3月某日
家の近所に昨年、喫茶店がオープンした。店の前で古書を売っているのでときどき覗く。文庫本、新書は3冊200円だ。床屋の帰りに寄ると「烈士と呼ばれる男―森田必勝の物語」(文春文庫 中村彰彦 03年6月)が目についたので買うことにする。つい先週、岩波の「ひとびとの精神史」第5巻で鈴木邦夫の「三島由紀夫―魂を失った未来への反乱」を読んだばかりということもある。森田は私より2年早く早大に入学している。私が入学したのは68年で、5月くらいに何を名目にしたのか忘れたが、政経学部自治会でストライキを打った。ストライキ反対派が抗議に来たがそのとき先頭にいたのが森田だった。私は新入生でストライキの防衛隊の一人。自治会の前委員長のこれも森田さんという人が「まぁまぁ森田」となだめてその場は収まった。今から考えると政経学部バリケードの入り口という狭い空間に、偶然ではあるけれど私を含めて森田が3人いたわけで少し可笑しい。私はつい最近まで三島事件=反革命ととらえていた。確かに三島事件の前年、69年の10.21の3派全学連などによる新宿騒乱事件が三島に危機感を抱かせたことは間違いない。だが本書や鈴木邦夫によると三島や森田の考えは当時の体制とは、そして現在の体制とも全く相容れないものだった。つまり「反体制」である。これは主として我が国の防衛、アメリカとの関係をどうするかということなのだが、より根本的にはこの国の成り立ち、この国のありように関わってくると思う。たぶん自民党も民主党もこのことに気付いていないか気付かないふりをしている。三島事件は反革命ではなく反体制だったと思う。ただ僕らが目指した共産主義世界革命ではなく三島は、天皇を戴く「昭和維新」を思想としてではなく行動として表したかったのではないか。
3月某日
日曜日なので10時過ぎまで寝る。携帯を見ると川村学院女子大学の吉武副学長からの着信履歴。電話をすると「駅の北口で被災地の復興支援でコンサートがあるから行かないか?」という。迎えに来てくれるというので行くことにする。行くと我孫子市立布佐中学のブラスバンド部が演奏していた。これが結構上手い。次いで東京芸大の鈴木名誉教授が率いるトランペットのアンサンブル、我孫子在住の夫婦の声楽家によるアリア、我孫子駅前のマンション在住者によるデキシーランドジャズが続く。演奏はまだ続くのだが、寒いので6時からの打ち上げに参加することにして中座、私は近くのセントラルスポーツへ行って、プールで水中歩行。6時に打ち上げに参加、ジャズバンドでクラリネットを吹いていた人と話す。立教大学でジャズをやっていたということだが退職を期に再開したという。
3月某日
日本経済新聞の経済教室の「電機不振は何を映す(上)典型的な多角化企業の罠」(牛島辰男慶大教授)が面白かった。電機不振とは鴻海の傘下となったシャープ、不正会計問題に端を発して経営危機に陥った東芝、企業としては消失してしまった三洋電機などを指す。牛島教授は多角化企業の特質として「事業間に直接・間接の資金の流れが存在する」ことを上げている。こうしたことは敢えて多角化企業と言わずとも複数の事業展開をしている企業なら当たり前のことだと思う。教授は「この流れをうまくつくることで、企業は利益成長力を高く維持できる」としている。換言すると「市場シェアが高く競争力はあるが成長性に乏しい事業(金のなる木)の余剰資金を、高い成長が見込めるスター事業や、将来スターとなる可能性を秘めた事業(問題児)への投資へと回していくという流れである」。企業社会主義では、「成長性と競争力に乏しい『負け犬』事業に向かって『金のなる木』や資金の受け手であるべき『スター』の資金までが流れていく」構図となる。「負け犬」事業は早期に撤退を進め、投下されている資本や人材を成長力のある他部門へ回さなければならないにもかかわらずである。当社のような零細企業にもそれは当てはまる。ましてこのところの経営環境の変化の速さもある。「見極め」が肝心なのである。
3月某日
日本橋小舟町のSCNの事務所で高本代表理事と「介護職の看取り及びグリーフケアの在り方に関する調査研究」の報告書について打合せ。事務所から高本代表の夫の社会保険出版社の高本社長に「今晩、飲みに行きませんか?」と電話。「空いています」との返事で「葡萄舎」で待ち合わせ。現代社会保険の佐藤社長、フィスメックの小出社長も顔を出す。結構、いい機嫌になった。
3月某日
食材の宅配システムを開発し全国展開を目指しているワンマイルの堀田社長が主催する情報交換会に昨年から当社の迫田と参加している。ドローンを使って買い物困難者の支援ビジネスを展開しているMIKAWAYA21の鯉渕社長(若い女性)の話が面白かった。この会の幹事をやっている伊藤忠商事のロジスティクス事業部の渡辺課長が異動するため、この情報交換会もひとまず休止する。打ち上げを外苑前の「かに料理屋」でやった。
3月某日
今、ちょっとしたマイブームが三島由紀夫。関西出張の折、「肉体の学校」(ちくま文庫 16年2月第13刷)を買う。巻末に「この作品は1964年2月、集英社より刊行された」とあった。三島は確か1925年生まれだから、30代後半の作品である。服飾デザイナーの妙子は離婚経験者でなおかつ旧華族の家柄。ゲイバーでボーイをしていた美青年、千吉を恋人にする。三島の小説を読むのは何十年ぶりかだが、かつては感じなかったであろう文体の古風さに魅かれた。たとえばこんな一文。「妙子は寂しさと不安に耐えられなくなって、居間も食堂も寝室も、あるだけの灯りをみんなつけた。部屋部屋は花やいで、その中をうろうろと歩きまわるうちに、ふと妙子は、誰かが自分の背後を通り過ぎる影を感じて、ぞっとした。するとそれは、洋服箪笥の鏡の中をすぎる自分の影であった」。こういう小説から三島の復古主義的な思想を感じることはできない。爛熟する資本主義を経済的な基盤とする旧世代の退廃を感じるだけだが、しかし退廃の香りこそ文芸には似合うと思う。