である以上、地域の福祉への取り組みも必要となってくる。気軽に理事を引き受けたが簡単な仕事ではない。勉強のために週に一度は訪れ理事長や事務局の人たちと話すようにしている。今日も16時過ぎに訪問して理事長と懇談。評議員をやってもらっていた三木智子さんが亡くなったことを知る。お通夜は明日と言うことなので一緒に行くことにする。健康生きがいづくり財団の大谷常務に電話して、「レストランかまくら橋」で地域福祉の展開等についてレクチャーを受ける。

8月某日
三木さんのお通夜が南柏会館で行われる。サンの西村理事長と参列。三木さんは総合病院の総婦長を長く務め、看護師やドクターが多く参列していた。現職の看護部長が弔辞を読んでいたが、患者本位の看護を貫いた人だったようだ。私も以前組織運営上の悩みを聞いてもらったことがあるが的確な返答だった。お通夜は無宗教で音楽葬だった。こういうのも悪くない。