社長の酒中日記 11月その2

11月某日
香港の介護療養ホームの職員が社会福祉法人サンを視察に来るというので、冒頭あいさつをしてほしいという。認知症介護の現場のことはわからないので「日本の2025年問題」でもしゃべろうかと思い、30分早く行って原稿を考える。次のようなことをあいさつした。「私は第2次世界大戦終了後に生まれたベビーブーマー世代です。日本の高度経済成長期と時を同じくして学校で学び、就職し生産活動に従事してきました。今、多くの同世代の者たちが年金受給世代になっています。私たちベビーブーマーが日本で言う後期高齢者となる2025年には少子高齢化によって支えられる層は広がり、支える世代の人口は減少します。日本社会は大きな試練に直面しています。この現実はおそらく近い将来、中国、東アジア、そして今世紀後半にはグローバルな現実となるでしょう。どうかそのあたりも考えながら日本の高齢者施設を見学していただきたいと思います」。視察を終えた後、団長らしき人から握手を求められたので少なくとも悪印象は持たれなかったと思う。

11月某日
年金記録問題で国民の信頼を失った厚生労働省に事務次官として迎えられたのが江利川さんだ。江利川さんは内閣府の次官を退官した後だから、中央省庁の次官を2つも務めるというのは異例中の異例だ。厚労省の現役の局長と話していたら「最近、江利川さんと会ってない」という話となり、少人数で「江利川さんを囲む会」をセットすることにした。場所は西新橋の「花半」、当社の岩佐が手伝ってくれる。6時過ぎに鈴木年金局長が来て、次いで江利川さんも来る。蒲原官房長、神田医政局長、香取児童家庭局長、樽見審議官も来る。間年金課長も顔を出す。江利川さんとは江利川さんが年金局の資金課長に就任したころからのつきあい。当時から私のような弱小出版社の社員とも分け隔てることなく接してくれた。江利川さんの次の資金課長が川邉さんで、江利川、川邉時代の補佐が足利さんや岩野さんだ。こちらの会も不定期だが年1回か2回やっている。江利川さんをメインにした会合は、まず江利川さんの日程を抑えることから始まる。それだけ江利川さんが忙しいということなのだ。ここからは推測だが、官界、政界、経済界から意見を求められることも多いに違いない。

11月某日
健康・生きがいづくり財団の大谷常務と日暮里で待ち合わせて駅前の「喜酔」という店に入る。日本酒と肴が旨く値段もリーズナブル。気に入ったけど私ももうすぐ67歳。いつまでのんでいられるのだろうか?振り返ると高校生までは比較的まっとうに生きてきた気がするのだが、大学に入学したころから学生運動に首を突っ込んだり、まぁいろいろありました。だけど自分から言うのもなんだけど、お金にもそれほど不自由したこと無いし、家族や友人にも恵まれたと思う。あんまり悔いのない人生のような気がするけど。

11月某日
「大衆の幻像」(竹内洋 14年7月 中央公論新社)を読む。竹内は前に「革新幻想の戦後史」を読んで、常識的な革新像を崩す発想を面白いと思った。本書はいろいろなメディアに発表した論文、エッセー、書評などを集めたものだが、それだけに著者の本音がうかがうことができる。著者は1940年生まれ。京都大学教育学部で社会学を学び、後に京大教授、現在は関西大学教授。「日本版ノーブレス・オブリージュの真髄」の項では、映画「飢餓海峡」(内田吐夢監督)の伴淳三郎演じる定年間近のノンキャリアの刑事に着目する。そして学部長を務めたときの学部事務室のノンキャリアの会計掛長にも思いを致す。日本社会はこのような実直で「堅気」の誇りを持った庶民に支えられているのだと著者は実感するのだ。もちろん著者は実感だけでなくいろいろな学説、論文や社会現象から日本社会の実像と幻像に迫る。理論(言説)と実像を不可分なものと捉えながら、その乖離に学問的興味を抱くというのが著者の方法論なのかもしれない。

11月某日
京大理事に就任した阿曽沼氏から東京に来ているから「飯でも食おう」と電話。高田馬場の社会福祉法人で職員との面談を終わってから神田駅近くのバー「柴田屋」へ。会社近くにそばや「周」(あまね)に席を移して日本酒を少々。そばを食べて別れる。会社や社会福祉法人の経営でいろいろと心配してくれている。大変ありがたいが、心配や同情で経営が改善されるわけではない。しかし私の場合は友人たちの心配や同情があればこそいままでやってこれたと思っている。

11月某日
会社で仕事をしていたら「ケアセンターやわらぎ」の石川代表から「モーちゃん、今日時間ある?」という電話。予定が入ってなかったので「大丈夫です」と返事すると、社福協の研修の講師が終わるから社福協に来てくれという。社福協から西新橋の「福は内」へ。ここは以前も石川さんにご馳走になったことがある。石川さんは「ケアセンターやわらぎ」の代表と社会福祉法人にんじんの会の理事長を務め、中央線沿線で幅広く介護事業を展開している。20年位前に当時自治労の社会保障担当の書記だった高橋ハムさんの紹介で知り合った。以来、何かと目を掛けてくれる。美味しい日本酒と鱧のてんぷらお刺身などを御馳走になる。後から社福協の内田さんと岩崎さんが合流。

11月某日
「ともえ」(諸田玲子 13年9月 平凡社)を読む。諸田は女流の時代小説家。ウイキペディアによると上智大学の英文科を卒業した後、アナウンサーなどを経て小説家としてデビューしたらしい。それはともかく私としては諸田を読むのは初めて。「大衆の幻像」で竹内洋が書評で「ともえ」を絶賛と言っていいくらい褒めていたので図書館で借りることにした。大津の義仲寺で旅の芭蕉は智月尼と出会う。ともに木曽義仲と巴御前を祀った義仲塚と巴塚に参った折である。智月尼は芭蕉よりも10歳ほど年上ながら2人は静かな恋に落ちる。2人の恋と500年前の義仲と巴御前の恋と別離が時空を超えて描かれる。芭蕉と智月尼があったときおそらく芭蕉は40代、智月尼は50代。江戸時代ならばすでに老境。精神的な結びつきを求めるわけですね、お互いに。作者は老人の心理と生理をよく理解しているようだ。

11月某日
年住協の理事の森さんが来社。現在、年住協が進めている新規事業計画について意見交換。夕刻になったので会社近くのレストランかまくら橋に席を移す。西新橋の信濃屋で購入したスコッチウイスキーを持ち込む。「タリスカー」という銘柄で10年物のシングルモルト。私は初めて呑むがスモーキーで旨かった。当社の赤堀が加わる。

11月某日
以前、当社で働いていた村井さんと寺山君が結婚して、今年寺山君が当社に戻ってきてくれた。村井さんに「たまには一杯やろう」と連絡すると会社近くの三陸のカキを食べさせる「飛梅」という店がいいというのでそこにする。会社を出ようとすると結核予防会の竹下専務から電話。「呑み会が流れてしまったので一緒にどう?」。「先約があるのだけれど、合流する?」ときいたら「混ぜてちょうだい」というので一緒に呑むことに。村井さんにその旨メールしたら「えっ」という返事。それはそうでしょう。それでも和気あいあいのうちにカキを食べ日本酒を呑んで、今日は竹下さんがご馳走してくれた。

社長の酒中日記 11月その1

11月某日
健診なので東新宿のフィオーレへ朝食を摂らずに直行。本人確認などIT化が進んで進行がスムースに行くようになった。検査技師(ほとんどが女性)はじめ職員の態度も好感が持てた。会社へ戻る途中、京都大学の理事をやっている阿曽沼さんから電話、「後程連絡します」と返す。1時間ほど時間がとれそうなので丸の内北口の丸善内にある喫茶店で会う。私の近況や愚痴を一方的に話す。4時過ぎに年住協の森理事が来社。介護職の医療行為に関わる研修を実施するにはどうしたらいいのか聞きに来た。当社の迫田が説明、浴風会ケアスクールが研修機関になっているので、しかるべき人を紹介することを約束。元厚労省の川邉さんと「ビアレストランかまくら橋」で歓談。

11月某日
地方議員を対象にした「地方から考える社会保障フォーラム」が社会保険研究所の会議室で行われているので聞きに行く。和光市の東内京一保健福祉部長の「和光市における超高齢化社会に対応した地域包括ケアシステムの実践―マクロの計画策定とミクロのケアマネジメント支援」が面白かった。興味深かったところをピックアップすると、介護保険事業計画の策定に当たっては「日常生活圏域ニーズ調査を実施し、地域の課題・ニーズを的確に把握」する。この調査は郵送と未回収者への訪問による調査で「どの圏域に、どのようなニーズをもった高齢者が、どの程度生活しているか」調査する。具体的な調査項目としては身体機能・日常生活機能、住まいの状況、認知症状、疾病状況などで、この結果をもとに地域の課題や必要となるサービスを把握・分析する。こうした調査をもとにして介護保険事業計画が策定されるのだが、和光市の第6期基本方針は次のようなものだ。①「介護予防」及び「要介護度の重度化予防」による自立支援の一層の推進②在宅介護と在宅医療の連携および施設や病院における入退院時の連携を、ICTの活用とコミュニティケア会議により高次化することによる在宅介護の限界点の向上③地域包括ケアシステムの構築を念頭に置いた地域密着型サービス拠点の整備と地域における互助力の充実を図ることによる、サービス提供事業者と地域互助力との協働による介護予防・日常生活支援総合事業の推進④地域及び個人の課題を解決するための地域包括支援センターによる包括ケアマネジメントの推進と、さらなる機能化⑤認知症を発症しても地域で暮らし続けられるよう、認知症高齢者の全ての状態に対応することができる地域体制の構築⑥高齢者介護・障碍者福祉・子ども子育て支援・生活困窮者施策を一元的にマネジメントする「統合型地域包括支援センター」の設置による「地域包括ケアシステムの包括化」の実現。
和光市はこうした基本方針のもとさまざまなサービス(基本は在宅サービス)を」展開しているがその基本は「尊厳の保持」や国民の義務としての「心身能力の維持向上」といった介護保険法の本質理解にあるということだった。基本に帰るというのはなにごとにおいても原則なのだ。懇親会を途中で失礼して民介協の扇田専務の待っている神田駅南口の「魚屋道場」へ。扇田さんの富士銀行同期生、横井さんとSCNの高本代表理事に合流。元銀行員と高本さんの掛け合いがなんとも面白い。扇田専務にすっかり御馳走になる。

11月某日
図書館で借りた「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」(加藤陽子 朝日出版社 09年7月)を読む。図書館でたまたま手に取った本だが、なぜか面白そうだった。ひとつは東京大学文学部教授である著者の歴史講義のドキュメントではあるが、講義の対象が東大の学部生や院生ではなく栄光学園の中学1年生から高校2年生までという点。栄光学園の生徒だからもちろん偏差値は高いが歴史に関する知識は我々と大差ない。むしろ中高生向けの講義が市民向けとして十二分に機能しているように感じられた。市民向けと銘打つとイデオロギー過剰になりがちなところがあるような気がする。右にしろ左にしろ。その点本書はイデオロギーではなく科学としての歴史叙述がされているようだった。明治以降の日本の対外戦争を、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変と日中戦争、太平洋戦争に分けて論じられる。資料の使い方が私が歴史を学んだ50年前とはずいぶん違う。「岩手県における戦死者数推移」というグラフでは、太平洋戦争開戦から敗戦まで岩手県全体で3万724人が亡くなっているがそのうち44年以降の戦死者が87.6%を占めている。制空権も制海権も失った44年以降の戦死者が9割近いのである。
著者は言う。「44年から敗戦までの1年半の間に、9割の戦死者を出して、そしてその9割の戦死者は、遠い戦場で亡くなったわけですね」。日本古来からの慰霊の考え方は、「異郷で人知れず非業の死を遂げるとこうした死は、たたる、と考えられていた」と著者はいう。戦死者の霊魂の話は本書の主たるテーマではない。著者の意図は明治以降の対外戦争を最新の資料を駆使しながら科学的に解明するということだと思う。だがその底流には敵味方問わず非業の死を遂げた者たち、遺族への鎮魂の思いが深く存在するように思われる。

11月某日
介護保険の請求に関わる帳票類のチェックをSMSに頼まれる。残念ながら当社にはそのノウハウがないので、社会福祉法人にんじんの会の石川理事長に恐る恐るお願いすると「いいわよ」との返事。チェックが終わったというので荻窪の星乃珈琲で待ち合わせ。その前の仕事に手間取って待ち合わせ時間に20分ほど遅れてしまったが、当社の迫田との間で受け渡しは済んでいた。石川さんのところで開発した認知症予防の「だんだんダンス」のDVDを受け取る。今日は西荻窪で今年亡くなったフリーライターの森絹江さんを偲ぶ会があるのでそのまま西荻窪へ。前にも書いたが森さんは早稲田のロシヤ語研究会の後輩。私が4年のとき確か法学部の新入生として入学してきた。ロシヤ語研究会で酒やマージャンを覚え、学生運動の雰囲気を感じたのだと思う。部落解放研究会にオルグられたのをきっかけにブンドに魅かれて行ったようだ。同じ露語研で理工学部のブンドの森君と結婚したことを風の便りに聞いた。大学も中退し神奈川で労働運動をやりながら子育てをしているのもやはり風の便りで聞いた。再会したのは15年くらい前だろうか。彼女がフリーライターになったと聞いてからだ。専門学校の入学案内を皮切りに「へるぱ!」の取材原稿などをお願いした。で、今日は森さんが取材を通じて親しくなった奥川幸子先生、白井貴子先生、服部安子先生、私と迫田でこじんまりした偲ぶ会となったわけ。会場は西荻窪の「汐彩」(しおさい)。奥川先生がよく使っている店だそうだ。フグ刺しやフグのから揚げなどを堪能する。日本酒も美味しかった。

社長の酒中日記 10月その3

10月某日
横浜の鶴見にある白鵬女子高校の生徒手帳の制作を請け負っている。この仕事は当社の経理担当の石津が同校の校長先生、藤原先生と親しかったことから始まった。藤原先生は昭和24年生まれだから私より一歳若い。日本体育大学を卒業して最初に赴任した中学で教えたのが石津ということらしい。三宅島が噴火したときは三宅島の高校の校長だったと石津に聞いたことがある。そんなわけで今日は京浜急行の青物横丁にある三宅島出身のママさんがやっている「ビストロおきみくら」で打合せ。石津と6時丁度にお店に顔を出すと先生はすでに来ていた。ビールで乾杯後、お刺身やしいらのカルパッチョ、あしたばのてんぷらを堪能した。遅れて白鵬女子高校の担当で10月からフリーになった浜尾さんも参加。

10月某日
さまざまな食材を家庭に宅配している大阪に本社のある「わんまいる」の堀田社長と山脇役員が当社を訪問してくれる。SMSの「介護マスト」に出稿してもらっている縁だ。堀田社長はもともとが酒屋、酒屋の御用聞きのシステムを発展させて宅配に進出したということらしい。少子高齢化が進むということは支えられる側は増える一方なのに支える側は増えないということでもある。財源から言っても税と保険料だけでは支えきれないのだ。民間の活力を活用し介護保険外のサービスを如何に充実させるかが課題だと思う。これは労働人口が減少し経済成長に赤信号が灯る日本経済にとっても必要なことだ。ここら辺は堀田社長の考えとも一致する。堀田社長は吉本にも知り合いが多いそうで、「しゃべり」がとてもお上手だ。5時半を過ぎたので「葡萄舎」に案内する。お通しやお刺身、栃尾の油揚げなど気に入ってくれた。途中からSMSの竹原さんも参加。酒屋出身なのでお酒に強いと思い込んで度の強い焼酎を勧めたが、実はあまり強くないようで帰るときは千鳥足だった。すみませんでした。

10月某日
2010年の第143回直木賞を受賞した中島京子の「小さなおうち」(文春文庫 12年12月)を読む。読んでいて大変心地よかった。悪人や悪意とは無縁のストーリーだからなのかな。時代は昭和初期から、戦中、そして現代まで。と言っても小説の主な舞台は戦前の郊外の「小さなおうち」で、女中のタキの目を通して家族の日常が語られる。戦前は物資が乏しく軍国主義で「暗い時代」と捉えがちだが、この小説を読む限りでは日中戦争の頃まで、太平洋戦争もミッドウエーの海戦ころまではそうでもなかったようだ。そんなことを山本七平かなにかのエッセーでも読んだような気がする。美しい奥様と玩具会社の重役のご主人、タキになついてくれる坊ちゃん、永遠に続きそうな平和な日常。庶民の思惑とは全く別の次元で日本は戦争に突入する。そして出征を控えた玩具会社の社員と奥様との恋、戦争末期の大空襲で小さなおうちは焼かれ、奥様とご主人は死ぬ。そして戦後・…と言う具合に物語は語り継がれていくのだが、ストーリーの展開がかなり巧みで飽きさせない。中島京子という作家の作家的力量はなかなかのものだと思う。

10月某日
図書館で借りた「森は知っている」(吉田修一 幻冬舎 15年4月刊)を読む。吉田修一は02年に「パーク・ライフ」で芥川賞を受賞、近年は「悪人」や「横道世之介」などで若手のストリーテラーとして注目されている(と思う)。私は「悪人」「横道世之介」以外にも何作か読んだが、まっとうに生きようとしながら世間や社会とずれていく若者の心情がよく描かれていると思った。本書は幼児期に母親に虐待され、母親は逮捕、受刑中の高校生鷹野が主人公。鷹野は秘密結社AN通信の手によって児童養護施設から出され、沖縄の南蘭島で高校生活を送る。鷹野は高校卒業を待たずにAN通信から日本国内の水利権をめぐる謀略戦の渦中に投入される。こう書くと荒唐無稽な冒険小説(確かに冒険小説として読んでも十分に面白い)と思われがちだが、作者は「運命の過酷さ」とそれに抗う人間の勇気を描きたかったのかも知れない。村上龍の「オールドテロリスト」、桐野夏生の「夜また夜の深い夜」を彷彿とさせるものがある。

10月某日
数年前、群馬県で「胃ろう」施術のセミナーを手伝ったことがある。そのときデザイナーの土方さんに依頼して開発したのが人体の腹壁と胃壁を樹脂系の材料で模したシミュレータ。同じように浴風会ケアスクルールで実施した吸引のセミナーでも必要に迫られて咽頭部を含む人体頭部のシミュレータをやはり土方さんが開発した。量産して販売することになったが販売元がなかなか決まらず、当社が販売元となった。ところが当社で販売を推進していた大前役員ががんを発症、昨年亡くなったことから当社は販売元となるのを断念、親しくしているHCM社に販売してもらうことになった。専任の販売員も置かず、広告宣伝もゼロに等しいなか、100台近く売れている。土方さんはさらに気管カニューレのシミュレータも開発、これで介護職の医療的行為に関わる吸引、気管カニューレ、胃ろうの3点セットが完成した。問題はどう売ってゆくか。それで今日は西葛西のネオユニットで開発者の土方さん、HCMの大橋さん、私、コンサルタントの三浦さん、当社の迫田、映像担当の横溝君が集まって販売会議。介護職が一部の医療行為を担うのは時代の流れだし、施術の実習をたとえば学生同士でおこなうなどは難しくなって来ている。シミュレータの潜在的な需要はあると確信している。会議が終わったところで西葛西の駅近くの焼き鳥屋「筑前屋」へ。なぜか大橋さんと呑むときは焼き鳥屋が多いように感じる。

10月某日
図書館で借りた「朱子学入門」(垣内景子 ミネルヴァ書房 15年8月)を読む。私は東洋思想にはほとんど興味を持ったことはなくまして朱子学など大学入試のときに歴史で名前だけ暗記した程度である。だから全体的に良く理解できたとは言い難いが垣内さんの平易な文章もあってなんとか読み通すことができた。儒教(朱子学)は中国、朝鮮、日本で支配的なイデオロギーとなったが、中国、朝鮮には科挙の制度があり、朱子学を学ぶことは立身出世のハードル超える条件であった。これに対して日本には科挙の制度がなく、林羅山をはじめ幕府の官学となった学派や在野の学者でも弟子に恵まれた人は食べられたが多くの人は寺子屋の師匠などをやって糊口をしのいだらしい。それはともかく朱子学的思考スタイルは私にも影響を与えていると思う。もう少し朱子学を勉強してみたいと思った。

10月某日
市会議員や県会議員などの地方議員向けに「地方から考える社会保障フォーラム」を年3回ほど実施している。社保研ティラーレという会社が運営しているのだが、企画のお手伝いを多少やっている。当社を退職してフリーになった浜尾さんの力も借りたいということだった。それで今夜は社保研ティラーレの佐藤社長と吉高さんが浜尾さんにご馳走してくれるというので私も便乗させてもらうことにした。佐藤社長は元衆議院議員秘書、吉高さんは元製薬会社の社員で中医協の委員も務めたことがあるそうで話題が豊富、美味しいご馳走とお酒もいただきありがとうございました。

10月某日
社会保険出版社の高本社長と西国分寺の駅で待ち合わせて社会福祉法人にんじんの会が運営する特養の「にんじんホーム」へ。理事長の石川はるえさんに会うためだ。石川さんが代表理事を務めるケアセンターやわらぎが開発した認知症予防ダンス「だんだんダンス」の普及にわれわれが協力できることがないか、話し合うためだ。高本社長が企画書を書いてくることになった。西国分寺の駅前で石川さんがご馳走してくれることになり、にんじんホームを出ようとしたとき、高本社長が「あれ、靴がない」と言う。石川さんの指示の元、職員の方が方々に連絡してくれて利用者の家族が間違って履いて行ってしまったことが判明。車でそのお宅を回って無事に回収することができた。奥さんにプレゼントされたフェラガモの靴だそうで、めでたしめでたしである。西国分寺の駅前の「いわし屋」というお店でお魚を中心とした料理と美味しいお酒をたっぷり御馳走になった。

10月某日
社会保険庁長官や支払基金の理事長、全社協の副会長を歴任した末次さんと「レストランかまくら橋」で食事。末次さんが退官して年住協の理事長に就任してからしばらくたったとき、当時年住協の企画部長だった竹下さんと茨城の常陽カントリーにゴルフに行ったことがある。お昼休みのとき、クラブハウスの前で「竹下君!」と末次さんに声を掛けられた。末次さんも私も常陽カントリーのメンバーだったので、それから何度か末次さんにゴルフを誘われるようになった。今日は同じゴルフ仲間で援護局出身の高根さん、それに末次さんと一緒にヨーロッパの研修旅行に行った当社の大山さんも一緒だ。高根さんはお酒を呑まないのでウーロン茶、ほかはビールで乾杯。末次さんは厚生省の高官を歴任したが偉ぶったところが全然ない人だ。にこにこ人の話を聞き、ときに鋭い質問をする。これからも長く続けたい呑み会だ。