8月某日
村上龍の「オールド・テロリスト」(15年6月初版)を図書館で借りて読む。560ページの大著。でも面白かった。ストーリーは週刊誌の契約記者をやっていた「おれ」は週刊誌の廃刊を機に失業、酒に溺れ妻子にもシアトルへ去られる。NHK西口玄関へのテロ予告電話をきっかけに、所属していた出版社の上司から現場取材を依頼される。テロは決行され何人かが死ぬ。犯人と思しき若者たちが自殺する。犯人を追う過程でカツラギという若い女性と知り合い、事件の背後には旧満州国の存在があることがおぼろげながらわかってくる。こうやって粗筋をたどると荒唐無稽な冒険小説の感じなのだが、私は冒険活劇小説としても大変面白く読ませてもらった。だが時代設定が2018年ということは近未来小説である。北朝鮮軍が北九州を侵攻する村上の「半島を出でよ」と同じジャンルといってよい。私が村上の近未来小説を面白いと感じるのはNHKへのテロや北朝鮮軍の侵攻が現時点では荒唐無稽かもしれないが、しかし状況のちょっとした変化によっては圧倒的なリアリティを持ちうるということにある。そしてこのテーマのリアリティを支えるのは細部のリアリスティックな再現である。この小説では例えば、終戦時に旧満州国から秘密裏に分解して日本に持ち込まれた旧ドイツ軍の88式対戦車砲の存在である。事件の解決は結局米軍に委ねられ、犯人グループつまりオールドテロリストたちは壊滅する。この小説は主人公の「おれ」の再生の物語としても読めるのだが、同時に閉塞感を強める日本社会と有事立法に奔走する現政権への批判にもなっているような気がする。
8月某日
HCMの大橋社長、デザイナーの土方さん、映像の横溝君、それに当社の浜尾と私の5人で大手町ビルの地下2階にある「魚力」で呑む。これはどういうメンバーかというと土方さんは「胃ろう・吸引シミュレーター」の開発者、大橋さんは現在それの販売元、横溝君はそのPR用の映像を制作してくれた。横溝君と当社の浜尾は現在、社会福祉法人にんじんの会の石川さんと一緒に「介護職の危機管理」という映像の制作に取り組んでいる。まぁ上下関係のないフラットな関係、一種の多職種協働と言えなくもない。本日の話題の中心となったのは「卓球」。大橋さんは大正大学で卓球部、社会人となった今も続けている。土方さんの息子さんは中学で卓球部に所属しているという。ラケットの握り方、ペンホルダーとシェイクハンド、の話題で盛り上がっていた。
8月某日
SCNの高本代表理事と市川理事が西新橋の特養「さくらの園」での仕事が終わってから打合せしたいというので西新橋のHCMの事務所を借りることにする。「介護職の看取り・グリーフケア」について打合せ。SCMとHCMで港区内での卓球を使った介護予防などができるのじゃないかと話が盛り上がる。その後、私は高田馬場のグループホームへ。不動産物件の管理をしている不動産屋さんと名刺交換。グループホームを運営している社会福祉法人サンだけでなく高田馬場の点字図書館やいろいろな福祉施設に寄付をしている、この辺の大地主、池田輝子さんの小冊子を頂く。池田輝子さんは私の母親と同じ大正12年生まれで、しかも目白の川村女学校出身まで一緒だ。小冊子には点字図書館の寄付には厚労省の河さんも関わっていたことが記されていて、浅からぬ因縁を感じてしまった。
8月某日
会社の近くに古本屋がある。間口1間ほどの小さい古本屋だ。店内を一周して新潮文庫の「瑠璃色の石」(津村節子)と岩波現代文庫の「ゾルゲ事件獄中手記」(リヒアルト・ゾルゲ)を買うことにする。2冊で400円はブックオフより安いと思う。店の人に聞くとここに店を開いて10年以上経つらしい。「瑠璃色の石」は津村節子が洋裁学校を経て、姉妹と洋裁店を経営しながら普通より5年ほど遅れて学習院短期大学に入学、大学の文芸部のキャップだったのちの夫となる吉村昭(小説では高沢圭介)との出会いや、文芸誌発行の資金稼ぎのための落語会の開催、三島由紀夫、中山義秀、田宮虎彦ら有名作家との出会いが嫌味なく語られている。これが一章でいわば戦後の青春文学物語である。社会全体が貧しくとも夢だけは豊富だったことがわかる。二章は津村節子と吉村昭の新婚時代から二児を設けるまでである。津村は少女小説を書きながら家計を援け、吉村は紡績の業界団体の事務局長を務めながら習作に励む。同人仲間の瀬戸内晴美(寂聴)を自宅に招き、ハンバーグを御馳走するシーンは微笑ましくもあり、津村の切羽詰まったような心境がいじらしくもある。後に津村は芥川賞を受賞、遅れて吉村は太宰賞を受賞する。
8月某日
図書館で借りた「無銭優雅」(山田詠美 幻冬舎)を読む。作者とほぼ等身大の「私」は予備校講師の栄と恋仲になる。「私」は吉祥寺で友人と花屋を営み、三鷹の実家から通う。実家は2世帯住宅で2階には「私」と両親が住み、階下には兄一家が住む。「私」と予備校講師の栄はそれぞれ生業は持っているものの「浮世離れ」している。この2人と「私」の両親あるいは兄夫婦の対比が面白い。「浮世離れ」とは言うけれど、人は浮世とは完全に離れては暮らせない。かといってリアリズム、現実だけでも暮らして行けない。まぁ暮らして行ける人もいるでしょうけど、お友達にはなりたくない。たとえば階下の兄夫婦が兄の浮気を巡って夫婦喧嘩し、それに釣られて母親も父親のかつての浮気を責めるのだが、配偶者の浮気などはどっちにしろ現場を押さえたわけではないのだから「完璧な現実」とは言えない。山田詠美の小説には現実からの浮遊感が漂ってくる。そこにわたしが魅かれる理由があるかもしれない。
8月某日
駅前の本屋で買った「本を読む女」(林真理子 集英社文庫 15年6月)を読む。単行本は25年前の90年6月新潮社から刊行されている。林真理子の実母をモデルにしている主人公の万亀は大正の終わりに山梨の裕福な菓子屋の末っ子として生まれる。子供のころから作文や読書が好きで、作文が「赤い鳥」に掲載され地元紙のインタビューを受けたりする。母親の方針もあり東京の女子専門学校に進む。結婚にも気乗りがせず相馬の青年学級で教鞭をとるが、山梨へ呼び戻される。菓子屋に出入りしていた中学生が東京で出版社を起業、今度はそこで事務職に就く。30近くなって見合いによって結婚、夫の赴任先である満州へ渡る。戦後、生きてゆくために山梨の農産物を東京に運ぶ闇屋となるが、手にした現金で本を仕入れ始める。私は時代に翻弄されながら小説や古典をほとんど唯一の糧として生きてきた女性のビルディングロマンとして面白く読んだ。それにしてもこの小説は母親や親戚への取材をもとにしていると思うが、作家を家族や親族に持つのは大変なことだと思う。
8月某日
我孫子駅前の書店の新書コーナーに寄ったら中公新書の「チェ・ゲバラ―旅、キューバ革命、ボリビア」(伊高浩昭 15年7月)が平積みにされていた。著者は元共同通信の編集委員。まえがきを立ち読みすると「貧困に苦しむ人や虐げられた人々を救い、新しい社会や国を創る「革命という正義」に身を投じたチェは、革命家であることを「人間最高の姿」として誇りにしていた」とあり、さらに本書には「神話化され偶像視されたチェ・ゲバラ」ではない、チェの生身の人生が描かれているというので迷わず購入する。私のゲバラに対する理解はアルゼンチンに生まれて医学を学び、キューバ革命をカストロ等と闘い、革命成就後は中央銀行総裁や工業相を務めた後、キューバを出国、ボリビアでゲリラ戦をの渦中で戦死するというものだ。本書を読んで私の理解は基本的には間違っていなかったと思うが、改めて思ったのは本書が描いている1950年代から60年代末のラテンアメリカの激動は、ラテンアメリカに固有の現象ではなく日本を含む先進国、さらにアジア、アフリカに共通した現象ではなかったかということだ。ゲバラがボリビア山中で政府軍に身柄を拘束された1967年10月8日は、日本では反日共系の3派全学連が当時の佐藤首相の訪米阻止を叫んで第1次羽田闘争を展開し、京大生の山崎博昭君が死んだ日でもある。地球の裏側でのゲバラの検束と死と三派全学連の羽田闘争と山崎君の死は通底しているように思われてならない。日本の革命的な学生運動はゲバラの山岳ゲリラを模倣したかのような連合赤軍の敗北、あるいは一方的に帝国主義本国としての日本帝国主義に爆弾闘争で戦いを挑んだ反日武装戦線「狼」の敗北後、急速に勢いを失っていく。
ゲバラが死んで50年近くなる。世界も日本も豊かになっているように見える。実際一人あたりのGDPは何倍にも増えたはずだ。だが日本においてさえ貧困の問題が解決したとは言えない。おそらく目を世界に転じれば飢えや伝染病に苦しむ子供たちも存在するに違いない。革命思想をもとにした武装闘争は影を潜めたが、IS(イスラム国)などの宗教的テロリズムは存在感を誇示し、先進国の若者を誘惑している。そして何よりもゲバラには貧しい人々や虐げられた人々を救済するという明確な目標があった。ゲバラにとってはそれが「坂の上の雲」だったんだろうな。1冊の新書でいろいろと考えさせられた。