社長の酒中日記 3月その3

3月某日
明日から3連休。何か読む本はないかと会社帰りに上野駅構内の本屋によると「僕たちのヒーローはみんな在日だった」(講談社+α文庫 朴一 16年3月)という文庫本が目に付いた。カバーにチャンピオンベルトをまとった力道山の写真が飾られ「力道山も松田勇作もあの国民的歌手も葛藤を胸にしながらこの国の真ん中で輝いた」というコピーが添えられている。中国大陸や朝鮮半島の出身者に対して日本人の多くが差別意識を持つようになったのはそんなに古くからのことではないと思う。恐らく明治時代の初めまでは仏教文化や儒教文化を日本に伝えた国としてそれなりに対等な関係にあったと思う。とくに大陸に関しては日本が朝貢外交をしていた「実績」がある。近代にいたって中国大陸や朝鮮半島を欧米列強が侵略、近代化を図ろうとした日本も欧米に負けじと大陸や半島に侵略を開始した。日清日露戦争、韓国併合、シベリア出兵、満州事変・日中戦争を通じて差別と偏見は助長されてきたのではないか。それはともかく本書によると、力道山は1940年に朝鮮半島から相撲取りになるために日本に渡ってきたシルム(朝鮮相撲)の選手であった。力道山は初土俵からわずか10場所で関取というスピード出世を記録するが1950年、突然、相撲界からの引退を決意する。米国でプロレスの武者修行を終え、帰国した力道山は1953年に日本プロレス協会を設立、プロレスブームを牽引する。力道山がやくざに刺された傷がもとで死ぬのが1963年だから「国民的英雄」として喝采を浴びていたのは10年間ほどだ。力道山は国民的な英雄となってからも望郷の念は止みがたかったが、出身に関しては口を閉ざしたままだった。国民的な英雄が朝鮮半島出身とは明かすわけにはいかなかったのである。ジャパニーズとコリアンは外見上、区別がつかない。出身を隠そうと思えば隠せるのだ。これが在日差別の問題を難しくしている一因かも知れない。私は「在日」の日本人であるが、自らのアイディンティティにこだわったことはほとんどない。「在日」日本人だからこだわりようがないのだが・・・・・。

3月某日
図書館から借りていた「パレード」(幻冬舎文庫 吉田修一)を読む。東京千歳烏山のマンションで共同生活を送る4人の若者の物語。5つの章から構成され、各章は4人の視点で語られる。第1章は21歳の大学生、良介によって、第2章は23歳無職の琴美により、第3章は24歳のイラストレータ兼雑貨屋店長の未来によって、第4章は18歳職業不詳のサトルの言葉で、第5章は28歳映画配給会社勤務の直輝の口から。最終章の半ばまで青春物語として読んできた。「そうそう、若いときっていろいろあるよな」という感じで。だが最終章でジョギング中の直樹が歩行中の女性を石の塊で殴打するところから画面は暗転する。直樹は最近、近所で発生していた通り魔事件の犯人だったのだ。上司、同僚にも好かれ、同居人にも頼りにされる直樹。その人はまた通り魔でもあるのだ。直樹の日常は“邪悪”なことどもを隠蔽したところに存在するのか?そうではなくて“邪悪”さも含めて直樹なのだ。人間は天使にも悪魔にもなりうる存在なのかもしれない。一人の人間の中に天使も悪魔も存在しているのかも。

3月某日
図書館から借りていた「資本主義という病」(東洋経済新報社 奥村宏 15年5月)を読む。奥村の著作は何冊か読んだことがある。「会社本位主義は崩れるか」「会社はどこへ行く」などである。私なりに「会社の役割」って何だろう?と考えたとき、奥村の著作を読んで非常に共感した覚えがある。奥村の問題意識は「はじめに」で明らかにされている。「問題は、なぜ資本主義が危機に陥ったのか、なぜ社会主義が行き詰ったのか」であり、それは「資本主義、社会主義のいずれも、それを支えていた大企業体制が行き詰って、危機に陥った」ためであるというのが奥村の主張である。これは「高度成長期には企業は分散することによって利潤を高めることができたが、低成長ないしマイナス成長下では企業は統合し間接部門や重複する事業の合理化を図るべき」という私の最近の考え方と一見、反するように見える。しかし奥村が問題にしているのはエンロンやリーマン、日本で言えば国有化ないし公的資金を投入された金融機関や東電などの大企業であり、私が念頭に置いているのは公的資金など注入されるべくもない中小零細企業である。それはさておき奥村が問題にしているのは市場の担い手が巨大株式会社になっているということであり、「巨大株式会社を解体したうえで、それに代わる新しい企業を作っていくことが21世紀の人類に与えられた課題」とも主張している。奥村の主張について論評する力量は今の私にはない。ないけれども1930年生まれで新聞記者、研究所員、大学教授を勤めながら会社研究を続けてきた老学徒には頭の下がる思いがする。

3月某日
図書館で小谷野敦の「母子寮前」(文藝春秋 10年12月)を借りる。小谷野は1962年茨城県生まれ。東大の英文科を出て比較文学の博士課程を修了しているから、世間的にはエリートであろう。私は以前「もてない男」「恋愛の昭和史」といった評論を読んだが、エリートの評論というイメージではなかったような気がする。「母子寮前」は私小説である。最近の私小説というと車谷長吉や西村賢太が思い浮かぶが、作風は両者とは全然違う。母が肺がんを患い、急性期病院に入院、ホスピスを経て死に至るまでを描いている。自身の仕事と結婚、父との葛藤も描かれる。私小説って自分を見つめるということでもあり、表現の過程では自分や家族、知人のプライバシーを暴くことでもある。これは「業」ですね。ちなみに「母子寮前」というのは母が入院したホスピスの最寄りのバス停の名前で、母が死んでから「その後、私は一人でバス停『母子寮前』まで行って、そのまま帰ってきた。いまでも母子寮があるわけではないだろうが、一度でいいから母と暮らしてみたかったと思った」と記されている。うーん、母恋私小説でもあるんだよな。

3月某日
フィスメックの引っ越しの打ち上げに参加。3連休を利用しての引っ越しだったそうだ。何も手伝わなかったがお寿司とビール、日本酒を戴く。田中会長と小出社長に誘われ近くの高級焼き鳥屋「福原」へ。後から社会保険出版社の高本社長が参加。4人で結構呑む。田中会長は80歳を過ぎている筈だがお元気だ。3人は一次会で切り上げたが田中会長はもう1軒行ったようだ。恐るべし80代。

3月某日
年住協の森理事とHCMの大橋社長と会社近くの「ビアレストランかまくら橋」へ。客は我々1組だけ。ハッピータイムというセットを頼むとオードブルと飲み物2杯が付くのでそれにする。オードブルがマトンだったので、最初は生ビール、2杯目は赤ワイン。それ以降はハイボールにする。ウイスキーはホワイトホースということだった。2軒目は「ビアレストランかまくら橋」から歩いて2分くらいの「神田バー」へ。気風のよさそうな女性店長の店だった。

3月某日
社会保険出版社の高本社長(奥さんはSCNの高本代表)の自宅は中央区新川のリバーサイドのマンション。去年からマンション2階の集会室で開かれる「春の園遊会」と称するパーティに招かれる。夫妻の人柄があらわれた気さくな良い集まりだ。ただ美味しいお酒が持ち寄られるので呑み過ぎるのが難点。今回も「獺祭」を呑み過ぎ。どうやって帰ったかよく覚えていません。

3月某日
上野駅公園口で年住協OBの林弘之さんと年住協現役の倉沢さんと6時に待ち合わせ。30分ほど早く着いたので上野駅構内のバー「HIGHBALL‘S」でハイボールを2杯ほど。上野公園で7分咲の桜を眺めた後、アメ横の番屋余市へ。

3月某日
元阪大教授の堤修三氏といつもの「ビアレストランかまくら橋」へ。4月から長崎県立大学の客員教授になるそうだ。堤さんは私と同じ年令だから今年68歳の筈。その歳で新しい仕事に就けるなんてうらやましい。後から当社の迫田が加わる。

3月某日
絲山秋子の「離陸」(文藝春秋 14年9月)を読む。国土交通省の東大出の土木系技官の「ぼく」が主人公。舞台は主人公の赴任する群馬県の矢木沢ダム、ユネスコへの出向にともない駐在するパリ、河川国道事務所長という肩書がついた熊本県八代、船会社に転職した博多と唐津だ。かつての恋人の失踪、恋人の遺児と育ての親、パリで出会った恋人との結婚と死、それに1930年代へタイムスリップするかのようなエピソードが重なる。複雑なストーリーを要約するのは、私の力量では困難なので省略するが、面白かった。

社長の酒中日記 3月その2

3月某日
家の近所に昨年、喫茶店がオープンした。店の前で古書を売っているのでときどき覗く。文庫本、新書は3冊200円だ。床屋の帰りに寄ると「烈士と呼ばれる男―森田必勝の物語」(文春文庫 中村彰彦 03年6月)が目についたので買うことにする。つい先週、岩波の「ひとびとの精神史」第5巻で鈴木邦夫の「三島由紀夫―魂を失った未来への反乱」を読んだばかりということもある。森田は私より2年早く早大に入学している。私が入学したのは68年で、5月くらいに何を名目にしたのか忘れたが、政経学部自治会でストライキを打った。ストライキ反対派が抗議に来たがそのとき先頭にいたのが森田だった。私は新入生でストライキの防衛隊の一人。自治会の前委員長のこれも森田さんという人が「まぁまぁ森田」となだめてその場は収まった。今から考えると政経学部バリケードの入り口という狭い空間に、偶然ではあるけれど私を含めて森田が3人いたわけで少し可笑しい。私はつい最近まで三島事件=反革命ととらえていた。確かに三島事件の前年、69年の10.21の3派全学連などによる新宿騒乱事件が三島に危機感を抱かせたことは間違いない。だが本書や鈴木邦夫によると三島や森田の考えは当時の体制とは、そして現在の体制とも全く相容れないものだった。つまり「反体制」である。これは主として我が国の防衛、アメリカとの関係をどうするかということなのだが、より根本的にはこの国の成り立ち、この国のありように関わってくると思う。たぶん自民党も民主党もこのことに気付いていないか気付かないふりをしている。三島事件は反革命ではなく反体制だったと思う。ただ僕らが目指した共産主義世界革命ではなく三島は、天皇を戴く「昭和維新」を思想としてではなく行動として表したかったのではないか。

3月某日
日曜日なので10時過ぎまで寝る。携帯を見ると川村学院女子大学の吉武副学長からの着信履歴。電話をすると「駅の北口で被災地の復興支援でコンサートがあるから行かないか?」という。迎えに来てくれるというので行くことにする。行くと我孫子市立布佐中学のブラスバンド部が演奏していた。これが結構上手い。次いで東京芸大の鈴木名誉教授が率いるトランペットのアンサンブル、我孫子在住の夫婦の声楽家によるアリア、我孫子駅前のマンション在住者によるデキシーランドジャズが続く。演奏はまだ続くのだが、寒いので6時からの打ち上げに参加することにして中座、私は近くのセントラルスポーツへ行って、プールで水中歩行。6時に打ち上げに参加、ジャズバンドでクラリネットを吹いていた人と話す。立教大学でジャズをやっていたということだが退職を期に再開したという。

3月某日
日本経済新聞の経済教室の「電機不振は何を映す(上)典型的な多角化企業の罠」(牛島辰男慶大教授)が面白かった。電機不振とは鴻海の傘下となったシャープ、不正会計問題に端を発して経営危機に陥った東芝、企業としては消失してしまった三洋電機などを指す。牛島教授は多角化企業の特質として「事業間に直接・間接の資金の流れが存在する」ことを上げている。こうしたことは敢えて多角化企業と言わずとも複数の事業展開をしている企業なら当たり前のことだと思う。教授は「この流れをうまくつくることで、企業は利益成長力を高く維持できる」としている。換言すると「市場シェアが高く競争力はあるが成長性に乏しい事業(金のなる木)の余剰資金を、高い成長が見込めるスター事業や、将来スターとなる可能性を秘めた事業(問題児)への投資へと回していくという流れである」。企業社会主義では、「成長性と競争力に乏しい『負け犬』事業に向かって『金のなる木』や資金の受け手であるべき『スター』の資金までが流れていく」構図となる。「負け犬」事業は早期に撤退を進め、投下されている資本や人材を成長力のある他部門へ回さなければならないにもかかわらずである。当社のような零細企業にもそれは当てはまる。ましてこのところの経営環境の変化の速さもある。「見極め」が肝心なのである。

3月某日
日本橋小舟町のSCNの事務所で高本代表理事と「介護職の看取り及びグリーフケアの在り方に関する調査研究」の報告書について打合せ。事務所から高本代表の夫の社会保険出版社の高本社長に「今晩、飲みに行きませんか?」と電話。「空いています」との返事で「葡萄舎」で待ち合わせ。現代社会保険の佐藤社長、フィスメックの小出社長も顔を出す。結構、いい機嫌になった。

3月某日
食材の宅配システムを開発し全国展開を目指しているワンマイルの堀田社長が主催する情報交換会に昨年から当社の迫田と参加している。ドローンを使って買い物困難者の支援ビジネスを展開しているMIKAWAYA21の鯉渕社長(若い女性)の話が面白かった。この会の幹事をやっている伊藤忠商事のロジスティクス事業部の渡辺課長が異動するため、この情報交換会もひとまず休止する。打ち上げを外苑前の「かに料理屋」でやった。

3月某日
今、ちょっとしたマイブームが三島由紀夫。関西出張の折、「肉体の学校」(ちくま文庫 16年2月第13刷)を買う。巻末に「この作品は1964年2月、集英社より刊行された」とあった。三島は確か1925年生まれだから、30代後半の作品である。服飾デザイナーの妙子は離婚経験者でなおかつ旧華族の家柄。ゲイバーでボーイをしていた美青年、千吉を恋人にする。三島の小説を読むのは何十年ぶりかだが、かつては感じなかったであろう文体の古風さに魅かれた。たとえばこんな一文。「妙子は寂しさと不安に耐えられなくなって、居間も食堂も寝室も、あるだけの灯りをみんなつけた。部屋部屋は花やいで、その中をうろうろと歩きまわるうちに、ふと妙子は、誰かが自分の背後を通り過ぎる影を感じて、ぞっとした。するとそれは、洋服箪笥の鏡の中をすぎる自分の影であった」。こういう小説から三島の復古主義的な思想を感じることはできない。爛熟する資本主義を経済的な基盤とする旧世代の退廃を感じるだけだが、しかし退廃の香りこそ文芸には似合うと思う。

社長の酒中日記 3月その1

3月某日
認知症で徘徊しているうちに列車にはねられ死亡した事故を巡って、IR東海が家族に損害賠償を求めた裁判の判決が出た。家族に賠償を求めた1、2審判決を覆し最高裁は妻と長男は監督義務者にあたらず賠償責任はないとしJR東海の敗訴が確定した。1審の名古屋地裁では「妻と長男は約720万円を支払え」、2審の名古屋高裁では「妻は360万円を支払え」だったから家族の側の逆転勝訴だった。判例も絶対的なものではなく社会の変化に対応すべきなのだと思う。すでに上野千鶴子は「ケアの社会学」(2011 太田出版)のなかで、民法学者の上野雅和を引用する形で「現行の民法のもとでは家族に(法的)介護義務はない」(P100 第4章ケアに根拠はあるか 6、家族に介護責任はあるか)と断じている。上野雅和によれば「民法が規定する義務は『生活扶助義務』という経済的義務だけであり、身辺介護義務は存在しない」という。今回の裁判で争われたのは「監督義務」であり「身辺介護義務」とは同一ではない。しかし「身辺介護義務」が存在しないのなら「監督義務」も存在しないと考えるのが妥当であろう。5人に1人が認知症になる社会が到来する。権力による強制によって家族が支えるのではなく、社会が全体として認知症患者や家族を支えるべきだろう。

3月某日
中学校の時、ブラスバンド部で一緒だった花田文江さんが石巻市で大震災に遭遇、津波に巻き込まれて行方不明になったという話は前に聞いていた。その花田さんの遺骨の一部が発見されたという。高校の同級生の品川君が何人かに声を掛けてくれて、ささやかに「偲ぶ会」を開いた。メンバーは男子が品川君、中沢君、阿部君、今井君、女子が中田さん、小原さん、みきちゃん。場所は銀座の銀波。北海道新聞に遺骨が発見されたという記事が掲載され、そのコピーを見せてもらった。

3月某日
当社の主力取引銀行は三菱東京UFJ銀行の神保町支社ということになっているが今まで幸か不幸か運転資金に困ったことがないのでお付き合いはほとんど無かった。去年ぐらいから松田君という小樽商大出身の若手行員が良く顔を出すようになり、当社の大山専務と応対することが多くなった。先月、松田君が本店に転勤となり槙得君という学生時代バレーボールをやっていたという長身の青年が担当となった。今日も何かの営業に来たようだが、時間の大半を世間話に費やした。まぁ私としては金融業の将来像というか「金貸し」が銀行の本業でいいのかということを問いたかったのだが、如何せん知識が無いので。東京介護福祉士会の白井幸久会長と健康生きがいづくり財団の大谷常務が来社。向かいのビルの地下1階の「跳人」へ。ここは肴がおいしい。刺身はもちろんだが今日は「めひかり」のから揚げ、フキノトウの天ぷらがおいしかった。大谷さんが神戸出張とのことで7時に切り上げる。私はHCMの大橋社長と西新橋のバー「カオス」へ。ここはHCMの平田会長が贔屓ということだが、落ち着いたいい店だ。「跳人」で日本酒、「カオス」でウィスキー。いつものことだが呑み過ぎである。

3月某日
愛知県半田市、大阪、淡路島、京都と4泊5日の出張。半田市では福祉住環境コーディネータの児玉さんと社会福祉士の古藤さんと面談、大阪はグループ経営会議に出席し、そのあと大阪介護支援員協会の福田次長に面談、淡路島は旧知のカメラマンの津田さんを洲本市に訪ね、町興しの現状を聞いた。京都では京大の阿曽沼理事にご馳走になり、近況を聞く。阿曽沼さんは厚労省の元次官だが関連団体や民間企業への天下りはせず、京大にも「請われて」行ったらしい。最近も八戸の農業高校と京大との協同研究を実現させるべく奔走しているとのこと。それはともかく阿曽沼さんにご馳走になったのは「京甲(かぶと)屋」という日本料理屋。阿曽沼さんも初めての店らしいが、経営者兼板長らしき人と雑談しているうちに、彼は北海道のなんと私と同じ室蘭出身と言うではないか。「高校はどこ?」と聞くと、これも私と同じ室蘭東高校。もっとも卒業年次は私より20年以上後だが。室蘭東高校は生徒数の減少から数年前に室蘭商業高校と統合、東翔高校となったことは風の便りに聞いていた。名刺を交換すると「京甲屋代表池田泰優」とあった。東高校卒業後、大阪の料理学校で学び、京都で修業したのち開業したということだ。東高校は私のころで1学年、普通科3クラス、商業科2クラスの小規模な学校で当然、卒業生も少ない。その卒業生と京都の料理屋さんで会うとは思ってもいなかった。まぁ縁ですね。

3月某日
西新橋のバー「カオス」にマフラーと帽子を忘れてきた。HCMに届けてくれたということなのでHCMに行く。HCMの大橋社長と新橋の「うおや一丁」という店で呑む。北海道から東京に進出した店らしいが安くて美味しい。5時半ころ店に入ったのだがすぐ満員になった。

3月某日
出張中に図書館で借りた「ひとびとの精神史第5巻、万博と沖縄返還1970年前後」を読む。「劇場化する社会」「沖縄―『戦後』のはじまり」「声を上げた人々」の3章構成。なかなか面白かったのだが、ここでは「劇場化する社会」の中から「三島由紀夫 ―魂を失った未来への反乱」を取り上げたい。執筆したのは新右翼で元一水会代表の鈴木邦夫。もちろんテーマは1970年11月25日の三島事件。この日、三島は自ら作った「盾の会」のメンバー4人を率いて市ヶ谷の自衛隊駐屯地に乗り込み憲法改正と自衛隊の決起を呼びかけ、盾の会の学生長だった森田必勝と割腹自殺した。私は早大の3年生で食堂のテレビの昼のニュースで、作家の三島由紀夫が自衛隊の東部方面総監を人質にとってたてこもっていることを知る。当時付き合っていた今の奥さんとバスで早稲田から市ヶ谷まで行ったことを覚えている。三島はバルコニーから自衛隊員に「アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終わるであろう」と演説する。鈴木は確かに「アメリカの傭兵化」は進んでいるとして、現政権は「改憲して自衛隊を国軍とし、アメリカと一緒になって、どこへ行っても戦争をできるように」志向しているという。鈴木の思いは「同じく改憲を唱えた三島の考えとは全く反対ではないか」というところにある。鈴木は三島の「ぼくは吉田松陰の『汝は功業をなせ、我は忠義をなす』という言葉が好きなんだ」という発言をひいて、三島は敢えて「有効な道=功業」を捨て無効の「忠義」をやった。そのことで有効・無効を超えた大きな影響を与えられると思ったのではないかとしている。なるほどである。三島事件に対する今までの論評の中で最も納得できるもののように思う。