社長の酒中日記 2月その3

2月某日
土曜日だが民介協の事例発表会があるので出社。懇親会に胃ろう・吸引のシミュレータを展示させてくれるというのでHCMの大橋社長、三浦さんそれにネオユニットの土方さん、当社の迫田にも参加してもらう。参加した介護事業者からはいい反響があったようだ。懇親会終了後、サンケイビルの「ビストロ・リオン」で軽く打ち上げ。神田駅まで土方さんの車で送ってもらう。神田駅北口の津軽料理「跳人」で大橋、迫田、私の3人で腹ごしらえを兼ねて飲みなおし。「跳人」は会社の向かいの鎌倉河岸ビルの地下1階にも出店しているのだが、今日はそこのお兄ちゃんも手伝いに来ていた。北口店では隔週の土曜日、津軽三味線の演奏を聞かせてくれるが、今日はたまたまその日で、青森出身の大橋さんは喜んでいた。

2月某日
図書館から借りた田辺聖子の「お気に入りの孤独」(91年1月 集英社)を読む。初出はLEE(88.10-90.8)とあるから20年近く前の作品である。田辺の作家としての最盛期は50代のころと私は考えているので、それからすると成熟期、晩熟期の作品といった方がいいのかも知れない。どこが違うかというと最盛期の奔放さ、明るさよりも、秩序とある種の暗さを感じてしまうのだ。ブルジョアのマザコン男、涼と結婚したデザイナーの風里は結婚生活を楽しみながらも夫の浮気や夫の実家との付き合いに倦んでくる。最終的に風里は夫と別れ、東京支店への転勤を希望する。ちょうど平成から昭和に年号が変わったころかな。携帯電話やパソコンが普及する前ね。田辺の最盛期と私が勝手に思っているのは「昭和」だと思う。女性の自立が現在ほどではなかった。だからこそ田辺の小説の主人公の女性たちが専業主婦にしろOLにしろ、その自立ぶりがかっこよかったのではないかと思う。「お気に入りの孤独」の主人公、風里は「夫の浮気や実家との付き合い」に悩んでいるように描かれているが実は「時代」に翻弄させられているようにも見える。

2月某日
6時半に結核予防会の竹下専務と西新橋の「鯨の胃袋」。鯨の刺身をいただく。確かに珍味。この店は食べ物も美味しいが日本酒がそろっているのがうれしい。ニュー新橋ビルの「うみねこ」という店に流れる。

2月某日
「俳優・亀岡拓次」(戌井昭人 15年11月 文春文庫)を読む。横浜聡子という人の監督で映画化され、現在全国ロードショー中だという。面白かった。私の小説の評価基準は面白いか面白くないかであり、それは主人公に共感できるか否かにかかっているように思う。そういう意味でこの主人公、亀岡拓次37歳、独身。職業・脇役俳優には共感できる。人生にはいい加減だが役作りには真剣。酒と女が好きだがぎりぎりで溺れない。いーなぁ。私は今年68歳になるのだが、まぁかなりまじめに生きてきたつもり。他人の評価は知らないけれどまじめ人間と自分では思っている。だいたい40年以上サラリーマンをやっているということは「逸脱」は×なんだよね。亀岡は酒で、女で、微妙に逸脱する。逸脱するけれどぎりぎり溺れない。私も亀岡を見習わなければならない、真剣に「逸脱」してみようと思う。

2月某日
堀子友廣税理士事務所の堀子先生と大島洋子先生をお招きして有楽町の「牛や」で懇親会。当社からは私と大山、石津が参加。NPO法人から佐々木局長が参加してくれた。堀子先生は北海道の稚内、大島先生は新潟県の糸魚川の出身。大島先生のご主人は長野県の諏訪出身で諏訪神社の「御柱」の話で盛り上がった。昔、友人の村松君に「この祭りは凄いぞ」と聞かされたことを想い出した。我孫子で「愛花」による。

2月某日
シルバーサービス振興会の月例研究会に参加する。テーマは「暮らしの中での尊厳のある看取り」で講師は看護師・保健師で元特養の副施設長をやっていた鳥海房江さん。鳥海さんの話は非常に共感できるものだったが、とくに「死んでいく人の人生を肯定する」ことがよい看取りにつながるという話には「なるほど」と思わされた。ということは良い人生こそが良い死を準備するということでもある。社会保険出版社の高本社長とSCNの高本代表理事(2人は夫婦)も参加していた。新橋のおでん屋、お多幸でご馳走になる。お多幸の社長が高本社長の学生時代の友人とか言っていた。今日は神田で飲み会があるので、お多幸は早目に切り上げて会社近くの「ビアレストランかまくら橋」へ。すでに元阪大教授の堤さん、元京大教授の間宮さん、60年安保のときの全学連委員長、唐牛健太郎さんの未亡人の真希子さんが来ていた。堤さんは阪大教授の後、職に就いていない。「論客商売(心得)」という名刺をもらう。堤さんは池波正太郎の読者なので「剣客商売」をもじったらしい。

2月某日
桐野夏生の最新作「バラカ」(16年2月)を新聞広告で見かけたので早速、金曜日の夜に我孫子駅前の東武ブックストアで購入する。650ページの長編小説だが「巻を措くに能わず」という感じで土曜日1日で読んでしまった。大震災後の群馬県T市から物語は始まる。原発事故による警戒地域で犬猫保護のボランティアに志願した「爺さん決死隊」は「バラカ」と名乗る少女を発見し保護する。バラカは日経ブラジル人夫婦の間に生まれたが、両親の出稼ぎ先のドバイで誘拐され、ドバイの「赤ん坊バザール」で日本人に買われる。バラカを買った日本人の女性編集者は帰国後、大学の同窓生と結婚する。この男が学生時代とは大きく変貌(外見も内面も)して後半のストリーを盛り上げるのだが、女性編集者はこの男の転勤で仙台市の閖上に転居する。転居後、日も措かずに地震と津波に遭遇し、女性編集者は津波に呑まれ行方不明となる。大震災から8年、バラカは「爺さん決死隊」の人たちに育てられ、美しい少女に成長する(ここから小説は近未来小説となっていく)。しかし水面下で原発推進派との抗争は続き、バラカもそれに巻き込まれていく。ストーリーがやや荒唐無稽との批判があるかもしれないが、私の考えでは大震災も含め金融も経済も、中東もヨーロッパもすでに荒唐無稽な世界に入っているように思う。桐野はそこを書きたかったのだと思う。エピローグではハッピーエンドになっているのだが。それが私たちの世界の希望なのかもしれない。

社長の酒中日記 2月その2

2月某日
「コーポレート・ガバナンス」(花崎正晴 岩波新書 14年11月)を読む。コーポレート・ガバナンスは企業統治とも訳されるが、広い意味で「会社はどうあるべきか」という話だと思う。会社は利潤を上げ出資者に配当を行うのが第一義的には求められているが、果たしてそれだけでいいのか?ということだ。会社には株主だけでなく多くのステークホルダー、利害関係者がいる。従業員、販売先、仕入先、地域住民等々。これらのステークホルダーとどのような関係を取り結んで行くか、というのもコーポレート・ガバナンスだ。本書によるとコーポレート・ガバナンスの出発点は、企業における所有(株主)と支配(経営者)が分離し、両社の利害は必ずしも一致しなくなることにある。経営者は日常的に経営情報に接することができるが、株主はそれができないという問題もある。コーポレート・ガバナンスの当初の目的は、いかにして経営者に株主利益に合致した経営をさせるかにあった。しかし社外取締役を活用した経営者のモニタリングやストックオプションなどによる経営者へのインセンティブ付与などアメリカ型のガバナンスでは株主と経営者との間の「エージェンシー問題」を完全に解決するには至らなかった。日本においてはメインバンクが顧客企業に対してモニタリング機能を発揮して日本経済の発展を後押ししたとの説があるが花崎の実証研究によれば、日本の製造業においては市場競争こそが企業経営に対して有効な規律付けを与えたという。経済はますますグローバル化していくにしても、企業行動、企業文化はそう簡単に1国の枠を超えられるとは思えない。グローバル化に対応しつつ日本独自のあるいはその企業独自のコーポレート・ガバナンスを追究していかなければならないのかも知れない。

2月某日
CIMネットワークの二宮理事長に八丁堀の「月山」でご馳走になる。二宮さんは老年医学会とやった「末期認知症患者への胃ろうの適応について」の調査研究とシンポジウムを一緒にやってからのお付き合いだ。PDN(ペグ・ドクターズ・ネットワーク)の支援をずっとやっている。ときどき私に声をかけてご馳走してくれる。医療関係のネットワークを独自に築いていて、いろいろな人を紹介してもらったことがある。

2月某日

土曜日だが仕事が溜まっているので会社へ。16時に民介協の扇田専務に会いに新浦安へ。新浦安から徒歩5分のタワーマンションへ。談話室に通される。扇田さんのマンションの老人会、入船長和会の関根会長に紹介される。それから東京精密㈱の太田会長も顔を出す。太田会長は富士銀行で扇田さんの後輩らしい。東京精密が開発した高齢者の見守りシステムの実証実験を浦安市でやりたいということだ。高齢者のみ世帯や高齢夫婦のみ世帯が増えているし、認知症の夫婦の認認介護これから増えていくに違いない。大都市のマンションだけでなく戸建て住宅や限界集落でも見守りは必要となってくる。コストを考えると何らかのシステムは必ず必要となってくる。システムと同時にバックアップするマンパワーも必ず必要となってくるはずだ。打合せ後、談話室で扇田専務に焼酎をご馳走になる。

2月某日
SCN(セルフ・ケア・ネットワーク)の高本代表理事を日本橋小舟町のオフィスに訪ねる。一般社団法人の社会保険福祉協会からの補助を受けてSCNが「介護職の看取りとグリーフケア」の調査研究をやっており、その報告書について相談をしたいという。「はじめに」の原案を読んだが、私はなかなか面白いと思った。ありきたりの調査報告書の「はじめに」とは一味違って「なぜ、この調査研究が必要か」について自分の言葉でしっかり描かれていると思った。一般的に言えば少子高齢化が進むと社会には高度経済成長期のような「ノビシロ」は期待できなくなくなってくると思う。「ホンモノ」しか市場、社会では生き残るのが難しくなってくるだろう。そのとき生き残れる条件は社会にとって必要か否かということだろう。高本代表理事はそこのところを模索しているように感じる。翻って私はどうなのか?当社は生き残れるのか?

2月某日
「営業をマネジメントする」(石井淳蔵 岩波現代文庫 12年11月)を読む。製造業で言うと、企業は生産現場、営業、管理に分けられる。当社のような出版ないしは編集プロダクションは生産現場が編集に置き換えられる。私は編集者として入職したが、何時のころからか営業の方が面白くなってきた。会社を支えるのは顧客に他ならず(ドラッカー)、その「顧客との関係の絆をつくりあげる仕事を担っているのが営業」(はじめに)である。私は「顧客との関係をつくりあげる」という仕事に魅力を感じたのだと思う。第8章「マネジメントを深く考える」で石井は「私たちが生きていく上で一番大事な知恵は、何とも手の打ちようがない状況(つまり「マネジメントが可能でない状況」)を何かしら手が打つことができる状況(つまり、「マネジメント可能な状況」)に切り替えることにある」と言っている。私の言葉で言うと「マネジメント可能な状況」とは「顧客とイー感じで話ができる関係」になったときである。その関係は顧客によって異なるし、同じ顧客でも変化する。私はそこに「営業」の魅力を感じたのだと思う。

2月某日
東京精密の太田会長と子会社の東精ボックスの高野社長が当社のビルの3階の民介協へ扇田専務を訪ねてくる。高齢者の見守りについて意見交換。神田駅の近くで太田会長にご馳走になる。太田会長と扇田専務は若いころ富士銀行大阪営業部で一緒だったという。富士銀行時代の話で盛り上がっていた。私にはチンプンカンプンの話ではあるものの、組織のガバナンスやマネジメントという意味では会社の大小に関わらず同じような問題があるものだと感じた。皆酒が強く、焼酎を2本空けた。

2月某日
「医療にたかるな」(村上智彦 新潮選書 13年3月)を読む。著者は2006年から財政破綻した夕張市の医療再生に取り組んだ人。北海道薬科大学を卒業後、研究者を志望して大学院に進学、病院で薬剤師のバイトをしていたとき、医者に薬のことで進言したら「薬剤師の分際で何をいうか!医者になってからものをいえ!」と言われたのがきっかけとなって医者を志望、金沢医大に進んで医者になったという。夕張の医療再生に取り組みを著者は日本再生とアナロジィしているように思う。膨大な財政赤字、既得権にしがみつく市民たち、夕張はある意味で日本の縮図だ。日本の医療を考え直す良書だと思う。

2月某日
我孫子駅北口の小川眼科で白内障の手術。2週間前に左目、今度は右目だ。実際の手術時間は15分もかからなかったが、目の手術は嫌ですね。でも翌日、眼帯を外すと付近の光景が違って見えた。視力も0.9まで戻った。私は小学校4年生から眼鏡を掛けているから裸眼で風景を目にするのは50年ぶり以上だ。手術日と手術の翌日は会社を休むつもりだったが、翌日、検査で異常なしだったので出社することにする。

社長の酒中日記 2月その1

2月某日
フリーライターの香川喜久江さんと会社近くの「跳人」で呑む。香川さんは私が日本プレハブ新聞の記者をしているころからの知り合い。展示場運営会社のナショナル開発というところに勤めていて、香川さんの同僚の伊藤さん、私の同僚の岡田さんを交えてよく呑んだ。香川さんはナショナル開発を辞めてフリーライターとなった。当時のナショナル開発の話で盛り上がったけれど、どうも最近昔話で盛り上がることが多いような気がする。年をとったことにもよるだろうが、甘利大臣への献金疑惑をはじめとして、世の中「変わっていねー」ことが多すぎる。昔話をしても今につながってしまうのである。

2月某日
HCMの大橋社長、三浦さんと港区スポーツセンターへ。ここで介護予防事業を港区から受託しているセントラルスポーツの話を聞くためだ。セントラルスポーツは執行役員の相川さんと介護予防総合センターの國井センター長が丁寧に応対してくれた。説明を聞いた後、三浦さんと大橋社長、私の3人で年友企画へ。迫田を交え、シミュレータの打合せ。打合せ後、会社近くの「福一」へ。海鼠を2日続けて食することができた。

2月某日
セルフ・ケア・ネットワークの高本代表理事と社会保険福祉協会の本田常務と内田次長へ来年度の調査研究事業のお願いに。終わってから弁護士ビルの雨宮弁護士事務所へ。雨宮君は大学の同級生。司法試験合格後、検事に任官、30代半ばで弁護士を開業した。雨宮君に昼ご飯をご馳走になる。夜、当社の大山とM銀行の当社担当の松田君と神保町の「あい谷」で。「あい谷」は有楽町の電気ビル地下1階で営業していて厚生省のOBや現役が割とよく使っていた。少し早く着いたのでご主人とおしゃべり。ご主人は元学研の編集者。札幌北高の出身で千葉大教育学部を卒業後、学研へ。児童向けの科学雑誌の編集を長く続けていたという。新宿の末広亭の近くにあった「安具楽屋」の常連で、学研を定年前に早期退職し料理屋さんを始めることになったそうだ。時間通りに当社の大山、少し遅れて松田君が来る。松田君は小樽商大を出てM銀行に就職、最初の支店が神保町支店ということだ。

2月某日
白内障の手術を我孫子の眼科で。手術室に入って15分ほどで「はい、ご苦労様でした」。実際の手術時間は5分もなかったのではなかろうか。翌日、眼帯をとると実にクリアな世界が目の前に現れた。とくに色彩がね、彩度というのか明度というのかわからないがクリア。近視も改善されていた。2週間後に右目も手術する。待ち遠しい。

2月某日
先日呑んだM銀行の松田君が本店への異動ということで後任の槙得(まきえ)君と一緒に挨拶に来る。槙得君は松田君の1年後にM銀行に入行、九大の法学部出身。槙得君も松田君も性格は良さそう。午後、デザイン会社のスタジオパトリの女性デザイナーが2人営業に来る。若くて美人に見えたけれど会議中だったので当社の担当者に紹介する。夕方、当社が入っているビルの3階に事務所のある民介協の扇田専務が来社。今日は出勤日ではないが碁を打ちに来たという。扇田専務と呑みに行くことにする。神田駅南口の葡萄舎に連れていく。タコの刺身としめ鯖を肴に40度の焼酎を呑む。扇田専務は確か私の3歳上の昭和20年生まれ。県立奈良商業を卒業後、当時の富士銀行に入行、高卒ながら支店長をいくつも歴任した「切れ者」。とは言え私とはなぜかウマが合う。銀行時代の話や介護業界の課題など楽しいながらも為になる話を聞かせてくれた。

社長の酒中日記 1月その3

1月某日
社会保険倶楽部霞ヶ関支部(幸田正孝支部長)の新年賀詞交換会に出席。幸田支部長や社福協の近藤理事長、元参議院議員の阿部正俊さんたちに挨拶。小林チーさん、百軒さん、池田保さんといった昔、下野カントリーで一緒にゴルフをした懐かしい顔もいた。四谷の健康保険組合の会議室を借りての新年会だったので帰りに四谷に事務所のある編集者で元社会保険研究所の保科さんに電話して一杯飲もうと誘う。「今日お化粧していないし普段着だからな。まぁ森田さんだからいいか」と率直なお答え。当社の大山と3人で呑む。

1月某日
「五稜郭の戦い―蝦夷地の終焉」(菊池勇夫 吉川弘文館 2015年10月)を読む。五稜郭の戦いについては榎本武揚率いる幕軍(新選組や彰義隊の残党プラス幕府海軍や陸軍の正規軍)が官軍に函館五稜郭で最後の抵抗を試みた程度のことしか知らなかったが、本書を読んでその全貌をいささか知ることができた。著者の官軍にも旧幕府軍にも偏しない公平な史観には共感できるし、庶民、民衆の視点を大切にするという立場もよくわかる。民衆からすればまさに外から「持ち込まれた」戦争でしかないのだから。そうは言っても私の故郷であるところの北海道を舞台にした近代的な戦闘としての五稜郭の戦いには興味は尽きない。これは会津の戦いにも言えることだが、官軍が自軍の死者のみを丁重に葬るのに対して旧幕軍は敵味方を問わず死者を哀悼する傾向がある。これは薩長を中心とする官軍と、会津や桑名、旗本をなどの旧幕軍の文化程度の違いと見えるのだが。私の父方の祖父は彦根出身、母方の祖母は幕臣の末裔と聞いたことがある。私には反薩長、反藩閥の知が流れている?

1月某日
スタジオパトリというデザイン会社を経営する三浦哲人さんから久しぶりに呑もうという電話があった。元社会保険研究所の保科さんを誘って3人で会社近くの「跳人」へ飲みに行く。三浦さんとは私がこの会社に入る前、日本プレハブ新聞社に在籍していた当時からだからもう30年以上も前からの付き合いである。「日本海苔食品新聞社」とかいう『業界紙の争議』の支援を通じて知り合った。当時三浦さんは四谷3丁目当たりのエロ本を出版する会社の編集者だった。確か元信州大学の全共闘で私より1歳若い昭和24年生まれだ。途中からSCNの高本代表理事が参加。高本さんは私たちより20歳近く若い。でグリーフケアの団体であるSCNを立ち上げる前は冠婚葬祭のコーディネータをやっていた。高本さんが「ソウギ」で思い浮かべるのは「葬儀」だが、私と三浦さんがイメージするのは「争議」でなんとも面白い。

1月某日
「地方から考える社会保障フォーラム」の講師をお願いしに「オープン・シティ研究所」の日下部元雄所長を訪ねる。市ヶ谷の高級住宅地の一角にあるマンションが自宅兼研究所。所長は東大の数学科を出た後修士課程を2年修めた。そして当時の大蔵省に経済職で入省した。世界銀行の副総裁を務めたこともあるという。世銀はワシントンだが世銀の後はロンドンにあるナンチャラ復興投資銀行の顧問も務めたという。おいしいお茶とお饅頭、大粒のイチゴを出された。所長と奥さんの笑美さんは「エビデンスに基づく子育て支援システム」を研究、実践している。フォーラムの講師も快く受けてもらった。

1月某日
日暮里駅前の「喜酔」という店でフリーライターの福田さんと待ち合わせ。ここは魚料理の店でマグロが旨い。福田さんのお嬢さんはピアノでチェコのプラハに留学。今もかの地で暮らしているという。また息子さんも国際的な運送会社に勤め、一時シンガポールに駐在していた。要するに福田さんは娘や息子の住まいをホテル代わりに海外旅行を楽しむことができるのである。

1月某日
東商傘下の「生活福祉健康づくり21」というNPOに加入している。この下にビジネス研究会というのがあり不定期ながら勉強会を開催している。勉強会のあとの懇親会が楽しいのでできるだけ参加するようにしている。今回はセントラルスポーツが港区から委託されている介護予防事業の見学に港区スポーツセンターへ。8階建てのビルで中に体育館、弓道、アーチェリー、卓球などの施設、プールがある。一緒に行ったHCMの大橋社長と感心することしきり。懇親会は近くのワインバーで。アテナの常勤監査役の小笠原さんが大橋さんと青森で道教であることが判明、おおいに盛り上がった。懇親会が終わった後、フィスメックの小出社長と神田へ。

1月某日
霞ヶ関ビルの東海大学校友会館で「森民夫長岡市長を囲む会」。会は6時からだが5時半からケア・センターやわらぎの石川代表理事と社保研ティラーレの佐藤社長と認知症予防の「だんだんダンス」の打合せ。元厚労省の辻さん、江口さん、清水さん、元建設省の小川、合田さんたちが来る。現在内閣府に出向している伊藤明子さん、JCHOに出向している藤木さんも駆けつけてくれる。森市長は長岡長岡の日本酒、久保田の万寿を持ってきてくれる。さすがに旨い。

1月某日
ポプラ社のポプラ文庫に田辺聖子コレクションというシリーズがある。田辺の短編をテーマ別に再編集したものだ。私には田辺の魅力が再発見できるようでうれしい。シリーズの5冊目「うすうす知っていた」を読む。5編の短編が収められているが私はどの短編も既読である。だがそれだけに前回気づかなかった点にも気づかされ興味は尽きない。私が好きなのは「クワタさんとマリ」だ。仲の良い夫婦がいる。夫婦には子供がいない。ある日自宅に乳母車とぬいぐるみが届けられる。夫には外に愛人と子供がいたのだ。夫婦はしかし深く愛し合っている。だが夫は妻も愛人も愛人に産ませた子供も愛しいのだ。これは大いなる矛盾であり解決のつかない問題である。こういう恋愛短編小説は本当に田辺の真骨頂だと思う。

1月某日
「複眼で見よ」(本田靖春 2011年4月 河出書房新社)を図書館で借りて読む。本田は1933年、朝鮮京城生まれ。早大政経学部卒業後、読売新聞社に入社、社会部記者として活躍。71年退社してノンフィクション作家に。私は戦後の愚連隊の一つの頂点を究めた花形敬の生涯を描いた「疵」や遺作となった「我、拗ねものとして生涯を閉ず」を読んだことがある。いずれも面白く読ませてもらったが本田のノンフィクションを続けて読んでみようとはならなかった。だが本書にはちょっと違う印象を持った。ジャーナリストとはジャーナリズムとはについて考えさせられるところが大きかった。本田の死後、単行本未収録作品を集めたというのが本書の趣旨だが、それだけに本田のジャーナリズムないしはジャーナリストに対する本音のようなものがうかがえる。テレビや大新聞などのマスコミに対する批判、なかでも政治部の派閥記者に対する批判はジャーナリズムの本質に迫るものと思う。72年の沖縄返還前の文芸春秋71年11月号に掲載された「沖縄返還 もうひとつの返還」は現在の沖縄の辺野古移設問題と通底する問題意識が感じられてきわめて読み応えがあった。このドキュメントを読む限り沖縄問題の本質は戦後70年経っても変わっていないように感じられた。