3月某日
認知症で徘徊しているうちに列車にはねられ死亡した事故を巡って、IR東海が家族に損害賠償を求めた裁判の判決が出た。家族に賠償を求めた1、2審判決を覆し最高裁は妻と長男は監督義務者にあたらず賠償責任はないとしJR東海の敗訴が確定した。1審の名古屋地裁では「妻と長男は約720万円を支払え」、2審の名古屋高裁では「妻は360万円を支払え」だったから家族の側の逆転勝訴だった。判例も絶対的なものではなく社会の変化に対応すべきなのだと思う。すでに上野千鶴子は「ケアの社会学」(2011 太田出版)のなかで、民法学者の上野雅和を引用する形で「現行の民法のもとでは家族に(法的)介護義務はない」(P100 第4章ケアに根拠はあるか 6、家族に介護責任はあるか)と断じている。上野雅和によれば「民法が規定する義務は『生活扶助義務』という経済的義務だけであり、身辺介護義務は存在しない」という。今回の裁判で争われたのは「監督義務」であり「身辺介護義務」とは同一ではない。しかし「身辺介護義務」が存在しないのなら「監督義務」も存在しないと考えるのが妥当であろう。5人に1人が認知症になる社会が到来する。権力による強制によって家族が支えるのではなく、社会が全体として認知症患者や家族を支えるべきだろう。
3月某日
中学校の時、ブラスバンド部で一緒だった花田文江さんが石巻市で大震災に遭遇、津波に巻き込まれて行方不明になったという話は前に聞いていた。その花田さんの遺骨の一部が発見されたという。高校の同級生の品川君が何人かに声を掛けてくれて、ささやかに「偲ぶ会」を開いた。メンバーは男子が品川君、中沢君、阿部君、今井君、女子が中田さん、小原さん、みきちゃん。場所は銀座の銀波。北海道新聞に遺骨が発見されたという記事が掲載され、そのコピーを見せてもらった。
3月某日
当社の主力取引銀行は三菱東京UFJ銀行の神保町支社ということになっているが今まで幸か不幸か運転資金に困ったことがないのでお付き合いはほとんど無かった。去年ぐらいから松田君という小樽商大出身の若手行員が良く顔を出すようになり、当社の大山専務と応対することが多くなった。先月、松田君が本店に転勤となり槙得君という学生時代バレーボールをやっていたという長身の青年が担当となった。今日も何かの営業に来たようだが、時間の大半を世間話に費やした。まぁ私としては金融業の将来像というか「金貸し」が銀行の本業でいいのかということを問いたかったのだが、如何せん知識が無いので。東京介護福祉士会の白井幸久会長と健康生きがいづくり財団の大谷常務が来社。向かいのビルの地下1階の「跳人」へ。ここは肴がおいしい。刺身はもちろんだが今日は「めひかり」のから揚げ、フキノトウの天ぷらがおいしかった。大谷さんが神戸出張とのことで7時に切り上げる。私はHCMの大橋社長と西新橋のバー「カオス」へ。ここはHCMの平田会長が贔屓ということだが、落ち着いたいい店だ。「跳人」で日本酒、「カオス」でウィスキー。いつものことだが呑み過ぎである。
3月某日
愛知県半田市、大阪、淡路島、京都と4泊5日の出張。半田市では福祉住環境コーディネータの児玉さんと社会福祉士の古藤さんと面談、大阪はグループ経営会議に出席し、そのあと大阪介護支援員協会の福田次長に面談、淡路島は旧知のカメラマンの津田さんを洲本市に訪ね、町興しの現状を聞いた。京都では京大の阿曽沼理事にご馳走になり、近況を聞く。阿曽沼さんは厚労省の元次官だが関連団体や民間企業への天下りはせず、京大にも「請われて」行ったらしい。最近も八戸の農業高校と京大との協同研究を実現させるべく奔走しているとのこと。それはともかく阿曽沼さんにご馳走になったのは「京甲(かぶと)屋」という日本料理屋。阿曽沼さんも初めての店らしいが、経営者兼板長らしき人と雑談しているうちに、彼は北海道のなんと私と同じ室蘭出身と言うではないか。「高校はどこ?」と聞くと、これも私と同じ室蘭東高校。もっとも卒業年次は私より20年以上後だが。室蘭東高校は生徒数の減少から数年前に室蘭商業高校と統合、東翔高校となったことは風の便りに聞いていた。名刺を交換すると「京甲屋代表池田泰優」とあった。東高校卒業後、大阪の料理学校で学び、京都で修業したのち開業したということだ。東高校は私のころで1学年、普通科3クラス、商業科2クラスの小規模な学校で当然、卒業生も少ない。その卒業生と京都の料理屋さんで会うとは思ってもいなかった。まぁ縁ですね。
3月某日
西新橋のバー「カオス」にマフラーと帽子を忘れてきた。HCMに届けてくれたということなのでHCMに行く。HCMの大橋社長と新橋の「うおや一丁」という店で呑む。北海道から東京に進出した店らしいが安くて美味しい。5時半ころ店に入ったのだがすぐ満員になった。
3月某日
出張中に図書館で借りた「ひとびとの精神史第5巻、万博と沖縄返還1970年前後」を読む。「劇場化する社会」「沖縄―『戦後』のはじまり」「声を上げた人々」の3章構成。なかなか面白かったのだが、ここでは「劇場化する社会」の中から「三島由紀夫 ―魂を失った未来への反乱」を取り上げたい。執筆したのは新右翼で元一水会代表の鈴木邦夫。もちろんテーマは1970年11月25日の三島事件。この日、三島は自ら作った「盾の会」のメンバー4人を率いて市ヶ谷の自衛隊駐屯地に乗り込み憲法改正と自衛隊の決起を呼びかけ、盾の会の学生長だった森田必勝と割腹自殺した。私は早大の3年生で食堂のテレビの昼のニュースで、作家の三島由紀夫が自衛隊の東部方面総監を人質にとってたてこもっていることを知る。当時付き合っていた今の奥さんとバスで早稲田から市ヶ谷まで行ったことを覚えている。三島はバルコニーから自衛隊員に「アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終わるであろう」と演説する。鈴木は確かに「アメリカの傭兵化」は進んでいるとして、現政権は「改憲して自衛隊を国軍とし、アメリカと一緒になって、どこへ行っても戦争をできるように」志向しているという。鈴木の思いは「同じく改憲を唱えた三島の考えとは全く反対ではないか」というところにある。鈴木は三島の「ぼくは吉田松陰の『汝は功業をなせ、我は忠義をなす』という言葉が好きなんだ」という発言をひいて、三島は敢えて「有効な道=功業」を捨て無効の「忠義」をやった。そのことで有効・無効を超えた大きな影響を与えられると思ったのではないかとしている。なるほどである。三島事件に対する今までの論評の中で最も納得できるもののように思う。