社長の酒中日記 5月その4

5月某日
午前中、次回の「地方から考える社会保障フォーラム」の講師依頼のため、法政大学経済学部教授の小黒一正先生に面談。社保研ティラーレの佐藤社長と先生指定の人形町の喫茶店に行くと先生はすでに来ていた。講師依頼の件は快諾してもらったが少し雑談。先生は京大理学部から大蔵省に入省、それから一ツ橋の大学院に進学したそうだが、理学部では物理学を専攻したそうだ。偉ぶったところが少しもなくこちらの話も丁寧に聞いてくれた。人形町の近くに住んでいるということで、先生の提唱する「コンパクトシティ」の原点は下町にあるのかも知れない。
先生と別れて人形町の近くの日本橋小舟町のセルフケア・ネットワーク(SCN)の高本代表理事を訪ねる。高本代表理事と佐藤社長は同い年ということだ。お昼をSCNの近くの「恭悦」で高本代表にご馳走になる。ここはランチでもなかなか手の込んだものを食べさせてくれる。
午後、イギリスで医師免許を取得し、現在同地でジェネラル・プラクティショナーズ(日本で言う総合医?)をやっている澤憲明先生にインタビュー。社福協発行の「へるぱ!」に掲載するので社福協の会議室を使わせてもらった。同じ医療とは言ってもイギリスと日本ではずいぶん考え方が違う。イギリスでは医者に高いコミュニュケーション能力が要求されるという。患者のニーズをくみ取ることが何よりも大事だからだ。澤先生は患者からの「テレビが壊れたんだけど」という電話相談にも対応するという。患者は一人暮らしの高齢者でそういう社会環境の中ではテレビは患者を社会的な孤立から守る有効なツールになっているという考え方なのだろう。

5月某日
丸の内オアゾ6階にある「ねのひ」で京大理事の阿曽沼さんと17時に待ち合わせ。1階でエレベータを待っていると阿曽沼さんがやってくる。17時開店なので店の前で数分待つ。「ねのひ」は愛知県の盛田酒造が醸造元の日本酒の銘柄でここはアンテナショップということらしい。新玉ねぎや稚鮎などを肴に「ねのひ」をいただく。阿曽沼さんは京都に帰るので19時半頃お開き。阿曽沼さんにすっかりご馳走になる。山手線で東京から上野へ。上野に着くと携帯に着信。「竹下だけど、今どこだよ」「上野。これから帰るところ」と私。「いーから付き合え。これから上野へ行く」と竹下さん。上野駅の山手線のホームで待っていたらほどなく竹下さんが来る。アメ横の居酒屋で吞み直し。根津の「ふらここ」へ流れる。

5月某日
図書館で借りた「第一次世界大戦史」(中公新書 16年3月 新倉章)を読む。私の第一次世界大戦の知識は高校の世界史の教科書のレベルを越えない。ロシア革命のからみで東部戦線、西部戦線は映画の「西部戦線異状なし」で知る程度。それから映画「アラビアのロレンス」も第一次世界大戦の大英帝国とオスマン帝国との抗争を背景にしている。いずれにしても第一次世界大戦を通史として読むのは初めて。著者の新倉章という名も初めて聞く名前だが、当時の新聞や雑誌に掲載された風刺漫画を紹介するなどして時代の雰囲気の再現に力を注いでおり、とても分かりやすかった。第一次世界大戦はヨーロッパ戦線を中心としながらも人類が初めて経験した世界規模の戦争であり、航空機、戦車、毒ガスなどの新兵器も登場している。しかし核兵器はいまだ開発されず本格的な都市への空爆も行われなかった。850万人以上の戦死者を出したといわれるが、市民、非戦闘員の犠牲者は第2次世界大戦に比較すると少なかった。その意味でも第一次世界大戦は第二次世界大戦の壮大な序曲と言えなくもない。第二次世界大戦が人類滅亡の序曲とならないことを願う。

5月某日
「さよなら渓谷」(新潮文庫 吉田修一)を図書館から借りて読む。実際にあった秋田県での母親の幼児殺害事件をヒントにしているが、小説では隣家に住む夫婦と事件を追う雑誌記者に焦点が充てられる。隣家に住む夫婦は実は10数年前の大学野球部の合宿所を舞台にした集団強姦事件の被害者と加害者であったことが徐々に明らかにされる。小説の結末部で妻は失踪してしまう。「姿を消せば、許したことになる。一緒にいれば、幸せになってしまう」。アンビバレントな愛の形である。

5月某日
セルフケア・ネットワークの近くの「恭悦」で高本代表理事、市川理事とフリーライターの香川さんを交えてランチを執りながらの打ち合わせ。私は以前から食べたいと思っていた「すっぽんのスープカレー」を頼む。ランチはいつも満員の「恭悦」である。日本橋小舟町、人形町界隈は飲み屋、食べもの屋のレベルが高い。夜、国立病院機構の古都副理事長と会う。約束の18時半に行くと古都さんがなかなか現れない。一人でビール、日本酒を吞んでいると1時間以上遅れて古都さんが来る。

社長の酒中日記 5月その3

5月某日
図書館で借りた「ヌエのいた家」(文芸春秋 小谷野敦 15年5月)を読む。以前母を看取った「母子寮前」を読んで母恋小説として面白いと思ったのだが、今度は父を看取る話である。小谷野は高校生の頃から徐々に父との折り合いが悪くなる。母が重篤になった時の父の仕打ちにも許せないと感じる。で、結局父はだんだんと衰えていき、最期は施設で亡くなる。肉親を愛せないってつらい。小谷野の場合、「権力を持つ」父との葛藤とはちょいと違うような気がする。むしろ蔑むという感覚が近いのかもしれない。それが私には理解できない。

5月某日
前にもこの欄に書いたことがあると思うけれど、荻島国男さんという厚生官僚がいた。今から20年以上前にガンで亡くなったのだが、大変すごい人であった。どういうふうにすごいかというと一言でいうと「政策の要」を実によく理解し、今、厚生省がやらなければならないこと、自分がやらなければならないことを戦略的に考えた人であったと思う。その奥さんの道子さんが入院していたのだが、花小金井の有料老人ホームに転居したというので会いに行ってきた。お会いしたらとても元気そうでリハビリと食事療法の効果か、健康的に痩せて見えた。私も脳出血の後遺症があるのでリハビリの話で盛り上がった。

5月某日
「介護職の看取り及びグリーフケアのあり方」について一般財団法人医療経済研究・社会保険福祉協会から委託を受け、一般社団法人のセルフ・ケア・ネットワーク(SCN)が調査し、その結果がまとまった。一般紙には厚労省の記者クラブで専門紙には民介協の事務所で記者発表した。調査に協力したので高本代表理事、市川理事、社福協の本田常務、内田次長とともに私も同席した。日本経済新聞社、朝日新聞社などが取り上げてくれた。

5月某日
神楽坂の「ランタン」というイタリアンの店へ行く。オリンピック・パラリンピック委員会に厚労省から出向している石川さんが慶応大学病院の眼球銀行のエグゼクティブ・ディレクターをやっている篠崎さんを紹介してくれるという。SCNの高本代表理事と市川理事が同席。篠崎さんは恐ろしいほどに見分が広い人で実に勉強になった。ワインも料理もおいしかった。

5月某日
名古屋出張。快晴。新幹線から富士山がくっきり見える。名古屋では「わが家ネットワーク」の児玉代表理事と「住宅改修」と「福祉用具」パンフレットの打ち合わせ。名古屋名物の「豆福」を土産に頂く。児玉さんは地震による「家具の転倒防止」に取り組んでおり、熊本地震以降テレビ取材が相次いでいるそうだ。帰りの新幹線でも美しい富士山を見ることができた。早めに帰ったのはいいが、我孫子駅前の「愛花」でじっくり吞んでしまった。

5月某日
「介護職の看取り及びグリーフケアのあり方」について毎日新聞の医療福祉部の有田浩子記者から取材を受ける。高本代表理事、市川理事に同席。最近のマスコミの記者は女性が多い。そのうえ優秀。

5月某日
米原万理というエッセイストがいた。ロシア語の同時通訳者だったがのちにエッセイスト、小説家としても世に知られる存在となった。没後10年ということから佐藤優編で文春文庫から「偉くない『私』が一番自由」というアンソロジーが出版されたので早速購入。このアンソロジーの目玉は彼女の東京外語大学の卒業論文「ニコライ・アレクセーヴィッチ・ネクラーソフの生涯‐作品と時代背景」なのだが、ネクラーソフという詩人の生涯には興味を持てないのでパス。エッセーはそれぞれ彼女流のひねりの効いたものだったが、私には佐藤優の追悼エッセー「米原万理さんの上からの介入」が面白かった。外務官僚だった佐藤は2002年5月東京地検特捜部に逮捕された。逮捕される前日、米原から佐藤に身を案じる電話が入る。「外務省にこれ以上いると危ない」そして食事に誘われる。二人の信頼関係と交情の一端が明かされるのだが、二人のマルクス主義理解の違いについての佐藤の言説が興味深い。佐藤にとっては労農派マルクス主義が基本(佐藤は浦和高校時代、社会主義協会の資本論の勉強会に参加していたがそこで宇野理論を学ぶ)、米原は日本共産党の正統的な講座派が施行の鋳型になっている〈米原の父は共産党幹部の米原昶で米原も党員だった可能性がある〉。ふーん、なるほどね。思想を深く学ぶとその鋳型にとらわれるということはあるかもしれない。思想を深く学んだことない私などむしろ自由なのかも。

5月某日
図書館から借りた「日曜日たち」(吉田修一 03年8月 講談社)を読む。「日曜日のエレベーター」「日曜日の被害者」「日曜日の新郎たち」「日曜日の運勢」「日曜日たち」という5作の連作で、それぞれ別の主人公のそれぞれの日曜日が描かれる。実はそれぞれの連作に親から捨てられた幼い兄弟が登場する。実は本当の主人公はこの兄弟二人かもしれない。吉田は過酷な現実を描きながら、それに抵抗する庶民を描かせると抜群に読ませると私は思う。

5月某日
民介協の総会。総会後の厚労省老健局の辺見振興課長の講演の後、懇親会。振興課の井樋課長補佐にあいさつ。井樋さんは10年ほど前古都振興課長のとき振興課にいたという。そういえば思い出した。係長でさわやかな青年がいたけどその人ね。阿曽沼さんが上京した時には「声をかけますよ」と約束。懇親会の後、佐藤理事長や扇田専務など20人くらいで浅草の「むぎとろ」へ。

社長の酒中日記 5月その2

5月某日
日曜日。羽田から関空、関空からバスで和歌山駅前へ。駅前のホテルグランヴィアにチェックイン。和歌山在住の土井康晴さんに電話すると「もうフロントの前に来ているよ」。まだ4時前だけど、連れ立って駅ビルの居酒屋「城」へ。居酒屋というか食堂ですね。土井さんが「この店は朝からやっているよ」と言っていた。でもクジラの竜田揚げなど路のも地のものはおいしかった。生ビール2杯と地酒3合ですっかり酔っぱらってしまった。土井さんと別れホテルへ帰って寝る。10時頃目を覚ましてホテル近くを散策、「与太郎」という居酒屋へ入り「砂ズリ」2本と「土手焼き」、角のソーダ割を2杯。翌朝、土井さんが車で迎えに来てくれる。土井さんの持っている山を土井さんが仲間たちと整備、地域のために役立てたいという。地域コミュニティケアの実践である。土井さんが「今度和歌山に来るときは平日にしてね。あの店日曜日は休みだから」。あの店とは土井さんが行きつけの酒場。主人が東京の銀座でイタリアンの修行をしたというすぐれもののお店だ。

5月某日
広島でグループ経営会議。会議後、近くの割烹でご馳走になる。新幹線で新下関へ。在来線2駅で下関だ。ホテルへチェックイン後、駅前の居酒屋「三枡」へ。ここは前にも入ったことがあるが、入り口が路地風で風情がある。刺身と地酒を頼み、若主人と思しき板さんと話す。

5月某日
午前中、下関医療センターの山下副院長と面談。「終末期に介護職が救急車を呼ぶケースが多いのではないか」と山下先生。介護職に対する終末期ケアの研修が必要という。山下先生と別れ下関市議の田辺さんに電話。下関駅まで迎えに来てもらう。田辺さんは障がい者雇用に熱心に取り組んでいる。さらに食品の残菜を肥料として活用する工場を立ち上げたいという。田辺さんにランチをご馳走になる。午後、田辺さん下関市役所まで送ってもらい、浜岡市議に会う。浜岡さんは元郵便局員。郵便局員から豊浦町長、豊浦町と下関市の合併後、下関市議という経歴。住民にとって何が大切かを常に考えながら市政に向き合っているという。浜岡さんに車で新下関まで送ってもらい徳山へ。
徳山へ向かう新幹線のなかで「グローバリズムという病」(平川克美 14年8月 東洋経済新報社>を読む。平川は「商品もその一形態である貨幣も過剰流動性というべき性格をもって世に現れてきた」のであり、よって国境を挟んだ商品交換は連綿と続けられ拡大し、この拡大への自律的な運動をグローバリゼーションと呼ぶという。平川は運動としてグローバリゼーションは否定しないがイデオロギーとしてのグローバリズムは徹底的に批判する。

5月某日
4時頃ホテルにチェックイン。今晩の予定はないので徳山市街へ。すし屋で日本酒を少々。ホテルへ帰る途中、ブラックニッカのポケット瓶をコンビニで買ってホテルで部屋吞み。翌朝、山口県議の戸倉さんにホテルまで迎えに来てもらう。戸倉さんの事務所で県議になった経緯などを聞く。戸倉さんは元々は3人の子育てをしながら夫の土地家屋調査士の仕事を手伝う「普通の主婦」だったが、旧徳山市で町づくりの市民運動に関わり、それが縁で民主党の参院選の候補者に担がれた。結果はあえなく落選で、次の衆院選でも安倍晋三候補の対抗馬として出馬したがこれも敢闘虚しく落選。県議選に周南市から出たがこちらはめでたく当選、今は2期目。普通のおばさんの目線で「私、これはおかしいと思うの」と言うのがとても新鮮だ。徳山の駅まで送ってもらって3泊4日の出張も帰るだけ。疲労が年齢を感じさせる。で、帰りはグリーン車を使わせてもらう。
帰りの「のぞみ」の車中で乃南アサの「しゃぼん玉」(新潮文庫 単行本は03年に朝日新聞社から刊行)を読む。主人公の翔人は浪人して4流大学に入るが、授業になじめず学業放棄、かといって仕事に精を出すわけでもなく窃盗やけちな強盗を繰り返す放浪の旅を続ける。そんな翔人が辿りついたのが宮崎県の山奥の平家の落人伝説の村だった。そこで出会った老婆や村人との触れ合いが翔人を変えて行く。まぁ単純と言えば単純なストーリーなんだけどラストで泣いてしまいました。
19時半から丸の内の三菱UFJ信託銀行地下の「ヴァン・ドゥ・ヴィ」で飲み会。時間前に行って待っていると、内閣府の伊藤明子さんが来る。少し遅れてオリンピック・パラリンピックの事務局に出向中の石川直子さんが同期で環境省に出向中のドクターを伴って現れる。ついで京大理事の阿曽沼慎司さん、そして厚労省を定年退職した藤木則夫さんが来る。だいぶ遅れて国立病院機構の古都副理事長。ワインで心地よく酔ってお開き。

5月某日
環境協会の林さんと我孫子駅前の「七輪」で待ち合わせ。林さんは元年住協にお勤め。だから私とは古い付き合い。なぜか気が合って我孫子や林さんの住んでいる新松戸で年に何回か吞む。林さんと別れて行きつけの「愛花」が定休日なので駅前のバーVingtNefuへ。「愛花」の常連の荒岡さんがいたので隣で吞む。

5月某日
HCMの大橋社長、ケアマネジャーの高岡さん、当社の迫田と池袋の「鳥定」へ。ここは大橋社長のお店で昭和レトロ感が色濃く漂う店だ。店のしつらえだけでなくバックに流れている音楽も昭和の歌謡曲やグループサウンド。しかもつまみも安くて旨い。ビール、日本酒、酎ハイなどを堪能して帰る。

5月某日
我孫子駅の北口に「旨小屋」(うまごや)という西洋料理のレストランがある。飲み友達の本郷さんの飲み友達の寺岡さんという人の息子さんがオーナー、ということで私も何回か行ったことがある。本郷さんから近日中に閉店するというメールが来たので寺岡さん、本郷さんと誘い合って行くことに。白ワインを頂いて我孫子駅南口の「コ・ビアン」へ。

社長の酒中日記 5月その1

5月某日
図書館で借りた「エンゲルス‐マルクスに将軍と呼ばれた男」(筑摩書房 16年3月 トリスラム・ハント 東郷えりか訳)を読む。四六判で本文だけで500ページ近い大著だが、実に面白かった。エンゲルスの印象ってマルクスに比べると私の場合は極端に低い。私の学生時代(今から45年くらい前)は初期マルクスの疎外論が「経済学哲学手稿」をはじめとしてもてはやされていて、エンゲルスの影は薄かったように思う。でもこの本を読んでエンゲルスの魅力的な人柄に触れることができたし、マルクス主義の正統を継いだとされるロシアマルクス主義が、マルクスやエンゲルスの考え方を歪曲したものに過ぎなかったことがよくわかった。
エンゲルスは1820年ドイツ、ラインライトの紡績業を家業とする裕福な家に生まれた。19歳から新聞に投稿を始め、当時の支配的な思想に対する批判的な評論を連載、ヘーゲル哲学に出会う。こうしたことはエンゲルスの生涯にとって、またマルクス主義の歴史にとって大事なことには違いないのだが、本書ではより人間的なエンゲルスの実像が描かれる。例えば1843年にエンゲルスとマルクスはパリに滞在し「共産主義者宣言」を執筆するのだが、エンゲルスは20代半ばにして名うての女たらしとなり数多くの愛人を持つようになる。1848年のフランス2月革命は3月にはドイツに波及、マルクスとエンゲルスは共産主義への移行の一環としてのブルジョア民主主義を広めるためにプロイセンに帰郷、エンゲルスは戦闘の実際の指揮も執る。また彼らの編集による「新ライン新聞」は部数を拡大させるが、しかし一連の革命は敗北に終わる。
エンゲルスは親が経営権の一部を所有していたマンチェスターのエルメン&エンゲルス商会に逃れる。エンゲルスは有能な経営者となり、彼の年収は1000ポンド、今の貨幣価値では10万ポンドに上るが、マルクスへの援助は欠かさなかった。この頃のエンゲルスはマンチェスターの繊維業界の有力者で、貴族も参加する狐狩りを趣味とし、奔放かつ贅沢な暮らしを送り、大酒のみで女性好きは変わらなかった。1869年エンゲルスは仕事から引退、ロンドンに転居する。1871年5月パリコンミューンによる史上初の「プロレタリア独裁」が実現するが5月末には政府軍に敗北する。マルクスは資本論の第1巻を書き上げた後、膨大な草稿を残して1883年3月に死去。
エンゲルスは資本論第2巻、第3巻の編集に着手する一方、国際共産主義運動の理論的な支柱となり、「反デューリング論」や「空想から科学へ」を執筆した。また限りない愛情をマルクスの遺児たちに注ぎ、十分な経済的な援助も続けた。19世紀末には社会主義勢力はイギリスだけでなくフランス、ドイツでも著しく伸長した。革命戦略もエンゲルスは若い時の直接行動や暴力的な革命志向から議会重視の方向へ転換した。ブルジョア民主主義の成熟が革命戦略を変更させたのだ。エンゲルスは1895年8月に死去、遺言により遺産はマルクスの遺児たちやその子供たちにも残された。
エピローグで著者は概略次のように言っている。「エンゲルスの人としての本質的な特徴は、マルクス・レーニン主義の鉄面皮な非人間性とは相容れないものだった。彼の目的はグローバルな階級闘争が頂点に達し、国家の衰退、人類の解放そして人間の充実と性的可能性に満ちた労働者の楽園を築くことであった。スターリン主義者がどれだけ彼を師と仰ぐと主張しても、20世紀のソ連の社会主義には決して賛成しなかったであろう」。異議なーし!

4月某日
家の近くに「NORTH LAKE CAFÉ&BOOKS」という看板を掲げる喫茶店があって、店の外で古本を売っている。文庫本なら1冊100円で3冊買うと200円である。NORTH LAKEとしたのは近くの手賀沼の北に位置するからなのだな。以前そこで買った「礼儀作法入門」(山口瞳 新潮文庫)を読むことにする。解説を読むと(山口瞳研究家という肩書で中野朗という人が書いている)、雑誌「GORO」の創刊号(74年6月13日号)から翌年7月10日号まで「礼儀作法」として連載されたとある。今から約40年前、山口瞳もまだ48歳である。私たちが日常、「どうしたものか」と悩むことどもに山口は答えてくれえる。明解にしかしあるときは結論を出さずに。たとえば女性との別れについて述べた「24 別れる」では、いろいろな別れ方を紹介した後、「諸君はどうか。諸君はどっちをとるか。(中略)いずれにしても、この話、その道の達人が苦労しているように、簡単な結論が出るわけがない」と結ぶ。こういう人を人生の達人というのでしょうか。

4月某日
図書館から借りた「静かな爆弾」(吉田修一 08年2月 中央公論新社)を読む。吉田修一の小説は割と読む。小説の舞台は現代的なのだが、作者の倫理観というか価値観が伝統的というか私には好ましい。小説のストーリーは、テレビ局に勤める「俺」は休日のある日、神宮外苑で耳の聴こえない若い女と会う。彼女、響子と「俺」はほどなく恋仲となる。「俺」はアフガニスタンのタリバンによる歴史的な遺産である石仏破壊の真相を追っており、仕事に忙殺されているが、恋愛は続き響子を両親にも紹介する。海外出張から帰国し「俺」の手掛けたアフガニスタンの1件は、ゴールデンタイムでの放映が決まる。だが突然、彼女からの連絡が途絶える。小説はハッピーエンドを予想される結末で終わる。これはコミュニケーションをテーマとした小説である。主人公の恋人がろうあ者という設定、音声によるコミュニケーションが不能な関係、タイトルの「静かな爆弾」がそれを表している。吉田修一は小説巧者だと思う。

社長の酒中日記 4月その4

4月某日
夜の予定がないので真直ぐ帰ろうかと思ったが、思い直して学生時代の友人の雨宮弁護士に電話する。雨宮君の事務所がある弁護士ビルの近所の焼き鳥屋「つくね」で吞むことにする。熊本地震や憲法解釈を巡る世間話をする。雨宮君は司法試験合格後、検事に任官、いわゆる「辞め検」なのだが、考え方は極めてリベラル、心地よく酔った。

4月某日
医療介護福祉政策フォーラムの中村秀一理事長を訪問。国際長寿センターのパンフレット、「納得できる旅立ちのために(増補改訂版)」を見せてもらう。国際長寿センターの志藤事務局長に電話したら快く「差し上げます」とのこと。SCNの高本代表といただきに伺う。志藤さんとは初対面だが非常に感じのいい人だった。国際長寿センターから富国生命ビルへ。28階の富国倶楽部で阿曽沼さんと待ち合わせ。阿曽沼さんはすでに到着していてビールを吞んでいた。我々もビールを頼んで呑んでいると現在、オリンピック・パラリンピック組織委員会に出向中の石川直子さんが来る。それから阿曽沼さんが次官のときの「付き」だった石川リコさんと伊藤ブーちゃんも顔を出して、最後に阿曽沼さんが老健局長のときの振興課長だった古都さんが来る。現在の地位や立場はばらばらだがとてもフラットな関係のいい会だった。

4月某日
「胃ろう・吸引」と「気管カニューレ吸引」の手技練習用にシミュレータが開発され、その販売に協力している。その開発者の土方さん、販売しているHCMの大橋社長と三浦さん、それに当社の迫田と私で販売会議を当社で。ホームページの更新状況の説明を土方さんから受けた後、広報のやり方や販売戦術を議論する。5時半になったので当社の向かいの鎌倉河岸ビル地下1階の「跳人」へ。ビールで乾杯後、デュワーズのソーダ割を吞む。社会保険研究所の川上社長の形態に電話したら神保町で吞んでいるというので大橋社長とタクシーで神保町へ。川上社長が社会保険出版社の人たちと吞んでいたので合流。酔ってよく覚えていないが説教をされたようだ。

4月某日
連休が始まる。久しぶりにチェ・ゲバラのTシャツを着る。ゲバラがボリビア山中でボリビア政府軍に殺害されたのは1967年10月9日だったと思う。前日の1967年10月8日は、羽田で三派全学連が当時の佐藤首相のベトナム訪問を阻止するために機動隊と激突、京大生の山崎博昭君が殺されている。私は当時浪人中でデモには参加できなかったが、大学に入学したら「学生運動をやろう」と密かに思ったものだ。山崎君もゲバラも若くして亡くなった。しかしそうであるが故に永続的な革命者として現在も生きているとも言える。成功した革命家は、毛沢東にしろスターリン、金日成にしろ「皇帝」にはなったかもしれないが革命者と呼ぶことはできない。明治維新前に暗殺された坂本龍馬は革命者であり西南戦争に敗れた西郷隆盛も革命者と呼んでいいと思う。大久保利通や伊藤博文は明治の元勲とはなったが革命者ではない。須らく革命は失敗するに限るのであり、だからこそ革命は永続的に続くのだ。
ゲバラのTシャツを着ながらそんなことを考えた。

4月某日
連休2日目の土曜日。溜まっている仕事を少しでも片付けようと出社。工事で連休中はエレベータを使えないのを思い出した。オフィスがある5階まで必死に昇る。当社の大山専務と社労士の鈴木さんが仕事をしていた。邪魔にならないように静かに仕事。今日はセルフケア・ネットワーク(SCN)の理事会・総会後の懇親会に招かれているので、日本橋蛎殻町の「バールLAZY2」に向かう。入り口でやはり招かれてきた社会保険出版社の高本社長に会う。2人でビールを吞んでいるとSCNのメンバーが到着、すっかりご馳走になる。ご機嫌で我孫子に帰り駅前の「愛花」に寄る。

4月某日
経済学者の水野和夫が朝日新聞と日本経済新聞に掲載した書評を中心にまとめた「資本主義がわかる本棚」(日経プレミアムシリーズ 16年2月)を読む。「人類はずっと長い壮大な実験を繰り返してきたが、いまだ完璧な社会システムを手に入れていない。『長い21世紀』に私たちはどうすべきだろうか。古典の中にこそ解がある」(おわりに)という著者の見解には異議はない。異議はないのだが本書で取り上げられた、ブローデル「地中海」、山本義隆「世界の見方の転換」、シュミット「政治神学」、ピケティ「21世紀の資本」など53冊は読むのにちょっとしんどそう。でも図書館にあるのなら連休中にでも読もうかなと我孫子市民図書館に行く。図書館に行ったら「エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男」(トリストラム・ハント 筑摩書房 16年3月刊)が目についた。序文の「女たらしで、シャンパン好きの資本家が」という1節を読んで借りることにする。もちろんここで言う資本家とはエンゲルスのことである。エンゲルスは「空想から科学へ」の著者「共産党宣言」のマルクスとの共著者として知られ、マルクスの著作は「マルクス・エンゲルス全集」に収められている。そしてエンゲルスはまた成功した工場主でマルクスの庇護者であった。興味は尽きない。連休中に読み切れるか。