社長の酒中日記 12月その2

12月某日
元厚労次官で現在、京都大学の理事をしている阿曽沼さんからメール。「明日健康診断で酒は呑めないけど食事はできます」。おいおい12月の金曜日だよ、空いているわけないだろと手帳を見ると今週は金曜日だけ空いているではないか。「君は幸運だね。空いています」とメール。5時過ぎに事務所に来てもらう。場所は末次さんにいただいた佃煮を章太亭に忘れてきたので章太亭にする。とりとめのない話をしていると、阿曽沼さんが「京都工芸繊維大学の副学長と会ったんだけど」と言う。「その人が福山の出身でさ。友野さんと大親友なんだって」と続ける。何、友野!思い出した。今から10年以上前、阿曽沼さんが最初に局長になったころだ。「何か面白いことないかなぁ」と言うから「カヌーなんかどう?」と誘ったら「面白そうだな」と乗ってきたのだ。そこに当時カヌーのインストラクターをやっていた友野君が登場する。友野君は私が早稲田の4年のとき東京外語大学に入学、私と同じ江古田の国際学寮に入寮してきた。外大がつまらないというので早稲田に連れて来たり、一緒にデモに行ったりした。そのうちブンドの戦旗派にオルグられあっちへ行ってしまった。40過ぎてから革命運動から足を洗い、カヌーのインストラクターをやりながらフリーライターになった。それからいろいろあったが、いずれにしても私の青春の1ページを飾る人であることは間違いない。

12月某日
土曜日だけれどセルフ・ケア・ネットワーク(SCN)の高本代表理事との打合せがあるので出社。高本さんが5時半にならないと事務所に戻らないというので私も会社でたまっていた雑用をこなす。5時半にSCNのオフィスへ。「介護職の看取り、グリーフケアについての調査研究」の報告書について打合せ。高本さんは江戸時代の事例を盛り込みたいと提案。考えてみると江戸時代を通じてあまり人口増加はなかったはずだ。つまり人口構成的には基本的には人口安定社会ではなかったか。と言うことは江戸時代の事例を検討するのは意味があるということなのだ。

12月某日
本郷さんから我孫子の「美味小屋」で食事をしようとメールがある。了解とメールを返したのだが、日曜日ですっかり忘れていた。約束は12時だったが1時過ぎに顔を出す。本郷さんと本郷さんの友人の寺田さんは当たり前だがもう出来上がっている。それでも西南戦争のはなしなどで盛り上がる。本郷さんと寺田さんは近くのレストラン「コ・ビアン」にいくということだが、私は失礼してマッサージへ。

12月某日
吉川弘文館の人物叢書「近衛文麿」(古川隆久 15年9月)を読む。この評伝の特徴は「従来の近衛研究で重視されてきた、近衛の回想手記や関係者の近衛没後の回想の使用は最小限にとどめ、近衛が生前に行った言説や関係者の日記類を重視した」ことにある。近衛の回想手記は弁明を目的として史実と異なる点が見られ、関係者の回想も多分に近衛に同情的なものが多いからである。本書はできるだけ史実に基づいて近衛像を明らかにする。結論から言うと近衛は「自由主義的国家社会主義思想を奉じる啓蒙的政治家」だった。それは間違いないし、それと同時に近衛のリーダーとしての責任を厳しく追及しており、歴史書、評伝として高い水準にあると感じた。

12月某日
川村学園女子大学の吉武副学長(元年金局長)から携帯に電話。「モリちゃん、5時半に我孫子駅南口に来られる。台湾からのお客さんとご飯を食べるのだけど」。もちろんウイークデイだから行けるはずがない。「6時過ぎなら行けるかもしれない」と返事して、理事長をしている高田馬場の社会福祉法人へ向かう。30分ほど事務仕事をこなして我孫子へ。我孫子駅南口の「串揚げOGAWA」と言う店だ。店に入るとあびこ地産地消協議会の米沢会長や川村学園の福永淑子先生の顔が見える。台湾からのお土産と言う26年物の紹興酒を頂く。たいへんマイルドな味だし陶製の容器がいかにも高そうだった。主賓である台湾の桃園市私立至善高級中学の張理事長を紹介される。市会議員や農事組合の方、市役所の農政課長とも名刺交換する。会合の意味はよくわからないが楽しい会だった。

12月某日
会社を休んで新松戸の年金事務所へ行く。まだ働いているのなら国民年金は70歳から受給したほうがいいでしょうということだった。70歳まで働くのかね?あと3年だよ。厚生年金は僅かながら受給している模様。そういえば元社会保険庁の池田保さんがいろいろと手続きやってくれたんだっけ。深く感謝。帰りに駅前の「しちりん」によってウイスキーのソーダ割りを2杯ほど。ふと思い立って床屋さんに行くことにする。我孫子市若松の「髪工房」が行きつけの床屋でもう10年位行っている。店主は九州天草の生まれで昭和19年生まれ。昭和47年ころ府中で修業中に3億円事件があったとか、松戸の伊勢丹の理容室で働いていたとかいろいろな話をしてくれた。私以外に客はいなかったし手伝いの女性も今日はいなかったからかな。

12月某日
「テロリストのパラソル」(藤原伊織)を読む。95年に江戸川乱歩賞、96年に直木賞を受賞。当時はずいぶんと話題になったものだが私は読むのは初めて。アル中のバーテンダー島村は元東大全共闘、そのなかでも駒場共闘だ。新宿中央公園で朝からウイスキーを呑みながらウトウトしかけたとき、何らかの爆発物が爆発し、死傷者が多数出る。島村は疑いがかかることを恐れ中央公園のホームレスのテントに潜む。私は東大全共闘の支援に行ったし、10数年前には新宿中央公園のホームレス支援に行ったこともある。そんなわけでこの小説は妙に懐かしかった。ミステリーとしてはその分、感傷的に過ぎるきらいはあるが。

12月某日
中村秀一さんが理事長をやっている介護医療福祉政策研究フォーラムへ。椋野美智子さんが今日のフォーラムを聞きに来るというのでご挨拶に。椋野さんは4月の大分市長選挙で惜敗。近況を聞いた。そこから神田の「おさかな市場」へ。民介協の理事会の忘年会。佐藤理事長や扇田専務に挨拶。ぱんぷきんの渡邉社長や社会福祉法人うねび会の酒井理事長がビールを注ぎに来てくれる。渡邉社長や酒井理事長は間違いなく介護業界の次世代を担う人材だ。株式会社ホームヘルパー協会のケアマネ春日さんとも名刺交換。頼もしい若い世代だ。続いてシミュレータの販売をお願いしているHCMの大橋さん、三浦さん、当社の迫田と鎌倉橋ビル地下の「跳人」で忘年会。

社長の酒中日記 12月その1

12月某日
健康生きがいづくり財団の大谷常務と神保町の「あい家」へ。先月の日記に書いたが有楽町の電気ビルにあった「あい谷」のマスターが場所を変えて再開したものだ。先月の日記でマスターは札幌西高出身と書いたが札幌北高の間違いだった。板前さんも「あい谷」と一緒で味も変わらず。値段は有楽町よりも安い感じがした。

12月某日
「ケアセンターやわらぎ」の石川代表理事と石川さんのところで開発した認知症予防ダンス「だんだんダンス」の打合せ。石川さんは6時半から別の打合せが入っているので4時半に富国倶楽部で待ち合わせ。こちらは私と社会保険出版社の戸川、森田君。石川さんは「だんだんダンス」に関わっているスタッフで立教大学大学院の石川さんの教え子中村さんを連れてくる。こちらが認知症予防やだんだんダンスを紹介するパンフレットを作成することで大筋合意。富国倶楽部はシャガールをはじめ内外の著名な絵画や彫刻が陳列されているのだが、石川さんは「今度ね」と言って帰って行った。

12月某日
長岡市長をやっている森民夫さんは元建設省住宅局の東大出身のエリート技官。11月の選挙でも「らくらく?」当選を果たしたので石川はるえさんが音頭をとって「祝う会」をやることになった。高橋ハムさんや辻さん、吉武さんがメンバーの「シャイの会」のメンバーを中心に呼びかけることにした。20人から30人は集めたい。

12月某日
ラシスコという配送業者の倉庫を当社の出版物の倉庫としても利用させてもらっている。今日は土曜日にもかかわらず、当社の石津とパートの川隅さんが確認に行ってくれた。私も行くつもりだったが高田馬場の社会福祉法人サンでデイサービス再開に向けた話し合いがあるのそちらに参加しなければならない。2人とは赤羽で待ち合わせることにした。赤羽で降りてメールすると在庫確認にまだ1時間以上かかるという。それで駅の周辺を散策することにする。まだ4時くらいだというのに駅近くの居酒屋は結構店を開けていてしかも混んでいる。そのほか、雑貨屋や本屋を覗いてしばし師走の雑踏を楽しんだ。5時ころ石津に電話するとちょうど赤羽に着いたところという。西口で待ち合わせ飲み屋街へ。「串待つ」という店に入る。焼き鳥屋である。これが結構おいしかった。3人で川越線で上野へ。ちょうど上野東京ラインだったので石津はそのまま品川へ。私は上野で常磐線へ。我孫子で降りて駅前の「愛花」による。結構出来上がっていたみたい。

12月某日
HCMという会社の忘年会に当社の赤堀と招かれる。神田の「廣豊楼」という中華料理屋。廣豊楼は今年、西新橋から神田に引っ越してきた。HCM社は西新橋にありその当時からよく使っていた。もともとは昭和初期から神田神保町あたりで営業してきたらしい。神田は明治時代から清国の留学生が多く住み、そのせいか有名な中華料理店も多い。いつか元建設省の社本さんにご馳走になった新世界飯店も神保町だ。おそらく魯迅や周恩来も食べたに違いない。

12月某日
「胃ろう・吸引シミュレータ」の販売会議を会社近くの「福一」で。その日のランチを元年住協の林さんと福一で食べていたら、おかみさんが「久しぶりですねー」と言っていたので急きょ福一にした。ここは冬に海鼠が出る。最近、海鼠を出す店が少なくなったので、海鼠好きの私にとってはうれしい店だ。HCMの大橋社長、三浦顧問、当社の迫田の4人で真剣に議論した。本当です。帰りに我孫子の駅前の「愛花」による。先客がいたが私には初めての客。聞くと今年95歳という。それでまだシルバー人材センタ―に登録して仕事をしているというから驚いてしまった。私も頑張らなくては!

12月某日
元社会保険庁長官の末次さんから電話。「今日、夕方会社にいる?」。「5時半には出なければなりませんが」「じゃ5時ころ行くよ」。末次さんは長官を辞めた後、年住協の理事長に就任した。私は当時年住協の広報雑誌「年金と住宅」の編集に携わっており、年住協の編集長が今、結核予防会の専務理事の竹下さんだ。その頃、竹下さんを誘って私がメンバーの常陽カントリーへ行ったとき、午後のラウンドに出ようとしたとき、突然「竹下君」と末次理事長から声がかかった。末次さんは我々の後ろの組でプレーしていたのだ。末次さんも同じ常陽カントリーのメンバーでそれ以来、年に何回かご一緒させていただく。もっとも最近私はゴルフから遠ざかっているので、年に2、3度食事を御一緒する。年末のあいさつということでわざわざ事務所まで足を運んでいただき恐縮の至りである。しかも末次さんは「お世話になったから」と言ってイタリアのワイン、「ローレライ」というドイツのリキュール、それと京都の佃煮をお土産にいただいた。末次さんをお送りし、ワインは神田明神下の章太亭でいただき、リキュールは根津の「ふらここ」でいただいた。

12月某日
会社に同居しているNPO法人の佐々木事務局長が当社の社員一同を「ビアレストランかまくら橋」に招待してくれる。社員一同感激してビールやワイン、料理を頂く。社員同士だけでなくよその会社との交流も大切なことだと思う。

社長の酒中日記 11月その3

11月某日
セルフ・ケア・ネット(SCN)の高本代表に「秋の宴遊会in新川」に誘われる。中央区新川にある高本夫妻が住むダイヤビル隅田リバーサイドタワーを訪ねると2階の集会室が会場となっていた。中に入ると宴はすでに始まっていて若い女性がビールを注いでくれくれてお料理もとってくれる。まぁ私は高齢者で障害者だからそのくらいはいいか。高本夫妻、今日ストレスチェックについて話をするフィスメックの小出社長、社会保険研究所の関連会社、現代社会保険の佐藤社長もいる。ほどなくSCNの市川理事もご主人の母親を伴って現れたので計画中のサービス付高齢者住宅の話などを聞く。どうもこの会は高本夫妻を中心とした「呑み仲間」の集まりのようではあるが同じマンションの住人、それから人形町界隈の呑み仲間も多いようだ。「下からの」地域包括ケアの原型がここにはある。

11月某日
5時から当社でシミュレータの販売会議。メンバーは当社の迫田と私、HCMの大橋さんとHCMと顧問契約を結んでいる三浦さん。本格販売に向けて役割分担をどうすべきか話し合う。専任の営業マンを置くより医療機器販売店に卸したほうが効率的だろうという方向では一致。場所を会社近くの跳人に移す。ここは津軽料理の店だが、大橋さんと三浦さんは青森の高校で卓球部の先輩後輩の関係。そんなこともあって津軽料理の店にした。介護予防と卓球の話で盛り上がりそろそろ帰ろうという時に当社の赤堀が登場。赤堀は新興スポーツのパドルテニスをやっているそうで三鷹市パドルテニス連盟の理事長という。それで話はまた盛り上がった。

11月某日
東京福祉専門学校に武田看護師に会いに行く。武田さんは60チョイ過ぎの男の看護師さん。東京福祉専門学校の白井貴子先生の紹介でいろいろお願いしているところだ。東京福祉専門学校でも夜間部で教えている。「教えることはとても勉強になります」と謙虚な人柄には感心する。授業がある武田さんと別れ、西葛西の駅へ。西葛西に事務所のあるネオユニットの土方さんに会うためだ。土方さんお勧めの焼き鳥屋へ入る。シミュレータの販売について打合せ。亡くなった大前さんの話になる。不覚にも涙が出てしまった。仕事以外の話をいろいろする。土方さんとは10歳以上年が離れているが、なぜか話が合う気がする。

11月某日
図書館で借りていた「グローバル経済史入門」(岩波新書 杉山伸也 14年1月)を読む。
著者の杉山は1949年生まれ。72年に早大の政治経済学部を出ている。ロンドン大学博士課程終了後、慶応大学経済学部に迎えられている。私も72年に早大政経学部を卒業しているがもちろん面識はない。もっとも私は1年の2学期以降ほとんど教室に足を踏み入れたことはなかったから同級生はともかく同じ学年の学生と親しく話を交わす機会もなかった。1年の2学期以降、私はデモに明け暮れていた。そんな生活が翌年の9月3日まで続く。9月3日の第2学館の闘争で逮捕起訴され冬に東京拘置所から出された。自分の話が長くなったが、私がデモに明け暮れ、逮捕起訴された後、麻雀や酒に溺れていたときも杉山は学問していたわけである。私は今まで自分の生き方に後悔したことはあまりないのだが、同年に早稲田を卒業した杉山の本を読んで「学問をするという選択肢もあったかもしれない」とふと思った。
それはともかく本書を私はとても興味深く読ませてもらった。私の歴史理解は一国の歴史があり(たとえば日本史)、それをとりまく周辺の歴史があり(たとえば中国史、東アジア史)などがあり、それらを集約、統合したものとして世界史があるというものだ。これに対しグローバル経済史は当然のことながら交易(異なる地域間の交換)が前提となる。異なる地域間の交換には陸路にしろ海路にしろ通商ルートの確保が前提となる。ヨーロッパとアジアを結ぶ通商路としてのシルクロードやスペインポルトガルがはるか希望峰を廻ってインドやフィリピン、中国本土、台湾を経て日本に到達したのもそういうことであろう。産業革命がイギリスに興り、資本主義経済がヨーロッパを覆った。アジア、アフリカの多くは植民地化され、植民地と資源を争って二度の世界大戦があって現在がある。
われわれはどこへ行こうとしているのか? 杉山は「人間の歴史に刻まれてきた普遍的な価値観としての自由や平等の思想や民主主義の伝統は、全体主義や排他主義への回帰を許容しない抑止力として機能することは間違いないし、そうあることを信じたい」という。まったく同感である。

11月某日
セルフ・ケア・ネットワーク(SCN)の高本代表を小舟町の事務所に訪ね「介護職の看取り、グリーフケア」調査の打合せ。終了後、水天宮から日比谷線で西新井へ。「へるぱ!」の取材で「ケアサービスとも」を訪問するためだ。西新井駅で当社の迫田、ライターの沢見さんと待ち合わせ。取材は社長の海老根さんと海老根さんの奥さんで看護師兼管理者の久美子さん、取締役の永田さんが対応してくれる。久美子さんが来るまでの雑談のなかで、海老根さんの次男に重い障害があったことがこの事業を始めたきっかけと分かる。次男の施設への送り迎えのため社長の海老根さんは比較的時間が自由になる個人タクシーをはじめたそうだ。まあそれからずいぶんと大変なこともあったに違いないが今は順調に業績を伸ばし現在はサービス付高齢者住宅にも進出しているという。久美子さんが看護師のため看護師の確保にはそれほど苦労はしていないが、看護師のために多様な働き方を許容しているのが特徴ともいえる。取締役の永田さんは実は海老根さんの娘婿。そして前職は弁護士という。高田馬場の日本介護福祉専門学校に一年通って社会福祉士の資格を取得、この業界に入ったという。弁護士経験者がスタッフにいるなんてすごい!と思ってしまった。取材が終わって西新井の駅まで出て、沢見さん、迫田と私の3人で食事をすることにする。駅前で探すがこれといった店がない。「竹そば」という店の前でうろうろしていたら店の人に「どうぞおはいりなさい」と声を掛けられてしまった。いろいろなつまみを各種とって酒は会津誉と八海山。客が少なく味もまあまであった。沢見さんは目黒に帰ってまだ呑むそうだ。私も我孫子の駅前の「愛花」に寄ったら常連の看護師さんが来て話が長くなった。

11月某日
「いちまき―ある家老の娘の物語」(中野翠 新潮社 15年9月)を読む。著者中野翠が曾祖母みわの「大夢 中野みわ自叙伝」を著者の父の遺品から見つけたのがきっかけ。それから著者のルーツをたどる旅が始まるのだが。大夢はみわの父で幕末には関宿藩の家老職だった。藩内は勤皇と佐幕に別れ、大夢は幼君を擁して佐幕派に。これが大夢の流転の始まりで彰義隊に参加するも敗走して転々とする。最後の将軍慶喜とともに静岡に落ち着き学校長などを務める。「いちまき」というのは血族のことを指すらしいが、中野のいちまきは庶民であって庶民ではないところが面白い。武士の気質のようなものが三代、四代を経ても息づいている。中野翠は早大政経学部で私の3年上。呉智英と一緒に文研に所属していた。中野は卒業後、出版社に勤めたがその頃、私は中野と麻雀を打ったことがある呉智英こと新崎さんはロシヤ語研究会の先輩。4年のとき文研から移ってきた。中野はすでに出版社に勤めていたが新崎さんは第一次早大闘争の被告で裁判を抱えていたこともあって留年中だった。そのときの麻雀は私が勝ったように思うが中野はまぁ覚えてないだろうな。

11月某日
民間介護の質を高める事業者協議会(民介協)の事務所は当社と同じビルの3階にある。民介協の扇田専務が事務所の移転先を探していた時、3階が空いていたので入ってくれた。それ以前から民介協にはいろいろとお世話になっているので今日は民介協の佐藤理事長、扇田専務それと民介協の事務をやっている天野さんを有楽町の「牛や」に招待することにする。当社からは私以外に岩佐と迫田が参加する。牛やは当社の大前さんが存命の頃はよく使っていたが最近とんとご無沙汰だった。今日は「しゃぶしゃぶコース」にした。お通しにお刺身がついてお酒は呑み放題、しゃぶしゃぶも美味しかった。お客さんも満足してくれたようだ。佐藤理事長は北海道出身。札幌西高だそうだ。そういえば牛やの隣のビルにあった「あい谷」の経営者も西高出身とか言っていた。つい先日、神保町で「あい家」という店を開店したというはがきが来ていた。今度、佐藤理事長を誘ってみよう。