社長の酒中日記 1月その2

1月某日
中島京子の「東京観光」(集英社 2011年8月)を読む。中島京子は「小さなお家」(直木賞、映画化もされた)を読んで面白かった。表題作は生保レディの主人公が研修で初めて東京に出てくるが、宿泊したビジネスホテルには、ホテルに内緒で棲み込んでいる先客がいた。その先客は出稼ぎの外国人であった。この先客の女性との交流がなんともファンタジックで面白い。

1月某日
社会保険研究所のグループ経営会議に出席。グループ会社の社会保険出版社の会議室で3時半から。懇親会は5時過ぎから近くの中華屋さんで。私は社会保険出版社の田中一也顧問の向かいに座る。川村学園女子大学の吉武副学長から東京に来ているので根津の店で落ち合おうと電話がある。吉武さんの言う「根津の店」とは「スナックふらここ」のこと。9時半ころ「ふらここ」へ。吉武さんが10時ころ来る。常連の「あやちゃん」と「いずみちゃん」が来る。

1月某日
会社の新年会を会社近くの「廣豊楼」で。社員と社外役員の鈴木さん、NPO法人の佐々木さん、民介協の扇田専務、天野さん、医療保険事務協会の町田さん、結核予防会の竹下さんなどが参加。竹下さんが鹿児島の焼酎「魔王」を一升寄贈してくれる。二次会は竹下さん、当社の大山、迫田らと葡萄舎へ。

1月某日
株式会社日本住宅建築センターの特別顧問(前社長)の社本さんは30年以上前、私が日本プレハブ新聞社にいたころ、建設省住宅局の住宅生産課や民間住宅課の課長補佐として取材でいろいろお世話になった。久しぶりに新年会をやろうということになる神保町の新世界菜館に集合。元建設省住宅技官の小川ビルジング協会常務、合田プレハブ建築協会専務、それに菊田建築住宅センター常務、住宅情報の元編集長の大久保さんが集まった。私にとっては非常に心温まる会であった。

1月某日
当社が編集している季刊雑誌「へるぱ!」の発行元の社福協の方々をお招きして新年会。場所は有楽町の「牛や」。社福協からは本田常務、内田さん、高橋さん、岩崎さんが参加、当方からは私と迫田、それにSCNの高本代表理事が参加した。私たちは本田さんから宮内省御用達の日本酒をいただいた。本田さんはメルボルンの領事も経験しているが前任が角田さんでその前が酒井さんだそうだ。宮内省に出向したときは上司は環境次官をやった森さんで、森さんご夫妻には私は年住協主催のヨーロッパ旅行で大変お世話になった。何か縁を感じる。
今日は富国生命ビルの富国倶楽部で慈恵学園の平田さんと川村学園女子大学の吉竹副学長との打ち合わせがあるのでそちらに向かう。だいぶ時間に遅れたから打合せはすでにすんでいた。平田さんが持ち込んだワインをいただく。

1月某日
元東海銀行の菅沢さんからメール。菅沢さんがコールセンターの常務をやっているときに何度か仕事をした。現在、会社はリタイアしているが「自分史」づくりのお手伝いやDVDの制作をやっているという。菅沢さんは取手市在住で我孫子の名戸ヶ谷病院や我孫子市立図書館に行くことがあるというので図書館のあるアビスタで待ち合わせ。喫茶室でいろいろ意見を言わせてもらう。リタイア後も菅沢さんのように半分ボランティアかもしれないが社会に参加するのはとてもいいことだと思う。

1月某日
木造住宅産業協会(木住協)に松川専務を訪問。福祉住環境コーディネータ制度の広報をお願いする。松川さんは国土交通省出身。私が日本プレハブ新聞社の記者だったころ(今から30年以上前の話だ)、当時の住宅生産課にいた松川さんにお世話になった記憶がある。厚生労働省の唐沢保険局長が山形県に出向していたとき松川さんも山形県に出向していて官舎が近所だったという話を聞いたことがある。珍しく都心にも雪が積もる。早く帰ることにしたが我孫子駅前の「七輪」で軽く一杯。「愛花」によったら常連の「そのちゃん」が呑んでいた。

1月某日
午前中、福祉住環境コーディネータの件で日本ツーバイフォー協会に川本専務を訪問。同じビルの2階に全住協があるので加島常務、桜井さんに挨拶。会社に帰ってSCN]の高本代表理事とフリーの編集者の浜尾さんと「介護職の看取り、グリーフケア」の報告書の打合せ。引き続き社保研ティラーレで「地方から考える社会保障フォーラムの会議。品川のJCHOで看護師パンフの打合せのある当社の岩佐に同行。虎ノ門、内幸町で2件ほど打合せ。健康生きがいづくり財団の大谷常務に「今どこ?」とメールすると「日比谷の交差点当たり」という返事。「花半で待つ」とメール。大谷さんは元日本航空のキャビンアテンダントだった神山さんを連れてくる。3人で楽しく歓談。

社長の酒中日記 1月その1

1月某日
正月やることもないので本を読む。年末に買っておいた「永田鉄山 昭和陸軍『運命の男』」(早坂隆 文春新書 2015年6月)を読む。私はどちらかというと2.26事件を引き起こした青年将校たち、いうところの皇道派に同情的である。理由は簡単でテレビドラマや小説では事件を青年将校のがわから描いたものが圧倒的に多いからだろう。永田鉄山は皇道派と対立した統制派のリーダーであり、2.26事件の前年、皇道派の相沢三郎中佐に白昼、陸軍省軍務局長室で斬殺されている。永田は長野県諏訪の出身。幼少期から頭脳明晰で陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸大を通じて成績優秀だったという。それだけでなく同僚、部下に慕われ、上司の評価も高かった。彼の考えは本書によると決して「好戦的」なものではなく、むしろ戦争を防ぐために国民総動員体制の確立を急いだとされる。彼は機動戦における自動車の重要性に早くから着目、揺籃期にあった自動車産業に陸軍から補助金を出したというエピソードも紹介されている。
皇道派が天皇親政による昭和維新を掲げたのに対し、永田はむしろ議会を重視したようだ。統制派は永田の生前から問題を抱えていた。それは関東軍を中心として陸軍中央のコントロール(統制)が効かなくなってきたことである。関東軍の指導部は石原莞爾、板垣征四郎はじめ統制派が占めていたにも関わらずである。国家社会主義内部の路線闘争として統制派と皇道派をとらえれば、統制派は統制経済による急速な重化学工業化を主張したのに対し、皇道派は昭和恐慌によって疲弊した農村の救済を主張した。皇道派の主張は心情的には理解できるものの昭和初期の日本における経済政策としては統制派に軍配を上げざるを得ないのではないか。2.26事件以降、陸軍は完全に統制派の支配となるのだが、永田なき統制派は、統制なき統制派となり大東亜戦争への道を突き進むことになる。

1月某日
日立製作所の前会長、川村隆の「ザ・ラストマン」(角川書店 2015年3月)を読む。ラストマンとはその組織にとって最後の人、切り札のことである。会社でいえば社長である。川村は69歳で子会社の会長から日立本社の社長に就任、V字回復を成し遂げた。川村は日経新聞の「私の履歴書」にも執筆、それはそれで面白かったが、本書はむしろビジネスパーソンの「心構え」について語っている。といっても堅苦しいものではなくごく平易な言葉で語られているのが特徴だ。大変勉強になったが一つだけ挙げるとすれば「戦略は変えるな、戦術は朝令暮改でよい」というもの。現実への柔軟な対応力と現実を見る高い戦略的視点の重要性を言っている。同じように「君子は豹変す、小人は革面す」という言葉を上げている。「徳の高い人は過ちに気づけば直ちに改めるが、小人は表面上は革めたように見えるが内容は変わらない」という意味だ。もって瞑すべし。

1月某日
図書館で借りた「忘れられたワルツ」(絲山秋子 新潮社 2013年4月)を読む。7編の短編が収められている。最初の「恋愛雑用論」を読みだして「あれっ読んだことある」と気づいた。たぶん出版された直後、図書館で借りて読んだんだろう。でもストーリーはほとんど覚えていない。だから最後まで楽しませてもらった。

1月某日
向田邦子の「無名仮名人名録」(文春文庫 2015年12月新装版)を本屋で見かけてためらわずに購入した。昔「だいこんの花」や「寺内貫太郎一家」といった向田作のテレビドラマをよく見た覚えがある。あれは何時頃なんだろう、30年も前かしらと思って、カバーの著者紹介を見ると、向田は昭和4(1929)年生まれ、55年に直木賞受賞、56年に航空機事故で急逝している。ということは35年前に死んでいるんだ。私が見たドラマは35年から40年前のものなのか。あの頃は比較的早く家に帰っていたということでもある。向田邦子って頭がよさそうで嫌味がなさそうで料理がうまそうではっきり言って私の好みではあるのだが、生きていれば今年87歳だからね。それはともかく彼女の感覚や文体の瑞々しさといったら、ちょっと比類すべきものがないのじゃないかな。なんでもない日常茶飯のことでも彼女の手にかかるとひとりでに輝きだしてしまうようなそんなエッセーでした。

社長の酒中日記 12月その3

12月某日
西新橋の洒落た小料理屋屋風の店で昼食をとっていたら奥のカウンター席に元厚生次官の幸田正孝さんがいた。幸田さんが店を出るとき「今日は協会(社会保険福祉協会)ですか?」と尋ねると「そう」と答える。「後でご挨拶に伺います」と言って別れる。私はHCMに向かって大橋社長と雑談。その後、社会保険福祉協会に行き、まず4階の内田さんに挨拶、続いて2階の幸田さんに挨拶。幸田さんは若いころに北海道の国民年金課長をやっている。そして幸田さんが全社連の理事長をやっているときの常務理事が北海道出身の河崎さんだ。河崎さんは残念ながら数年前に亡くなっているが、すこしばかり思い出話ができた。会社へ戻って当社の寺山とプレハブ建築協会へ。専務理事の合田さんに会うためだ。合田さんは国土交通省の住宅技官。今から30年以上前、合田さんが住宅局住宅生産課の係長のころ日本プレハブ新聞の記者だった私は取材で大変お世話になった。今日は東商がやっている福祉住環境コーディネータ試験のPRのお願いに伺った。
小川町のプレハブ協会の事務所を出て寺山は会社へ。私は近くの堀子税理士事務所で堀子先生と大島先生に挨拶。今日はフィスメックの小出社長、社会保険出版社の高本社長と忘年会なので会場の上野広小路の「さくらい」へ。従業員教育がよくされているしっかりした洋食屋さんだった。小出社長にすっかりごちそうになる。帰りに我孫子駅前の「七輪」でウイスキーのソーダ割りを一杯。

12月某日
理事長をやっている高田馬場の社会福祉法人の理事会、評議員会。グループホーム2ユニットにデイサービスを併設しているのだが、人員不足からデイサービスは休止しているのだが、先の理事会で10月からの再開が決議されていた。私が10月から理事長に就任して以降もグループホームの運営に手いっぱいで開設準備は遅れていた。それで理事会に再度延期したいと提案したのだが圧倒的多数で否決されてしまった。早期再開の方針が再度議決されてしまったのである。私としては開設に向けて人員に余裕があるならともかく、現状で再開するとなると入居者や職員の負担が増すと考えた。したがってデイサービスを早期再開するのなら社会福祉法人全体の運営に責任を持てないことから辞任を申し出了承された。わずか3か月の理事長であったが社会福祉法人の在り方、介護保険事業への取り組み姿勢等、勉強させてもらった。至らない理事長を支えてくれた事務局や現場のスタッフに深く感謝である。

12月某日
年金住宅福祉協会の2代目理事長が中村一成さん。援護局長で退官、年金福祉事業団の理事を経て年住協の理事長に就任した。今から30年くらい前の話である。当時私は「年金と住宅」という年住協のPR雑誌の編集を任されていた。理事長に古地図を見ながら東京の名所旧跡を回るという企画を提案したら採用された。毎月1回、江戸城や町奉行所跡、刑場あとの小塚原などを取材に回った。取材のあとの食事も楽しかった。10年位前だろうか中村さんから「故郷の宮崎に帰ることにしました」という連絡をいただいた。それからは年1回の賀状と私からのささやかなお歳暮だけのお付き合いとなった。今年も我孫子名物のお煎餅を送ったところ、義理の弟さんから宮崎名産のデコポンと一緒に「今年8月に亡くなった」という手紙をいただいた。中村さんは東大を出てから海軍経理学校を経て海軍に。戦後厚生省に入省した。90歳を超えているから天寿を全うしたということなのだが、やはり悲しい。合掌。