社長の酒中日記 10月その2

10月某日
社会福祉法人サンで経理をやっている江上さんと駒込駅で待ち合わせて呑むことに。駒込は私が大学を出てから2番目に勤めた日本木工新聞社があったところで、私にとっては大変懐かしい場所だ。仲間と酒を呑んだり麻雀をしたり労働組合運動をやってストライキをやったり、そう当時はまだ青春の残滓を引きずっていた。組合の会議をやった喫茶店アルプスがまだあった。アルプスのもう少し先にある「巣鴨ときわ食堂」に入る。ここは前に当社の石津さんと入ったことがある。基本は定食屋さんだが夜は居酒屋を兼ねるのである。お刺身やおしたしなどお惣菜を肴に飲む。江上さんはもっぱらビール、私は途中から角ハイボールに替える。江上さんに現場の話をいろいろ伺う。サンの職員は真面目で利用者のことを第一に考えていることがよくわかる。締めはチャーハン。小チャーハンを2つたのんだら、普通のチャーハン1つを分けたほうが安いと言われる。その通りであった。良心的というか下町の良さですね。

10月某日
社員の岩佐が厚労省の「子ども・子育て支援推進調査研究事業」にエントリーしたいというので厚労省の研究事業では実績のある「健康生きがいづくり開発財団」の大谷さんの話を聞いたらとアドバイス。大谷さんが当社まで足を運んでくれる。慎重に準備したほうがいいとのアドバイスをもらい今回は見送ることにした。帰りに会社近くの福一で一杯。イカ、タコ、マグロの刺身を盛り合わせを頼む。福一は普通の居酒屋ではあるが、つまみの種類が多く、味も水準以上だ。今回はマグロが特に美味しかった。高清水を3合いただく。我孫子で駅前の「愛花」に寄る。

10月某日
厚生労働省の唐沢保険局長を訪問。20分ほど雑談。偉い人を雑談に突き合わせてしまった。唐沢さんとは彼が老人保健部の係長だったころからの付き合いだから30年近くなる。荻島企画官のもとで老人保健法のパンフレットをつくったのがきっかけだ。ある日唐沢さんに「モリちゃん、同じ大学出身だから仲良くしようよ」と言われ、「よく私は東大出と間違われるが、東大ではありません」と答えると、「違うよー、早稲田だよ」と言うではないか。私が「えっそうなの。早稲田だったら先輩をもっと立てろよ」と言うと、「おれ男だからモリちゃんを立たせることはできないよ」とわけのわからないことをいう。当時から鋭くもとぼけた人だった。厚労省を出て虎の門フォーラムの中村理事長を訪ねる。社会福祉法人のことを報告すると、「じゃもっぱら社会福祉法人の理事長をやっているの」と言うので「違いますよ、年友企画の社長業も大変なんですよ」と話す。6時近くなったので中村さんに「呑みに行きませんか」と誘うと「6時半から研究会なんだよ」と断られる。虎の門フォーラムを出て、西新橋の弁護士ビルに事務所を構える雨宮弁護士に電話。雨宮君は大学の同級生。近くのもつ焼き屋でご馳走になる。雨宮君は司法試験に合格してから検事に任官。30代位半ばで弁護士を開業したと思う。西新橋に来る前は京橋で開業していたが、事務所を西新橋にかわってから、良く呑むようになった。

10月某日
HCM社の大橋社長が友人の三浦さんを連れて私が理事長をやっている高田馬場の社会福祉法人サンを訪ねてくれる。三浦さんは大橋さんと同郷の青森県出身、大橋さんの卓球仲間でもある。三菱銀行出身で「靴磨き」の会社を立ち上げたり、今はいろんな会社のコンサルタントをやっているようだ。銀行出身者とは今まで付き合いがなかったが、民介協の扇田専務もそうだが、「堅物」というイメージとはちょっと違うようだ。事務所での話を終えてから3人で呑みに。高田馬場の東京富士大学へ行く通りの一番奥のあたりにある「鳥やす」に入る。大橋さんも三浦さんも何度か行ったことがあるそうで「安くて旨い」とのこと。実際に焼き鳥は実に旨かった。焼き鳥屋の帰りに同じ通りにある卓球場を覗く。我孫子で「七輪」に寄って、ハイボールを2杯いただく。

10月某日
内幸町の富国生命ビル28階で国際厚生事業団の角田専務らと会食。EPA(経済連携協定)で関係の深いインドネシア、フィリピン、ベトナムの興味深い話を伺う。ビールとワインを少々。終わって当社から国際厚生事業団に出向してもらっている伊東さんと東京駅北口のガード下の居酒屋へ。「角打 丸の内」という店名。サラリーマンでごった返していた。秋田の「新政」を2杯頂く。
 
10月某日
電車で読む本を家に忘れてきたので会社近くの古本屋で文庫本を物色、乃南アサの「トゥインクル・ボーイ」(新潮文庫 平成9年9月刊)を買う。100円だった。子供というか幼児の犯罪の短編集。無垢に隠された悪意やエゴイズムを作者は描きたかったのだと思う。私は別に子供好きではないが通園途上の幼稚園児などを見かけると微笑ましく思うこともある。幼児の残虐性はわかるが小説として読むとあまり後味のいいものではない。

10月某日
30年来の友人である伊藤允博さんと久しぶりに神田の葡萄舎で呑む。伊藤さんとは私が今の会社に勤める前にいた業界紙、日本プレハブ新聞社にいたころに知り合った。私は取材記者として入社したのだが、社長以下4,5人の会社だったので広告取りもやった。当時、伊藤さんが在籍していた住宅展示場の運営会社、ナショナル開発に広告出稿をお願いに行ったのが付き合うきっかけだった。伊藤さんは私より確か一歳上で早稲田大学の教育学部を卒業後、札幌テレビ(STV)に入社、新自由クラブの代議士の秘書をした後、ナショナル開発に入社した。ナショナル開発を辞めた後、インドネシア旅行社をやりながらオーストラリアのボンド大学の日本校の開設準備に携わったりした。その後、JR東日本の関連会社で住宅展示場の運営や保険の代理業を行っている会社の常務として働いていた。私とは経歴も思想信条も違うのだが、なぜか気が合うのだろう、忘れたころに連絡を取り合って呑む関係だ。伊藤さんは住宅運営会社の常務を退いた後、私の紹介である社会福祉法人に入社した。その近況報告もあり呑むことになった。約束は7時半だったが、伊藤さんは書類の整理が終わらないらしく、8時半頃の来店。それまで私は葡萄舎の店主のケンちゃんと常連客のモリタさんと店のテレビを見ていた。たまたまやっていたのが「ユーは何しにニッポンへ」という番組。この番組は息子が好きでビデオに収録したものを2,3度見たことがある。「ユーは何しにニッポンへ」が終わるとNHKの「鶴瓶の家族に乾杯」を見る。モリタさんが持ち込んだ漬物を肴に呑んでいるとやっと伊藤さんが登場。伊藤さんにはベルギー産のチョコレートを頂く。

社長の酒中日記 10月その1

10月某日
石巻から小牛田経由で古川へ。車窓からはこれから稲刈りを迎える田圃やすでに刈り入れが終わった田圃が見える。ここら辺は日本でも有数の穀倉地帯なのだ。小牛田で1時間弱の電車待ち。穀倉地帯ということは酒が旨いということでもある。駅前の酒屋を訪ね地酒を買うことにする。買ったのは「黄金澤」。電車に乗って古川へ。タクシーで「穂波の里クリニック」へ向かう。迎えてくれたのは緩和支援センターはるかのセンター長、大石春美さん。大石さんは山形県の米沢市出身。母子家庭で育ちリクルートの奨学金を得て、淑徳大学の社会福祉科へ。大石さんが社会福祉士を希望することになったのは、中学のとき入院でお世話になったMSWの影響。卒業して社会福祉士の国家資格を得ても、なかなか社会福祉士の仕事に就くことはできなかった。やっと大崎市立病院へMSWとしての就職が決まるが、その直後、お母さんが亡くなる。こうして書くとなんだか不運の人のようだが、実際の大石さんはとても明るくキュートな女性だ。その明るさで何度も逆境を乗り越えて行ったのだろう。センターに案内されると高齢者がスタッフと一緒に今日の昼食を調理していた。ピーマンに具を詰めていたKさんと話す。Kさんは大正12年うまれというから私の母親と一緒。10数人の大家族の農家へ嫁いで味噌も醤油も自家製だったと誇らしげに話す。Kさんはセンターが主宰する劇団の女優でもある。人は幾つになっても役割が必要なんだと実感する。あとでスタッフに聞くとKさんは認知症だというではないか。またびっくりである。

10月某日
土曜日だが理事長を勤める高田馬場の社会福祉法人へ。現在、人員不足から休止しているデイサービスの再開についてスタッフと話し合う。結論はあと2~3人人員確保のめどがたたなければデイサービスの再開は難しいというものだった。しかし空間を遊ばせておくわけにはいかない。なんとかめどをつけて早期の再開を図りたい。昼食はグループホームで入居者の皆さんと摂る。男女とも穏やかな人ばかりだ。2回に分けてスタッフにあいさつ。入居者の尊厳、人権を守ること、安全・安心を守ることを強調した。そのうえで社会福祉法人として地域福祉にも貢献しなければならないことを述べる。早稲田大学出身で40数年ぶりで高田馬場へ帰ってきたこと、学生運動で戸塚署や商店街に迷惑をかけたこと、罪滅ぼしの意味もあって地域の福祉に取り組みたいと話す。みんな高齢者ケアへ真面目に取り組んでいることが伺えた。

10月某日
元社会保険庁長官の金田一郎さんが亡くなる。江古田斎場での通夜に行くことにする。開式30分前に行ったら社会保険研究所の川上社長が来ていた。日本IBMの顧問をしている川邉さんと式場に入る。お浄めの席で元次官の幸田さん、多田さん、浴風会の京極先生たちに挨拶する。国際厚生事業団の角田専務、健康生きがいづくり財団の大谷常務と呑みに行くことにする。江古田駅の南口へ。焼肉屋でビールを呑む。江古田は学生時代2年ほど住んだがその当時の面影はほとんどない。時間があれば当時住んでいた国際学寮のあった小竹町のあたりを散策したかったのだが。

10月某日
「FACE BOOKで見たんだけど、高齢者住宅財団の落合さんが誕生日なんだって。誕生会してやろうよ」と結核予防会の竹下さんから電話がかかってきた。私は「50過ぎたら誕生日なんて嬉しくもなんともないんじゃない」と返事したが、竹下さんは「いいじゃないかやってやろうよ」と食い下がる。竹下さんは仕事でも手腕を発揮し友情にも厚い立派な人。さらに加えれば女性に大変優しい人である。というわけで私が親しい人に声を掛けることにした。当日、予約していた「ビアレストランかまくら橋」に当社の迫田と足を運ぶ。6時過ぎに竹下さんが登場。3人でハーフ&ハーフなどを呑んでいると住宅金融支援機構の理事になった望月久美子さんが来る。次いでプレハブ建築協会の合田専務、セルフケアネットワークの高本さん、フィスメックの小出社長も。1時間ほど遅れて国立病院機構の古都副理事長が来る。肝心の落合さんは高齢者住宅財団の仕事が長引いてみんながいい気持になったところで登場。改めて乾杯。いろんな業種の人、いろんな会社の人が集まって呑むのは楽しい。「朋有り遠方より来る。亦楽しからず哉」である。遠方じゃないけどね。

10月某日
SMSという会社は看護、介護人材の紹介、介護報酬請求ソフトの開発、販売などで急成長している会社で、当社ともWEBマガジンンの原稿制作などでつきあいがある。急成長している会社だけあって組織や担当がよく変わる。最初の担当が長久保さんという好青年だった。SMSに所用があったので長久保さんに「いる?」と電話すると、「その日は神田駅北口近辺の会社に行ってます」とのこと。で7時に神田駅南口で待ち合わせて葡萄舎へ行く。私が持ち込んだ日本酒を呑む。長久保さんは北海道教育大学出身で地学専攻だったかな。長久保さんの父親が私の1歳上というから私の息子と同じ世代だ。まぁ向こうがこちらに合わせてくれているのだろうが、私は結構気が合うと思っている。SMS担当の迫田を呼び出して3人で歓談。

10月某日
国際展示場に「福祉機器展」を見に行く。「胃ろう・吸引シミュレータ」に引き続きデザイナーの土方さんが気管カニューレの模型を開発、量産の目途も立ったので一般財団法人社会保険福祉協会のブースをお借りして出展しているのだ。社会保険福祉協会のブースに行くと看護師の大津さんが実演していた。韓国の人が興味を示して韓国で売ってみたいと言ってくるなど反響は上々のようだ。大津さんと土方さん、販売担当のHCMの大橋さん、映像担当の横溝君が食事に行くとのことだったが私は先約があったので「ゆりかもめ」で新橋へ。新橋の「お多幸」でSCNの高本さんと待ち合わせているのだ。で新橋のレンガ通りの「お多幸」を探したが無いではないか。
高本さんの夫の社会保険出版社の高本社長が迎えに来てくれる。探しても見つからないはずで私の知っている「お多幸」は数年前に閉店、別のお多幸が「株式会社お多幸」として新橋3丁目の交差点付近に開店したというわけ。マグロのお刺身やおでんを肴に日本酒を頂く。フィスメックの小出社長も同席して座は大変盛り上がった。お勘定は高本社長にお世話になってしまった。なんかいつもご馳走になっているような気がする。申し訳ありません。新橋お多幸の代表取締役、柿野さんは中央大学スキー部で高本社長と一緒だったそうだ。紹介してもらい名刺を交換する。相当酔ったが、我孫子で電車を降り今日は駅前のショットバーで締めることにする。ジントニックとスコッチのソーダ割りを一杯づつ呑む。今週も呑みすぎである。

社長の酒中日記 9月その3

9月某日
図書館から借りた「リストランテ アムール」(井上荒野 角川春樹事務所 15年4月)を読む。井上は我孫子図書館でも人気で本の裏に「この本は、次の人が予約してまってます。読み終わったらなるべく早くお返しください。」と書かれた黄色い紙が貼ってある。11章からなる中編小説の各章の冒頭には「本日のメニュー」が掲げられている。たとえば1章では「プンタレッラのサラダ・カリフラワーの赤ワイン煮・蛙のフリッと・猪のラグーのパスタと白トリュフ・仔牛のカツレツ・カスタニャッチォ・罵る女」という具合である。最後の「罵る女」というのが1章のタイトルといえばタイトルになっている。メニューの半分くらいしか意味が分からない私だが、この本を読み終わる頃には「イタリア料理も悪くない。今度挑戦してみたい」と思ったほどである。ということは小説のストーリーだけでなく料理に関する文章も「読ませる」ということなんだろうな。弟がシェフで姉がウエイトレスとレジの小さなレストランがアモーレ。弟はプレイボーイ、姉は弟の料理の師匠にに片思い。そこに姉妹の父親が絡んでくるのだが、この父親、私には井上の父の井上光晴を思い出させたのだけれど。井上荒野には惣菜屋を舞台にした「キャベツ炒めに捧ぐ」という小説もあるようで今度、読んでみよう。

9月某日
家の近くの喫茶店の店頭で古書が売られている。文庫本が1冊100円なので3冊を買い、300円出すと店の人が「3冊買うと200円です」。安いなー。そのうちの1冊、「梔子の花」(山口瞳 新潮文庫)を読む。梔子は「くちなし」と読む。知らなかった。山口瞳が週刊新潮に連載していた「男性自身シリーズ」の1冊である。「男性自身」はエッセーとばかり思っていたが短編小説もあるのだ。「梔子の花」は42編の掌編小説で構成されている。週刊誌2ページ、原稿用紙10枚弱。それを毎週毎週書くというのは大変なことであろうと思う。登場人物は全編違う。登場人物の名前も当然違うのだが、名前を考えるだけでも結構大変だったのではないだろうか。登場人物は市井の人、それもサラリーマンが多い。山口は時代小説や歴史小説は書かなかったと記憶するが、山口の小説に出てくるサラリーマンは、武士道ならぬサラリーマン道を歩んでいるようにも思える。それは直木賞を受賞した「江分利満氏の優雅な生活」以来変わっていないように思う。シルバーウイークなので上野公園に行って美術館に行こうと思い上野駅で下車する。家族連れで賑わっている。ふと思い立って上野動物園に行くことにする。シルバーウイークなので60歳以上は入場無料とのこと。木戸銭を払わずに入ったのはいいが、なかは家族連れで大混雑。ニホンザルと象を見て退散する。

9月某日
「胃ろう・吸引のシミュレータ」の販売会議を新橋のHCM社で。同社の大橋社長と開発者の土方さん、それに映像で協力してくれている横溝君というメンバー。すでに開発を終え一部試験販売をしている気管カニューレを本格的に製造して販売に入るかが議題。製造コストをだれが負担するのか、という最大の問題は残ったままだが、来月に迫った「福祉機器展」には社福協のご厚意で社福協のブースの一角を借りて出品することにする。終わって新橋の青森の郷土料理の店「おんじき」で大橋さんにご馳走になる。青森弁のウエイトレスが可愛かった。もちろん料理も酒も美味しい。終わって大橋さんと神田の葡萄舎へ。

9月某日
図書館で借りた「秋山祐徳太子の母」(秋山祐徳太子 新潮社 15年6月)を読む。どこかの書評でほめていたので借りたのだがなかなか面白かった。秋山は前衛的な美術家で都知事選に立候補したことぐらいしか知らなかったがこの本を読んで相当な人物であることが分かった。それはそうと秋山の母上は千代といって明治38年生まれ。昭和10年に秋山を産み、11年に夫であり秋山の父だった英起を亡くす。以来、千代が死ぬまで母と子の二人三脚は続く。江戸っ子の千代は気風はいいし料理は上手、つねにご近所の人気者だった。その親子の日常が活写されるのだが、秋山が芸大を3浪しても受からず、武蔵野美術大学へ進学、自治会の委員長をやった4年生のときが60年安保の前夜。就職した年の6月15日、秋山は会社を無断欠勤して国会へ。経済も急成長していたし社会も政治も活気づいていたことがよくわかる。後半になって西部邁との交遊にも触れられるが、2人は全学連仲間でもあるわけだ。秋山とは13歳年下の私とは体験が異なるものの強く共感を覚えた。

9月某日
川村学園の副学長、吉武さんと西荻窪の「たべごと屋のらぼう」に行く。なかなか予約がとれない店という。お店に行く前に武蔵小金井の小金井リハビリ病院に入院している荻島國男さんの奥さん、道子さんを見舞いに行く。奥さんは前よりもずいぶん元気になったように感じられてうれしかった。「のらぼう」は確かに材料が厳選されている感じがして、それに料理への情熱というか、手間の掛け方が感じられて「なるほど人気のある店だ」とうなづかされた。

9月某日
高校(道立室蘭東高校)の首都圏同窓会、銀座の「銀波」で。私たちの高校は戦後のベビーブーム世代の高校進学に備えて急造された新設校で私たちは2回生。1回生には「東アジア反日武装戦線」事件で逮捕され、逮捕直後に服毒自殺した斉藤和、大宅荘一ノンフィクション大賞を受賞した久田恵がいるが、私たちの同級生にはそうした有名人は出ていない。だが普通科3クラス(他に商業科2クラス)のこじんまりした高校でそのぶん仲がいい。出光興産を退職した品川君が毎回、幹事をやってくれている。私は開始時間ぎりぎりの4時に滑り込んだため、席は一番端。隣が元我孫子市役所の坂本君、その隣が元横浜市役所の多羽田君、向いが元住友金属の小島君だ。私たちが就職した当時は高度経済成長期で有名企業や役所に就職した人が多い。ビール、ウイスキー、日本酒でかなり酔う。品川君と2次会(葡萄舎)へ。別れて上野駅へ。上野駅で電車に乗ろうとしたら我孫子の呑み屋で知り合った看護師、植田さんに声を掛けられる。電車では爆睡したが上田さんに我孫子駅手前で起こされる。上田さんと我孫子駅前のバー、ボンヌフでジントニックを2杯ずつ。呑みすぎである。

9月某日
井上荒野の「レストランテ・アムール」が面白かったので、同じ作家の「キャベツ炒めに捧ぐ」(角川春樹事務所 11年9月)を図書館から借りて読む。総菜屋で働く3人の初老の女の物語。ひとりは離婚、ひとりは死別、ひとりは20代で振られてからずっと独身。3人のそれぞれの事情とおいしそうな惣菜を軸に物語は進む。「リストランテ・アムール」もそうだったが、途中の紆余曲折はあるにしても基本はハッピーエンド、登場人物に悪者はいない。井上の作品には人間に対する信頼とか愛情を感じてしまうのですが。

9月某日
「介護職の看取り・グリーフケア」の聞き取り調査で宮城県石巻市に。石巻市を中心に訪問介護、通所介護、訪問入浴、居宅介護支援、グループホーム、サービス付高齢者住宅などを幅広く展開している「ぱんぷきんグループ」の渡邉社長に取材するためだ。東日本大震災の直後といってもいい2011年の5月、取材で渡邉さん(当時は常務)に会ったのがきっかけだ。その時の社長が渡邉現会長。渡邉社長は土井経営企画課長とコミュニティケアプラザの末永さんと取材に応じてくれた。この取材にはセルフケアネットワーク(SCN)の高本代表理事と市川理事も同行。というか調査の主体はSCNなので、私が同行させてもらった。取材後渡邉会長と私たち3人で歓談。渡邉会長がどうして介護の業界には入ったかかというお話。会長がトラックの運転手をしていた20代、自動車事故に巻き込まれる。「意識はあったんだよね、自分の足が自分の意志ではどうにもならずぶらぶらしているのがわかったもの」。最初に担ぎ込まれた病院では断られる。「うちではどうにもできません」。「そりゃそうだよ。看板を見たらそこは産婦人科だったのさ」。結局、大崎市の個人病院に入院し治療を受ける。「それが結果的に正解だったのさ。大きな病院だったら間違いなく片足は切断されていた」。しかし首から下を石膏のギブスで固定され身動きの取れない日が続く。「こっちも荒れてさ、病室の看護婦を泣かせてばかりいた」。そんな会長を変えたのが婦長さんの献身的な行為。クーラーのない病室、夏の暑い日が続く。ある日婦長さんがベッドの大きさにベニヤ板を持ってきてくれて「この上に寝てみなさい」といってくれた。背中を風が通り実に快適だったという。会長は快適さもさることながら婦長の「患者を想う思い」に打たれたという。「それからさ。早く良くなって困っている人の役に立ちたいと思うようになったのは」。この会長は本物だと思う。
会長の話を伺った後さっき話を聞いた末永さんが責任者をやっている小規模多機能施設を見せてもらう。木材をふんだんに使った暖かみのある建物で、末永さん自身も大変暖かい人だった。取材を終わってホテルへ。夕食を取りに外へ出るが2軒が満員。3軒目に入った「どんぐり」は最初は我々だけだったがこれが正解。石巻の海の幸と美味しい日本酒をいただく。