社長の酒中日記 4月その3

4月某日
図書館で借りた「財政危機の深層-増税・年金・赤字国債を問う」(小黒一正 NHK出版新書 14年12月)を読む。著者の小黒は74年生まれ、専門は公共経済学。京大理学部卒、一橋大経済学研究科博士課程修了。大蔵省を経て法政大学経済学部准教授という経歴。小黒の主張を要約すると次のようになる。日本の財政は深刻な状況にあり、年金等の社会保障費用をはじめとした歳出の抑制と消費増税は不可避であるというもの。この主張は私の考えとも重なり「わが意を得たり!」という感じだ。年金制度の改革については「完全積立方式への移行は、過重な『二重の負担』を発生させる?」の項で「例えば、移行期の年金財源を国債発行で賄ってしまう方法もある。要するに現役世代だけが負担するのではなく、もっと遠い将来世代(場合によっては老齢世代)も含め、薄い負担で長い時間をかけて償却していけばすむ話だ」としているのは、私の「賦課方式から積立方式への移行は、超長期の国債を発行することによって、二重の負担は回避できる」という考えと一致する。小黒は「政治的に中立的で学術的に信頼性の高い公的機関が『財政の長期推計』や『世代会計』などを試算し、国民に情報提供すること」を提案する。内閣府、財務省、厚労省といった既存の行政組織とは別に設けるというところがミソだ。

4月某日
地方議員を対象にした「地方から考える社会保障フォーラム」の運営を手伝っている。毎回、厚生労働省の局長、課長クラスの協力を得ているが、今回も老健局の辺見振興課長、香取雇用均等・児童家庭局長が講演に来てくれた。香取局長は「少子高齢化が進行する中、中長期的に労働力を確保していくためには①若者、女性、高齢者などの労働市場参加の実現②少子化の流れを変えること―の2つを同時達成する必要と強調、そのためには①若年者の非正規雇用の増加②依然として厳しい女性の就業継続③子育て世代の男性の長時間労働や男性の家事・育児時間の少なさ④核家族化や地域のつながりの希薄化などを背景とした子育ての孤立化と負担感の増加―等の国民の現実と希望に大きな乖離がある要因を取り除いていく政策努力が必要」と語った。子育て、保育に関しては地方議員の関心も高く、質疑応答も盛り上がっていた。

4月某日
「感情労働としての介護労働」(吉田輝美 旬報社 14年9月)を図書館で借りて読む。感情労働(Emotional labor)の研究対象はもともと客室乗務員で、ホックシールドという人が客室乗務員には3つの労働が要求されると述べている。3つとは①通路を重い食事カートを引きながら通るような肉体労働②フライト中の緊急事態や、瞬時の判断が要求される頭脳労働③感情労働―である。ホックシールドはこの感情労働を、乗客の厄介な要求に対して嫌な顔をすることなく、普段と変わらない明るさで対応することが求められる労働だとし、「感情労働を行う人は自分の感情を誘発したり抑圧したりしながら、相手のなかに適切な精神状態を作り出すために、自分の外見を維持しなければない」し、「感情労働は賃金と引き換えに売られ、〈交換価値〉を有する」という。感情労働は保育士や看護師、介護士にも当てはまる。「なーるほどね」と深く納得する。しかしである。あらゆる人間の労働には感情労働の側面があるのではないかと思う。岡崎京子という漫画家(交通事故で長期療養中)がかつて「あらゆる仕事は売春であり、愛である」というフレーズを作品の中に残しているが、20年ほど前にその作品(確かPINKといった)を読んだ私はやはり「なーるほどね」と深く納得したものだった。もちろん客室乗務員や看護師、介護士に感情労働という側面が強くあることは認めるが。そういえば性的サービスを行う女性の制服に客室乗務員や看護師の制服と似せたものを着せる例はあるし、店名にもスチュワーデスとか病院に模したものがあるようだ(あくまでも伝聞であるが)。

4月某日
元社会保険庁長官の末次さんとはゴルフを通じて親しくなった。末次さんを通じて末次さんのゴルフ友達の高根さんとも親しくなった。たまに一緒に食事をするのだが、今回は一緒にゴルフに行ったことのある川村女子大学の吉武さんも誘うことにした。ついでと言ってはなんだけど、末次さんの大学(京大)の後輩である栄畑さん、石井さん、藤木さんも誘う。私以外はみんな元厚生省で、私は場違い感があってしかるべきと思うのだが、それが感じないんだなぁ。

4月某日
「猛スピードで母は」(長嶋有 文藝春秋社 01年1月)を読む。第126回芥川賞受賞作とあるが記憶にない。日本経済新聞の「文学の故郷」とかいうコラム(?)で作中のM市は北海道室蘭市であることが明かされ、そこは私が1歳から高校を卒業するまで暮らしたところなので、懐かしさもあって図書館から借りた。ただ私が住んでいたのは室蘭でも郊外の方といえば聞こえはいいが、むしろ山の方、対して小説の舞台となる団地は、近くに水族館があることからも海の方である。海の方には港がありデパートや映画館もあった。家から映画館に行くまで1時間くらいバスに揺られなければならなかったことを思い出した。そんなこともあって小説を読んでことさら懐かしさを感じることはなかった。もう1作「サイドカーに犬」という作品も収録されているが、こちらは母が家出した後、父のもとに通うようになった若い女性と、家に残された娘の「私」の物語。母は家に戻り女性は家を出て行くのだが、女性と娘の交流が私には心地良かった。

4月某日
我孫子駅前の東武ブックスに玄侑宗久の新刊文庫本「光の山」(新潮文庫 2016年3月)が平積みされていたので買う。聞くところによると玄侑は、福島の禅寺に生まれ慶応の中国文学科を卒業後、放浪生活(?)を経たあと、京都の天龍寺専門道場で修行した。現在は福島県の三春町の禅寺の住職である。「光の山」は3.11の東北大震災と大津波、フクシマの原発事故を背景にした「死と再生」の物語である。死は誰もが逃れることはできない。震災や津波による死と天寿を全うした死とは違うのか違わないのか?「光の山」冒頭の「あなたの影をひきずりながら」は5ページほどの掌編である。タイトルは森進一の歌う「港町ブルース」に由来する。私も震災の直後、インターネットで「港町ブルース」を検索し、「み~なと~、宮古、釜石、けぇせぇう~んぬ~ま~」と涙ぐみながら口ずさんだ覚えがある。年の離れた弟も、お婆もお母もお父も津波で流され、避難所にお爺と逃げたお姉は肺炎であっけなく死ぬ。お爺はお骨をお寺に預けようやく復旧した電車にふらりと乗ってとにかく南下し南相馬に至る。お爺はテレビで置き去りにされた牛たちのことを知り、何も考えず牛の世話がしたいと思ったのだ。死ぬつもりではなくそこに生き甲斐を見つけたのだ。まさに「死と再生」の物語だと思う。